【15】心は声の響きに表れるー小説『新・人間革命』第4巻「凱旋」の章から考える/7-1

●「声仏事」の拡大解釈の是非

 昭和36年4月3日、伸一は戸田先生の四回忌法要の翌日から全国各県に支部結成大会に飛び、会合の合間にメンバーを激励します。島根県松江市では、口べたで、皆を納得させる話ができないと悩む壮年幹部に「声仏事」と筆で書き、「御書には『声仏事をなす』(708頁)とあります。語ることが仏法です。お題目を唱えて、ともかく、人を励まし続けていくことです。(中略)一言でもよい。信心と真心の一念の声を発することです」(117頁)との言葉を添えて、激励しました。

 「声仏事をなす」とは、仏道修行における「声」の働きの重要性を語ったものです。朝な夕なの勤行に際しても、朗々と声を発して題目を唱えることの大事さを先輩幹部から聞かされました。また、座談会における発言でも、折伏の場面でも確信溢れる明瞭な響きの言葉で話すことを強調されました。

 死にゆくものは、「耳」が最後の最後までその役割を果たすー意識が薄れゆく中でも耳は聞こえているーということと裏腹に、生きているものの最大の証(あかし)は声に表れると、私は理解しています。若い頃に、声を鍛えるために色々と努力をし、工夫もしましたが、中々難しいものと実感しています。というより、自分の声を自分の耳で聞くのは、違和感がどうしても伴います。これって俺の声か、との疑問です。もっといい声のはず、と自惚れがついて回るのです。

 そんなことから始まって、ついつい街頭での演説や国会の質問の際にも、今日の喋りは声仏事をなしてなかったな、などと拡大して判定する癖がついてしまいました。先日も、ある後輩議員の委員会質問をテレビで聞いていて、メリハリが利かない弱い声音だと聞こえたので、つい電話で、「しっかり拝んでるのか。声仏事をなすだよ」などと偉そうに言ってしまいました。私は激励のつもりでしたが、彼はそう受け取れなかったかも。魔の声だったのでは、と反省しています。

●計り知れない供養の功徳

 この章では、供養の功徳について、詳しく語られています。(125頁〜139頁)

 そこでは、仏典を引き、日蓮大聖人の御書を通して、「喜捨の心は、境涯を高め、無量の功徳をもたらし、それがまた、信心の確信を深める。そこに、幸福の軌道を確立する、仏法の方程式がある」と、強調されています。

創価学会が広宣流布を進める上で、必要な経費を担わせていただく役割を持つものを財務部員といいます。入会したばかりの頃は、財務や供養といっても、あまりその価値が分かりませんでした。正本堂建立の特別なご供養に際しても、1ヶ月分の家庭教師代ぐらいしか、それにあてる気持ちはなかったのです。しかし、後年になり、様々な功徳を実感した結果、こんなにも凄い活動をする団体への報恩感謝の一念を表すために、貢献したいと思う様になりました。

 具体的に触れることはさし控えますが、ご供養の精神に則り、私も心ばかりの財務を精一杯背伸びして、させていただいたことがあります。そのときに、信じられないほどの凄い功徳をいただきました。天にも昇る気持ちとはこれだ、という場面でした。いらい、財務、供養の功徳を誰憚ることなく語っています。(2021-7-1)

 

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