Monthly Archives: 8月 2020

【81】事業仕分けの旋風吹き荒れるー平成21年(2009年)❺

●孫崎享さんと『公明』で、安保政策めぐり対談

外務省出身の評論家や物書きで懇意にしてきた人は、岡崎久彦さんを筆頭に何人かいますが、孫崎享さんもそのひとり。太田昭宏さんが代表当時に、ユニークな外交専門家がいるので一度関係者で会おうとの誘いを頂き、お会いしたのが初対面でした。『日米同盟の正体』を出版されたばかりの頃だったと記憶します。以来、交流を深め、党理論誌『公明』9月号で対談をしました。衆院選前の特集の一環として、「責任ある安保政策とは」というタイトル。そで見出しには、「平和観を積極的に生かす外交戦略を」とありました。

この時の孫崎さんの発言で注目されるものをひとつだけ挙げますと、英国BBCがWorld Public Opinionとの共催で、世界で行った世論調査「どの国が世界でもっと発言力を持って欲しいか」との問いに、「日本」との回答が圧倒的に多かったということです。孫崎さんは、日本が国際的に尊敬を得る地位を獲得するという点で極めて有利な位置にいながら、米国の求める軍事的支援への偏りが目立つことに疑問を投げかけていました。

加えて、アメリカンフットボールに例えて、それぞれのポジションごとに必要とされる役割は違うのと同じように、国家の役割も国によって違うのだから、日本はやれる範囲内での国際貢献でいいのだと指摘していました。私はかつて、55年体制下の日本の与野党は、攻守が裁断されていることから野球に例えられ、その後の新党ブームを経ての連立政権下では、攻守が瞬時に入れ替わるサッカーに似ていると、述べたものですが、二人の視点はいささか違っていました。

孫崎さんは、政権が民主党に移ったのちに、なんと鳩山由紀夫首相の個人的政策アドバイザーになられました。のちに重大な問題に発展する、「最低でも県外」発言などを始め影響を与えられたものと思われます。今では鳩山元首相肝いりの「東アジア共同体研究所」の所長をされ、UIチャンネルなどでしばしば共演されています。私が対談した際には、現在のような立ち位置になられるとは、もちろん想像だにしませんでしたが、月日の流れとは面白いものだと妙に感心している次第です。

●最初は好評だった「事業仕分け」

民主党は政権の座につくや、事業仕分けを打ち出し、大いに好評を博していきました。元をただすと、これは「構想日本」の加藤秀樹代表を中心に、数年前に打ち上げられ、公明党が最初に導入すべく動いたという経緯があります。ただ、政権のパートナーの自民党には受け入れられずに、時間が経ち、民主党が採用したわけです。一言で言えば、「公開の予算査定」で、これまでの〝密室の予算編成〟に比べれば、オープンなところは評判は悪くなく、いっときはフィーバーぶりを発揮しました。私の中学校同期の50年来の友人が大いに評価していたことを思い出します。

私は12月3日のブログでこんな風に書いています。

【昨日は、午前中に外交安保部会を開き、外務省と防衛省から事業仕分けの結果を聞いた。事業仕分けについては、賞賛の対象となるのは、やはり情報公開による予算決定過程の透明化だろう。一方問題点は、進め方、手法の乱暴さに尽きようか。細かい検証はこれからではあるが、政治主導に名を借りた財務省主導の側面も否定できない。そういったことを踏まえたうえで、外務省の事業仕分けで、注目を引いたのは、国際情報誌『外交フォーラム』をめぐってのやりとり。

この情報誌は歴史家の山内昌之氏が編集委員に名を連ね、編集顧問には元中央公論の編集長で著名な粕谷一希氏の名も。私もそれなりに愛読していた。しかし、この情報誌は買い上げ、無料配布がほとんどであったことが、事業仕分けの場を通じて、明らかになっていった。およそお役人の営業で、企業努力はゼロだったとわかった。

一方、防衛省関連では、国際平和協力センターが「教育・訓練は必要・重要だが、箱は不要。既存施設の最大有効利用を考え、教育を行うべき」などの意見が出され、廃止の方向とのこと。カナダのピアソンセンターのようなPKO教育センターが欲しいということで、私などが中心になって進めてきた事業だけに、葬り去られるのは惜しい。規模縮小はあってもいい。是非とも復活させるべくこれから尽力したいと考えている。】

前政権のやってきたことを否定し、新たな視点の導入を持ち込むことそれ自体は新鮮でしょう。口惜しさはあるものの、こういうところに政権交代の醍醐味も窺われると正直思った当時の感慨がしのばれてきます。

●官僚答弁ゼロが何をもたらすか

事業仕分けと並び民主党政権になって顕著なことは、委員会質疑において、官僚答弁がゼロになり、大臣始め副大臣ら政治家が答えることになった点です。このところ続いた自公政権においては、残念ながら褒められない閣僚答弁も散見されました。その分、民主党政権の閣僚諸氏は、中身はともかくなかなか頑張ってる印象は強いように見受けられました。

そのあたりについて、11月5日のブログにはこう書いています。

【官僚は答弁ばかりか、各省庁の政策立案の分野においても、大臣や副大臣、政務官ら政務三役が指示するものに限って対応するだけ、といったことが起こっているという。創造的な仕事が出来ず、ただ政治家の下請け機関に成り下がってしまった、これではもう仕事をする魅力もなく意欲もわかない、との声も聴く。かつての自公政権の正反対だとまでは言わないが、あまり無理をすると、あれこれ不都合をきたすのではないか、と懸念するのは余計なことだろうか】

基本的にはこの流れが今に至るまで続いているものと思われます。功罪相半ばするものはあるでしょう。それが政治家の能力を高める結果になってるならまだしも、どちらも地盤沈下している様子が否めないということでは困ったものです。

●台湾より旧友来り、意見交換

台湾の許世楷・前台北駐日経済文化代表処代表が久方ぶりに訪日され、公明党の関係議員と交流するために10月末に国会に来られました。かつて同氏は大阪を訪れられた際に、私の選挙区・姫路に足を伸ばされ、姫路城に一緒に登ったことが懐かしく思い出されました。

国会での懇談の場で、私は民進党から国民党への台湾の政権交代の実態やNHKによる偏向報道(シリーズJAPANデビュー①)の反響、さらに台湾の国連及び国連機関参加問題について意見を求めました。その際に、同氏は、同年5月に台湾は永年の希望であった世界保健機構(WHO)へのオブザーバー参加を中国の同意をもとに、実現させることができたと報告され、感謝の意を述べられました。

これは私が厚生労働副大臣時代に要望を台湾当局から受けて尽力したテーマ。ようやく陽の目を見て、喜んで頂けたことは大層嬉しいことでした。実は、昨年仕事で台北を訪れることがあったので、事前に許世楷さんの東京でのご自宅を訪問し、旧交を温めました。また、当時の秘書官・陳銘俊さんが現政府の高官になっておられると聞き、台湾総督府で再会を果たすことも出来ました。日本での交流やら国民党政権下の雌伏の頃に思いを起こし、隔世の感を強めたものです。(2020-8-10 公開 つづく)

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【80】鈴木宗男氏とのあの日以来の再会ー平成21年(2009年)❹

o●介護総点検など公明党の立ち上がり

政権交代を許してしまい、下野した自公政権。とりわけ公明党にとってどう立ち上がるかが全てでした。新たに党代表になった山口那津男さんは、弁護士出身。太田前代表までの公明党のリーダーと違って、創価学会の組織経験がほぼないことが、この人の弱みであり強みでもありました。就任当初はやや線の細さが気にならなくもなかったのですが、それはほんの最初だけ。瞬く間に力量を発揮していくことになります。

山口代表は、最初の代表質問で、「福祉、教育、平和、環境」をこれから公明党が目指す基本的政策の旗印とすることを改めて表明しました。その中でも、「安心社会を実現するための年金、医療、介護、子育てを柱とする新たな日本型福祉社会」を構築することに力を注ぐことを鮮明にしたのです。さらに「介護」問題を最も優先されるべき課題として挙げた上で、具体的には❶施設、在宅サービスの整備・充実、介護人材の慢性的不足への対処❷地域包括ケアシステムの構築などの重要性を強調。公明党として「介護」総点検運動の展開を掲げたのです。かねてより、公明党は「総点検」をその政党活動の「一丁目一番地」に置いてきているだけに、全国の党員、支持者は奮い立つ思いを抱きました。

なお、井上義久幹事長は私にとって太田さん同様に公明新聞で机を並べた文字通り懐かしい同志(2年私の後輩)です。東北大工学部出身の理系政治家の先駆のひとりとして注目されてきていましたが、いよいよ満を持して表舞台に登場との感が強くありました。太田さんが落選し、組織経験がない山口代表を支える好適任者と見られたのです。

●外務委員会での質問の際に、鈴木宗男委員長への〝弁明〟

民主党が政権を奪取したこの時の選挙で、かの鈴木宗男氏は新党大地の代表として2回目の当選(通算8期目)を果たしていました。いわゆるムネオハウス事件に端を発した一連の疑惑がもとになり、衆議院予算委員会で証人喚問されたのが2002年3月11日。その後、議員として最長の437日ものあいだ拘置されたり、自民党を離党、落選も経験するなど様々の遍歴を経て、この年の9月16日に新党大地が与党会派入りしたことによって、翌17日には衆議院外務委員長として復活することになったのです。私は、当時同委員会の理事でしたので、実に8年ぶりに顔を合わせることになりました。

証人喚問の際に私が公明党を代表して質問に立った時のことは既に述べた通りです。私としては、以前からの二人の関係もあり、再会に際してそれなりのリアクションがあって当然と思っていました。つまり、彼の方から、「あの時は言いたいことを言ってくれたよなあ」とか、皮肉の一つも投げかけられて当然だと覚悟していました。ところが、そんなことはもとより、彼から愚痴の一つも出て来ません。理事会の場においても、通常の委員長職をこなすことに終始するだけ。私としては無視されたようで、拍子抜けしたのですが、大いに感ずるところがありました。

そうした流れの中で、11月17日に委員会が開かれます。私が質問に立つ機会が巡ってきました。岡田克也外相らへの質疑に先立ち、私は次のように発言をしたのです。以下、関わりある部分を議事録から全文引用します。

【私一つだけ申し上げますと、あのとき、大変失礼な言い方でございますが、たたき上げの鈴木宗男代議士は、自分自身をたたかれるんではなくて、周りをたたかれてのし上がってこられた方だというふうな言い方をしてしまいましたけれども、その後の、ご自身の法廷闘争だけではなくて、外務省との闘い、さまざまな面で教えられるところが多い。

また、佐藤優さんとそれから鈴木宗男代議士との何といいますか、例えようもない友情というか、そういうものを、さまざまな著作を通じて、一生懸命読ませていただいて、教えられるところが多い。このように申し上げさせていただきまして、回答は要りませんので、私の感想とさせていただきます。】

正直に言って、私は証人喚問以後、鈴木宗男、佐藤優両氏が書いた本を徹底して読みました。とりわけ佐藤氏の本には心底から魅せられたのです。この発言をすることで、私は自身のわだかまりとでもいうべきものを清算した思いでした。公的な場面で発言したことへの決着は、やはり公的なところでけりをつけるべきとの私流の始末の付け方でした。ところが、ほぼ一年後に鈴木氏の実刑が確定する判決が出ます。公民権停止となり彼は議員を失職、委員長も辞任することになります。その後、ほぼ忘れかけていた時に、この時の発言が改めてクローズアップされることになるのです。それは佐藤優さんの著作の中に登場しました。後日談とでもいうべきものですが、あえてここで触れることにします。

●佐藤優氏の『創価学会と平和主義』

実は、5年後の2014年に発刊された彼の『創価学会と平和主義』(朝日新書)なる本の138頁から140頁にかけて、以下のような私に関する記述が出てくるのです。

【かつて、私は鈴木宗男氏の疑惑に関連して、共産党、社民党や民主党議員から激しいバッシングを受けた。公明党も鈴木氏を「クロ」だとする立場だったが、公明党の議員は、鈴木氏に対しても私に対しても、人間的な誹謗中傷行わなかった。

国家策動への対応

その後、鈴木氏が国会に戻り、衆院の外務委員会の委員長に就任した。2009(平成21年)11月18日の外務委員会で、公明党の赤松正雄代議士が質問の最後に、付け加えた。(議事録からの引用は前述通りなので略します)

赤松氏だけではない。公明党や創価学会の関係者に会うと、「よくあの状況で鈴木宗男さんを裏切りませんでしたね」と言われることがしばしばある。こういう発言が出てくるのは、創価学会や公明党のもつ、組織の文化だと思う。国家が何か策動しているときに、一歩引いて状況を観察する。国家権力の論理とは別の価値観で動いているのだ。これは決して失ってほしくない価値観である。】

実は、佐藤優さんは、このくだりの直前に「日蓮仏法の理念を現代社会に反映させ、反戦平和と大衆福祉の実現を目指す政党だと自身を規定し直す」ことを提案しています。そうすることで、党の輪郭が明瞭になって、ある種のうさんくささが消えるというのです。そしてその結果、「無党派層が投票先を考えるときの選択肢の一つとして認知されるようになる」と断言しています。

宗教政党だという側面をもっと積極的に前面に押し出せということでしょう。この著作を出版して以後、彼は堰を切ったかのように、「公明党論」をこのスタンスで展開しているのです。創価学会に対する深い理解、池田先生への熱い尊敬の眼差し、公明党への大いなる期待ぶりには心底から感動を覚えます。私などには、昨今の「安倍一強」がもたらす自民党の宿痾とでもいうべきものへの嫌悪感があります。このため、ややもすれば公明党への厳しい視点を隠さないのですが、佐藤優さんはもっと高く幅広い視点と包容力で自公政権を見ているものと思われます。(2020-8-8公開 つづく)

 

 

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【79】落選しながら当選という〝おかしなおかしな大奇跡〟ー平成21年(2009年)❸

●近畿比例区順位五番を自ら申し出る

衆議院議員の任期切れが近づいていくなか、前哨戦ともいうべき東京都議会選挙が7月12日に投開票を迎えました。その結果、民主党が54議席を獲得。前回を15議席も上回りました。それに対して自民党は38議席と、前回よりも10議席も減らして、第一党の座を民主党に譲りました。公明党は前回同様の23人全員当選で面目を施したことになります。自民党の都議会第二党への転落は、都議会史上歴史的な〝黒い霧解散〟となった昭和40年(1965年)以来のものです。実はこの年に大学に入ると同時に創価学会に入会、公明党員にもなった私としても選挙権は未だなかったのですが、忘れがたい出来事でした。

この自民党大敗の翌日13日に、麻生首相は7月21日に衆議院解散をし、8月30日に投開票することを表明します。首都での大敗北の余韻覚めやらぬなかでの衆議院選挙日程の公表。なんとも気勢の上がらぬことおびただしいものがありました。加えて、解散当日の自民党両院議員総会の場で、同首相は反省とお詫びを口にするなど、タイミングの悪い遅すぎる釈明を行うのです。野党民主党にとっては、好都合この上なく願ってもない上昇気流に乗る追い風ムードがグングンと漂いました。

実はこの総選挙では後々に至るまで私の記憶に残ることが三つもありました。一つ目は、私の比例名簿順位のことです。これまでの比例区での4回の総選挙では、事前に何ら打診めいたこともなく、公示当日に党から順番が伝えられるだけ。ところが、この時に限って支持団体のトップ・西口良三総関西長から呼び出しがあったのです。7月20日夕刻のこと。神戸でお会いした(兵庫の得田昌義さん同席)のですが、近畿比例区の五番目の話では、との予感がしました。面談が進むも、本題らしきことに中々触れられないので、私の方から頃合いを測って、「名簿順位五番目にしていただくことで、結構ですよ」と発言しました。

西口さんは「そうか、そう言ってくれるか。それはありがたい」と、ホッとされた顔で言われました。私は続けて「落選中の竹内譲君をぜひ当選圏内に入れてやってください。私は五番で構いません。兵庫県の同志の皆さんにはご苦労おかけしますが、五番目でも必ず通してくださるものと確信します」と不思議なくらい強い口調で断言しました。加えて、「比例区の選挙って、本当に面白くも何ともないですね。自分の名前で出られる小選挙区の方が大変でも、やりがいがあります」と、いささか余計なことも口にしたのです。西口さんは「そうか。面白くも何ともないか」と言いつつ、「名簿順位五番でも必ず当選させるから」と激励してくれました。

●民主党政権の座へ、自民、公明は大惨敗

二つ目は、投票日の三日ほど前のことです。「あなたの当選は恐らく間違いないですよ」と、ある親しい記者から電話があったのです。実は、選挙期間中の世論調査で民主党の圧倒的強さが報じられていました。この総選挙は、「政権選択」に焦点が絞られ、自民党への逆風は猛烈に吹き荒れていました。民主党に対して「一度やらせてみては」との空気は日に日に強まっていきました。自民党を中軸に据えた長期連立政権は制度疲労的現象を随所に抱えていたのです。

そんな状況を背景に、メディア各社は事前に当落予想をします。その予想結果を秘密裏に教えてくれた記者からの電話でした。民主党が小選挙区で圧勝するが、比例区の候補者数(民主党)が足らない、そのため、公明党に議席が回ってくる公算が強いというのです。民主党が圧倒的に強いということは、自民党、公明党の小選挙区候補が弱く、落ちるということが前提です。これはもう素直に喜べない極めて困った結果予測です。仲間が落ちた時のみ自分は通るー複雑怪奇な気持ちを持ったまま、奇妙奇天烈な三日間を過ごしました。

投票日当日の30日。不安は的中し、続々と民主党は当選、自公候補は次々と落選する結果となったのです。地滑り的勝利との表現が相応しく、民主党は308議席を獲得。なんと、公示前の3倍にも及ぶ伸びを示しました。一方、自民党は公示前の300議席から119議席に激減。公明党も8小選挙区で、太田代表、北側幹事長、冬柴元幹事長ら8人全員が枕を並べて討死する結果となりました。尤も比例区は805万4007票で、辛うじて21議席を獲得し、前回より2議席減らしただけで済みました。

三つ目は、私はひとたびは落選と報じられたのですが、一夜明けると当選していました。開票日の夜、近畿比例区の公明党は4議席で決まり、だったからです。ところが、民主党の比例区候補者数が3人足らず、2人が自民党、1人が公明党へと議席が回ってきたのです(いわゆる比例復活ではなく)。おかしなおかしな選挙制度です。足らないならその分を空席にせず、相手方から回して埋めるというのですから。自民党の繰上げ当選者は小選挙区に出ていて次点だった人たちです。私の場合は単独比例候補です。こういうケースは全国で私だけ。まことに〝奇跡〟という他ない〝摩訶不思議な勝利〟だったのです。真夜中に、冬柴、赤羽両候補の落選という沈痛な事態を横目に、落ちたのに通るという、6回目の当選を果たしました。喜んでも喜びきれない、悲しいなかでの喜びという正直いって、複雑な心境でした。

●鳩山首相が誕生。公明党は山口、井上の新体制に

民主党の大勝利で、新しい首相に鳩山由紀夫氏が就任(9月16日)しました。民主、社民、国民新党の民民民の三党連立政権です。政権交代がついに実現した、という高揚感が国中に溢れました。それから40日も経ってからようやく所信表明演説が行われました。私はその日のブログに、「情緒に流れすぎ、具体的政策提案がないのに、なぜか聴かせた首相演説」と持ち上げています。そのくだりを以下に、引用してみます。

【(鳩山首相の演説は)率直に言って悪くはなかったとの感想を持つ。情緒に流れすぎて(「あの暑い夏の日」といったフレーズの繰り返し)おり、具体の政策提案がなさ過ぎる(「日米間の懸案を解決する」との発言)など、言葉だけとの批判は十分なされる余地はある。しかし、今までの自民党の総理大臣の〝総花的政策の羅列〟に比べれば、かなり聴かせる中身ではあった。

民主党の政権運営の切り口は、今のところ鮮やかであることは認めざるを得ない。徹底した政治主導による予算における無駄の排除をはじめとして、前の政権の全てを否定するかのごとき手法には恐れ入る。(中略)鳩山首相や小沢幹事長の政治資金をめぐる疑惑を強調しても、そんなことよりもこれまでの政治の仕組みを変える方が先決だろうとの空気が巷には充ちていると思われる。自民、公明はよほど気合を入れて取りかからねば、KY(空気が読めない)と言われかねない。首相の演説の区切りごとに、沸き起こる耳をつんざく大拍手に手で耳を押さえながら、これからの対処に思いを巡らせた】

一方、 公明党は、9月8日に臨時全国県代表者会議を開催。新代表に山口那津男政務調査会長、幹事長に副代表の井上義久氏を選びました。清新なコンビによる新たな出発です。(2020-8-6 公開 つづく)

【79】落選しながら当選という〝おかしなおかしな大奇跡〟ー平成21年(2009年)❸ はコメントを受け付けていません

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【78】銀行の惨めな運命と私だけの感慨ー平成21年(2009年)❷

●麻生首相就任から3ヶ月で早くも末期的症状

この年は9月に衆議院が任期満了となるため、解散・総選挙含みの一年の幕開けでした。前年に襲った経済危機もあり、チャンスを見出せぬままに年越しとなりました。麻生首相はその発言が常に物議を醸すことが多く、まるで穴の開いたカバンを持ち歩いているようで、行く先々で失言やらブレる発言を繰り返す有様でした。そのうえ、あいも変わらぬ閣僚の不祥事が後を絶たない事態も続いたのです。

就任直後の中山成彬国土交通相の問題発言(成田空港、日教組)も驚きましたが、新年明けやらぬ2月のイタリアでの先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では、国民誰しも我が目を疑う事態が起きました。中川昭一財務・金融相が閉幕後の記者会見の場で、ロレツ定かならぬ酩酊状態を曝け出したのです。目も当てられぬ醜態に、何か特別なことが彼の体内に起こってるのではないか、との不吉な予感すらしました。さらに、もう少しあとのことですが、首相の盟友・鴻池祥肇官房副長官が女性問題で辞任することになるのです。

既に前年暮れの世論調査では、内閣支持率は大きく落ち込み20%台という状況になっていました。自民党内においても、しだいに〝麻生下ろし〟の動きが出てきて不穏な空気に包まれ、混乱の様相を深めていました。スタート時点では、この人独特の明るさに期待する向きもあったのですが、予算委員会の場などで漢字も読めない場面を見せられ、墓穴を掘る雰囲気も重なり末期的症状は覆うべくもない有様でした。

●西川善文氏とのご縁と出会い

そんな状況を横目に、私は総務委員長として日本郵政の問題と格闘していました。小泉首相捨身の大技の結果として導入された郵政民営化ですが、その後の具体的展開の課題として、当時浮上していたのが先にも触れた「かんぽ」をはじめとする日本郵政の課題でした。

鳩山総務相との間も険悪な状況が続くのですが、そうした問題とは別に、私は西川善文氏(この頃は日本郵政社長ですが、元々は銀行家)に特別な感情を持っていました。と言いますのは、私が銀行員の息子だということに起因します。父は私が政治家になる前に他界していましたが、都市銀行の末端にあった神戸銀行に長く勤めていたのです。神戸銀行は父の死後、有為転変の末に、三井住友銀行(SMBC)のなかに吸収されていきます。その銀行の頭取をし、「最後のバンカー」と言われた西川氏ということになると、私としては大いに語り合いたい思いを持ちました。親父の仲間のように思えなくもなかったからです。

もちろん、私の父は岡崎忠・神戸銀行頭取を師とも親分ともボスとも仰いでいましたから、筋違いではあるのですが、当たらずといえど遠からずの関係と言えたのです。委員会で参考人として出席された際に、ぜひ一度じっくりとお話の機会を、と誘いました。更に実はもう一つ大きなご縁が西川さんとはありました。私の高校同期と一級下に二人の仲間(共に京大卒の俊英)がいて、彼らが西川門下とでも言うべき存在だったのです。この二人を交えてぜひ4人で一献傾けたいのでというと、まさに二つ返事でした。西川さんにとって、この二人は彼の銀行員生活の中でも特筆されるべき鍛え甲斐のある優秀な部下だったと言います。

同年5月13日の夜は楽しいひとときでした。話題は、阪神タイガース(彼は筋金入りのファン)から始まり、銀行員稼業の厳しさということに落ち着きましたが、父が私を銀行員にさせたがった経緯(私は関心度ゼロ)があるだけに、感慨一入のものがありました。聞いてみると、西川さんも元々は銀行には入りたくなかったとか。その後の銀行を襲う宿命的事態や、風前の灯火に直面する銀行家の怒涛の人生を思う時に、むべなるかなとの感情も沸き起こらざるを得ませんでした。国会での厳しい追及に晒されていた西川さん。その苦しい日々の中で、私たちとの語らいが、砂漠の中のオアシスの役割を果たせたのではないかと思ったしだいです。

●民主党小沢代表の辞任と須磨区での党会合

この頃、小沢民主党党首の第一秘書が西松建設の問題で逮捕された問題が燻り続けており、結局は同代表は5月初めに辞任するに至ります。その後の党首選挙を経て、鳩山由紀夫さんが党首に選ばれていきます。そんな状況下で、忘れられない人のお家を訪問しました。神戸市須磨区に住むSさんという当時87歳の女性です。と言いますのは、ちょうど一年前の同区での講演会でのこと。私が自公連立政権と民主党のどっちがより民衆の役に立っているかなどと話したあと、質疑応答の時間をとりました。

会場の皆さんから、最近の自民党は酷いとか、民主党はもっとあかんとか議論百出、ちょっぴり乱れました。その時にこのSさんがやおら立ち上がり、「自民がどうの、民主がどうのというたことは、みんな公明新聞に書いてある。公明新聞はええ新聞や。とくに連載小説の『安国寺恵瓊』がええで」と言われたのです。場内は一瞬で笑いの渦となり、盛り上がりました。この発言のお陰で、私は急場を救って貰った思いがしました。

これがきっかけとなって、私はこの小説の作家・火坂雅志さん(同年のNHK大河ドラマの『天地人』の作者)から色紙にサインをいただき、それを届けるために、家庭訪問をしたしだいです。「これまで生きてきてこんなに嬉しいことはないわ」と喜んでいただき、当方も嬉しい思いをしました。こういう熱心な支持者がいたるところにおられ、公明党を支えてくださってることを生涯忘れてはならないと、心の底から誓ったのです。

●自治体病院協議会の総会でほほ笑みの挨拶

「私は新型インフルエンザが初めて国内で発生した神戸が地元。皆マスクをしていますが、今日のこの会合では、皆さん元々良いマスクをしておられる方ばかりですから、マスクはとくにかけなくともいいのですね」ー5月21日に開かれた「全国自治体病院協議会定期総会」に招かれ、衆議院総務委員長としての来賓挨拶をこう切り出しました。ジョークは無事に理解されたようで、笑いも起こり和んでいただきました。新型コロナウイルスの蔓延で苦しむ現在からすれば、いささか寒くなるかもしれませんが、11年前のことです。

この協議会のトップは、赤穂市民病院の邊見公雄院長。長年私とは親しい人とあって、つい肩に力が入りました。自治体病院は地域における基幹的な医療機関として大きな役割が求められていますが、過疎の深刻化や医師不足などで、環境は厳しくなるばかり。多くの病院は経営状況が悪化、医療体制の維持も厳しいものが強くあります。

この日の会合には、議員連盟の会長として青森県選出の津島雄二代議士も出席していました。青森県といえば、先に述べた私の高校同期の高柳和江さんが主宰する「癒しの環境研究会」が活躍して、「笑い療法士」による〝ほほ笑みプロデューサー〟が沢山育っている地域。会場の津島さんを意識して、この青森ネタも紹介し、病院治療における笑いの大事さを強調しておきました。しかも、邊見さんは同研究会の世話人でもあり、盛り上げの材料には事欠きませんでした。(2020-8-4公開 つづく)

 

 

 

 

【78】銀行の惨めな運命と私だけの感慨ー平成21年(2009年)❷ はコメントを受け付けていません

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【77】B型肝炎救済などで積極果敢に動くー平成21年(2009年)❶

●「国家戦略」をめぐる私の発言

2000年代最後の年の本格的幕開けは、バラク・オバマ米大統領の就任式(1-20)と共に始まりました。米史上初の黒人大統領の誕生とあって全世界の注目するところとなりましたが、私も深夜のテレビ映像を通じての就任式の一部始終に深い感動を覚えました。とりわけ、連邦議会議事堂前からワシントン広場一帯を埋め尽くした聴衆。寒空の中にこだまするオバマコール。その前での独唱、四重奏、宣誓、演説と続いた式典はまことに見応えがありました。

彼の演説の巧みさは、04年の民主党大会での基調演説「大いなる希望」や、08年8月の指名受諾演説「アメリカの約束」、同11月の勝利演説「アメリカに変化が訪れた」などで裏付けられてきました。ただ、就任式の演説は約20分間に及ぶ聴かせる演説でしたが、期待していた劇的なフレーズはなかったように思われました。

一方、この年早々に発刊された『検証 国家戦略なき日本』(読売新聞政治部)は、様々な角度から注目されました。時あたかも、前年の参院選での自民党の大敗、野党の多数議席獲得からのねじれ現象で、政治の中枢で物事が何も決められない状態が起きていたのです。そこへ起きたリーマンショック。迎え撃つ本場・アメリカでのオバマ旋風に比して、麻生自公政権はいかにも非力に見えました。読売新聞が、同紙上で連載し、警鐘を乱打していたものですが、この本の中に私のブログでの発言が引用(336-337頁)されていました。

【赤松正雄衆議院議員は自らのブログでこう記した。「読売新聞政治部が先に出版した『検証 国家戦略なき日本』は、政治を動かした貴重な仕事だと言える。科学技術、海洋政策、エネルギー、安全・安心、知的基盤の五つの分野でいかに日本が立ち遅れているかについて、克明に追い掛け、政治の対応を迫ったものである。2年前に読売紙上で連載が始まった頃に話題になった。(中略)  このほど、海洋基本法案が衆議院を通過したが、これも読売の連載に刺激を受けた与党有志議員による議員立法の色彩が濃い。かくのごとく政治の現場に影響を与えた新聞連載も珍しい気がする。」(2007年4月24日 赤松正雄衆議院議員のブログより)】

この後、執筆者は、「記者冥利に尽きる話だ」としながらも、「どうしてこうも気が晴れないのだろう」と危惧の念を表しています。〝引きこもり病〟ともいうべき姿を見せている日本を憂えているのです。記者たちの懸念は的中し、10年を超えた今もなお冴えない状態が続いていると見られるのは残念というほかありません。

●肝炎救済などで必死に動く

「かつて国が注射器の使い回しの禁止を徹底していれば、こんなにも蔓延することはありませんでした。注射器の使い捨てや徹底した消毒など、経費を惜しまずにきちんと予防していたら、今こんなに医療費がかかることもなかったのです」ー2月18日に公明党の肝炎プロジェクトチームの座長である私のところに来られたB型肝炎訴訟原告団の方たちの声です。一緒に来られた肝臓友の会や、C型肝炎訴訟原告団の方々と共に、肝炎患者支援法(仮称)の早期成立を要望されました。

B型肝臓ウイルスの感染によって起こるB型肝炎は、感染経路としては母子感染のほか、注射器の使い回しや輸血が原因とされています。昭和の終わりころまでは予防接種で感染が起こったとされています。既に予防接種に関し国の責任が問われたB型肝炎訴訟では、国の過失が最高裁判決で認められ賠償が命じられています。

3月4日に開かれた公明党肝炎対策PTでは、肝炎インターフェロン治療の医療費助成制度について議論しましたが、終了後に、申請者数が伸び悩んでいる現状について、業界紙の「メディファクス」の記者から訊かれました。私は「肝炎という病気がまだまだ正しく知られていないからではないか」と述べて、治療費の助成制度に加えて、普及啓発の必要性を強調しました(2009-3-4号)。さらに、3月11日に開かれた同PTでは、治療費の自己負担限度額が1万円となる対象者の拡大が話題になりました。ここでも取材を受け、「(自己負担限度額)3万円を払っている人のうち、もう少し(枠を広げて)1万円にしてもいいのでは」と述べています(3-12号)。現行制度では自己負担限度額が3万円となる対象者のうち、一定水準の低所得者は1万円に下げる必要性を指摘していました。

このように、B型肝炎の患者さんたちとの交流を国会や地元で広げて、積極的に支援の活動を展開していました。

●総務委員長の仕事で東奔西走

他方、総務委員長として各種の会合で挨拶をする機会が滅法増えました。全国の町村議会や首長の集まる場で、生活支援のための定額給付金について説明したり、新たに設けられる地方財政健全化法の趣旨や、第二次地方分権改革についての国の取り組み姿勢などを述べ、町や村の行財政基盤の拡充に尽力することを強調しました。(2-16 「町村週報」)また、3月19日の放送記念日式典では、NHKのありようについて基本的な考え方を挨拶で述べています。(3-19「日本放送協会報号外」)かつて、NHK予算の審議に際して、選挙速報の在り方を巡って厳しい追及をしたことも過去にある私ですが、さすがにこの場面は形式的なご挨拶に留めました。

一方、3月8日の日曜日には、地元赤穂市内での国会報告会や挨拶回りの合間に、赤穂「かんぽの宿」を視察しました。総務委員会ではこの頃、しばしば「かんぽの宿」にまつわる問題が取り上げられました。日本郵政がオリックスに対して、かんぽの宿の一括譲渡を決断した経緯など、幾つかの疑問点も指摘されています。これまでの国会審議を委員長席で聞いていると、西川善文日本郵政社長は防戦一方。次々とボロを出し、答弁の修正やら変更だけでなく、要求された資料について平気で誤ったものを出す有様でした。

また、3月初めの国会で開かれた「異状死死因究明制度の確立を目指す議員連盟」主催の会合は極めて興味深いものでした。実は私はこの問題に強い関心を持っていて、前年の衆議院予算委員会(2007-2-13)一般質疑の場で、泉信也国家公安委員長や舛添要一厚生労働相に、解剖を進める体制作りを求めていたのです。これは、医師で作家の海堂尊さんが『死因不明社会』という本の中で、CTスキャンを使っての画像診断を解剖の前段階で導入すべしと主張していたことに影響を受けていました。

海堂さんといえば、『チーム・バチスタの栄光』で一世風靡した人ですが、私はこの本を読書録『忙中本あり』で紹介しました。ご本人が神戸での講演に来られた際にお会いすると、先方から「私のあの本を真っ先に書評で取り上げていただいた上、厚生労働省内でも宣伝していただいて恐縮です」と礼を言われました。律儀な人だと驚きました。(2020-8-2公開 つづく)

【77】B型肝炎救済などで積極果敢に動くー平成21年(2009年)❶ はコメントを受け付けていません

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