新米記者と先輩、仲間たち (18)

【昭和45年 2月 核兵器拡散防止条約  3月 新日本製鉄設立  赤軍派学生によるよど号ハイジャック  7月 教科書裁判に検定違憲判決 光化学スモッグ問題化】

公明新聞の新米記者としてスタートした頃、市川主幹は、記者しての人間の力量が紙面に表れる。小手先の技術よりも人間として成長することだ、と繰り返していました。「日頃の闘いの中で、読書し、思索し、豊かな知性と情操を養うことが、とりもなおさず、紙面に反映するんだ」との指導を朝礼で聞き、大いに刺激を受けました。一方、机の上は綺麗に整理せよ、帰社の際には机上には何も置かない様にと、事細かな注意をしていたことが印象深く残っています。ただ、殆ど誰の机も変わらずに雑然としたままでした。

先輩にも尊敬すべき凄い記者は橋本立明、辺見弘、篠塚安彦、伊藤東男さん始め、多勢いましたが、少し遅れて入ってきた新田健吉、太田昭宏、井上義久さんらは入社の時から光り輝いていました。とくに、太田さんは会った瞬間に、この男は将来公明党を背負って立つに違いないと思わせるオーラがありました。こういう連中と切磋琢磨した入社3年ほどはかけがえのない、大学時代に続く私の第二の青春でした。

住まいは、入社と同時にいわゆる〝社員寮〟です。当時は今からは考えられないことですが、学会本部や聖教新聞の人達、いわゆる本部職員と一緒でした。最初は文京寮、それから第二富士寮、南元町寮と三回ほどかわりました。寮生活はそれぞれに思い出深いものがありますが、学会の職員全体の寮祭で、南元町寮として〝一本刀土俵入り〟を出しものとして提案、元京大相撲部の太田昭宏君に相撲取りの駒形茂兵衛役を演じてもらったのはグッドアイデアでした。あの頃の彼は人に乗せられ、演技することが上手かったと感心します。

昭和45年で忘れられないのは、いわゆる「言論問題」が発生したことです。国会の場でも、これを取り上げて、追及しようとする輩がいました。予定された委員会の部屋に予め赴き、一人だけで口の中でしばし唱題したものです。ことの本質は過剰な自己防衛反応のなせる業だったと思いますが、このことを契機に、創価学会と公明党の「政教一致」を糾弾する動きが強まってきたのです。この結果、「政教分離」が改めて鮮明になされることとなりましたが、この問題の推移を国会で見つめつつ、敵と味方を峻別することの大事さを実感した次第です。

もう一つ、印象深いのは三島由紀夫割腹自殺事件です。昭和45年11月25日。忘れもしないのは、私の25歳の誕生日の前日だったからです。市ヶ谷の防衛庁のバルコニーで、自衛隊員を前に、軍服着用の鉢巻き姿でクーデター決起を呼びかける三島由紀夫の姿は、衝撃でした。「狂気の果てに」と片付けるのは簡単でしたが、人生の長さとその中身、とくに死について、否応無く考えさせられました。「老醜を恐れ肉体的頂点での自死を切腹という形で選んだ」とされる三島の壮絶な生と死は、今に至るまで、私にとって大いなる課題であり続けています。

 

 

 

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