【76】総務委員長として経済危機乗り切りに全力ー平成20年(2008年)❻

●「緊急保証制度」と「定額給付金」打ち出す

9月29日に麻生太郎首相は衆議院本会議で所信表明演説をして、その施政舵取りのスタートを切ります。同じ日に私は衆議院総務委員長に選任されました。2001年の省庁再編成で、旧自治省、郵政省、総務庁が一体化され総務省になりましたが、その役所に関わる課題を議論する常任委員会の中心者となったのです。新しい委員会が出来て7年、ずっと自民党の委員長が続いていましたが、初めての公明党所属の委員長ということになりました。総務行政のトップは、鳩山邦夫大臣。この人はご存知、後に首相となる由紀夫氏の実弟。鳩山一郎首相、薫子さんのお孫さんです。私は当選以来なにかとご縁があって、親しい関係にありました。

厳しい経済情勢の中での出発となった麻生首相のもとで、公明党は「非常時の経済対策」を訴えます。与党一体となって次々と政策を打ち出していくことに貢献したのです。最大のものは中小企業の資金繰りを助ける「緊急保証制度」の創設でしょう。10月16日に成立をみた、この年最初になる第一次補正予算に盛り込みました。実際には10月31日にスタートを切るのですが、融資の相談、申し込みが凄まじい勢いで全国に広がっていきます。太田代表を先頭に、公明党の全議員が一体となって、地域の零細・中小企業者のもとに足を運んで、この新たな制度の活用を訴えました。

公明党主導のもう一つの柱となる政策が「定額給付金」です。10月30日に発表された「緊急生活対策」の目玉でした。これは、総額2兆円規模で、全世帯を対象に①ひとりあたり12000円を支給する②18歳以下と65歳以上には8000円を加算するーというものでした。こちらの方は、第二次補正予算に盛り込まれ、現実には翌年1月27日の成立を待たねばなりませんでした。生活者の家庭に行き届くのはさらに遅れ、2009年3月から半年ほどの期間になります。

この一連の作業を扱うのが総務省。私が委員長を務める総務委員会で11月13日に集中して議論をしました。そこでは、野党とりわけ民主党の委員から、この定額給付金が最終的に地方自治体に丸投げになったのはけしからんとの批判が相次ぎました。同党はこの定額給付金構想それ自体を認めず、最後まで反対をするのですが、委員長席でやきもきする日が続きました。

●麻生首相批判をブログで

ちょうどこの頃、麻生首相が3年後に消費税引き上げを明言するとの記者会見(10月30日)をしました。このことへの波紋は少なからずあり、地元でもあれこれと批判の対象となりました。11月2日、午前中は建設会社の安全大会から、特別擁護老人ホームの秋祭りに出た後、午後には母校長田高の同期会に出席しました。そういう場で聞いた「麻生批判」をも受けて、その日のブログで私は以下の様に書いたのです。

【先日の記者会見で麻生首相が、3年後に消費税を引き上げるとしたことの波紋は少なくない。至るところで、批判めいた意見を頂くことが多い。麻生さんも、明確に決めたわけでもないくせに余計なことを言うものだ。太田代表は、少なくとも3年は消費税をあげないととらえるべきだと言っているようなのだが、いささか苦しい。首相自身の口から、もっときちっとしたメッセージを発信すべきだろう。こうした政策課題にせよ、肝心の選挙に期日にせよ、麻生さんは、公明党幹部との意思の疎通を正直欠きすぎだ。ここまで連立のパートナーを裏切っては、関係基盤も先行き不透明なものになりかねない。】

このブログにメデイアは飛びつきました。朝日、毎日、読売三紙が「連立パートナー 裏切った」「公明・赤松氏、ブログで首相批判」と書いたのです。私としては普通の当たり前の思いを発しただけなのですが、いささか本音を正直に言い過ぎたかもしれません。とくに身内の太田代表にもちょっぴり刃を向けたことのリアクションが党内にありました。意思疎通を欠いていたのは、むしろ私と代表、幹事長との間であったろうことを後々反省することになります。

●熊森協会の青年たちと環境相へ要望に行く

日本最大の実践自然保護団体である「日本熊森協会」に私が出会った経緯などについては既に述べました。1997年に設立されましたから、もう20年を超えており、会員数も20000人になろうとしていました。私は一段とこの会及び姉妹団体の公益法人「奥山保全トラスト」の守護者たらんことを深く決意しています。そんな私がその意思を固めるに至ったのにはそれなりの訳があります。それは2008年12月5日のことでした。

同協会の森山マリ子会長(当時)から、このまま狩猟、有害駆除の対象にクマがされ続けていると、一気に絶滅に向かってしまうので、ぜひ所轄官庁である環境省に要望に行きたいとの希望を聞いていました。偶々斉藤鉄夫環境相は、公明党出身の仲間でもあるので、ちょうどいい機会とばかりに、この日、仲立ち役を引き受けました。同会長以下熊森協会の青年部6人ほどと一緒に斉藤大臣及び黒田大三郎自然環境局長らと会うことが出来たのです。

今、山奥から人里にクマが降りてくるのは、森がクマの生息地として相応しくなくなってきていることが原因です。森が荒れていることは、保水力をなくしていることの現れであり、昨今の大雨による鉄砲水の出現に見られるように、やがてはすべての集落、都市が破滅に向かうというのが熊森協会が抱く危機意識です。この日の面談で、青年たちはこうした問題意識のもと、必死に「国がすぐにクマの狩猟禁止に向けて動いてくれないと、クマが滅びてしまう」と訴えました。

しかし、斉藤さんは「これからいろいろな人に議論してもらおうと思います」と、だけ。そのため、青年たちは「今、緊急事態なのです。その地域にとって、取り組みが半年、一年遅れると、取り返しのつかない結果を引き起こしかねません。今や狩猟は、スポーツ、レジャーなど遊びの道具になっています。まずはそれだけでも禁止してください。今日、ここで大臣の見解を聞かせていただかないと帰れない」と食い下がりました。

すると、斉藤さんは困った顔をして、黒田局長の顔を伺います。同局長は、「クマを狩猟獣から外すかどうかは、環境相の権限ですが、西日本のように、個体群の存続が危ぶまれているところもあるが、そうでないところもあるので、難しい」と、否定的見解を述べました。そこで、森山さんが、「熊森協会のように、多数の優秀な研究者の指導のもと、17年もの間、必死にクマと森の問題に取り組んできた本気の団体を国の審議会などに呼んで意見を聞いて欲しい」と強調しました。斉藤大臣は「検討します」と言ったのに、横あいから黒田局長が「ご意見はパブリックコメントでお願いします」と全否定する始末。森山さんは、これまで何回も応募したが、全く聞き入れられない状況を説明、「国が意見を聞いたというポーズのために、我々に無駄な労力を使わせて疲れさせないで欲しい」と厳しく返しました。

私は黙って終始聞いていましたが、これまでの政治家生活で最も屈辱感を味わった場面でした。(2020-7-31公開 つづく)

 

 

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