もっと大きなことで悩みたいとの呻き (28)

恐れていた父の反応は全く違っていました。母の死に至るまでの過程の中で、多くの近所の学会員さんの心温まる激励、池田先生のご配慮などに応えないわけにはいかない、と言うのです。加えて「お前ら子どもたち4人全員が南無妙法蓮華経と唱えとる。だあれも先祖からの仏壇に念仏を唱えへん。ワシの死んだ後も見えとる。これじゃあ、お前らと一緒にやるしかないやないか」と言うのです。浄土真宗のお寺にはその旨断り、お墓も新たに作り直しました。赤松家の完璧なまでの改宗が、母の死と引き換えに実現したのです。この時ほど、親父が頼もしく立派に見えたことはありません。

一方、重度の身体障害を持っていた子どもの死は、入会前から私の抱いていた人間の絶対的不平等がどこから来るのかという課題にひとつの答えをくれました。この世における宿命の転換を瞬時に果たして、あの娘は新たに健康な生命を得るに至ったに違いないと、確信することができました。

しかし、悩みはそれだけでは終わりません。御書に「生死をいで仏にならむとする時には・かならず影の身がそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す」(三沢抄)「三障四魔憤然として競い起る」(開目抄)とある通り、今度は、妻の父が仕事のうえのことで、他人の保証人になったことが裏目に出て、相手の借財が一気にこちらに及んできてしまったのです。連日借金取りが押しかけてきて厳しい事態になりました。私は仕事に、学会活動に汗を流し、我関せずでいい気なものでしたが、妻はそういうわけにはいきません。結果として、妻の実家の借地を半分手放すことになりました。つまり、義理の親が住んできた妻の実家部分(生まれた家)が、借金のかたとして人手に渡ってしまったのです。建て増しした私の家とわずかな庭を残して。母屋を壊し、増築部分を残したため、無残にも壁がむき出しになってしまいました。そこを隠す青い色のビニールシートが風の吹くたびにパタパタと私を嘲笑うかのように靡く様子には、胸を締めつけられるばかりでした。

義父母は近くのアパートに引っ越すことになりました。およそ厳しい現実にほとほと弱り果てました。容赦なくやってくる借金取りの撃退に妻も義母も取り組みながら、懸命に題目をあげて生命力をつけて乗り切ろうと健気な戦いをしたのです。この頃、私は自分のことや、家族のことといったちっちゃな悩みではなく、もっとでっかいことで悩む自分になりたい、とただ呻くばかりでした。

しかし、なんとか家族一丸となっての数ヶ月。懸命の戦いのすえに、借金問題も解決。家も幾ばくかの銀行ローンを組んで、立て直すことにしました。義父母を引き取って再び一緒に暮らすことになったのです。やがて、地獄の苦しみがパッと消えました。

そんな折、中野兄弟会の第5回総会(昭和52年2月4日)が開かれました。結成の日からちょうど4年ーあの時は整理役員。今回は区男子部長としての参加です。先生の前で、手短にこの4年間の皆の思いを代表して述べました。横合いから先生が「やるじゃあないか」と声をかけて下さった瞬間は忘れません。この会合で先生は「一人の心をつかむは万人に通ずる」との指導をしてくださいました。一人の心をつかむことの大切さは、今に至るまでの私の重要な指針になっています。

昭和52年の3月には、やっと元気な娘が誕生しました。この初めての子の出産にあたっては、かつて私が肺結核の時に池田先生から紹介して貰った産婦人科医の石川先生に取り上げて貰いました。死産の時は実は近くのキリスト教の病院でした。反省したのです。当時、ますます忙しい日々を過ごしていました。子どもが無事に誕生したというのに、とうとう産院にも行かぬうちに退院してしまいました。父親が一向に赤子の顔を見に来ないというので、本当に切なかったとの妻の苦情を後々まで聞くことになってしまいました。

【昭和52年(1977年) 5月成田空港反対派と機動隊衝突  7月  第11回参議院選挙 9月 米軍機、民家に墜落。日本赤軍日航機ハイジャック 11月福田改造内閣】

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