【75】リーマンショックの嵐の中での麻生内閣ー平成20年(2008年)❺

●首相問責決議から持ち直したかに見えるも‥‥

先に見たように、衆参両院がねじれている状況は次々と困難な事態を福田政権にもたらしました。ついにそれは、「首相問責決議案」の提出、可決にまで至ったのです。現行憲法施行下で初めての出来事は6月11日に起こりましたが、与党側は直ちに衆議院での信任決議を可決し、民主党の狙う政治的効果に水をかけました。7月7日から9日までの北海道洞爺湖サミットを無事に乗り切った福田首相は、8月2日に内閣改造に踏み切ります。この内閣は、留任、再入閣が多くて新鮮味はないものでしたが、公明党の斎藤哲夫氏の環境相と自民党参議院議員の林芳正氏の防衛相の初入閣に、私は注目しました。二人とも政治家としては若く優秀な逸材で、大いなる期待が持てました。特に林防衛相は、私の親しい防衛官僚が「これまで幾人もの防衛庁長官や大臣を見てきたが、こんなに頭の回転が早く、防衛問題についての蓄積も豊富な人は初めてだ」とベタ褒めしていたことが強く記憶に残っています。

また、8月29日には、政府与党は「安心実現のための緊急総合対策」という名の緊急経済対策を打ち出します。この中では、「定額減税」の年度内実施、老齢福祉年金の受給者などに対する「臨時福祉特別給付金」の支給などが盛り込まれていました。ところが、その僅か三日後の9月1日に福田首相は辞任を発表してしまうのです。実はこの日は、朝から神戸市内で開かれた全建総連兵庫県本部の大会に出て挨拶をする機会がありました。出席者は民主党関係者ばかりで与党からは私一人。そこで、私は「早く追い立て民主党」との持論のさわりを述べたりして、上京しました。

この日の夜は、東ティモールに大使として赴任することが決まった北原巌男(前防衛施設庁長官)さんと、紛争調停人の異名を取る東京外語大の伊勢崎賢治教授を引き合わせる懇談会を持っていました。東ティモールで任務にあたったことのある伊勢崎さんから、同地の状況を聞くことが狙いでした。ところが、赤坂宿舎に帰り着くやいなや待ち構えていた記者たちから、福田首相辞任というビッグニュースを聞きます。慌てて会見をテレビで確かめると、同首相はあの「私は貴方とは違うんです。客観的に見れるんです」との後に物議を醸す発言をしていました。

その発言までの流れを追うと、記者団からは、唐突な辞任について幾度も繰り返しなぜかを問うていました。仕方なきことと思います。それに対して、首相は熟慮の末、そうすることが日本にとって一番適切だと思ったとの意味のことを繰り返し述べています。これまた、福田首相としては、あらゆる観点から考えてそれしかないとの決断だったと思われます。そこへ、最後に手を挙げた記者が、「(発言が)他人ごとみたいだ」と言ったことに対して、飛び出した発言です。首相の決断を巡っては、米国の執拗な要請に業を煮やした結果だとか、民主党の攻勢の前にほとほと疲れた果てたからだとか、選挙の顔としてはいかがとの突き上げが自民党内にあったとか、さまざまな憶測が流れましたが、全ては謎のままです。

●麻生氏が後継の総理・総裁に

謎に包まれた部分が少なからずあった福田首相辞任のあとを受けて、9月24日に首相の座についたのは麻生太郎氏でした。そこに至る自民党総裁選挙には、麻生氏の他に石破茂、石原伸晃、小池百合子、与謝野馨氏ら5人が出馬しました。同日の衆参両院の本会議では、衆議院では麻生氏を、参議院では小沢一郎氏を首相に指名する(2回目の決選投票の結果)というねじれ結果を招きましたが、憲法の規定に則り、衆議院の議決に基づいて麻生氏が首相に選ばれたのです。

この時の空気で忘れられないのは、公明党の中から浜四津敏子代表代行が早々と麻生氏支持を打ち上げたのには驚きました。北側一雄幹事長も同じような支持発言をしたのにも戸惑いを感じた人は党内に少なからずいたのは事実です。恐らく、麻生氏の明るさというプラス面を買ったのでしょうが、公明党としては珍しいフライング発言でした。その分だけ、早晩行われる総選挙への期待感と焦りがない混ぜになっていたものと思われます。

これと合わせて、総選挙の時期を巡っての憶測が飛び交いました。10月下旬から11月初旬にかけて総選挙が必至だとの情報が乱れ飛んだことは、私でさえ信じたものです。具体的に名を挙げることは差し控えますが、年内総選挙間違いなしと見込んだ人もいました。ともあれ、公明党にあって、今なお失敗談として語られるほど、この頃は皆浮き足立っていたのです。

●リーマンショックの嵐吹き荒れる

さて、米国の四大証券会社四番目のリーマン・ブラザーズが経営破綻をするという事態が起きたのは9月15日のこと。サブプライム住宅ローン危機に端を発した米国の金融情勢はこの日を機に急速に悪化、さらに第三の証券会社・メリルリンチがバンク・オブ・アメリカに吸収合併されてしまう始末。また米国最大の保険会社AIGの経営危機説まで急浮上しました。米下院が金融危機の拡大を防止するための公的資金投入の緊急経済安定化法案を否決するに至って、ニューヨーク株式市場は一気に大暴落してしまいます。2週間後の9月29日(現地時間)の終値は、前週末比777ドル安で、史上最大の下げ幅を記録。「1930年代に起こった世界恐慌の再現」とまで言われました。

これを反映して、東京の10月16日の株式市場は、日経平均株価の終値が前日比1089円2銭安の8458円45銭となり、「ブラックマンデー」(1987年10月)に次ぐ、史上二番目の11.41%の下落率を記録しました。10月28日には株価は一時6000円台に下落し、1982年10月以来の26年ぶりの安値を記録しました。日本経済は以降、消費の落ち込みや急速なドル安・円高が進み、輸出産業が打撃を受けて、大幅な景気後退過程へと突入してしまうのです。

麻生首相は10月30日に、世界的金融危機に対応し、景気対策を最優先させるため、衆議院解散総選挙を正式に先送りすると表明しました。

ところで、リーマンショックについては、当時から12年後の今に至るまで、種々の論評がなされていますが、注目されるのは、当初喧伝された「米国経済の破綻」論や、「資本主義の機能停止」論の不具合ぶりです。現実には、米国はその後、急速に金融危機を克服し、5年後の2013年末にはほぼ影響を払拭。米国経済は見事に急回復を示すのです。野口悠紀雄氏(一橋大名誉教授)らによれば、その背景には、米国が古いタイプの製造業依存からの脱却に成功したことが挙げられます。それに比して、日本は米国の住宅価格バブルに乗っただけの「偽りの回復」だったことに気付かず、古い産業構造に依存したままで、改革を怠ってしまったというのです。このことが今になって深い傷となって響いてきているのだと思われます。(2020-7-29 公開 つづく)

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