代議士秘書への曖昧模糊とした転身 (47)

昭和61年の12月。公明党は竹入義勝委員長から矢野絢也委員長に交代し、新たに書記長に大久保直彦、国対委員長に市川雄一との布陣にするとの発表を行ないました。「竹入・矢野体制」は約20年続いたものですから、交代は当然でしょう。ただ、二人セットですから、一気に若返らせるなり、イメージを変える必要があったと思います。「矢野委員長」にして一人残したのは、後から振り返れば大失敗でした。大久保新書記長とは、この人が初めて衆議院に出馬されるときから、選挙区が東京4区(旧・中野、杉並、渋谷)だったこともあり、私にとって親しい大先輩でした。ご自宅に呼んで頂いたこともあります。その人のナンバー2就任は率直に言って嬉しいことでした。

市川さんの国対委員長就任については、当初は内外に懸念する声が強かったようです。当時のこのポストは、海千山千の政治家の中でも、とりわけ変幻自在の柔軟な態度と、何よりも営業マン的雰囲気が要求される立場だと見られていたのです。市川さんは理論家肌で、理屈先行の人のため、そういうポジションには向かない、むしろ政調会長の方が適任と見られていたのです。何しろ、酒はあまり飲まない、歌も歌わないし、麻雀は全くやらない、ゴルフもからきし、とくれば想像できようと言うものです。ご本人もそのあたりを気にされていた節は多少ありました。ただし、それは表面上だけで、「人は概ね人を見誤ることが多い、相手がこちらを低く見ればそれだけ相手が判断を誤るだけ」などと言っていました。そのくせ、影では、お酒を飲む練習をしたり、歌もレコードを買い込んで、せっせと練習に励んだりしておられたようです。ただ、ゴルフだけはやっても上手くならないので、と諦めていました。

そんな公明党が新体制に沸いている状況の中、私の身に一大変化が起きます。市川代議士の秘書にならないかというお話でした。既に市川秘書として頑張っていた平子瀧夫君が、川崎市議選に出るということから、その後釜として白羽の矢が私に立ったのです。市川さんの選挙区とも無縁だし、新聞記者として未だ未だ伸びたいとの思いが強かった私は悩みました。何より一にも二にも政治家を影で支える秘書の仕事は私には向かない、と思っていたのです。

ただ、市川さんと初めて会ってから18年ほどの間、色々と啓発され、刺激を受けていて、更にもっと近くで深く大きく影響を受けたいとの望みも持っていました。近づきたいけど、したいことは他にある。進むに進めず、私の心は乱れました。そんなときに、中野区で(鷺宮本部長)お世話になることが多かった富岡勇吉さん(潮出版社社長)に相談しました。富岡さんは、「新聞記者というのは虚業だよ。人は一生のうち、どっかでやっぱり実業で生きねばならないね。秘書は実業だよ。君の将来にきっと役に立つから、お受けしてはどうか」と言われるのです。肚が決まりました。

ただ、正式に公明新聞を退職するということに踏ん切りがつかないまま、なんとなく昭和62年(1987年)正月過ぎに、衆議院議員市川雄一第一秘書として、国会に出向くことになったのです。したがって公明新聞社で、仲間たちの前で別れのご挨拶もせず、ズルズルと仕事場が変わってしまいました。気がかりでしたが、仕方ありません。そのせいか、「北斗七星」のライターは暫く続けさせて頂きました。この辺り、私の人生で、一番ファジーな部分となってしまったのです。

市川雄一事務所には、先輩秘書の平子君と、国谷明美さんという女性の二人がいました。国谷さんは少女のイメージそのまま。とても可愛くしかも聡明な女性です。市川さんの選挙での遊説隊の一員でした。それこそ度胸も愛嬌もある素晴らしい女性。一目で私は好感を抱きました。この女性となら、辛い秘書業もやっていける、と。尤も、ことはそんな簡単なものでないということは程なく分かるのですが‥‥。

【昭和62年(1987年)4月 国鉄分割民営化、JRグループ発足 5月 朝日新聞阪神支局襲撃事件 防衛費1%枠突破 売上税法案廃案 6月 日中閣僚会議北京で開催 7月 日米戦略防衛構想(SDI)協定 8月 教育臨調最終答申 11月 竹下登内閣】

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