【53】衆議院憲法調査会の報告書まとまるー平成17年(2005年)❶

●『BIG tomorrow』に私の「司馬遼太郎論」が掲載

平成17年(2005年)という年は、私が生まれた年からちょうど60年。明治維新(狭義には1868年を指す)からほぼ140年が経っていました。明治維新前夜から明治にかけての歴史を語ることは、団塊の世代を含む私たち戦後第一世代にとってとても楽しいことではあります。その際に欠かせぬ語り部が作家の司馬遼太郎さんです。現在では何かとその歪み(「司馬史観」として)も取り沙汰されていますが、21世紀に入ったばかりの頃には司馬さんはもてはやされていた感が強くします。市川元書記長は『燃えよ剣』がとても気に入っていて、公明新聞時代から政治家としての現役時代にかけて、よく「司馬遼太郎論」や土方歳三をめぐる話を聞かされました。

市川さんは小説で気にいっているところは暗唱されており、『燃えよ剣』の末尾のくだりは何度もなんども繰り返し聞かされたものです。時代の大転換期にあって新選組という小集団のナンバー2として、鉄の規律を守り抜いた智勇兼備の猛将をご自分に重ね合わせていたのかもしれません。思えば、公明党の書記長というポジションと新選組副長とは似てなくもないと、後輩雀たちは時に応じて囀ったものですが、ご本人も満更ではなかったようです。その話題を持ち出すタイミングしだいで、座は殊の外盛り上がりました。

ちょうどこの頃、わたしのところに『BIG tomorrow  』(1980創刊-2017廃刊)っていう雑誌から3月号の取材依頼が来ました。テーマは、「経営者はなぜ司馬遼太郎を読むのか」でした。シリーズの四回目。「義に殉じた、河井継之助の大志とは何だったのか」という主題のもとに、見開きで登場しています。

私は「河井継之助は優れた合理主義者であると同時に、動乱の時代にどう行動すれば人は美しいのか、そしてそれがいかに公のためになるかを真摯に追求した信念の人。司馬さんは『峠』のなかで、継之助が箸の上げ下ろしから、物の言い方、人とのつき合い方、酒の飲み方、遊び方など、毎日の生活を彼の理想とする男のかたちとして実践していくさまを描いています。僕自身があまりさまになっていない人間だけに、サムライの抑制をきかせた立ち居振る舞いには今でも強く惹かれます。」などと、語っているのです。恥ずかしげもなく、『峠』を語り、「河井継之助」を論じていますが、市川さんからの受け売りも多かったことを正直に告白しておきます。

●作家・半藤一利さんとの出会いと「40年周期説」

この頃の私は、事あるごとに「日本社会40年周期説」なるものを口にし、様々な機会に時代を読み解くよすがとしていました。ざっとこれをまとめてみましょう。一言でいえば明治いらい40年ごとに、大きな歴史の転換期が訪れているというものです。つまり、明治維新から40年間、「富国強兵」で突き進んだ日本は、40年後に日露戦争でピークを迎えました。その後更に、40年かけて軍事列強入りを目指した挙句、あの大戦の敗北という、どん底を味わいます。一転、それからまた40年、今度は経済至上主義の坂を駆け上がり、1985年に頂上を極めるのです。そうすると、今はバブル崩壊以後の景気低迷の途上にあり、恐らく40年後の2025年まで続くということになります。その時は少子高齢化のピークという、新たなどん底を迎えるわけです。

実はこの説、歴史家・半藤一利さんの唱えたものを私なりにアレンジしています。彼だけでなく、多くの識者、知識人がこれに類する諸説を展開していますが、私は当時よく借用して「国家目標を掲げる大事さ」を語ることにしていました。実は半藤一利さんの娘婿が元産経新聞の記者で、後に政治部長を経て、今は自民党参議院議員になっている北村経夫さんです。彼とは大変親しく付き合っていましたが、ある時にぜひ岳父・半藤一利さんに会わせてくれと頼み込みました。

遂にそれが実現した夜のこと。半藤さんはいきなりこう言われました。「いやあ、貴方は〝くだらない本〟を実に沢山読んでる人ですねぇ」。流石の私もチョッピリむかっときました。笑いつつ「そうですかぁ。先生の本も入っているのですが、ねぇ」と嫌味含みで切り返した上で、「ですが、政治家が本をどう読んだかを公開することは、資産公開よりも大事な情報公開だと思いますが」と述べたのです。半藤さん、それには「全く仰る通りです」と同意されました。あれから10数年、本を読むたびに思い起こし、銘記しています。もっと〝くだらなくない本〟を読まねば、と。

●憲法調査会報告書に党を代表して

国会に憲法審査会が出来てから、早いもので5年余が経ちました。当初から5年を目処に現行憲法を巡ってあらゆる角度から調査検討をし終えるということになっていました。衆議院は中山太郎氏を中心にして5年間で450時間ほどかけて徹底的に調査しました。その報告書がこの年、平成17年4月15日に中山会長から河野洋平衆議院議長宛に提出されたのです。これは実に大きな出来事でした。私はほぼ全ての期間、この調査会に属して様々な議論に参加、発言をしてきました。時に応じて報道されたり、話題になったことはこれまで触れてきた通りです。

この報告書の冒頭に各党の代表がそれぞれの党の立ち位置、主張を表明していますが、公明党は私がその任に当たったのです。大変に光栄なことでした。衆議院議員になって、ある意味最大の仕事がこれだったと言っても過言ではありません。最も私が言いたかったくだりを抜粋します。

「明文の改正を必要とされる項目はそう多くはない。明文を変えさえすれば、事態に対応出来るとの考え方はいささか短兵急ではないかと思われます。これを受けて、公明党としては、憲法上の明文を改めなければならないものがあるとすれば、それは何か。また、何か付け加えねばならないものがあるとすれば、それは何か。憲法を変えずとも、法律や行政で対応出来るものは何か。こう言った観点から今後徹底的に洗い出す作業をしていくことが必要ではないかと考えています」

この時から、すでに15年が経ちました。その間に、特別委員会で国民投票法を作り、私もそれに貢献することが出来ました。そして憲法審査会が出来ました。しかし、それ以後今に至るまで全くと言っていいほどそれは作動していません。実は、憲法調査会ができて20年経ったということから、昨年産経新聞、今年は毎日新聞からインタビューを受けて、元憲法調査会に身を置いた人間として発言をしました。あまりにも残念な現状に私は幻滅すると発言したり、公明党を含む各政党の態度を批判しました。ただ口撃するだけでなく、具体的な打開策も提言しています。様々な状況から勘案すると、安倍晋三首相が退き、中山太郎さんのような与野党議員から信頼されるリーダーが出てくれば、議論を前進させることは十分に可能だと思うのですが。(2020-6- 15 公開 つづく)

 

 

 

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