日吉から三田へ、奇妙な青春 (10)

【昭和41年1月戦後初の赤字国債発行。2月全日空機東京湾に墜落。この後、航空機事故相次ぐ。5月中国文化大革命。昭和42年総選挙、公明党進出】

慶應大学の1、2年時は横浜市の日吉キャンパスに通った。早稲田沿線の鷺宮から通うと1時間を超える道のりだった。学問的には、非常勤講師として慶應に来ておられた東工大の永井陽之助、東京外語大の中嶋嶺雄のお二人に傾倒してしまった。共に本塾の石川忠雄先生(後の塾長)の招きで来られた売れっ子で、前者は『平和の代償』、後者は『現代中国論』を著されたばかり。この二人の講義に目くるめく思いで聴き入り、文字通り虜となったものである。

クラブ活動は当初、合気道愛好会に入った。紺色の袴姿に惚れ、「合気」という呼吸の間合いを活かしたいと思い込んだのだが、結局は3ヶ月ぐらいで退会してしまった。準備のランニングに音をあげてしまったのである。加えて、創価学会学生部活動が忙しくて、クラブ活動も、当時の多くのクラスメイトが取り憑かれていた麻雀にも、見向きもせず、都内を西に東に走り歩いたものである。

日蓮大聖人の仏法を勉強するつもりで気軽に入った私だったが、様々な会合に出て多くの先輩に出会う中で段々と深みに嵌っていった。真っ先に姉を折伏した。家庭と子供の問題で悩んでいた姉は直ちに入会した。私の折伏第一号である。更に、信仰の真髄を覚知するには題目と同時に折伏をする必要があると知って、遮二無二友人達に挑んだ。慶應に一年前に現役で入学していた高校時代のY君や、クラスメイトのO君、中高大と同期のA君、そして高校同期の東大のY君兄弟らといったように、次々と折伏し、入会に誘った。私より3ヶ月後に入会した姉は、初心の功徳を得て、見る見る明るくなっていき、家庭の問題も解決した。これには心底驚き、嬉しかった。これが初信の功徳だと実感できた。

一方、中学時代の友人の西園寺健弘君(故人)から誘われて財団法人「天風会」にも入会した。文京区護国寺にあった本部で、ご健在だった中村天風先生に出会ったこともある。一年生の夏に六甲山で開かれた鍛錬研修会に参加して、クンバカハ法や思念力の強化など取り組んだりしたが、先輩から「利根と通力によるべからず」と諭されて、やがて辞めた。

フランス語を第二外国語として選択していたものの、全く勉強せず、福澤諭吉先生の孫である福澤進太郎教授から、このままだと君は赤点だぞと言われ、落第に怯えたものだ。英修道、加藤寛、中村菊男、小田英郎先生ら今に蘇る先生の顔は思い浮かぶもののしっかり勉学に励んだ記憶はない。同じクラスから、小此木政夫、梅垣理郎と二人もの法学部教授がのちに誕生したのだが、この二人を始めとする優秀な仲間たちに比べると、私は完全な落ちこぼれの学生だった。だが、胸には確かな充実感があった。昭和40年4月から42年12月まで奇妙な青春の3年間だった。だが、12月に驚天動地の重大なことが起こった。

※大学時代のことは、クラスメイトの小此木 政夫(慶大名誉教授)との、電子書籍対談本『隣の芝生なぜ青く見えないか』と、同じく梶昭彦(元日本航空取締役)との『君は日本をわかっていない』(共にキンドル)の2冊が詳しい。

 

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