混乱の渦中に海外視察やテレビ出演【13】ー平成6年( 1994年)

初のワシントン訪問、テレ朝出演

細川政権から羽田政権へと、公明党が中核となった政権が作動した93年8月からから1年足らずの間。新人ながら色々と取り組ませていただきました。副書記長、 政策審議会副会長、広報局長などの立場をいただいたのです。この間に私は初めて海外に視察活動に行きました。米国、スウェーデン、ノルウエーの三カ国に3月14日からの一週間でした。ワシントン、ストックホルム、オスロの三都市で、政府要人やら学術関係者らに会い、主に北朝鮮の核疑惑と、PKO(国連平和維持活動)についての考え方、取り組み方を巡って意見交換するのが目的でした。一緒に行ったのが、西村眞悟、樽床伸二らの若手政治家です。二人はのちになにかと物議を醸すことになりますが、私も含めて当時はまさに新進気鋭のトリオでした。

特にワシントンで思い出に残るエピソードでは、リンカーン記念堂でのこと。私は高校時代にリンカーンのゲティスバーグ演説を暗唱していました。今もなお事あるごとに口ずさんでおり、一種の隠し芸となっています。同記念堂に樽床氏と行って、彼に壁に書かれたスピーチの原文を見てもらいました。私はそれに背中を向けて、やおら暗唱していたものを口に出したものですから、彼が驚くことと言ったら‥‥。たわいもないことですが、懐かしい思い出です。

また、5月2日付けの朝日新聞の憲法特集のページに写真入りでインタビュー記事が掲載されました。「改憲視野に見直せ」との見出しで、「護憲か改憲かの論議から始めるのではなく、国際社会の中で日本がどうあるべきかという問題から憲法を考えていくことが大切だ。改正も視野に入れているが、当面は護憲的見直しを進めたい」などと偉そうに言っています。それから25年。事態は殆ど進んでいません。去年夏に産経新聞のインタビューに答えた(2019-8-9付け)ように、国会に幻滅するしかないというのが正直なところです。一方、初めてテレビ朝日のサンデーモーニングにも出演しました。出来栄えは今一歩。自分はどこまでも活字人間だなあと、自省した次第です。

予算委分科会で地元課題取り上げ

6月7日には衆議院予算委員会の分科会質問に立ちました。各省ごとに分科会に分かれて一人30分間の質疑をするのです。テレビ中継などないのですが、地域密着の問題が取り上げられる貴重な機会です。私は姫路駅の高架事業の推進や揖保川町の浚渫、馬路川の排水ポンプ機設置問題など、建設省(現国交省)関連の地元の課題を取り上げ質問しました。このうち、馬路川の問題は地域住民の有力者・森保昌さんの要望をかねてからいただいていました。雨が降るたびに床下から床上までにおよびそうな浸水に怯えなければならないのを、何とかしてほしいとの切なる願いでした。直接お話を聞いた上で、綿密な調査をして当日に臨みました。後に、大いに喜んでいただく結果が出て、胸を撫で下ろすとともに、地域住民の声を代弁することの大事さを痛感しました。

民間政治臨調での動き

6月29日の通常国会最終日に、前回述べたような経緯の末、村山富市自社さ政権が誕生。私ども旧連立政権は下野することになります。この間というもの、実に様々な動きがあり政局の舞台の表裏を十分に見させていただきました。表の舞台といえば、民間政治臨調主催の「政治改革推進・決起集会」で公明党を代表して挨拶する機会があり、「選挙区割り法を成立させることこそ政治改革の完結になる」などと述べたものです。この臨調のトップの一人は、住友電工の亀井正夫さんでしたが、この人は我が恩師・中嶋嶺雄先生と親しい関係にあったことや、小学校からの親友・三野 哲治君が同社の幹部(後に住友ゴム社長)だったこともあり、親しくさせていただきました。

また、連立与党の幹部たち、とりわけ小沢一郎氏との交友関係もあって、渡部恒三、山口敏夫氏らとの接触は興味津々たるものがありました。渡部氏はこの頃から今に至るまで飄々とした雰囲気を湛え、大人の風格がありました。一方山口氏は政界の牛若丸の異名通り、神出鬼没の振る舞いで右も左も、真ん中も振り回していました。市川側近ということもあって、私はこういう政界の大物から妙に可愛がられましたが、忘れられないのは、渡部氏の山口評です。ー「来ればうるさい。来なきゃ寂しい。記者と珍念(山口氏の愛称)」ー大いに笑えました。山口氏は今も変わらぬお付き合いをしてくれています。実にユニークで面白い個性の持ち主です。(つづく)

 

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