Monthly Archives: 7月 2020

【66】米軍再編問題でグアム島への視察にー平成19年(2007年)❶

●「米軍再編」に対応するためグアム島へ視察に

「米軍再編」に伴って、沖縄駐留の米海兵隊約1万人がグアム島へ移転する計画が2006年に公表され、受け入れ態勢を検討する必要から、自民、公明両党が専門家議員を派遣することになりました。2007年の新年の気分覚めやらぬ2月3日、4日の二日間です。山崎拓元防衛庁長官を団長に、自民党から町村信孝前外相、大野功統元防衛庁長官ら5人。公明党からは私と佐藤茂樹安保部会長の2人。合計7人のチームでした。

日本から2500キロ、航空機で3時間半。沖縄との距離が1600キロで、ほぼ2時間半ですから、近いといえば、近い位置にあるといえます。その沖縄の負担が減ることになるなら、いい話ではないかという単純な発想を持つ向きもありました。私はその辺りを現地で確かめようとの思いがあり、到着後直ちに開かれた会議での米側の説明のあと、直ぐにこう訊きました。「沖縄からグアムへ海兵隊が移転するといっても、所詮は分散であって、沖縄からの海兵隊の撤退を意味しないと思うのですが、間違っていますか?」

「うーん。難しい質問で、私には答えられません。将来どうなるかは、今は分からない」リーフ米太平洋軍副司令官はこう答えるのがやっとでした。「プレイボール」を宣告する始球式で、いきなり豪速球を投げたかのような質問ぶりでした。場の空気はしらけました。尤も、グアムに海兵隊が移転するといっても、沖縄の現実は変わらないとの危惧の思いをぶつけて、私としてはそれなりの自己満足感はありました。

グアムにおける受け入れについて、いかに日本側にカネを負担をさせるかに大わらわの米側。グアム移転による負担の重荷回避に躍起の日本側ー両者の思惑の狭間で、沖縄、グアムの地域住民の生活への影響が見逃されがちだということだけは明確でした。翌4日に海軍と空軍の基地をバスで視察しました。その途上、住宅、学校、病院、水道、道路など住民生活万般において日本の支援がいかに必要かが語られました。耳を傾けながら、前途がいかに多難かに思いを致さざるを得ませんでした。

実はこの問題は、その後に現地で受け入れ反対の住民運動が巻き起こっています。2012年に米軍は計画を大幅に変更、移転人数の半減などを試みようとしていますが、決着は未だつかない状況です。一方、沖縄の嘉手納基地、辺野古への移転をめぐる事態も膠着状態が続いていることは周知の通りです。

●困難を極める北方領土問題

毎年2月7日の北方領土の日が来ると、決まって関心が高まるものの、それが過ぎるとまた遠のく。私は外交安全保障分野の担当者として、毎年自らの姿勢を戒めながら気を引き締めて日露関係に思いを凝らしたものです。20世紀末から21世紀の劈頭にかけての橋本、エリツィン時代に、日露関係は一気に盛り上がって、すわ歴史的解決がなるかと期待を抱かせたりしましたが、結局あえなく潰えました。また、鈴木宗男、田中真紀子ご両人らによる外務省を震撼させたバトルもあって、この年の日露関係は膠着状態にありました。

そんな中、麻生太郎外相が北方領土の総面積を二分することで、折り合えないかとの発言が物議を醸していました。これについては私の同僚の高野博師参議院議員(外務省出身)も同じことを委員会で提案していました。彼は私にも得意然として語っていたものですが、ロシア問題の専門家の間では、至って評判が悪かったようです。着想はユニークでも、ケーキを切って半分ずつ分けるのとは違う、ということでしょう。余談になりますが、高野氏は後に落選してから米国に渡って、ハーヴァード大学の客員研究員となりました。帰国後は民主党の外交顧問になろうとしましたが、公明党の反対で立ち消えになりました。好漢惜しむらくは才が勝ち過ぎるところがあったようです。個人的には私は親しかっただけに、この振る舞いは、残念に思います。

この年の記念日の前日・6日には、「新しい日露関係・専門家対話(2007)」開催を記念するロシア代表団歓迎レセプションが開かれました。これは、かつての「日露専門家会議」を引き継いだ「安全保障問題研究会」(佐瀬昌盛会長)の主催で開かれ、通算25回目となります。ロシア側からは、ヴャチェスラフ・ニコノフ氏(ロシアのための統一基金総裁)を団長に13人が参加しました。日本側からは木村汎、袴田茂樹さんらロシア問題の専門家が多数来ておられました。私はこの場での佐瀬会長との立ち話で、同会長と中嶋嶺雄先生の総合雑誌上での領土問題を巡る論争を話題にしました。かなり機微に触れるディープなものでしたが、佐瀬さんに軍配を挙げざるを得ないと、率直に伝えました。佐瀬さんは当然ながら、ご機嫌そうでした。中嶋先生、御免なさい。

●亀井静香氏の伝聞質問を打ち砕いた首相答弁

2月13日の衆議院予算委員会での亀井静香氏(国民新党代表代行)の質問は、前半は郵政民営化解散で自民党を出たことへの恨み辛みのぼやき調。後半は、自民党と連立を組む公明党、その最大の支持母体たる創価学会への八つ当たり質問でした。誤った認識によるいい加減な質問ですが、ここでは最低限の問題点を指摘し、安倍首相のこの問題についての明快な答弁を紹介しておきます。(以下、私の2007-2-14のブログからの転載です)

【亀井質問は聞いていて、大きく三つの誤った主張がありました。一つは、「創価学会の言う通りの教育基本法を強行採決して成立させた」という点。二つは、「自民党への復党問題に、公明党が堂々と横やりを入れている」という点。三つは、「池田創価学会名誉会長に会ったとの報道がある。間違いだというなら、法的措置をとるべきだ」という点。

安倍首相は①教育基本法は、自民党と公明党で長い間相当の議論をした。自民党が100%これだったら(いい)という最初の望み通りにはいかないが、連立政権でできたベストだ②復党問題について公明党から何か意見を言われたことはない。選挙で連立を組む政党同士が協力するのは当然である③池田名誉会長にお目にかかったことはない。首相がいちいちマスコミを訴訟(の対象に)すべきではないーこう明確に答弁した。

安倍首相の切り返しは見事だった。「総理の汚名を晴らすべき」と亀井氏が言ったのに対し、「新聞報道とか週刊誌が本当だったら、亀井さんは今頃大変なことになっている」と述べたことには、場内大爆笑。

しかし、総理の「汚名」とは一体なんだろう。いずれも新聞報道や伝聞に基づく中途半端な質問。これには呆れるばかりだった。こんな質問をするようでは「亀井氏の汚名」となるに違いない。】

最近の国会ではこうした質問は殆ど見られなくなりましたが、果たして公明党、創価学会への真の理解が進んだ結果なのかどうか。「自公連立20年」の効用ではあるのでしょうが、ただ単に沈潜しているだけではないのかと、懸念を抱きます。(2020-7-11公開 つづく)

 

 

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【65】学者と政治家の勉強会で安倍首相と一緒にー平成18年(2006年)❾

 

●改正 教育基本法がついに成立

安倍首相の誕生と共にこれまでの懸案だった課題が一気に進む気配を見せました。二つ大きなものが実現しました。一つは教育基本法の改正です。もう一つは防衛庁の防衛省への昇格です。前者については、「教育の憲法」と見られるものだけに、公明党は慎重の上にも慎重を期して取り組みました。自公両党で3年の間に70回にも及ぶ協議が行われたのです。太田昭宏、斎藤鉄夫の二人を中心に熱心な議論が展開されたことを横目で見ていてつくづくその粘り腰に関心したものです。

最大の焦点になったのは 「愛国心」をどう表記するかでした。国家主義的なものに対する強い憧憬の念を抱く勢力からの要請をどうかわすか。随分と苦労があったようです。結果として、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し」という表現に落ち着きました。同時に、「個人の尊厳」「人格の完成」「憲法の精神にのっとり」などといった基本理念は堅持しながら、「生涯学習」「家庭教育」「幼児期教育」などの時代の変化に対応した新たな項目を盛り込むことが出来たのです。

民主党は、対案を出しながらも、衆議院特別委員会でのその審議を拒否しました。結果的に自らの考え方が込められた法案の議論を放棄するという無責任な態度に終わったのです。中道主義の公明党が存在したからこそ、国家主義的なものへの歯止めをかけることが出来たものと、自負したいと思います。

●防衛庁の防衛省への移行も実現

防衛庁の省移行問題は、旧来的な革新勢力は勿論、普通の市民の間でも、「軍事大国」への変身の契機になるのではないかとの懸念がありました。これを払拭するために、国会での審議を通じて、専守防衛、文民統制、非核三原則などの防衛政策の基本は揺るがないことを確認しました。そして、自衛隊の「国際平和協力活動」を「付随的任務」から「本来的任務」へと、格上げすることができたのです。

この問題でも民主党は最終的に賛成に回ったものの、衆議院本会議採決では、6人が欠席。参議院本会議でも7人が採決を棄権・欠席するなど、基本政策での党内不一致を露わにしました。

私はこの時まで複数回、目黒の防衛研究所で自衛隊の幹部候補生を前に、公明党の防衛政策を講じた(年一回各党並びで)ことがありました。忘れられないのは、私が約1時間足らず喋った後で、質問ありますかと訊いた時のことです。一人の隊員(二佐だったと思います)が、立ち上がって「公明党の防衛政策はわかりました。ですが、政治家の皆さんは一体いつになったら、我々自衛隊のことを憲法においてきちっと位置付けしてくれるのですか」と真剣な口調で述べられたのです。痛烈なインパクトでした。私が憲法9条3項に自衛隊の存在を加える規定を置くことにこだわってきたことの一因がここにあります。

防衛庁から防衛省になっても、肝心の憲法上の位置づけは、未だになされていないままです。一歩前進はしたものの、本質的な課題は曖昧なままと言わざるをえないのです。

●「新学而会」という名の勉強会で

私の学問上の師が中嶋嶺雄先生(現代中国論専攻=東京外大学長を経て秋田国際教養大学長兼理事長)であることは幾度も触れてきました。その中嶋先生がある時、「赤松君、学者仲間を中心に、二ヶ月に一回ほどのペースで勉強会をやってるんだけど、君も参加するかい」と声をかけてくださいました。私は即座に「私で宜しければ、お願いします」とお答えしました。この会は、論語の「学而時習之」(学びて時に之を習う)から着想を得た、「学而会」という既成の勉強会の新版であることから、「新学而会」と名付けられたと聞きました。

中嶋先生を幹事役にして、岡崎久彦、市村真一、鳥居泰彦、木村汎、西原正、神谷不二、袴田茂樹氏ら錚々たる学者の皆さんと、政治家では塩川正十郎さんだけが常連でした。その後、伊吹文明、町村信孝、安倍晋三、小池百合子さんらも時に応じて参加されていました。時々の政治課題やら経済問題などのトピックをテーマに報告者がリポートし、その後にあれこれ議論するという形式でした。私も一度だけ、憲法改正論議の現状について報告したことがありますが、普段は専ら聞き役に徹していたものです。

正式に会が始まる前の懇談の場では、あたかも陽気な司会者のように座を和ませる役割を果たしました。岡崎さんは市川元書記長と国会で丁々発止の質疑応答をした間柄。鳥居さんは慶應の塾長経験者で私の級友小此木政夫君の奥方が元秘書をしていました。木村さんは北大時代に私が公明新聞に原稿を依頼したものの断られたことがあるなどと、それぞれの皆さんとそれなりの関係がありました。この会を通じて更に関係が深まった方々もいます。西原さんは防大の校長でしたから、卒業式への参加をきっかけに親しくさせていただきました。神谷さんからは創価学会のことを聞かせて欲しいとの注文を受けて、二人だけで会食懇談したこともあります。

政治家では、塩川さんとは、『アジア・オープンフォーラム』のメンバーとして台湾始め日本各地に同道したものです。無類の読書家で、ドナルド・キーンの『明治天皇』上下に深く感銘したと言われ、是非一読をと贈呈していただいたことは忘れられません。安倍さんは官房長官当時から時々顔を出していました。私とは当選した年が平成5年で同じだったのですが、委員会や海外視察などで一緒になる機会がそれまで全くありませんでした。この会の他の政治家のメンバーと私は伊吹文明さんを筆頭に昵懇だったのですが、安倍さんとだけはご縁がなかったのです。

ある右翼系の団体主催の会に顔を出したときのこと。安倍さんと舞台袖で行き違った際に「こんなところへ来てて、いいんですか」と声をかけられたことを明確に覚えています。私はどんな団体でも呼ばれたら、なるべく顔をだすことにしていました。安倍さんが「こんなところ」と言った団体はおよそ〝反学会、アンチ公明党〟を旗幟鮮明にした集団だったのでしょう。お門違いの人間を発見して、わざわざ注告してくれる安倍さんは、中々親切な人だとの印象を強く持ちました。(2020-7- 9公開 つづく)

 

 

 

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【64】安倍首相、太田代表が誕生。予算委でがん質問ー平成18年(2006年)❽

●安倍首相が誕生。公明は太田・北側体制に

平成18年(2006年)9月26日に、自民党は約5年余の任期を終えた小泉純一郎首相に代わって、安倍晋三氏が麻生太郎、谷垣禎一両氏と闘った結果、総裁に選ばれ、首相に就任しました。

昭和17年生まれの小泉さんから昭和28年生まれの安倍さんへ。このバトンタッチには若返り過ぎとの見方もありました。このあと、福田、麻生とまた年配組に戻るので、一層その感は深いものがあります。ふた世代飛び越えたことで、私などにはいわゆる団塊の世代前後が埋没するのではないかとの懸念がわいてきました。

安倍首相誕生にあたり、9月27日の私の国会リポートには「かねてポスト小泉は、チーム力で勝負するしかないという見方を提示してきました。小泉さんのようないわゆるスーパースターは望むべくもない時代状況(安倍さんがそうなるとの可能性はありますが)のなかでは、複数の人々がチームを組んで政権の運営にあたるしかないと思うからです」と述べています。さらに「小泉さんの5年半は功罪相半ばする奇妙な時代と位置づけましたが、安倍さんのこれからは、功罪どちらかがはっきりする分かりやすい時代になるだろうとの予感がします」と意味深長な表現をしています。

一方、公明党は9月30日に党大会を開催、神崎さんに代わって、新しい代表に太田昭宏さんが選出されました。幹事長には北側一雄さんがついたのです。冬柴鐵三前幹事長は新しい安倍内閣の国土交通大臣に数日前に就任していました。太田さんと私は、若き日に同じ職場(公明新聞記者)で、仕事をした仲の同い年。初めて出会ったのが昭和46年。あいまみえた瞬間に、強いオーラを感じ、この男は将来間違いなく公明党を担う逸材だと確信したものです。あれから35年。ついに実現しました。嬉しい思いで一杯になり、微力ながら支えようと胸中深く誓ったものです。

党大会に来賓として出席した安倍首相は、「祖父も父も創価学会とは深いご縁がありました」との話をして、場内を沸かせました。加えて、もう一人の来賓・作家の堺屋太一さんも太田さんが大学相撲で鳴らしたことに触れ、「裸一貫、一発勝負で頑張ってください」と印象的なエールを贈ってくれました。政界随一との評判の高い演説力と磨き上げた哲学の深さを持つ新代表と共に戦おう、との高揚感が漲ってきたものでした。

●臨時国会から予算委員会理事に、質問にも立つ

安倍首相誕生のどよめき覚めやらぬ中、臨時国会が開かれ、私は予算委員会に所属、理事になりました。党代表と幹事長の若返りに見合うかどうかというよりも、遅咲きの私にも立法府の中での重要なポジションがようやく回ってきたのです。よし、やるぞとの気合いを込めて連日の委員会運営に臨みました。

デビュー場面は早速やってきました。10月5日の予算委員会で30分間質問に立ったのです。この場で、私はがんと闘う全ての人々への思いに渾身の力を込めました。厚生労働副大臣の11ヶ月の総決算の意味を含めて、先の通常国会で成立した「がん対策基本法」のこれからの施行をめぐる問題に集中しました。その中で、「がん対策推進基本計画」が作られる際に、❶緩和ケアと放射線治療の充実を盛り込むべし❷大学医学部における教育現場にその方向を反映させよーこの二つの主張を、柳沢伯夫厚労相、伊吹文明文科相にぶつけました。さらに、その上に、「がん登録」の全面展開を安倍首相に求めたのです。

質問に際して、私は7月の米テキサス州ヒューストンのMDアンダーソンがんセンターでの視察で得た様々の知見ーとりわけチーム医療の重要性などを盛り込みました。すでに月刊『公明』9月号に書いた、リポート「チーム医療の威力を米国に見る」や、『週刊社会保障』の連載印象記「日米がん治療の差はどこに」などで述べてきたことを改めて強調したわけです。

これに対して、柳沢氏は、拠点病院を中心にチーム医療の取り組みに力を注ぎたいと答え、伊吹氏も医学教育の現場に、放射線治療や緩和ケアなど新しい治療を取り込むべく努力するとともに、チーム医療をフォローしていきたいといった積極的な姿勢を示してくれました。また安倍首相も、がん撲滅という目標に向けて、個人情報保護に配慮しながら、「がん登録」のようなバックデータ作成に向けて努力したい旨の答弁をしました。

今振り返りますと、ショートクエッションならぬ、長口舌の見本のような下手な質問でしたが、熱意だけはテレビを通じて国民の皆さんに十二分に伝わったものと確信します。興味深いエピソードですが、私の質問が医療の細部にまつわることに及んでいたこともあり、「赤松って医者出身か、医療関係者なのか?」という疑問を持つ人がいたとか。このようなお世辞まがいの流言もどこからか届いてきたのは、お笑いぐさでした。

●骨髄、さい帯血移植専門の医療センターを

この質問ではもう一つ大きなポイントがありました。骨髄、さい帯血移植についての大規模な医療センターを作れとの主張です。柳沢氏は患者さんにとって、近くの施設に通う方がいいのではとの観点もあり、大規模な移植センターに集約することがいいのかどうか、今後必要な調整を行いたい旨の答弁をしました。

先にこの回顧録でも取り上げたように、長年にわたってさい帯血バンクのボランティア活動に取り組んできた有田美智世さんがこの質問のTV中継が終わったあとで、絶賛する電話をしてきてくれました。予め連携をとった上での質疑でしたから、当然といえば当然なのですが、やはり褒められると嬉しいものがありました。有田さんは、この時の私の質問についても彼女の「へその緒通信」に書いてくれたのです。以下引用します。

「赤松さんは、浜四津さんの代表質問(10月4日参議院本会議)のビデオを何回も見て、衆院予算委員会の自分の質問の中に、総理大臣答弁でははっきり回答がなかった『移植センター』設立について取り上げてくださり、『さい帯血移植、骨髄移植を集約的に実施する大規模移植センター設立を目指すべき』と、今度は柳沢厚労相に回答を求めたのです。(中略)  この日、厚労大臣の口から初めて『大規模移植センター』という言葉が出たのです。『この時の浜四津・赤松議員の連携が、10年遅れていると言われ続けてきた日本の白血病などの治療分野の遅れを取り戻せた』ー将来、必ずそう言わせるほどの結果を出せるように、私は関係者への働きかけをさらに強めていきたいと思っています」。

いやはや、有田さんの強い意志が明確に伝わってくる迫力漲る文章です。この人は今もなお、「日本さい帯血バンク支援ボランティアの会」の代表として懸命の闘いを続けています。「さい帯血移植」が「人生初めてのボランティア」との広告コピーが胸を撃ちます。(2020-7-7 公開 一部修正=8-30 つづく)

 

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【63】WHO事務局長の選挙支援でNZへー平成18年(2006年)❼

●心に残る「ハンセン病」との触れ合い

厚労副大臣時代にはありとあらゆる難病やら、厳しい病に苦しめられてきている皆さんやその家族との出会いがありました。ここでは最も印象に残っているハンセン病患者の皆さんとの関わりについて触れてみます。

一つは毎年行われているハンセン病問題対策協議会の座長を務めたことです。8月23日に18年度の協議会が東京・平河町の都道府県会館で開かれ、厚労省の担当者たちと、全国から集われた患者の代表約180人とが話し合いました。冒頭の挨拶で、私は「着任してから9ヶ月、前任の西博義副大臣から極めて重要な仕事がこの場面であることを聞かされており、本日は緊張して臨んでいます」と述べました。これに対して全原協・國本事務局長が「遠く沖縄からも入所者、退所者が沢山来ておられます。先程、副大臣にお会いしましたが、熱心に質問され、感動しました」と述べられました。

もう一つは、青森市の国立療養所松丘保養園で8月25日に行われた同園に保存されていた胎児二体を供養する慰霊祭に参加したことです。同療養所において強制堕胎された胎児や新生児のホルマリン漬けが保管されていたのですが、二日前の23日に火葬されていました。川崎二郎厚労相が6月に供養する方針を表明、全国で初めて慰霊祭が行われたのです。

私は「(胎児の)両親、家族、園の入所者に多大な苦痛を与え、心からお詫びを申し上げます」との哀悼の辞を代読して遺骨に献花をしました。全国の国立療養所6カ所に計115体が保管されていると聞き、そうした行為を強制され続けてきた関係者の無念の思いを心底から感じざるを得ませんでした。

ハンセン病については、2001年5月11日に、熊本地裁がハンセン病訴訟(らい予防法違憲国家賠償訴訟)で、原告全面勝訴の判決を下し、元患者らに賠償金を支払うように命じ、国が敗訴しました。国家賠償訴訟で国が敗訴しますと、国は控訴するのが一般的でした。この時もその意向が強かったのですが、それに対して公明党と坂口力厚生労働相が両面から待ったをかけたのです。控訴断念を強く主張するこの動きに、小泉首相もついに呼応することになりました。

この問題では、こうした公明党と大先輩の大奮闘のお陰で大きく前進した路線のあとを、私は歩んだに過ぎませんでした。

●東京新聞夕刊『心の語録』に登場

東京新聞の夕刊に、この頃『心の語録』というコラムがありました。各界の識者が登場して、自分の心に残っている言葉を披露していました。私に書けとの依頼が舞い込み、何にするか、大いに悩みました。あれこれと考えた挙句、かつて父親に言われた素朴ではあるが、グサリと刺さった言葉にしたのです。

【金がないのは首がないのと同じー二十歳のころ、今は亡き父に『お金より心の豊かさを大事にする人生を送りたい』と言ったら、すかさず返ってきた言葉。理想ばかりを追い、現実から目をそむけがちだった私に痛烈な一撃となった】

これだけの短い文章ですが、2006年9月12日の夕刊一面の左肩に細長く掲載されました。親父が生きてたらどう思うかを考えました。確かに、お金さえあれば大概のことは乗り越えられる、そこからゆとりも生まれ、心の豊かさも伴ってくるとは思います。勿論、それだけではありませんが。そしてしみじみと、お金がないために夢が叶えられない不幸な人々に手を差し伸ばせたら、どんなに素晴らしいかと考えます。

これからの残された人生にあって、もし可能であれば、恵まれない青少年のための基金を作りたいと思っていますが、見果てぬ夢に終わりそうです。しかし、抱き続けてこそ夢は叶うもの、と確信しています。

●ニュージーランドへの出張を最後に

厚生労働副大臣としての海外出張の最後の行き先は、ニュージーランドになりました。WHOの西太平洋地域の年一回の地域総会が9月18-19日にキャンベラで行われることになっており、それに出席するためです。前年に事務局長が急逝したことから、後任を選ぶ選挙が11月に迫っていました。各国から候補が名乗りを挙げていましたが、日本は当時西太平洋地域の事務局長だった尾身茂氏を推薦して、必勝を期していました。このため、この地域総会に集まった各国のうち態度未決定の国に対して、支持を求める活動をすることが目的でした。中国の候補者であるマーガレット・チャン氏(香港出身、WHO事務局長補)と争う流れとなっていました。

元厚生労働省の初代健康局長でOBの篠崎英夫氏(当時、国立保健医療科学院長)を主軸にして、チームを組み、私も重し役で一緒に行くことになりました。18日の総会では型通りの挨拶をしただけですが、終了後や19日のランチのポスト役を日本が担当したため、その準備の合間を縫って各国の代表と交流し、尾身氏支持を訴えました。こんな経験は初めてのことでもあり、手応えはあるようなないような今一しっくりこないところは否めませんでした。

結果は、残念ながら中国のチャン氏が当選。尾身氏は及びませんでした。中国はこのチャン氏の当選が国連の機関のトップを手中に納めた最初のポストということになったのです。以後チャン氏は、現在話題のテドロス事務局長(エチオピア出身)と、2017年に交代するまで約10年間務めていました。尾身茂氏が今回の新型コロナウイルスの問題で専門家会議を代表して八面六臂の活躍をされているのを目にするにつけ、感慨ひとしおのものがあります。

●がん対策基本法が制定

公明党はがん対策に一貫して取り組んできましたが、私が厚労副大臣時代に大きな果実を得ることができました。2004年の1月に神崎代表が、9月に浜四津代表代行がそれぞれがん対策を国家戦略として推進するように提唱。06年1月には、「がん対策法」の制定を提唱していました。それらを受けて、3月には、「がん対策の推進に関する法律要綱骨子」を発表するに至っていました。そしてついに6月16日に、「がん対策基本法」が全会一致で制定されたのです。

そうした事態を背景に、「週刊がん もっといい日」の編集部から緊急インタビューを受け、Vol20に掲載されました。前半は、米国のMDアンダーソンがんセンターに視察に行った話、後半はがん対策についての発言です。

がん対策基本法について、来年4月施行に向けて具体的にどう進めていくのかと聞かれて次のようにこたえています。

【まず、推進協議会の設置や基本計画の立案、そして予算面の充実です。平成18年度の当初概算要求は、200億円でしたが、結局は161億円に削減されましたので、来年度には200億円に持っていきたい。同時に重要なポイントは、がんにならないようにする第一次予防、そして早期発見、早期治療という第二次予防をしなければなりません。一に運動、二に食事、そしてしっかり禁煙する。こうしたことに、企業のご協力は必要ですし、がん検診の推進も重要です。企業戦士ががんにならないようにするには、一次予防、二次予防に対する認識をいかに持つかが大事ですが、また、再発や転移の予防のために、第三次予防も大事です】

がんについて公明党は、放射線治療の第一人者である東大の中川恵一先生のお力を借りて様々な対応を展開してきました。その一番初期の段階を私は担当したことになります。(2020-7-)

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【62】独英へ憲法・安保事情調査に。愛蘭にも足伸ばすー平成18年(2006年)❻

●与党欧州憲法・安保事情調査団に参加ードイツの場合

平成18年(2006年)の後半。防衛庁の省昇格問題が、安保関係議員の間では大きな懸案となってきていました。2001年の橋本行政改革にあっても、防衛庁は防衛省とならぬままに据え置かれていたのです。自公首脳の間で、決断するために様々な角度から調査を進めようということになったようです。 与党欧州憲法・安保事情調査団と名付けられ、7月24日から30日までドイツ、英国に行くことになりました。石破茂、新藤義孝、佐藤茂樹さんらと共に、私が参加することになったのです。ヨーロッパの二大軍事大国における軍事と軍関係者のありようを、つぶさに調査することが目的です。

ドイツには、24日から25日まで滞在。国防省を訪れました。第二次大戦後における欧州事情の要請もあって、ドイツは再軍備に踏み切りました。ただ、ナチスのホロコーストにみる残虐非道ぶりへの反省から、軍人への徹底した内面教育や軍の民主化が進められてきています。そうした教育の影響がもろに反映した結果でしょうか。ドイツ軍という存在は過去のイメージとは程遠いものとして定着しているようです。軍人たちは「制服を着た市民」としての位置づけが強調されているとのこと。国民の基本的人権の保障を目的とする内面教育の実態について、微に入り細にわたって、詳しい説明を受けました。

この国では、連邦議会内に、軍内部での注文や苦情を軍人から聞き入れる「防衛監察制度」さえあります。どうして自分が昇進しないのか、ということまで聞くといった仕組みも取り入れられています。かつての非民主的な軍のあり方はどこへやら。羹に懲りてなますをふくかのような、痛々しいまでの対応を知って、いささか驚きました。

●英国の場合

26日から27日まで滞在した英国では、ロンドンにある王立統合防衛安全保障研究所(RUSI)を訪問。リチャード・コボルド所長らに会い種々の懇談をしました。そこでは、私はドイツ軍の動きについての風評が気になっていたので、訊いてみました。アフガニスタンでのドイツ派遣軍の動きが鈍くて、あまり見えないというものです。あくまで噂ですが、ドイツ兵は存在しているものの危ない橋は渡ろうとしない、したがって、いざという時に役に立たないのではないかというものでした。

ドイツは「9-11」以降、約3000人の兵力をアフガンに投入して、治安維持に貢献。イラク開戦にはフランスと共に反対していましたが、アフガンの安定には、ドイツは積極的な役割を果たしているとの見方を持っていた私にとって、この風評はいささか気になりました。そこで、真偽を確かめるべく、コボルド所長に訊いてみたのです。同所長は「(平和)教育が行き届いているからねえ」と答え、否定はしませんでした。併せて、イラクのサマワなどと違って、ドイツが駐在するアフガン地域は、治安状態が良くないことも勘案する必要があるとも、付け加えました。

こんな訪問を終えたのちに、私は自身の国会リポートに「世界でも特異な地位にある日本の自衛隊は、自国防衛と同様に、これからますます海外における平和維持活動での貢献を求められる。その際に、先の大戦における戦争責任の所在について、アイデンティティ(自己同一性)の過度なまでの分裂を日本社会がいつまでも引き摺ることは避けたい。これこそ、自衛隊員の内面教育を考える前に、なされるべきことではないかー欧州での調査の旅の最中にしきりに頭の中に浮かんできた」と書いています。

この旅の後、しばらくたって、防衛庁は名称を防衛省へと、変えました。この変化が実現するまで、左翼勢力は日本の軍事大国化に繋がるとの批判が専らでした。しかし、現実には「災害大国日本」にあって活躍する自衛隊の存在が目立っているだけで、彼らが騒いだことは杞憂に終わったのです。

●アイルランドへー司馬遼太郎さんとゆかりの女性との出会い

英国での日程を終えて、石破茂さんたちは皆27日には日本へ帰って行きました。私はそこから単身、アイルランドの首都・ダブリンを目指しました。そこでの目的は、同地での医療事情調査と町村外相の代理役でした。ダブリン在住の日本人で、長きにわたってアイルランドと日本の友好に尽くしてこられた方を、日本政府として表彰することになり、たまたま私が訪問した27日に大使公邸で、式典が行われる予定だったのです。外相名の表彰状を厚生労働副大臣の私が渡すわけです。役不足とはいえ、わざわざ日本から来たということで、関係者の方々は喜んでくださいました。

それもこれも林景一大使の温かい配慮です。条約局長当時から大変懇意にしていた同大使は、私が英国・ロンドンまで来る機会に、是非ともアイルランド・ダブリンへと、誘ってくれました。医療事情のブリーフィングと共に、ダブリン在住の日本人の皆さんと親しく懇談する機会を持つことが出来たのです。実はその場で、偶然ながら嬉しい出会いがありました。早稲田大学文学部の岡室美奈子教授がその式典に同席されていたのです。この人は、実は作家・司馬遼太郎の『街道を行く アイルランド紀行』の中に登場してきます。ダブリンに彼女が留学していた若き日に、司馬遼太郎さんと初めて出会う場面があります。

私はこの旅に実は司馬さんのこの本を旅行鞄にしのばせ、飛行機中、ホテルでずっと読んでいました。で、司馬・岡室ご両人のご対面のシーンも読んだばかりでした。司馬さんが当時早稲田大学の女学生だった岡室さんに大いなる好感を抱いていたと睨んでいました。そんな女性がいきなりダブリンの大使公邸で私の目の前に出てくるのですから驚きました。なるほど、さもありなんというチャーミングな女性でした。彼女は、日本におけるサミュエル・ベケット研究の第一人者(『ゴドーを待ちながら』の翻訳などで有名)で、今は早稲田大学・「坪内逍遥記念演劇博物館」の館長を兼務され、テレビに関する評論にも取り組まれています。

また、林景一大使はこののち、英国大使へと転進され、退官後の現在は最高裁判事をされています。時に応じて、林夫妻と岡室先生と私の4人で懇談の機会を持ち、交流を深めています。それもこれも、ダブリンのこの時の出会いが発端です。先日も岡室先生にメールをして、ベケットの『モロイ』を巡って、その難解な本の読み取り方のヒントを教えて貰いました。(2020-7-3 公開 つづく)

【62】独英へ憲法・安保事情調査に。愛蘭にも足伸ばすー平成18年(2006年)❻ はコメントを受け付けていません

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【61】BSE、ガン治療の視察でアメリカへー平成18年(2006年)❺

●BSEの検査でアメリカ・コロラド州デンバーに出張

ベトナムに続く、私の海外出張第二弾は、7月2日から7日までの一週間の米国行きでした。目的は二つです。一つは、米国産牛肉の安全を試す調査に、日本の政治家として参加し、農水、厚労省の専門官と合流するというもの。もう一つは、米国最先端の医療施設を視察するというものでした。同行はもちろん宮崎淳文秘書官です。気苦労は多かったものの、見るもの聞くもの初物ばかりで、エキサイティングな旅となりました。

米国産の牛肉がおかしいーBSE(牛海綿状脳症)の症状を持つ牛の肉は健康に害を及ぼすのではないか?この年の初めから半年というもの、日本国内で大騒ぎとなり、同国産牛肉の輸入がストップとなりました。ようやく米国側から再発防止に向けて最善を尽くした、との報告があり、35の食肉施設を事前に再調査することになったのです。そのうち、私が今回調査に赴いたのは、コロラド州デンバーにある食肉処理場でした。

日本でも既に東京・芝にある食肉処理場を見学していました。屠殺現場を見るのは初体験。引かれゆく牛に哀れを催し、引き裂かれる場面ではそれなりに心揺らぎました。今回は日本人の食生活に直接繋がるものだけに、万が一にも再び危険な部位が入っていることがあると、一体何を調査してきたのか、とお叱りを全国民から受けるだけに、極めて緊張したものです。

米国側はランバート農務次官代理(マーケティング・規制担当)とマン農務副次官(食品安全担当)、カーペンター検査官らがワシントンからやってきました。私は、「いい加減な会社の施設は切り離し、まじめに取り組むもののみで対日輸出をしたいのが本音ではないか?」「作業従事者が危険部位を除去することを知らなかったとは驚く。こんなことがまかり通っていたことをどう思うか?」などとかなり突っ込んで質問してみました。米側からは「良い会社、悪い会社と区別するのではなく、米国の食肉生産企業全ての問題として全体のレベルアップに取り組む」「二度とこういうことが起こらぬように、幾重にも研修を繰り返し、技術を高める努力をする」との答えが返ってきました。

作業中の従業員に「我々は日本人だが、何をしに来たか知ってるか?」と訊いてみました。「新聞を読んで知っている。実際に見てもらえるのは嬉しい」との返事。上司なり現場指導者の指示があったというのではなく、「新聞を読んで」というのが気になりましたが、それ以上は追及しませんでした。ともあれ、あれから15年ほどが経ち、その後は類似の事件は起きていないはず。現場的にはきちっと仕事が行われてきていると信じたいものと思います。

●医療事情調査のためテキサス州ヒューストンへ

「せっかく米国にまで行くのだから、医療事情をぜひ見てきたらどうですか」ー川崎大臣の温かいお言葉をいただき、私たちはコロラド州から足をテキサス州ヒューストンにまで伸ばして、「テキサス大学M.D.アンダーソンがんセンター」を訪れることにしました。時あたかも日本では、がん対策基本法が公明党の強い後押しもあってようやく成立した直後でもあり、がんに対する国民的関心が一気に強まっていました。今こそがん診療の先進国の知恵に学びたい、そう勢いこんで精力的に視察をし、関係者との懇談にも臨みました。

日米の医療現場の差異は、「チーム医療」とされます。米国では腫瘍内科医、腫瘍外科医、放射線治療医、放射線技師、看護師、薬剤師らがチームを組んで治療にあたります。主治医の個人的力量に左右されがちな日本との大きな差だと思われます。テキサス州立大学のコックス博士、同夫人の小牧律子教授のお二人にご案内役をしていただきました。お二人から「米国での放射線治療は、治療医と患者との間で、治療をどう組み立てるかとの戦略を立てるスタッフの存在が決定的に大きい。治療医がなんでもかんでも抱え込む傾向にある日本はどうしても負担が大きくなる」と指摘されました。

加えて日本の場合、とても看護師や薬剤師までが医師と同列の立場で治療にあたるとは考えづらいし、患者の存在が脇に追いやられるとの印象も拭い難いものがあります。現場で説明を聞きつつ、私は米国のチーム医療の図式イメージは円であると直感しました。円の中心は患者と一体になった治療医。周りをぐるりと各種のスタッフが囲むというものです。それに比して、日本の場合は、主治医を頂点とする三角形と言えましょうか。そして患者は円の外にある、といったものなのです。

米国におけるがん克服戦略は、国家あげてのもので、その成果は着実に功を奏していますが、同時に患者にとってバラ色かといえば、そうでもありません。当然のことながら、治療には高額の費用がかかります。日本と違って国民皆保険制度の仕組みがなく、圧倒的多数の貧困層にとっては、このセンターも高嶺の花の存在なのです。とはいうものの、同センターにおける患者ががんに勝つためのさまざまな仕組みが凝らされているのは驚きでした。例えば、偶々私たちが訪れた時に、「乳がんが骨にまで達している」という母親と、パソコン画面を覗く娘さんという二人連れに出会いました。日本の場合はどうしても医者任せの傾向が強く、自分で病状を把握して積極的に克服への道を探るということは少ないように思われるだけに、かなり違うなとの実感を持ちました。

●深いインパクトを受けた能勢之彦さんとの出会い

この地の医療に30数年にわたって取り組む能勢之彦さん(ベイラー医科大学教授)との出会いは強烈なインパクトを受けました。彼はこの年の春に某総合雑誌が組んだ特集「世界に輝く日本人20」のなかに取り上げられており、人工臓器開発の第一人者として知られていました。「チーム医療に感銘を受けました」という私に対して、現地で共に働くスタッフ(ご本人は家来と言っていましたが)を横にしながら「チーム医療といっても、最後は中心になる治療医の強い一念であり、断じて治すとの責任感ですよ」と強調されました。そして、「米国から学ぶべきことは多いが、日本が太刀打ちできないかというと、そう悲観することもないですよ」と言われたことも印象的でした。

普段から私なども色んな場面で使う「中心者の一念」ということで、まさに「お株を奪われた」感を強くしました。合わせて「医療にあっても大事なのは武士道なのです」と胸を張られてしまいました。「頼もしきサムライ、米国にあり」との思いを痛感したものです。能勢さんとそのスタッフとの出会いは、あたかも明治維新直後の遣米使節団の生き残りに出会ったかのようで、この旅での大きな収穫となりました。

ぜひ、後日、日本で再会をと思いましたが、この出会いから5年後の2011年10月に79歳でお亡くなりになられてしまったことはまことに残念でした。もう10年近く経ちますが、お元気でおられたら、今回のコロナ禍をめぐる米国の医療の対応などについて、ぜひご意見を聞きたいところではありました。

なお、この米国での調査を踏まえて、副大臣を辞任してから衆議院予算委員会で後日質問に立ちましたことも付言しておきます。(2020-7-1公開 つづく)

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