敗戦受け入れから100日後に誕生 (2)

【昭和20年8月15日に日本は連合国に降伏しました。一国滅亡といってもいい敗戦です。その日を終戦記念日とする言い方は間違いです。実際に、その日から、9月2日のミズーリ号上の降伏文書の調印が行われるまでの2週間あまりもの間、戦闘は続いていたからです。しかも、その日から日本は米国の占領下に置かれ、昭和26年9月8日にサンフランシスコ講和条約が締結(翌27年4月28日発効)されるまで、実質的に戦争は終わっていなかったのです。】

ー私が兵庫県姫路市で生まれたのは、日本が敗戦を受け入れた8-15から百日ほどが経った11月26日です。後年になって私は人様に対して、自分の生命は父と母の命がけの共同作業の結果として誕生した、としばしばいったものです。母がお腹に私の生命を授かったのは敗戦の年の初めころ。灯火管制のもと、真っ暗な中でまさに命がけで父母が抱き合った結果です、と。いささか冗談めかしているものの、両親の頭には「産めよ殖やせよ」との当時の空気があったのやもしれません。
子どもの頃に母からよく聞かされたのは、大きなお腹を抱えて、防空壕に入ったり、竹槍の訓練をしたということです。空から焼夷弾のケースが落ちて来て、危うく直撃されそうだったとも聞きました。姫路城から歩いて1キロ足らずのところに家はありました。銀行員だった父は、当時36歳。明治43年に夢前町で生まれ育ちました。その父が召集令状を受けとった時には、きっともうこの戦争は負けると思ったといいます。屈強な若者が周りからいなくなったからでしょう。母は当時29歳。大正6年生まれでした。この二人の結婚は、見合いどころか、文字通り写真結婚(昭和11年)です。結婚式当日までお互い見たことがなかったといいます。見合い写真と周りからの勧めだけです。母は文金高島田の角隠し姿で夫を見て、初めてその背が低いことを知ったと、笑って言っていました。私の上に、昭和12年生まれと16年生まれの二人の姉がいました。もうひとり兄に当たる子がいましたが、生後わずかな日数で亡くなっています。昭和25年に弟が生まれていますので、4人姉弟で育ちました。
母は十代半ばより姫路市内五軒邸の資産家の家に女中奉公に出ており、その家から嫁がせて貰ったといいます。貧乏な百姓家の次女でしたから当時としてはごく当たり前のことでした。花嫁修行をその家でさせて頂き、20歳で結婚したわけですが、母は死ぬまでこの家への深いご恩を語っていました。(2019-1-5)

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