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日蓮仏法と「四箇の格言」ー「排他的」の意味合い

入信いらい、私にとってずっと気になってきた課題は、日蓮仏法の持つ峻厳さと布教の関連性です。他宗を破折することの大事さと、人との友好保持の問題と言い換えてもいいでしょうか。その時の座談会で聞かされた、「四箇の格言」は鮮烈でした。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊との規定づけに、殆ど反射神経的に反感を持つ一方、何故にそういう結論を日蓮は持つに至ったのかを知りたいがために、勉強しようというのが正直、入信動機の半分くらいを占めていました。あと半分は姉の抱えていた問題を解決出来るなら、という問題意識です。

数年経って気付いたのは、念仏、禅、真言の各宗派(律宗は殆ど存在感がないので除外します)が釈迦の本懐である法華経と敵対したことから、仏教の本義とずれてしまい、部分的には真理を含んでいるものの、トータル的には、間違った教えであるということでした。また、子どもの持つ身体の不調を苦にして悩んでいた姉は、私の折伏で入会。以後、初信の功徳を得たうえ、問題は解決。絶望感に沈む暗い過去から一転、明るく躍動感に溢れた女性へと変身していったのです。

創価学会が各地で展開する折伏座談会については、日本社会で類例をみない画期的なものと思います。何しろ人生における価値観を相互に議論するなんていうことはおよそ珍しいことだからです。その議論のベースに、人の幸不幸を分けるものが宗教の選択であり、いかなる宗派の家に生まれたかが決定的に重要だとの認識が創価学会員にはあります。その確信から、未だ掴み得ていない友に、ぜひとも教えたいとの願望が募り、誤った宗教観を打破すべく、対話していくのです。

ただ、一般的に「四箇の格言」というものは、イメージとして独善的な思い込みと受け取られがちです。私が入会した頃と違って、さほどこれを振りかざして議論を始めることは今ではありませんが、根本的には昔と変わりません。その宗教や仏教の中でもそれぞれの宗派の基本理念を比べあうということは当然あってしかるべきことです。理念や原理を曖昧にして、宗教、思想は崇高なものを目指すのだから、なんでも同じというわけにはいかないからです。

池田先生は布教について「どこまでも一人ひとりの心に、道理を尽くして語りかけ、触発をもって弘めていくもの」と論及されると共に、「仏法者の戦いとは、どこまでも非暴力による言論戦です。言論、対話というのは、相手を人間として遇することの証明です。それは、相手の良心を呼び覚ます、生命の触発作業であり、最も忍耐と粘り強さを必要とします」と述べています。

日蓮仏法の具体的な展開を進める創価学会に対して「排他主義」「非寛容」とのレッテル貼りがなされてきました。それに関しては、私は実態と違うとの違和感を感じてきましたが、日蓮仏法の研究者である松岡幹夫さんの著書『日蓮仏法と池田大作の思想』のなかに、刮目すべき一節を発見しました。重要なので長くなりますが引用します。

「日蓮仏法の折伏は決して排他主義ではない。じつはその反対であり、排他性と戦うことが折伏なのである。日蓮が特に折伏の対象とした法然の念仏は、極端な宗教的排他主義を標榜する仏教であった。日蓮はその排他主義を折伏したのである。厳密に言うなら、日蓮は、法然が宗教的に排他主義を取るというだけで折伏したのではない。平安の昔に天台宗が確立され『法華経』の教えが日本中に広まって久しい鎌倉時代に法然が現れ、巧妙にそれを排除しようとした。だからこそ、法然の念仏は『法華経』の真理に敵対する行為すなわち『謗法』とみなされ、日蓮が戦うべき相手となったのである」ー目からウロコの指摘でした。

今や世界各国でSGIの活躍する姿が目に付きます。一方、日本の仏教各派が世界で布教するといった動きは皆無です。これ一つとっても、特筆すべき創価学会の世界性と言えましょう。

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「一念三千」という観念の力の再認識

先日、仏教思想家の植木雅俊さんの近著『江戸の大詩人 元政上人』という本を読んでいて十界にまつわる面白い解説に気づきました。元政上人とは日蓮宗の僧侶で、京都深草に居を構え、母親思いの詩人だったと言われています。「東の芭蕉、西の元政」と言われるほどに俳句や和歌にその才能を遺憾無く発揮したようです。その元政上人が十界を和歌で描いているのです。以下紹介します。

❶地獄界  思ひとかばとづる氷のくれないゐももとよりきよき胸のはちすを

❷餓鬼界   たとひそのほりかねの井はもとむ共露だにあかじ武蔵野の原

❸畜生界  小車のをもきがうへに負杖もめぐるむくひをうしとしらなん

❹修羅界   それをだになどあらそひて雪折のはては見にくき松のすがたぞ

❺人界   うらやまず心にみつのたのしみも後世しらぬ人のたぐひは

❻天界   色もなくむなしき空をきはめてもなを限りある世をや歎かむ

❼声聞界  四十年余りかれたる木にも鷲の山法の華さく春にあふらし

❽縁覚界  月日かくをくれさきだつ中空のやみにもひとり出でるやま人

❾菩薩界  なべて世におほふ衣のさかだまに又きしかたのみちやたづねむ

➓仏界   今は世をすくふこゝろも忘貝さながらもれぬあみのめぐみに

以上いずれも味わい深い生命の働きを10の範疇に分け、詠んだものです。私が前回示したようなものと違って、ぼんやりとは解るもののちょっとこむづかしい感じは否めません。ですが、なかなかの趣きはあるでしょ。この10界がベースになって、三千種にまで発展するというのですから、驚きです。

一念三千というのは、人間の一念にこの宇宙の無限の差別相が具足して欠けるところがないと天台大師が説いた卓越した生命哲理です。以下、仏法辞典風に解説してみます。一言でいうと、これは一瞬の心の働きの中に三千もの凝縮された生命があるというのです。10から3000に、どうしてなるのでしょうか。まず、10の生命の境涯がそれぞれ単独で固定化しているのではなく、10の境涯が相互に具しているのが実相(ありのままの姿)だといいます。つまり10×10で100界です。そしてその10界の身心の活動の変化には、10の側面があると言います。十如是です。如是相、如是性、如是體、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等の10側面です。これをかけると、百界千如となり、さらに、色心、依正の側面から、五陰、衆生、国土の三つの差別を立てることで、かける三の三千ということになります。

なかなかこう説明しても分かりづらいのですが、私はこれを理性的に理解しようとせず(しても分からないので)、一瞬に三千もの膨大な側面を持つ働きが命にはあると直感的に理解しました。かつて、私は心というと、単純に観念的なものとして、退けていました。しかし、それは違うと認識を改めて、逆に一念にはそれぐらい複雑なものが内包されていると捉えるようになりました。朝夕の勤行の際に御観念文で、私たちは色々と念じているわけですが、これも単純に、思う、念ずるというのではなく、三千の生命の働きを総動員させるがゆえに、その願いが叶うということに直結すると考えます。

しかも、これを理屈として提起した天台大師と違って、日蓮大聖人は、事の一念三千の当体としての御本尊に具現化されました。つまり、人間の生命の姿を曼荼羅に表現(具体的図式化)し、それとの一体化の作法を確立されたのです。目で見て、口で妙法を唱え、耳でその自らの音声を聞き、心で念じるという4つが合体することで、誰しもがその意思が叶うということを実感できるのです。

私は、50余年に及ぶ信仰生活の中で、幾つかの超えがたいと思われた障害に直面しました。代表的なものとして、病気、人間関係、経済活動、選挙の当落の4つがありましたが、いずれも、「解決を期して、一心不乱に唱題し、念じきり、そのうえで行動を起こした」ことによって、信じがたい結果を得ることが出来ました。まさに、不思議で、妙法としか言いようがないのです。

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