「湾岸戦争」での公明党の驚異の粘り腰ー平成3年(1991年)【5】

イラクのクウェート侵攻に多国籍軍が攻撃

平成3年(1991年)1月17日ー米軍を中心とする多国籍軍がイラクへの攻撃を開始します。本格的な戦争の勃発です。実は、前年の平成2年8月にイラクがクウェートに侵攻し、全土を占領していらい、国連安全保障理事会は様々に動きました。イラク軍の即時無条件撤退を要求する決議を直ちに採択。従わないと見るや、経済制裁、海上封鎖、空域封鎖などを次々と実施したのです。それに対して、イラク政府はクウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にするなどと発表、国連の度重なる撤退勧告をも無視し続けました。和平調停など含め一切応じないフセイン・イラク政権に業を煮やした米国は、英国をはじめとする同盟各国に呼びかけて形成した多国籍軍で攻撃したのです。勿論、武力行使を容認する安保理決議(678号)に基づくものではありました。「砂漠の嵐」「砂漠の剣」などと名付けられた作戦のもと、開戦から42日目の2月27日にクウェートを解放するに至りました。3月3日にイラクも敗戦を認めます。これで湾岸戦争はひとまず戦争そのものは決着を見るのです。ですが、その経緯の中で、日本にとって厄介極まりない問題が発生します。90億ドル追加支援問題です。

緊急対応迫られた日本、そして公明党

ことの発端は、多国籍軍がイラクへの攻撃を開始した直後、政府自民党が米国との間で、多国籍軍への90億ドル追加支援を勝手に決めてしまったことです。クウェートへのイラクの侵攻があった当初、日本は多国籍軍に対して、すでに40億ドルの支援を決めていました。それはどちらかといえば直接的な軍支援というよりは紛争周辺地域への経済支援的性格が強いものでした。ところが、この更なる巨額な追加支援は全て税金で賄おうとするもので、「戦費協力で憲法違反」との反発が一気に国民世論の間に燃え広がりました。左翼勢力の真っ向からの批判に対し、米国を中核とする多国籍軍べったりの政府自民党。この伝統的二極対立の構図の中で、第三の極として公明党の動向が日本だけでなく、世界中から注目されたのです。公明党は党内大議論の末に、「条件付き賛成」という決断に踏み切りました。この一連の動きはまさに驚異の粘り腰で、一気に国民的合意の流れ形成に寄与したのです。

4条件付き賛成への決断

湾岸戦争の本質は、国連決議に基づくもので、資金協力は、国連を中心とした国際秩序作りのためのものだと、公明党の論調は収斂していきました。市川書記長を中心にして徹頭徹尾の議論を展開する中で、以下のような条件を付与するべきだと、されたのです。すなわち、❶90億ドルの使途は武器、弾薬にはあてない❷全額増税で賄うのではなく、政府自らの歳出削減の努力で、5000億円ほどは増税を圧縮する❸国際的緊張緩和の中で、防衛費の削減を図る❹平成3年度の予算書の書き換え修正を行うーとの4条件です。これを市川書記長が衆議院予算委員会での2月5日の質問で、海部首相に全て飲ませたのです。正式には2月15日に衆参両院議員が参加しての拡大中央執行会議で決定するのですが、後々の公明党の政党としての生き方を決める実に大きい出来事でした。自衛隊が発足していらい初めてとなる防衛費の大幅削減など、転んでもただじゃあ起きないという政策の展開ぶりに、誰しもが驚きました。

表技と裏技とー興味深いエピソード

さらに、大きなエピソードがあります。この事態の渦中に当時のアマコスト駐日米大使との懇談の機会に、市川書記長は90億ドル支援を武器弾薬に使わないように、ブッシュ大統領に伝えて欲しいと述べたと言うのです。このことが恐らく効力を発揮したに違いないと見られることは、客観的な事態の推移から十分に推測できます。まさに乾坤一擲の興味深いアプローチを市川さんは試みました。日本が文字通り、のるかそるかの局面で、重く苦しい決断を迫られつつも、見事にやってのけたことになります。市川という人物は真正面からの壮絶な議論の展開ぶりと、それを一つの方向にまとめる力については他の追随を許さぬものがありました。だが、それに劣らぬ裏技の人でもあったことに改めて気付かざるを得ないのです。この戦いが後のいわゆるPKO(国連平和維持活動)法案成立へのプレリュード(前奏曲)だったのですが、公明党にとって疾風怒濤の戦いの日々の幕開けでもありました。(続く)

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