【25】連立政権参加前夜の波乱ー平成10年(1998年)❸

竹入元委員長の回顧録と市川氏の批判

平成10年の晩夏に、党にとって極めて残念なことが起こります。8年前の1990年に政界を引退していた竹入義勝元委員長が朝日新聞紙上に回顧録を発表したのです。その中で、創価学会と公明党との関係について、あたかも「政教一致」であったかのごとく、歪曲して中傷する一方、対中国問題での成果をほぼ自身の手柄であるかのごとく語ったのです。タイトルは、「秘話 55年体制のはざまで」。8月26日から9月18日までの間に、12回にわたって連載されました。発表と同時に、「これは一体どういうことか」との反響が党内、支持者の間から巻き起こりました。直ちに、公明新聞紙上で強い批判の声が連日のごとく掲載されていきます。

そんな中、10月28日付け朝日新聞紙上に、市川雄一元書記長(「新党平和」常任顧問)へのインタビュー「公明の竹入氏批判、なぜここまで?」が掲載されました。このインタビューは同紙の梶本章記者によるもので、批判が強すぎるのではないかとして、微に入り細にわたって問いただしています。市川氏は、それに対して一つひとつ丁寧に答えていました。例えば、「公明党と学会の関係は、政党と支持団体の関係で、それ以外の何物でもない。それを『従属』とか、『支配』と表現している点が問題だ。憲法がいう政教分離の原則は、国家と宗教の分離だ。政党と宗教の分離をいっているわけではない。同時に、憲法は宗教団体の政治参加の権利を保障している。支援団体が党に意見や注文、アドバイスをするのは当然だ。その声に党が耳を傾けるのも、これまた当然。要は、党の主体性がどこまで貫かれているかだ」と、いったように。

私は実は竹入元委員長を団長とする「第12回公明党訪中団」の随行記者として、北京を皮切りに、天津、大連、上海、広州、深圳など中国5都市を訪問したことがあります。その際に同氏のいささか首を傾げざるを得ぬ赤裸々な実態を見てしまいました。中でも、中国要人との接見の前夜に、聞くに堪えない、我が耳を疑う発言を聞いたのです。また、異常なほどのお金を使ったお土産購入の姿も見ました。つまり、同委員長の表の堂々たる言動とは別の、怪しげな裏の姿も見て、この人物に大いなる疑問を抱いたのです。

勿論、彼の功績を私は全否定するつもりはありません。梶本氏が云うように「政治外交史的には竹入氏が果たした役割は評価されうる」との指摘には首肯するところがありました。市川氏の「竹入外交とは、本質的には『御用聞き外交』だった」と云うのは少々キツすぎると思ったものです。この辺りは、私の物の見方、人物観の拙さのなせる業かもしれませんが。

当時、この事件は実に様々な波紋を呼びました。私にとって忘れられないことは、親しくしていた毎日新聞のある記者が赤坂の議員宿舎にやってきた時のことです。彼は憤懣やるかたないといった口調で、竹入さんを批判、攻撃する公明新聞の論調はおかしいと、まくし立てました。普段はどちらかといえば、おとなしい学究肌の記者だっただけに、驚きました。「竹入さんは親分肌で、いい人だった」との言い振りだったのです。公明党の番記者の間ではこういう竹入評が専らでした。ここは、記者をバカにすることが多かったとされる矢野元委員長とは違うところでしょう。尤も、中国での〝竹入裏面姿〟を思い起こすにつけ、その演技力の逞しさのなせる技かもと、思わざるをえませんが。

政治改革の嵐、新たな展開へ

ところで、私が初めて衆議院に挑戦し、落選した年ー1991年(平成3年)ーあたりから吹き始め、私が当選した年である1993年(平成5年)頃にはピークを迎えていた政治改革の嵐も、20世紀の終焉である平成10年後半には転機を迎えます。小選挙区比例代表並立制の導入や、二大政党制への胎動としての新進党結成などを経て、自民党の変質が余儀なくされていくのです。ある意味で、その象徴的出来事が額賀防衛庁長官の辞任でした。5年前の細川護熙首相の誕生で、38年間単独政権についていた自民党がその座を追われていましたが、ようやく橋本政権から小渕政権にバトンタッチされ、単独政権復帰となりました。しかし、参議院議員の議席の過半数割れで、先行き覚束ない実態を暴露したのです。

一方、公明党は、新進党に参加したものの、衆議院議員のみ全員参加で、参議院議員は半分だけ、地方に至っては全て元のままでした。その後、新進党の分裂にあって、新党平和と公明に分かれるという不規則な分裂状態にありました。こうした状況はなにかと不都合であり、元の鞘に戻ろうという動きが強まり、平成10年11月7日に、「公明」に「新党平和」が合流して、「新しい公明党(New Komei Party)」が誕生します。代表に神崎武法、代表代行に浜四津敏子、幹事長に冬柴鐵三の三氏がつきます。ちなみに、市川雄一元書記長は副代表に就任します。私は副幹事長の任命を受けました。従来の委員長、書記長というポスト名が代表、幹事長になったことに新たな時代の到来を感じさせました。

神崎公明党の新たな出発

新出発をした公明党の最初の仕事は、緊急経済対策でした。地域経済の活性化を図るために、総額7000億円規模の地域振興券(商品券)構想の実現を掲げました。これにはバラマキの極致ではないかとの批判が寄せられたものの、戻し減税的効果の意味も強く、最終的には公明党ならではの大衆福祉政策として、地域住民の支持が得られていきます。また、将学金制度や児童手当制度の拡充に加えて、緊急の少子化対策など次々と政府自民党に対しての要求を実らせていきました。予算編成権を持たない野党でありながら、掲げた「合意形成型政治」の名に恥じない闘いを展開していったものです。

また、当時大きな課題として浮上した日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法に対して、修正要求を求めて、成立に協力する方針をとりました。これは国内政治最大の緊急課題であった金融早期健全化法の成立と共に、青息吐息だった小渕自民党を救う救命ボートの役割を果たすことになったのです。加えて、組織的犯罪防止対策のための通信傍受法についても、ステロタイプ的な反権力の旗のもと旧来的な野党の反対一辺倒の姿勢を横目に、修正案を提出して成立に協力しました。こうして、国旗・国歌法や改正住民基本台帳法など国家統治の観点から重要な意義を持つ法案の修正成立など、〝合意形成の見本〟を天下に示していったのです。(2020-3-29 公開=つづく)

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