【89】被災地回りの後、脳梗塞で緊急入院ー平成23年(2011年)❹

●『「巨大災害の時代」と日本文明』ー『公明』9月号で安田喜憲さんと対談

環境考古学の巨人・安田喜憲さんを初めて知ったのは公明党の総務部会の場です。NHKの会長人事を巡ってのトラブルの説明に経営委員が来るというので、普段は殆ど出ない同部会に私が顔を出しました。というのは慶應大元塾長の安西祐一郎さんが絡んだ会長人事が、NHKの不手際で幻に終わったからです。安西さんは学部は違えども大学の同期。経営委員とやらに文句の一つも言おうというのが私の魂胆でした。

全て終わって別れ際に、後輩の稲津久代議士が改めて経営委員の安田さんを紹介してくれました。そこで初めて安田さんが著名な学者のうえ、私の友人で北海道創価学会の責任者・浜名正勝さんと親しいということも判明しました。縁は異なもの味なもの、友達の友だちはおともだちということで、それいらい一気に私との関係も深まることになるのです。

大震災の余燼くすぶる東北を5月6日に訪れた際に再会しました。そこで『公明』で対談をしようという運びになり、京都の伏見稲荷の料理屋で7月3日に実現するのです。9月号で『「巨大災害の時代」と日本文明』のタイトルで掲載になりました。この時の裏話になりますが、まことに変な「対談」でした。スタートから暫くの間、殆ど安田先生が私に信仰の体験を聞かれるばかり。ようやく1時間余り経ってから、災害をめぐる話になる始末。「公明」編集部の中嶋健二記者に、とんでもない苦労をかけた対談となってしまいましたが、彼が見事にまとめてくれました。

この時の話で最も印象に残ったのは、「明治維新の罪」ということでした。私が明治維新、昭和の敗戦に続いて、今が「第三の開国」との歴史家の松本健一さんの受け売りをすると、安田先生は、「開国」ではなく、「漂流」だといわれるのです。「近代日本が経験した三つの転換期に、日本(生命文明)は、強力な西洋(物質エネルギー文明)によって押し切られ、日本文明が大事にすべき文明のエートス(心性)を見失ったと捉えています」と述べて、「大量生産・大量消費・使い捨て型にどっぷり浸かった現在の日本社会から、その日本人の精神性を見つめれば、赤松さんたちが『開国』と言われるほど、好意的には受け止められません」と、キッパリ。この時、私はまさに日本近代史に開眼する思いになりました。ともかくスケールの大きな人です。

●気仙沼での「被災者なんでも相談会」に出席

これより先、5月7日には気仙沼での党宮城県本部主催の「なんでも相談会」に参加しました。一面瓦礫の大海原とでもいう変わり果てた姿で、大きな漁船がいくつもあらぬ場所に巨体を持て余している風が無惨でした。会場近くの階上(はしかみ)中学校の体育館を避難所にしている被災者の皆さんたち数人からあれこれ聞かせていただきました。

「階上漁港で牡蠣やワカメの養殖で生計を立てていたが、漁港、漁船、養殖地の壊滅的被害の中で途方に暮れている。なんとか立ち上がれるような手立てを講じて欲しい」「被災漁民も要求・要望をバラバラでなく、一本化する。国も早急に復旧港湾、養殖漁場の一本化を図り、対応を急いで貰いたい。一箇所でいいから、仕事に取り組めるような糸口を作って」などと、堰を切ったように、色んな要望が次々と繰り出されます。

また、「避難所生活には耐えられない。親類縁者や知人を頼って県外や他地域に一度は出た。しかし、いつまでも甘えてはおられず、いたたまれずに舞い戻ってきた」「民間住宅や貸間を借りたが、公的補助を受けられるかどうか不安だ」「避難所に救援物資が集中する。避難所に入っていない避難民が行くと、欲しければ並べ、と言われる。もっときめ細やかな対応は出来ないのか」「自治会組織が確立していて、自治会長さんが発動しているところはいい。いい加減な自治会長のところには救援物資が届かない」などといった苦情や要望も次々と出されました。

5月9日付けのブログには、以上のような要望を受けたことを記したあと「巨大な大津波に襲われてやがて2ヶ月。瓦礫の片付けで僅かなアルバイト料を稼いではいるものの、先の見通しが立たないと訴える被災者。生活苦と闘わねばならず、悲しむこともままならぬ日々が小さな津波のように押し寄せている。彼らにも私たちにとっても、本当の闘いはこれから始まる」とあります。

確かに心忙しく飛び回る〝怒涛の日々〟が続きました。

●危うく〝真夏の夜の惨劇〟免れる

その日の夜は親しい大学の先生(阿部憲仁横浜桐蔭大准教授=当時)と新大久保で懇談する予定でした。7月29日のことです。夕刻近く、国会での動きのリポートをアイパッドに向かって書いていました。すると、どうも指元がおかしい。ボードに指をおいても、その通りにはいかないのです。流れるというか、定まらないというべきか。幾たびか試みても、どうにも指が頭脳のいうことを聞かないという他ありません。事務室にいる小谷秘書に声をかけました。

「おーい、小谷くん。どうもアイパッドがうまくいかないよ」ー今度はその自分が発した言葉がおかしいのです。呂律定まらぬ感じがありあり。瞬時、これは脳に異常をきたしているのでは、との思いがよぎります。ただ、一方で大したことはなかろう、との勝手な見立ても頭がもたげます。予定をこなし、明日病院に行くか、とも考えました。ですが、ここはまず衆議院内にある医務室へ行こうと思い直し、直ちに向かいました。当直の医師は、私の事情説明が終わらぬうちに、「すぐ入院しましょう、救急車で慈恵医大病院に行ってください」と言われるのです。

私はそれを制して、「入院するなら東京女子医大病院にします。かかりつけ病院ですから」と言い、直ちに主治医の佐藤麻子先生(現同大教授)に電話を入れました。通常は出られぬことが多いのに、この時に限って直ぐに電話口に。「えーっ、私今から地方講演で出かけるところなんですよ。困りましたねぇ。‥‥。分かりました。直ぐに来てください。ベッド用意しますから」。救急車を断り、小谷秘書の運転で向かいました。この間、異常に気付いてから10分間ぐらいです。この素早い対応が全てでした。それに、主治医と即繋がれた幸運も。

「ほら、見てください。貴方の脳内ですよ」ー担当医が見せてくれた写真には転々と白い粒が写っていました。脳梗塞の症状です。翌日、医師との会話で「脳が詰まってる」と言われるのに対し「いたって詰まんない男なのに、脳は詰まってるんですねぇ」と言って笑わせたり、「常日頃身体に気を使って、運動もしてるのにどうしてこんな病に罹るんでしょうねぇ」と、それこそ詰まらぬことを口にしました。女性副院長は「何言ってるの。色々やってても(病気に)なる人はなるし、何もしていなくても、ならない人はならないの!」と嗜められました。

いらい、約2週間入院することに。大事に至らず8月12日に無事に退院できたのですが、無理して出かけていたりして、対応が遅れていたら‥‥。〝真夏の夜の夢〟ならぬ、「真夏の夜の惨劇」になったのに違いありません。震災対応は別にして、国会の仕事にも比較的影響はなくて済みました。幸運に恵まれて、何の後遺症もなく、今日まで過ごせていることに、命の奥底から感謝の思いで一杯になります。(2020-8- 26 公開 つづく)

 

【89】被災地回りの後、脳梗塞で緊急入院ー平成23年(2011年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

Comments are closed.