怖いもの知らずで〝体当たり〟 (13)

池田先生にお会いするにあたっては、なんとしてもお話しを直接交わしたい、ただ話を聞いているだけでなく、自分が今肺結核で悩んでることを聞いて貰いたいと強く思いました。そのためにはどうきっかけをつくるか、ありとあらゆる角度で考え、題目をあげにあげ抜きました。

昭和43年4月26日。渋谷のすき焼き屋「いろは」が会場でした。メンバーは、現役中心に約50人ほど。詰襟学生服で参加しました。先生との懇談の場面では嬉しいことに、一人ひとり名前が呼びあげられたのです。40歳の先生は輝くばかりの存在感です。力そのものに見えました。私の番がやってきました。私が喋ろうとした瞬間、先生の方から声が発せられたのです。「似てるなあ。そら、グループで歌うコーラスメンバーの人に。どうだ?」と、周りの幹部に訊かれたのです。機先を制せられた感じで私はただビックリ。あれこれと品評されたあとで、ダークダックスの“下駄さん”か、“象さん“だったと分かりましたが、私は終始、うわの空でした。

開口一番「先生、私はいま肺結核なんです」と言いました。先生は「そうか。私もそうだったよ。肺結核は汗が綺麗なんだよなあ」と言われながら、周りにいた幹部の何人かに「君も結核だろ、そう、君もだ」と。そして私をじっと見られて「みんな克服して立派になってるよ、君も大丈夫だ」と断言されました。そして、「題目だよ、今この瞬間から百万遍を決意するんだ。それからあったかいものを食べて、今日中に寝るんだよ」と優しい口調で。「下宿じゃあ無理かなあ」とも。

そのあと、「先生、私は親に結核のことは言っていません」とやや誇らしげに言いました。聖教新聞の小説『人間革命』第4巻疾風の章のことが頭にあったからです。すると、先生は「ん?どうして言わないんだ」と。「先生は親には言わない方がいいって仰ってるではないですか。『人間革命』の中で」「いいんだよ、君の場合は。もう言いなさい」「いえ、学生部長に指導を受けましたら、言わなくていいと」ーいやはや、よくぞ言ったり。怖いもの知らずです。先生は、すぐ横に座っていた篠原誠学生部長に向かって「いいんだろ。もう」と。直ちに、篠原さんは「いやあ、もう、結構です」と。

「先生、私は新聞記者になりたいんです」「なりゃあ、いいじゃあないか、勝手に」「いや、なれないんです」「ああ。そうか、肺結核じゃあ、なれないよなあ」ーその瞬間に私は「先生。公明新聞に入れて下さい」と大きな声でお願いしたのです。実は、私の前で、親しい同期の二人が、一人は聖教新聞、もう一人は学会本部に入れて下さいとお願いし、「分かった」と即決の返事を貰っていました。だから、「よし、俺も」とばかりに、私はこうお願いしたのでした。「分かった。入れてあげるよ。だから、治しなさい」との答えが返ってくるものと思い込んでいたのです。

 

 

 

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