【82】「日米密約検証」で岡田外相の基本姿勢を糾すー平成22年(2010年)❶

●党首討論で初の公明党の出番

民主党中心の政権になって、公明党の山口代表が初めて党首討論(いわゆるクエスチョンタイム)に立ちました。2月17日のことです。自民党との連立政権下では、残念ながら公明党の出番はなかった(今もない)のですが、同制度導入後初めてのことになり、それなりに見応えがありました。尤も質問の持ち時間は10分だけ。国会はたっぷりと時間をとって、国のかたちを巡って与野党問わずに党首が語り合う場面を作るべきではないかと思うことしきりです。

鳩山首相は、谷垣禎一自民党総裁の追及にはのらりくらりの受け答えをしつつ、逆に企業団体献金の禁止を呼びかけるという手に出ました。自民党は足元を見られた格好です。一方、山口代表が政治資金規正法改正案の提出や再発防止に向けて与野党の協議機関設置を呼びかけたことには、前向きの姿勢を示し、努力を約束してみせるなど懐の深さとでも言うべき態度を垣間見せはしました。

●予算委員会で1時間15分質問に立つ

他方、同じ日に開かれた予算委員会一般質疑には私が立ちました。1時間15分の質疑時間を、いわゆる「日米密約」問題と核政策、沖縄普天間基地問題、そしてがん対策について政府を糾しました。与党時代はせいぜい30分でしたが、野党になると質問時間はぐっと増えます。このうち、がん対策については、緩和ケア、がん登録、放射線治療などの進捗状況を確認して推進を督促する一方、がん教育の重要性も訴えました。さらに小児脳腫瘍の現状の問題点を訴えると共に、チーム医療の重要性を強調したのです。

地域別に点在するがん拠点病院に小児脳腫瘍の専門医を集約し、患者をここに誘う仕組みを作ることを提案しました。これは小児脳腫瘍と闘う患児や親御さんと接する中で、気づいたことがあれこれあったためです。特に、国立がんセンターのがん対策情報センターが発行していた「小児の脳腫瘍」と題する小冊子の記述の誤りに気づき、訂正を求めたりもしました。のちに追跡調査の結果、対応の後が見られ、ほっとしたものです。この時の答弁は、長妻昭厚労相です。彼はジャーナリスト出身で、ちょっぴり変人の誉が高い人ですが、この時の答弁を始めとして私の評価は低くはありません。

さらに、2月25日の予算委員会の分科会では、佐用町の水害問題を取り上げて対応を求めました。これは前年の8月9日に西日本を中心に襲った台風9号による大災害で、死者18名、行方不明2人という悲惨な状況でした。私が親しくしていたUさんが、衆院選の選挙協力の打ち合わせのために町の中心部に集まられていました。豪雨の中、帰宅途中に車ごと流されて生命を落とされたのです。

断腸の思いという言葉では到底言い表せない悔しく切ない出来事でした。こうした思いを魂に込めて質問に立ちました。森の荒廃という根源的な問題が山の保水力をなくしてしまっており、それこそが川の氾濫を起こしやすくしてしまっている現状を指摘しました。これは、私が顧問を務める「熊森協会」の年来の主張でもあり、力がこもった質問になりました。この時の答弁は赤松広隆農水相。彼は旧社会党の中心的存在です。昨今影が薄いようですが、もっと活躍を期待したいものです。

●スタンドプレーの色濃い民主党の姿勢

民主党政権になって、外交・安全保障の分野の中心者たち(岡田克也外相ら)は、自民党政権と米国政府との間での「密約検証」を焦点に取り上げました。保守政権の長年にわたる対米癒着を暴こうとの魂胆でした。私は2月17日の予算委員会で、「密約」を調査するというのなら、スタンドプレー的なものでなく、政府が総力あげて取り組む必要性を強調しました。そもそも密約問題とは、①1960年1月の安保条約改定時の核持ち込みに関する「密約」②同じく朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する「密約」③1972年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する「密約」④同じく現状回復補償費の肩代わりに関する「密約」ーの4つを意味します。いずれも大きい問題で下手すると、返り血を浴びかねず、やるなら徹底してやるべし、と言ったわけです。

このあと、3月10日、4月28日の外務委員会でも私は質問に立ち、岡田外相にその姿勢を質しました。そこでは、密約について、狭義(公表されたものと違う中身の文書が残っているもの)と広義(公表されたものと違う暗黙の了解や合意)の密約があるとの定義をまず確認しました。その上で、ほおっておくと、日米お互い暗黙の了解の中で、核が持ち込まれることが今後も起こりうることを指摘したのです。

つまり、「密約にまた新たな密約を重ねる」という一般的な懸念の表現ぶりを「暗黙の了解という名の広義の密約が続く」と言い換えたのです。結局、今の民主党政権も、前の自公政権も、核の傘を掲げる、米国に依存するという基本的立場に変わりはないのだから「非核3原則」への疑念は常に付き纏うと言いたかったのです。

「非核3原則」問題に関しては、私は公明党の政策として「新非核3原則」なるものを唱えたことがあります。それは、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という現行のものでは自制的に過ぎるから、「核兵器を持たせず、作らせず、使わせず」というように、核兵器保有国を縛る原則を掲げるべし、としたのです。ユニークなものだと自画自賛しましたが、朝日新聞が取り上げてくれただけで、非現実的だとしていつの日か消えてしまったのは残念なことです。

●「燃やさない文明」テーマに鼎談

『電気自動車ー「燃やさない文明」への大転換』ー2010年に村沢義久・東京大学特任教授によって刊行されたばかりの著作です。村沢教授は、ゴールドマン・サックス証券などを経て学者になった人で、発想が実にユニーク。電気自動車や太陽光発電などを活用し、低炭素社会を目指すパイオニアです。理論誌『公明』誌上で、党内きっての科学者・斉藤鉄夫政調会長(元環境相)と3人で鼎談を試み(3月号)ました。『太陽光、電気を生かしたエネルギー革命を志向して』というサブタイトルです。村沢・斉藤お二人の呼吸はピッタリでした。

「そもそも火を燃やさなければ、Co2自体を出さず、温暖化対策に劇的な貢献ができる」というのが村沢さんの主張です。「太陽光はエネルギー量が非常に多く、上手に使えば我々のエネルギー需要を全部賄うことも可能で」、「地球はわずか1時間の間に、世界が1年間に使う量に匹敵する太陽エネルギーを受け取って」おり、「まさに『天の恵み』で、これを最大活用しない手はない」とのスタンスです。世界におけるこの分野は、外交や防衛とも深い関係を持つことから、私も舞台回し役を兼ねて加わった次第です。

村沢さんは「ガソリン自動車を全部電気自動車化すれば、日本のCo2排出量を20%削減できる」との見立てに基づき、自動車業界が既存のものから電気自動車メーカーへと雨後の筍のように、変わっていくことを「スモール(小さな)ハンドレッド(100)の時代」の造語で表現していました。日本中の中古車を電気自動車に改造する呼びかけを全国に展開しようというのです。自動車産業界の大転換を予感させるものでした。(2020-8-12公開 つづく)

 

 

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