【40】毎日新聞『悼む』欄に寄稿ー平成30年(2018年)❶/8-7

◆毎日新聞3月5日付け「悼む」欄

 市川さんの死の衝撃から立ち直れぬまま、新年9日に上京しました。幾つか処理すべき案件があったのですが、そのうちの一つが毎日新聞の平田崇浩記者と会うことでした。彼は同紙の外交防衛を専門とする敏腕記者で、現役時代から昵懇でした。市川さんの追悼文を書いて欲しいという依頼でした。他に市川さんを語るに値する人はいるのに、私如きでいいのかと訊くと、「長きにわたって支えたのはあなただけ」、その視点から書いて欲しいとのこと。〝恩人の死〟を悼む文章を書かせて頂く巡り合わせに、感謝の思いで引き受けました。

 引き受けたからにはと心血注ぎ、たましいを込めるように文章を練りました。ご本人に「書き出しの研究」なる一文があり、文章作法の持論を常に聞かされていました。何度も何度も書いては消し、消しては書く繰り返し。ようやっと書き上げたものが、3月5日付け同紙朝刊に掲載されました。以下全文を転載します。

孤高の中に「情と理」/市川雄一さん元公明党書記長/2017年12月8日死去・82歳

【人の心を射抜く眼差しと他の追随を許さぬ論理展開。誰しもが「理の人」だといい、「強さ」を認めた。戦後政治史に残る『日本共産党批判』での「憲法論争」、国連平和維持活動(PKO)協力法成立のため公明党・創価学会の内外を説き伏せた行動力はその印象を裏付けて余りある。

 28歳の若さで公明新聞編集長に就いた切れ者がやがて『燃えよ剣』の土方歳三のような「軍師」として頭角を現す。党幹部の不祥事が露見し、逆風が吹き荒れた時の処し方は鬼気迫るものがあった。

 公明新聞記者時代の部下、後に秘書、議員として50年以上もお付き合いしてきた身として、数多の場面が夢やうつつに今も蘇る。感性の豊かさを湛えつつ、ひ弱にも見える大学時代の写真に驚き、変身の理由を尋ねた。「敵からは蛇蝎のように恐れられよ」「男は強くあれ」という人生の師からの薫陶があったからだとの答えが返ってきた。

 生来、がさつな私はあきれるほどの失敗をした。一緒に旅した先で、かばんを網棚に忘れたり、寝坊で待ち合わせ時間に遅れたり。恥じ入る私を叱らないで、忘れた頃に「君はのんきでいいなあ」と。その「優しさ」に感じ入った。

 近年、安全保障法制論議の時に私が反対を口にすると、君もそんなことを言うのかと反論の刀を向けられた。昨今の憲法論議をめぐっては、固い頭ではいけない、曖昧な態度に固執すれば、国の行く末を過つと憂え続けられた。

 京都が好きだった。哲学の道や鴨川沿いを歩いた。時に、お酒を片手に、遠き受験生時代に覚えた和歌を口ずさみながら。「情と理」を兼ね備えた、厳しくも優しい、孤高の政治家はもういない。(元公明党衆院議員・赤松正雄)】

◆大先輩の遺志を受け継ぎ生きていく決意

 様々な反響がありました。生前の市川さんに厳しく鍛えられた仲間の代議士から、「心底感動しました」とか、番記者の一人から、これまでに読んだ追悼文で最も心撃たれたなどと、お世辞混じりの声も含め、幾つもの便りを頂きました。自分としては悔いなき文章を書いたとの自負はあったのですが、御子息から、ひとつ納得いかない箇所があるとの意味の指摘をさりげなく受けました。どのくだりをさすのか、曖昧なままなのですが、未だに気になっています。

 文章を書くことを生業にする道を、私は歩いてきました。途中で20年余り政治の道に転進したものの、一貫して書くことに拘ってきました。市井の人間に戻って5年。この文章を書いたことが、改めて自身の本分を自覚するきっかけになりました。市川さんが生涯かけて成し遂げようとされていたこと、その片鱗でも受け継ぎたいとの思いが私にはあります。残された時間を使って、それを形にしていきたい。そう思っています。(2021-8-7)

 

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