【77】デモクラシーの「異端児」として━━水島治郎『ポピュリズムとは何か』を読む/3-26

 「ポピュリズム」(大衆主義)を考えねば、と思ったきっかけは、尊敬する先輩が晩年にしきりに「ポピュリズムについて考えねば」と言っておられたからである。もちろん、外にトランプ前米大統領の華々しい動き、内に大阪維新の会の創始者・橋下徹氏の旋風といったポピュリズムの実例がある。民主主義(デモクラシー)の機能不全ともいうべき事態に代わって登場したとの認識が一般的だが、ともかくあれこれと事態は錯綜しているかのように見え、一筋縄ではいかない。手始めにそのものずばりのタイトルのこの本を選んで考えることにした◆定義をめぐって著者は、「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴えるカリスマ的な政治手法」と「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」との2つがあるという。さらに学者によっては、「政党や議会を迂回して、有権者に直接訴えかける政治手法」(大嶽秀夫)や、「「国民に訴えるレトリックを駆使して変革を追い求めるカリスマ的な政治スタイル」(吉田徹)などといったものもあると補足されている。要するに民主主義のもどかしさを補おうとするもの、いわば「異端児」と、おさえたい。キーワードは、人民大衆、反エリート、カリスマ的手法といったところである◆民主主義が登場する以前には、一般的には「封建的専制主義」なるものが幅を利かせ、人びとに「自由」はなかった。一般大衆を率いるカリスマ的存在が全てを牛耳っていた。それに代わるものとしての民主主義は、「直接」と「間接」の2種類あって、直接民主主義が理想ではあるものの、現実の展開は難しい。そこで、議員という名の代理人を選び、議会を構成させ、大衆に代わって政治を執り行うのが間接民主主義だと捉えられてきた。しかし、大衆の指向する方向に政治が動かないために、直接と間接の中間というか、亜流としての進め方としてのものがポピュリズム=大衆迎合主義であると、私は恣意的に理解する。と共に、非民主主義社会では、新たに「現代的専制主義」が台頭してきていると捉える◆水島氏はポピュリズムは、「ディナー・パーティに乱入してきた泥酔客」のような存在だという。「泥酔客を門の外へ締め出したとしても、今度はむりやり窓を割って入ってくるのであれば、パーティはそれこそ台無しになるだろう」と。今米国では、不倫相手への口止め料支払いを巡ってトランプ前大統領を起訴しようとする動きが風雲急を告げている。これをきっかけに、米国中があたかも南北戦争以来の大騒ぎになるかもしれない。「厄介な珍客をどう遇すべきか。まさに今、デモクラシーの真価が問われているのである」との結論が重く響く。日本では未だそこまで深刻化していない。だが、原形としての「新型ポピュリズム」は明石市に芽吹いているかのように私には見える。これについては稿を改めたい。(2023-3-26)

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