少数政権潰え窮余の一策へ、激震続く【12】平成6年(1994年)

武村官房長官の信じられない言動

国民福祉税構想の挫折の影には首相と官房長官との呼吸の不一致という問題がありました。思えば細川内閣はある意味で瓢箪から駒とでも言うような予期せぬ展開で誕生したものだけに、内情はまさにてんやわんやの舞台裏だったのです。内閣の女房役・官房長官の存在は極めて重要ですが、武村官房長官は首相のミスを護るどころか逆に傷口を広げるような卑劣な態度に終始しました。尤もこれは突然のことではなく、前年の12月に古巣の自民党の幹部とは頻繁に会っていながら、与党代表者会議には一度たりとも顔を出さないで、与党幹部と議論をするそぶりもなかったことが問題視されていました。8会派による代表者会議での議論をまとめるのがいかに大変かを市川書記長から私は聞かされていただけに、武村氏はそんな会議には出たくなかったものと思われます。

政治腐敗事例の打ち止めとしての佐川急便問題

細川首相は内閣誕生以来次々と起こる難題に悪戦苦闘していました。女房役に護られるどころか逆に切りつけられるなど、まさに〝味方は少なし敵多し〟という現実だったのですが、公明党、とりわけ市川書記長はあらゆる場面で精一杯寄り添う姿勢を貫いていました。しかし、佐川急便グループからの一億円借り入れ問題が浮上。予算編成にとって重要な時期に1ヶ月も予算委員会が空転してしまうのです。野党・自民党もここが攻めどころとばかりに執拗に追及。結局同首相も堪えきれずに4月8日に辞任を表明してしまいます。政治改革の主目的は、政権交代可能な仕組み作りと、腐敗政治からの脱却という二本柱でした。ところが、皮肉にもそれを成し遂げた首相自身の台所から火が吹き出したのです。まさに、これにて打ち止め、試合終了とでもいうような趣きがありました。

羽田政権の綱渡り

細川首相退陣。代わって羽田孜首相が誕生します。自民党から小沢一郎氏と共に飛び出した人々と結成された新生党の中心者です。この羽田政権樹立の背景に見落とされてはならないのが、社会党の政権離脱の動きです。いくつかの要因がありますが、一つは大内啓伍民社党委員長による統一会派「改新」の結成でしょう。新生党、日本新党、民社党の三党によるものですが、この動きが社会党をして連立政権からの離脱に踏み切らせるきっかけとなりました。村山富市氏がのちに事あるごとに吹聴する小沢一郎、市川雄一両氏の影響から自由になりたいとの思いも重要なファクトだったと思われますが、この頃の政局の底流に流れていたものは、文字通り古い政治の悪弊とでもいうべきものが渦をなしていたかのように思われてなりません。

ともあれ羽田内閣は4月28日に発足します。土壇場で社会党や新党さきがけが離脱して、衆院178議席の少数与党内閣です。過半数割れで、誕生と同時に解散か総辞職かの選択を迫られるという厳しさでした。公明党からは、石田幸四郎総務庁長官、二見伸明運輸相、森本晃司建設相、日笠 勝之郵政相、近江巳記夫科学技術庁長官、浜四津敏子環境庁長官の5人の閣僚が入閣しました。身近な先輩が大臣に就任したということを喜ぶべきか、はたまた明日をも知れぬ脆弱内閣の前途を憂うべきか正直悩みました。この布陣を敷いた張本人の市川書記長は、何はともあれ公明党が天下を取ったという事実を日本政治史に刻印したことを忘れるなと、細川政権時に続いて、私に囁くように言われたことが印象的です。市川雄一という希代稀なる戦略家の内に秘めた思いの深さは私ごときには測りかねるところですが、この頃の微妙な達成感というものはそばにいた私にとっても大きいものがありました。

村山自社さ政権への急展開

6月29日に行われた首相指名選挙は決選投票に持ち込まれ、47票差で自民党が担いだ社会党の村山富市氏が、連立政権側の海部俊樹氏を破ってしまいます。自社さ政権の誕生です。これは窮余の一策という他ない驚くべき出来事でした。いわゆる自社55年体制ー表面は対決姿勢だが、テーブルの下では手を握り合ってきたーの悪あがきそのものです。「野合」「談合」「悪い冗談」「背信」などといった形容詞が内閣に冠されましたが、日本中はおろか世界中が呆れました。世界観が違うと思われてきた、水と油ほど違うはずの両党が一緒になるのですから。ことほど左様に当時の日本の政治は混乱を極めていました。

それを背景に対抗する勢力は、大きな夢を抱いて、もう一つの新しい政治勢力を数合わせではなく、現実的に作ろうとします。その動きの中心に私も否応なく放り込まれて行くことになるのです。(つづく)

 

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