市川雄一主幹ら猛者との出会い (17)

公明新聞に入って、最初の3ヶ月ほどは印刷工場やら、社会部で新入社員として研修を受けました。印象深かったのは、十数行の文章を読んで、その見出しを考える訓練でした。国語だけは自信があった私にとって、何を言わんとする文章かを的確に掴み、そのエキスを抽出、7-8文字にするのは大変に面白く楽しい経験です。加えて新聞の印刷工場でのインクの匂いを嗅ぎながら、短い限られた時間で新聞の割り付け、整理をしたうえで、活字を大組みするという作業(当時)も嫌いではありませんでした。また、三多摩地域の稲城市に出かけて、米軍の多摩弾薬庫を取材したりしました。ほんの10行ちょっとくらいでしたが、自分の書いた初めての記事が翌朝の紙面を飾っているのを見て感激したものです。

職場の最高責任者は、市川雄一編集主幹です。尊敬とも恐れともとれる巨大な存在でした。私とは10歳違いですから、この頃弱冠34歳。創価学会における当時の役職は参謀室長。池田先生以外でこの立場についたたったひとりの人です。それだけで、いかに凄い男かわかろうというものです。この人のもと、私が入社した時の公明新聞は錚々たる先輩たちがいました。寺島秀幸、河合一、桜井良之助、土師進、松島淑、田端正廣、小宮貢、山本昭。残念ながら殆ど故人となってしまっていますが、こういう大先輩のもとにまた様々な「侍」たちがいて、まるで水滸伝の梁山泊のごとき日常が展開されていました。

ようやく配属が政治部に決まって、机を貰った時の嬉しかったこと。ところが「魔は天界に住む」とのたとえ通り、有頂天になっていた私を〝魔女の一撃〟が襲います。よせばいいのに、スティール製の重い机を一人で持ち上げたのです。その瞬間、激痛が腰に走りました。ギックリ腰です。痛くてすぐに立てずしばらくうずくまっていました。で、整形外科や鍼灸治療などに通う羽目に。ここから私の腰痛は持病になり、長く苦しむことになります。

政治部新米記者として国会に行って間もない頃のことです。赤絨毯の上を走り回っていました。いわゆる廊下トンビってやつです。一般紙の記者クラブからのジャラジャラと麻雀の牌をかき混ぜる音を聞きながら、物珍しげに衆議院や参議院のエレベーターを乗ったり、降りたりしていました。ある時、衆議院の院内二階で、つい急ぎ足で廊下の角を回ろうとした時に、数人の守衛さんと思しきひとに囲まれて歩く人に思わずぶつかりそうになりました。実はそれは、佐藤栄作総理大臣だったのです。私が時の権力に最も近づいた瞬間でした(笑)。

 

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