【39】市川元書記長との突然の悲しい別れー平成29年(2017年)❼/8-2

●10月22日投票の衆議院選でのできごと

 衆院選が10月22日投票のスケジュールで進んでいました。12日に姫路市内の小学校で行われた自民党候補の演説会に〝自公選挙協力〟の観点から参加しました。この候補者は元民主党の最高幹部で、外相経験者。大物です。民主党が政権の座から降りて5年、前回の選挙で彼は無所属で出馬しましたが、今回は自民党に鞍替えしたのです。自民党に移るとの噂を聞いた段階で、私は「政権交代可能な政党として民主党が作られ、3年とはいえ政権の座にあったのだから、ここは我慢して建て直しに尽力すべきではないか」との注文を電話でつけました。

 日本の政治の質的向上という観点から、「与野党伯仲」状況のなかで切磋琢磨すると言うのがあるべき姿で、彼が民主党を離れるのは惜しいと思ったゆえでした。しかし、与党の魅力には叶わなかったのだとみえます。さっさと彼は自民党入りを果たしてしまいました。選挙結果は、公明党は29議席で、前回(2014年選挙)より6議席も減ってしまいました。小選挙区で1、比例区で5減です。他党候補の動きに関心を持ちすぎ、自党の退潮を見抜けなかった自分を反省しました。

●カイロプラクターズ協会の総会で福岡へ

 福岡市で11月19日に日本カイロプラクターズ協会の催しがあり、遠路私も参加しました。比例区九州ブロック選出の公明党の後輩・T代議士も参加して、揃い踏みで挨拶しました。元をただせば、彼の紹介がきっかけとなって、私はこの協会に縁が出来ました。ダブル参加に関係者の皆さんも喜んでくれました。

 せっかくの福岡行きということで、高校3年時に同級だった福岡工大の理事職を務める大谷忠彦氏(現在は理事長)を呼び出し、卒業いらいという懐かしい出会いを果たしました。大学を出て中内功さんのダイエーに入り、プロ野球・福岡ダイエーホークスの仕事を経て、大学経営に携わっているとのこと。なかなかの風格を湛えていました。半世紀の空白を埋めるかのように話し込みました。

●市川元書記長逝去のショック

 年末恒例の市川番記者の会を12月9日昼に開催しようとのことで、前日に上京しました。ところが、元秘書だったKさんから8日夕刻に電話連絡が入り、市川さんが風邪気味のため体調悪く出られないので、代役を頼むというのです。驚きました。こんなことは初めてです。市川さんの代わりを務めるのは荷が重く、いまいち盛り上がらない空気のまま、この会は割り切れぬ思いで終わりました。

 それから5日後の14日、同じ市川秘書仲間から電話が入り、元書記長が亡くなったことを知らされました。実は8日に逝去されており、すでにご家族で密葬も済まされたというのです。茫然自失。ショックでした。前日7日深夜までいつものように読書をされていたものの、夜明けに奥様が異常な様子を感じられ、緊急入院。駆けつけた家族の皆さんに看取られながら夕刻に息を引き取られたとのことでした。番記者会の時刻には既に亡くなられていたのです。落ち込みました。どんな人にも終焉は来るという当たり前のことを思い知らされました。

 大学を出て公明新聞に入社した私が、編集主幹の市川さん(当時34歳)と初めてお会いしたのが昭和44年4月。私は23歳。以来、ありとあらゆることを教えていただき、薫陶も受けた大先輩との永遠の悲しい別れでした。(2021-8-2)

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