【67】「国民投票法」成立に尽力した日々と人々とー平成19年(2007年)❷

●加憲と改憲とのはざまでの変わらぬ発信

安倍晋三氏が首相になっていらい、一段と憲法改正に向けてのトーンが高まってきました。尤も世の中一般には格差是正への関心の方が高く、首相の改憲・前のめり姿勢には強い批判が付き纏っていました。2007年2月15日には、「どうするどうなる憲法9条」とのシンポジウムが東京第二弁護士会主催で開かれ、私は自民党の保岡興治さんや民主党の仙谷由人さんらと一緒に出席しましたが、ヤジが飛び交う中でのものとなりました。

実は、安倍政権発足の直後の衆議院予算委員会(2006年10月5日)で、私は先に第64回で披露したように、アメリカでの視察をもとにしたがん治療などの医療関連の質問をしました。しかし、その質問の最後に、憲法についても首相の考え方を質すことをも、あえて付け加えておきました。憲法の取り扱いを巡ってはあくまでも丁寧に運ぶべしとの主張を展開したのです。それから半年も経ってから共同通信配信の『改憲論議の底流』という連載が地方紙(神奈川新聞、岩手日報、千葉日報、山陰新聞など)を賑わしました。

【(10月5日の衆院予算委員会で)質問に立った公明党憲法調査会座長赤松正雄は、首相安倍晋三にくぎを刺した。『憲法への考え方が合わない。私たちは加憲と言っている』『護憲政党』を掲げてきた公明党。与党として改憲論の一翼を担う今も、9条見直しには慎重論が根強い。だが、独自の立場を貫けば自公連立の維持は難しくなる。『連立か、9条か』赤松のつぶやきは、現実との板挟みに悩む護憲派の一つの現状を浮き彫りにしている】

新聞記事の最後の5行(ここでは最後の1行)は、掲載当時にはいささか違和感がありました。ただ、あれから15年が経った今、赤松のところを山口に置き換えると、一段とリアルに迫ってくるのは面白いと言えましょう。

●讀賣の「憲法フォーラム」での頑張り

一方、この年も讀賣新聞社主催の記念特別フォーラムが、4月27日に東京・内幸町のプレスセンターであり、自民党・船田元、民主党・枝野幸男氏と共に参加しました。タイトルは「日本の決断ー憲法のあり方を考える」。基調講演を中山太郎さんがされ、北岡伸一東京大教授がコーディネーターでした。

ここでの議論は讀賣新聞5月3日付けで詳報が掲載されました。集団的自衛権を巡っての各党の考え方が注目され、自民党の船田氏が、「憲法を改正して限度のある集団的自衛権とするのが真っ当な方法だ」と指摘したのに対して、枝野氏は「現行憲法の条文でも問題はない」として、改憲の必要性を否定しました。私は、「集団的自衛権の行使は解釈ではならず、改正が必要」としたうえで、「行使は認めない」との公明党の姿勢を強調しました。

ただ、有識者会議が検討課題にしていた「4類型」については、「個人的には」と断ったうえで、「今の憲法解釈でも認めていいのではないか」と述べています。これは後々の「安保法制」における落ち着き先を見据えた、先駆的見解だったと自負できるものでした。

なお、基本的な公明党の憲法の考え方について述べる場面で、加憲に決めた経緯に触れたあと、「戦前、戦後といった問題を乗り越え、21世紀をにらむ未来レジーム(体制)を志向すべきだ。『普通の国』(自民党)、『一国平和主義』(民主党)ではなく、『地球平和主義』の観点でいくべきだ。9条の平和主義と前文の『国際社会において、名誉ある地位を占めたい』という方向性を両立させていきたい」と、強調しました。

中道主義の理念に基づく「地球平和主義」の重要性を訴えたのです。このフォーラムでは一般参加者も募っており、私の地元での支援者の娘さん(現在、歯科医)も姿を見せてくれていたのは嬉しいことでした。それもあって、いつにも増して気合いを入れたのです。

●「国民投票法」成立の舞台裏で

現行憲法の最大の課題は、「改正」することが可能であるはずなのに、その手続きに触れられていないことです。このため、改正の是非とは全く別に、法のルールとして改正の仕方を規定する必要性が当初から求められてきました。これは例えてみれば、旅行鞄を開けたいのに、鞄の鍵の番号が作られていず、開けられなようなものです。憲法改正をさせないためにわざと改正手続の規定を置かず、しかも長きにわたってそれでよしとしてきたのは政党、政治家の怠慢だったといわれても仕方ありません。

先に述べたように、衆参両院の憲法調査会は5年間の調査活動を終えて、報告書をまとめました。次に憲法調査特別委員会を作って、手続法を決める論議に入ったのです。2006年10月26日から国民投票法の与党案と民主党案の審議が始まっていました。私は遡ること約一年の間、厚労省に行っていましたので、与党案作成には関わっていません。公明党からは斎藤鉄夫さんが担当してくれていました。審議が始まった同日、早速私は質問に立ちました。ここでは、調査会→特別委員会→審査会の三段階の流れの中で、憲法改正草案が提出、検討されるのは少し早すぎないかとの問題を提起したのです。つまり、更にもう一段階おかねば、揉める原因になると睨んだからです。答弁に立った斎藤氏のこの辺りの認識が弱いと見て、嗜めました。その場面を見ていた旧知の専門家のひとりが「公明党内の人同士でもバトルするのですねぇ」と、驚いていました。

ともあれ、それ以来半年あまりかけて審議が進み、2007年5月14日に国民投票法は成立しました。この間、再び私は斎藤さんからバトンタッチを受けて特別委員会の公明党幹事となり、自民党の保岡興治、船田元、加藤勝信、葉梨康弘氏らと共に与党案の成立に尽力し、答弁をも担当しました。衆議院では最後の最後の場面で採決を妨害しようとした民主党議員の抵抗で危うい場面がありましたが、何とか成立に漕ぎつけた時は本当に嬉しい思いがこみ上げてきました。議場で中山太郎さんを囲んで喜び合う場面は彼の著作の扉写真に使われていましたが、感激が伝わってきます。これでようやく、「不作為の謗り」を免れた喜びに浸ることが出来たのです。

一連の作業のあと、船田元さん宅で祝宴の機会がもたれ、関係者が集まりました。船田夫人は元参議院議員の畑恵さん。元新進党で一緒だったので懐かしい人でした。畑さんとの談で偶々、白洲次郎、白洲正子の夫婦のことに及び、彼らの武相荘や兵庫県三田市にあるお墓などを巡って大いに語り合いました。こうした機会を経て憲法論議が大きく前進すると思いきや、結局は暗礁に乗り上げたまま。今の政治家たちの体たらくには、幻滅するしかありません。(2020-7-13 公開 つづく)

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