【26】楽しんだ宮澤蔵相との初顔合わせー平成11年(1999年)❶

念願の宮澤蔵相に質問のチャンス

ところで、私はこの時まで自民党の橋本、小渕の両首相には本会議や委員会で質問をする機会はありましたが、宮澤元首相とは相まみえたことはありませんでした。38年間続いた自民党単独政権の最期の首相としての宮澤喜一氏は、しばしば徳川最期の将軍・徳川慶喜になぞらえられたものです。私としては、公明新聞記者時代に歴代総理大臣の予算委員会での答弁を聴いていてー佐藤栄作首相から中曽根康弘首相までー、その卓越した答弁力に深い感銘を受けることがままありました。新聞記者を辞して秘書になり、自分が候補者となり、そして落選を経て代議士になる間の首相たちー竹下首相から宮澤首相までーとは、縁がなかったのです。そんな私にとって、小渕内閣で、副総理兼大蔵大臣になった宮澤氏は、ある意味で憧れの的でした。一度は委員会質疑をしたいものだと思っていたのです。

そんな折についにチャンスが巡ってきました。平成10年12月2日。財政構造改革に関する特別委員会でのことです。今、この時の質疑を議事録で振り返りますと、冒頭に私は、小沢一郎氏と宮澤喜一氏との間の安全保障観の違い(海外における自衛隊の武力行使問題を巡っての法解釈について)といったことを訊いているのです。財政構造改革を問う場面で、その時点での同氏の所管外の問題を持ち出すとは、ホットなイッシューとはいうものの、中々大胆なことでした。で、そのやりとりたるや如何に。

宮澤さんは「小沢さんとは何回となく議論をしながら、非常に裨益をして(役に立つ、助かるという意味) まいったものですが、私自身は、我が国は外国において武力行使をしてはならないというふうに考えております」と答える一方、「小沢さんは武力行使ということについては、同じく慎重」だが、「国連ということなら別の問題だと考えておられる」と答弁されたのです。で、それ以上は踏み込まないで、「将来における日本のあり方を巡って二人の政治家がディベートしたものとして理解してほしい」と軽くいなされました。

二兎を追うもうまくいかず

本題の財政構造改革についての質問の要点は、景気悪化の状況の中にあって、いかに財政の改革を成し遂げるかという問題でした。私は、景気浮揚策と財政の構造改革という二つの課題解決を双方とも目指す、つまり二兎を追うことは難しいのだから、景気浮上という一兎に絞るべきとの観点で質問しました。宮澤さんは、これには「二兎を追うことは無理だった。そういうことでは甘さがあった」とあっさり認める答弁をしました。拍子抜けしたことを覚えています。思えば、この課題は今に引きずっているわけで、事態は一向に改善されぬままにきたっているのは困ったものです。

なお、この当時の経済企画庁長官(今で言う経済財政担当大臣)に、堺屋太一さんがついていました。経済評論家として著名な人を小渕首相は投入したわけですが、この日の委員会に出席していました。私は当時話題の「地域振興券」について、その政策的効果を問いました。堺屋さんは、「大変高度な政治判断によるものだと承知している」が、「地域振興にも期待は持てるのではないか」とのいささか含みのある答弁をしました。経済の専門家としてはしぶしぶだったことがみえみえの答弁でした。私は公明党発の発想によるものだっただけに、あまり政治判断云々を強調されるべきではない、とチョッピリ嗜めることを忘れませんでした。

統一地方選で取りこぼす

4月の統一地方選挙では、県議選で二箇所(垂水区と兵庫区)、神戸市議選で一箇所(東灘区)の合計三箇所で落選をしてしまいました。懸命の応援をしていただいた支持者の皆さんには本当に申し訳ないことになりました。垂水区の候補者は市議会議員からの転出(市議を辞めて新たに県議に挑戦)でありましたが、涙を飲むことになったのです。次回も挑戦することになるかどうか見通しは立ちません。無収入になると、たちどころに生活に困ってしまいます。当面私の地元私設秘書として働いてもらうことにしました。政治家は落選すると地獄だということを改めて痛切に味わったものです。

「朝日」にコメント、テレ朝の「サンプロ」に出演

この年の春先には新聞やテレビに登場する機会が増えました。まず、3月25日の朝日新聞には、不審船事件の「発言録」として「必要最小限の有事法制必要」とのコメントが掲載されます。また、4月1日付の朝日新聞にも、ガイドライン法案の「他党の主張をこう見る」とのタイトルで、自民・中谷元、民主・岡田克也氏らとともに、登場しています。「日本の自主性保てるか」の見出しで以下のように発言しています。

「自民党の議論は、米国を全面的に信頼することを前提にしている。これまでの日本の外交・安保政策が米国のいいなりだったという伝統からして、日本が米国に引きずられないか、自主性が保てるかどうか、疑問だ。「後方」がたちどころに「前線」になって、一歩間違うと日米安保条約の枠どころか、憲法の枠さえ超えかねない危険を感じる。米国に配慮するばかりでなく、日本国民への配慮を忘れないようにすべきだ。自由党は、船舶検査の前提とされている国連安保理決議を外すとの主張に見られるように、憲法が禁じている集団的自衛権の行使に踏み込みかねない。共産党は、安保条約否定の立場から『自動的に参戦する法案だ』などの角度から攻撃しているが、それほど米国をこけにしていいのか。社民党の主張も先祖帰りの印象で無責任で気楽な議論が目立つ」

また、5月2日の朝、テレビ朝日の人気テレビ番組「サンデープロジェクト」に出演しました。田原総一郎氏の司会です。ここでは概ねいい感じで、初出演を無難にこなしたのですが、番組の途中で、田原氏が私に向かって「冬柴さん」と呼びかけたのです。私個人の存在を認めず、幹事長の名前を呼ぶことで、公明党は誰も同じ意見だろうとの挑発を受けたという風にとれました。

コマーシャルの短い時間に、私は色をなして「似てないでしょ。いい加減にしてくださいよ」と文句をいいましたが、後の祭りでした。彼は若い議員を、時にいたぶり、時におちょくって、鍛えるという側面があるようです。真っ正直な私はその手に乗らず、その後一二回彼の番組に出演しましたが、結局は彼とは遠い関係のままに終わったようです。(2020-4-2公開=つづく)

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