【99】中道主義の旗掲げ続けた「公明党の50年」を検証ー平成24年(2012年)❼

●社会保障と税の一体化で三党合意

約3年間の民主党政権で、辛うじて評価の対象となるのは野田首相だけとは衆目の一致するところです。それは、6月15日に民主、自民、公明の三党で合意を見て、8月10日に成立した、消費税率引き上げを柱に、社会保障と税の一体化を目指した「一体改革法」の成立にあります。この成立経過を追うと、肝心の政府民主党が党内をまとめきれず、むしろ公明、自民に助けられて、事が成就した流れが分かります。尤も、消費税率引き上げがテーマだけに、公明党も最後の最後まで随分と苦労しました。

一体改革関連法案については、社会保障制度の全体像が示されていないうえ、低所得者への消費増税対応もなされていませんでした。このため、当初は社会保障を置き去りにした増税先行法案であると、公明党も反対の姿勢だったのです。しかし、国家的見地に立てば、党利党略的対応は許されません。自民党が政府との修正協議に応じる判断を決めたあたり(6月7日)から、方針を転換しました。民主と自民の談合対応を許さないためにも、公明党も交渉のテーブルに乗り、その主張を盛り込む方が得策だと考えたのです。

交渉の結果、公明党は「軽減税率」実施を盛り込むことに成功します。一方、民主党提案の、保険料を払っていなくても、税負担で月7万円支給するという最低保障年金を軸にした新しい年金制度は断念させました。併せて後期高齢者医療制度の廃止という民主党の目論見も取り下げさせました。共に非現実的政策対応だったからです。

この交渉について、私は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との故事に因んだ対応だとして、様々の場面で訴えていきました。これが結果的に三党が合意に至った珍しいケースとして評価されていくことになるのです。

●卒論としての『公明党の50年ーその立ち位置の変遷と今後を探る』

この年の理論誌『公明』12月号に私は上記のタイトルで論文を公表しました。公明党の議員として総仕上げの思いで書き上げました。いわば卒論でしょうか。昭和39年(1964年)に結成された公明党がやがて50年の区切りを迎えるにあたり、総括しておこうと思い立ったのです。

前半は福祉社会の構築に向けての公明党の闘い、後半は外交安全保障分野でのものを振り返っていったのです。結党時の草創の先輩たちが、創立者池田大作先生の「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との指針を受けて、高度経済成長の波間で取り残された、大衆を救済する戦いこそ、「福祉の公明党」の名を高からしめるものとなったことを後付けました。

政局的選択として、80年代の「社公民」連立政権構想から、自民党を倒すための新進党結成に尽力し、外からの「自民党政治」改革に取り組んだ90年代。そして21世紀前後からの、自民党と連立を組んでの「内からの変革」。文字通り「手を替え品を替えての悪戦苦闘」だったことを明らかにしています。しかし、50年が経った今、眼前に広がる風景はどうかといいますと、「素晴らしき新世界」が広がったわけでなく、民・自のリーダー不在の中で、経済格差に喘ぐ最貧者の存在があります。変わらざる風景、「されど我らが日々」です。

これを変えるため、もう一度「新しい福祉社会」の構築に立ち上がろうと呼びかけています。要するに、50年経っても基本的には公明党の戦いは変わらない、眼前に苦しむ大衆救済に、「今再びの戦い」に立ち上がらねばならないことを強調したのです。

外交・防衛については「米ソ対決の脅威」から50年ー「北東アジアの不安定と中国の台頭」という国際情勢の変化に脅かされている現実を描きました。かつての不毛のイデオロギー対決に翻弄された日本から、外交力なき迷走へと変質した姿を追う中で、PKO(国連平和維持活動)などの国際貢献に尽力した公明党の戦いを宣揚しています。行動する国際平和主義こそ「平和の党」の実態であるとの認識は、一般的な評価に耐え得るものとして強く確信しています。

●朝日新聞コラム『政治段簡』にけしかけられる

「中道の公明ー一言あってしかるべし」ちょっと目を引く見出しで、11月11日付けの朝日新聞4面のコラムにまたもや私が登場しています。書き手は根本清樹編集委員。『公明』が発刊されてまもない頃、これを読んだ上で、根本さんがタイミングよく、当時の政治状況を睨み据えて取り上げたのです。

「解散風が強まる永田町で、このところ頻々と語られている言葉がふたつ。「第三極」と「中道」である」との書き出し。このふたつは共に公明党に由来する用語だという点で共通する、として「元祖、本家は公明党である」と繋げています。というのは、当時、橋下徹氏の「日本維新の会」の動きや、石原慎太郎都知事の新党がどんな極を作るのかが話題を呼んでいました。これに安倍自民党がどう関わるかを巡り、民主党が結党の理念である「民主中道」を持ち出したため、にわかに「中道論争」が起こったと、問題を提起したのです。

論考の中で、根本さんは、公明党が中道という「三極の中の一極」から、自公対民主の二極の一方を担ってきた経緯を追ったのち、「元祖第三極はいま、安倍自民党や新第三極の右への傾きぐあいに目を凝らす」と、運ぶ。そこで、私を登場させ、こう展開しているのです。

「当選6回、今期限りで引退する公明党の赤松正雄衆院議員は最近、『公明党の50年ーその立ち位置の変遷と今後を探る』との論考をまとめた。赤松氏は語る。安倍自民党の路線が先鋭化するなら『公明党はやはり一度たたずむ必要がある。大きく時間をとって、路線を変える場面に遭遇すると思う』」。

根本さんは、自身の論考の結論部分で、安倍自民党総裁が「(民主党の)中道はしょせん選挙戦術であって、政治家の理念でも哲学でもありません」としていることに触れて、矛先は民主党であっても、「中道主義そのものへの評価」だから、「ここまで言われては、本家中道からも一言あってしかるべし」と、公明党をけしかけているのです。

私はこの根本『政治断簡』が出た直後のブログ(11月14日号)で、ちょっぴり苦言を呈しています。「このコラムが出る前に、井上義久党幹事長が記者会見で文字通り、中道論議に一言提起した。その意味では、このコラムの中身はいささかズレていると言わざるを得ない。少なくとも、一言あったが、物足りないとか、遅すぎるとの記述がないと、おかしい。加えて、このコラムには肝心要の公明党が主張してきた中道論の定義が欠落している。これでは画竜点睛を欠くという他ない。」と。

先の私の記述は、仮に安倍自民党の路線が先鋭化する(右傾化を強める)なら、公明党は、路線を変える、つまり、保守・中道路線から単独の中道路線に戻るかもしれない、と言ってるのです。中道路線を捨てて、保守路線に合体するわけではなく。ここらあたりが一般読者に誤解を与えかねないと思わないでもありませんでした。

ただ、私の「卒業論文」を、朝日新聞紙上でここまで宣伝していただいて文句をいうのは贅沢というものです。根本清樹記者(現・論説主幹)からの、〝餞(はなむけ)〟だと有り難くお受けしたしだいです。この20年というもの数多の記者と付き合ってきた結果としての得難い記念碑、いや墓標となりました。(2020-9-15公開 9-16一部修正 つづく)

 

 

 

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