新進党の醍醐味を満喫ー平成7年(1995年)【17】

姫路市長選挙燃える

1995年は、地方統一選挙と参議院選挙が一緒にぶつかる年でした。姫路の場合はそれに市長選挙も重なりました。1983年から3期務めた戸谷松司氏が退任するため、その跡を狙って、警察官僚で海部俊樹元総理の秘書官も務めたことのある堀川和洋氏と県議会議員だった五島たけし氏(93年の衆議院選挙には新生党から立候補し落選中)が名乗りを挙げます。この結果、保守層を二分する戦いになるわけです。ちょうど新進党が結党された直後でもあり、自民党から新生党旗揚げに参加した五島氏は新進党に鞍替えしていました。堀川氏は新進党の党首・海部元総理の息がかかっており、ある意味で新進党同士の選挙の様相を呈したのです。自民党王国だった姫路市に新しい風が吹いたことになります。当時の私は新進党に所属しており、個人的に親しかった五島氏の支援に回ります。地方政党・公明は首長選挙には中立自主投票が基本ですが、五島氏の心意気に応えようとしました。この人は、淳心学院から早稲田大出身で、演説上手の人でした。結果は堀川氏の勝利に終わり、五島氏は涙を飲むことになります。

新進党初の参議院選挙

この年7月の参議院選挙は新進党として初の戦いになり、全国で旋風が吹き荒れました。また、衆議院選挙も足音が高まってきており、準備に力が入ってきました。小沢一郎氏が幹事長を務め、市川雄一氏が総務会長に就ていた新進党は、参議院選挙で、重点地域に衆参の全議員を投入、総力戦を挑みます。特に愛知選挙区と佐賀選挙区には力が込められて、双方の選挙支援に私も出向きました。震災の2ヶ月後にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生、暗い世情でしたが、それを跳ね返すべく参議院選挙に打ち込みました。それは公明党単独のものと違って、新進党という全く新たな土台の元での選挙でした。いささか勝手が違ったものの、結党の息吹溢れる選挙でした。前年に誕生していた自社さの「野合」政権への審判を国民に迫るものとして、「新進党対自民党」という二大政党制に対する国民の判断が問われたのです。

その結果は改選議席126中、自民党46(改選議席33)、新進党40(同19)、社会党16(同41)、共産8(同5)、さきがけ3(同1)というようなものでした。自民党は前回の参議院選挙での獲得議席67を大幅に下回り、社会党に至っては、改選数の三分の一ほどにとどまる大惨敗だったのです。それに対して新進党は議席において自民党に肉薄しました。獲得投票数では選挙区、比例区共に自民党を上回る勢いでした。ただ、自社さ政権側としては、3党で改選議席の過半数64を1議席にせよ上回ったとして、村山首相の続投を強引に決めるに至りました。

この背景には、新進党における公明党、そしてその最大の支持母体である創価学会に対する恐れを抱く勢力の跋扈がありました。これは後々様々な意味で尾を引くのですが、この選挙戦が全てを包含していたと言えなくもありません。現代における戦争、陣地取りと言える壮絶な戦いの中で、ことの本質とは違った形で、恨みつらみが蓄積されていき、あらぬ方向に流れていくのですが、そのあたりについてはまた後ほど触れることにし、ここでは新進党初の参議院選挙がのちの禍根を生み出したとだけ記しておくことにします。

小選挙区に出られず比例区に回る

一方、来るべき衆議院選挙に向けて姫路では11区の候補に市長選挙で落ちた五島たけし氏が回り(12区には山口壮氏)、比例区で立つ私とジョイントした形での政談演説会が持たれました。残念ながら、私は小選挙区の候補足りえず、二回の中選挙区制度のもとでの選挙にでただけで、これ以後有権者に個人名を書いてもらう選挙には出られなくなってしまったのです。口惜しさはあったものの、党名で挑む比例区候補としての戦いに頭を切り替えました。7月29日姫路で開かれた講演会は大いに盛り上がったことはいうまでもありません。時の人である小沢一郎、市川雄一ツートップの揃い踏みだったのですから。後にも先にもこの二人に同時に応援演説をしてもらったのはこの時だけです。

中嶋嶺雄先生ら学者一行と台湾へ

この間に、新進党の衆参両院議員の会合に中嶋嶺雄先生(東京外語大学長、後の秋田国際教養大学学長)が来られる機会がありました。講演のなかで、先生が「この中に、私の高校同期生と大学での教え子がいます」と言われ、ビックリしました。先生と松本深志高校で同期というのは、のちに長野県知事や防災担当相や国家公安委員長になられた村井仁代議士です。教え子というのは慶応時代に東京外語大から講師で来ておられた際に教えてもらった私のことです。満場の中でわざわざのコメント。気恥ずかしいものがありましたが、誇らしいことでもありました。

実は中嶋先生はアジアオープンフォーラムを主宰されていました。これは一年ごとに台湾と日本で交互に開催地を変えて、両地域でそれぞれの学者、文化人が相互に交流をしていたものです。「一つの中国」を掲げる中国に対抗する台湾を支援するというのが目的です。台湾側の中心は李登輝総統。この年の夏(8-18から22まで)の開催地は台湾最南端の高雄。七回目です。日本側の代表は亀井正夫住友電工相談役。例の民間政治臨調の中心者です。主な日本側の参加メンバーは、中嶋先生の他に、金森久雄、高坂正堯、山崎正和、飯田経夫、日下公人、神谷不二、佐々淳行、大宅映子の皆さん。政治家は、椎名素夫氏ぐらいでしたが、この人も政治家というより、むしろ学者っぽい方でした。錚々たる皆さんの中に、私というちょっと異色の若造政治家が潜り込んでいたのです。李登輝総統とは、このフォーラムにおいて三たびお会いしましたが、知的能力と政治的決断力を併せ持つ指導者の風格がとても印象的な人でした。(2020-3-1公開 つづく)
※3月は、原則として、日曜、水曜ごとに公開する予定です。

 

 

 

 

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