阪神淡路大震災の直撃で大わらわ【15】ー平成7年(1995年)

新進党が結成。公明党国会議員は合流へ

平成6年の暮れ(12-10)に横浜で新進党の結成大会が開かれました。平成6年は、細川、羽田、村山と3人もの首相が入れ替わり、その年の暮れに衆参合わせて214人をも擁する一大政党が誕生したのです。党首は海部俊樹、幹事長が小沢一郎とかつての自民党の看板の二人ですが、旧公明党からは、副党首に石田幸四郎、政務会長に市川雄一、国会運営委員長に神崎武法、参議院議員代表に黒柳明の各氏が就きました。この時の高揚感は内外ともに極めて大きいものがありました。何しろこれだけの規模で自民党に対抗する勢力が築かれたことは大変な期待があったわけです。同じ日に私の大学のクラス会が東京・田町の三田キャンパスで開かれたのですが、集まった20人ほどの級友たちから大いにもてはやされたものです。

ただ、公明党は新進党に参加した他の政党と違って、地方議員を3千人も抱えており、600人の党職員や日刊紙を発行するなど圧倒的に所帯が大きい。このため、一気に合流するわけにはいかず、地方議員主体の「公明」と国会議員(衆議院議員は全員、参議院議員は95年改選組)による「新進党」とに分かれざるをえませんでした。私は、新進党に参画しましたが、地方議員の仲間たちは藤井富雄都議会議員が代表となった「公明」と、大きく二つに分かれることになったのです。「分党・二段階方式」とのことでしたが、正直こんなことでいいのか、将来はどうなるのか。色々と不安でした。ですが、そういうものを押し流す時の勢いとしての〝もう一つの政権勢力必要論〟があったのです。

我が郷土を襲った大震災

翌平成7年。1月17日ー午前5時47分。強烈な揺れが突然姫路市中央部にあった私の借家にも襲ってきました。神戸市の私立高校に通っていた娘がちょうど朝風呂に入っており、「湯舟が揺れてる〜」、と悲鳴をあげるやら、妻が這いながら家中の火を消すやら大騒ぎでした。一瞬家がこのまま倒壊するのでは、との危惧がよぎりました。直後にテレビを付けても何も分からず、暫く経ってから、神戸市内の火災状況が映し出されたのを見て、ようやくことの重大さが分かってきました。垂水に住む弟や東灘区の赤羽一嘉代議士に電話をしました。弟はたまたま仕事が休みで、遠出をしようと出掛けるところ、東の空に異様な閃光のようなものを見たといいます。赤羽氏は家の中はめちゃくちゃ、付近の殆どの家は崩壊、近所の人を瓦礫の中から助け出してきたばかりだという。これは一大事、さあ、神戸に救援に行こうと車に乗ったものの、大混雑でにっちもさっちも行きません。知ってるところに電話をしようにも今度はかからない。で、姫路の仲間に呼びかけて、布団や毛布やらを集めて救援活動をと、急拵えの宣伝車で向かったのですが、加古川までがやっと。結局、その日は神戸まではたどり着けませんでした。翌日になって、心あるみなさんによる救援物資を積んで、加西市から三木市を経て、新六甲トンネルルートで三宮に向かいました。「トンネルをくぐればそこは戦場だった」という表現がピッタリするような惨状でした。トンネルの前の神戸市北区一帯は以前と同じのどかな風景でしたが、その対比が実に鮮やかだったのです。市川さんが後になって電話をくれ、「神戸はまるでミサイルでも撃ち込まれたみたいだな。不足しているものがあれば、送る。何でも言ってくれ。大変だろうが頑張れよ」と激励をいただきました。

震災直後の国会で

1月20日に開幕した通常国会では、三日前の大震災への対応を中心に、社会党の党首が政権を担う事態への根本的な質疑が行われることになります。赤羽代議士が被災者の一人として、衆院予算委員会で「これは天災じゃない、人災だ」と後々まで語られ伝えられた追及を村山首相らにしました。25年経ってその彼が国土交通相に就任したことに深い感慨を覚えます。私は新進党の常任幹事、広報企画委員会副委員長に任命され、国会では安全保障委員会や消費者問題特別委員会の理事などに所属しました。2月7日には安保委で、14日には消費者問題特委で、それぞれ質問。震災発生時の自衛隊の対応、被災者の避難生活への対策などについて質問しました。しかし、初動の遅れを県知事の責任にしようとする防衛庁長官、現場の実態を殆ど知らない経企庁長官。いずれも責任の所在が曖昧な答弁ばかり。無責任極まりない村山首相と、誰も彼も似たり寄ったりの頼りない閣僚の姿に唖然とするばかりでした。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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