衆参同日選挙と続くハプニング (33)

昭和54年(1979年)12月6日。公明党は民社党との間で、「中道連合政権構想」に合意。続いて翌昭和55年(1980年)1月10日には、社会党との間で、「連合政権についての合意」を結ぶに至っていました。これを受けてこの月の第17回党大会では、野党連合政権の枠組みとして「大枠としての社・公・民三党に新自ク、社民連を加える」との路線を決めます。つまり、ここに公明党を軸にして、左には「公社」、右には「公民」という「社・公・民」政権ブリッジ路線が実現したのです。

当時私は、政治部担当記者として、社会、民社双方との表の交渉舞台の取材をするため、会議に同席していました。共産党という先行きに不安と不審を醸し出す勢力を排する形での野党結集の軸に、公明党がなり得たことに少なからぬ高揚感を抱いたことを思い起こします。

79年10月には一般消費税導入を争点に解散総選挙になりましたが、公明党はさらに2議席増を果たし、58議席という過去最高の議席を得るに至っていました。一方、自民党は過半数割れの248議席にとどまります。このことから大平首相への批判が自民党内に高まり、主流、反主流派に分かれての、いわゆる「40日間抗争」という壮大な内輪揉めが始まるのです。

一方、母が亡くなって3年。私はこの頃、遺された父のことが気になってしようがありません。姉や弟が時々実家を覗いていましたが、70歳を超えての男の一人暮らしは想像するだに、辛いものがあります。父は「お前たちは母さんが亡くなって悲しんどるが、ワシが残った方が経済的には良かったやぞ。逆やったらどないする」と、強がりはしていましたが。

そうした折も折、市川代議士と懇談する機会に恵まれました。秘書の平子君も一緒でした。結婚から7年余り、母の死、子どものこと、父の状態など色々と、身の上話を聞いて頂きました。当選二回を果たされ、党の中堅幹部として忙しい最中にもかかわらず、真剣に耳を傾けてくれました。「一度親父さんと一緒に暮らした方がいいかもなあ」と漏らされた言葉が耳に残りました。大学入学いらい、15年余り。30代半ばは、親への思いが改めて募るものかもしれません。心の中を見透かされました。結果的に、関西支局への転勤を要望するようになってしまったのです。

尤も、時あたかも与野党の対決は、風雲襲来を告げており、政局の展開を同時進行で見たい思いは強いものがありました。大事な時に、父のために田舎に引っ込むことは敵前逃亡のように思われます。仕事を取るか、親の面倒を見るか。悩みました。

そんな状況下に大平政権は窮余の一策として衆参同日選の解散に打ってでます。前回の総選挙から半年ほど。よもやのハプニング解散です。前年の58議席の勝利に酔っていた公明党は不意打ちに戸惑わなかったといえば、嘘になります。しかし、直ちに対応。分裂気味の自民党と野党連合政権への意気上がる野党との戦いの構図は、大いに盛り上がりました。

ところが、この選挙戦の最中と終わってから、驚くべきことが公私共に起こってしまいます。

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