「中野兄弟会」で〝30年後の目標〟を決意 (22)

【昭和48年(1973)   1月 70歳以上老人医療無料化 2月 ドル売り殺到で東京外国為替市場閉鎖、円変動相場制に移行  3月 水俣病訴訟で原告勝訴  8月 金大中事件 10月 第4次中東戦争    石油ショックで買い溜め客が殺到】

結婚したため、独身寮を出て中野区に。妻の実家の一部を改造して小ちゃな家を建増ししました。かかった建築費、坪20万円。大工だった母方の伯父の言葉が忘れられません。「そんなん、家とは言わへんぞ」ーだが、そんなことどうでも良かった。世に言うマスオさんです。東京でそれなりの家に住むには、一人娘と結婚して、その親元に住むしかないーそれは男の風上に置けない振る舞いだと言う向きもありましたが、背に腹はかえられなかったのです。父親からの応援を頂き、危なっかしい出発です。

昭和48年2月4日。中野区立体育館で池田先生が出席されての「写真撮影会」が行われました。前夜からの雨は見事に晴れ上がりました。当時、学生部を卒業して暫く経っていました。男子部に所属していましたが、同時に高校生の面倒を見る高等部担当幹部として、日頃の活動に取り組んでいました。未来を担う人材に刺激を与える役割に、些かの我が使命を感じていたのです。そんな折に、撮影会が開かれ、参加した男子部員(1300人余=一部女子、未来部含む)を中心に「中野兄弟会」が結成されました。最終的に先生はこのメンバーを前にしてこう言われたのです。

「これから30年、毎年本部に集まろう。30年後に何になるか、みんな今ここで目標を立て、決意しなさい。それを一人一人短冊に書いて残そう」ー感激に打ち震えました。皆がどう成長していくか、私はじっと見守っている、とまで。私はこの日は役員として裏方についていましたが、若者たちにそこまで期待されるのか、と師匠のあつい心に感涙にむせんだものです。ひとつの地域における創価学会青年部員たちが一定の期間にどう変化を遂げていくか、これを克明に追うという壮大な試みー師匠の呼びかけに弟子が応えて成長する奇跡を残そうとの未曾有の闘いです。

「公明新聞を日本一の政党機関紙にする。その中心者になりますーこう私は決意し、短冊に書きました。公明新聞に入れて下さいと直接頼み、そして入社したからには、3年が過ぎたばかりの新米でしたが、こう目指すのは当然のことでした。政党の機関紙で日刊なのは日本共産党の「赤旗」と公明新聞だけ。この頃、共産党と公明党は各地で様々な次元で争っており、「赤旗」との鍔迫り合いも熾烈を極めていました。そんな闘いに勝つことをも含めて、公明新聞のトップになることを自身の30年先の目標に置いたのです。

当時の私の立場で高等生を訓育する際の指導のポイントは、ただ一つ、一人ひとりが自分の体験をつかもうと言うことでした。親が信仰をやっているなかで、気がついたら、信心していたという学会二世が多かったからです。そういう子どもたちの多くは、何故この信仰が自分にとって意味を持ち、離すことが出来ない価値を持つのかが、分かっていなかったのです。何度も、幾たびも、拝んだら凄いという自らの体験を持てと叫びつづけました。自分の肺結核克服の体験を、その原動力となった先生のご指導を。同時に、個人として直接体験することはたかが知れている、自分の経験しえないことを経験させてくれるのは読書だ、読書をすることによって、空間と時間を超えて、違う世界に行くことが出来る。自分を成長させ、広宣流布という崇高な使命に役立つ自分に育とう、と訴え続けもしました。

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