「与野党伯仲」のなか政界再編を模索 (29)

【昭和53年 (1978年)5月 新東京国際空港(成田空港)開港。8月 日中平和友好条約締結10月 日中平和友好条約批准書交換式 12月 大平内閣発足】

1970年代後半から80年代にかけて(昭和50年代)の政治状況は、「与野党伯仲」の状態でした。きっかけは、既に触れたようにロッキード事件の結果、自民党が衆議院選挙(1976年12月)で大敗し、保守合同いらい初の単独過半数割れを招いたことです。自民党は選挙前には271議席でしたが、249議席になり、保守系無所属議員をかき集めてようやく、過半数を超える260議席としました。一方、野党は社会党が118議席から123へ。公明党は29から56議席へと大躍進。民社党は20から29議席に、共産党は38から17議席に半減以下になったものの、衆議院初挑戦の新自由クラブが5から18議席になりました。公明党が結党から12年、衆議院進出から10年余で56議席も獲得したことには、まさに興奮しました。

こうしたことから、国会では自民党に代わりうる野党勢力の結集、つまり「政権の受け皿」づくりが急務とされてきました。ただ、その内幕は共産党の取り扱いを巡って混迷を続けます。公明党は憲法論争の結果として連合政権構想のパートナーに共産党はしない、と決めており、民社党も「共産除外」の選択は明解です。野党第1党の社会党だけが左派の成田知巳委員長のもと、共産党を含めた「全野党路線」に固執していたのです。

ただ、そうした状況の中で、76年2月に松前重義東海大総長を代表に、社会党・江田三郎副委員長、公明党・矢野絢也書記長、民社党・佐々木良作副委員長らが名を連ねた「新しい日本を考える会」が設立されていました。巷間、「江・公・民」路線と呼ばれたものです。社公民中軸による保守勢力も含めた形での政界再編が模索され始めたのです。尤も、この動きは進むかのように見えて、開店休業状態に陥るなど、一進一退をよぎなくされていました。

一連の動きの中で障害となり続けたのは社会党の煮え切らぬ態度だったのです。これが77年7月の参議院選挙で表面化します。「与野党逆転」が期待されながら、蓋をあけてみると、実現しませんでした。社会党は、改選32議席に対して5減の27議席、共産は改選9から5議席へと減らしたのです。逆転の中核たる社共勢力の惨敗です。一方、改選議席126に対して、自民党は公認63に加え、推薦3の66議席となって、逆転を食い止め、踏みとどまりました。これに対して、公明党が改選10に対して4増の14議席獲得する躍進。民社党は1増やして6議席、参院初挑戦の新自由クラブは3議席と、非社共の中道勢力は着実に議席を伸ばしました。

この結果、社会党では成田執行部が退陣し、飛鳥田一雄横浜市長が委員長になったのです。ここから従来の「全野党路線」が後退し、「公明寄り中道路線」が少し陽の目を見るようになりました。一方、「新しい日本を考える会」に代わって、中道勢力を軸にした幅広い勢力を結成するものとして「二十一世紀クラブ」が公明、民社、社民連、新自由クラブの参加のもとに結成されます。このように、中道主義の公明党が世の注目を浴びていきました。当時、中堅記者としての私にも、意気軒昂なるものがありました。

そういう状況の中で、昭和53年(1978年)の暮れに、私にとって願ってもないとても嬉しいニュースが飛び込んできました。

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