【20】宗教相互で〝善の競争〟をー小説『新・人間革命』第5巻「歓喜」の章から考える/7-29

◆サン・ピエトロ大聖堂前広場での懇談

 一行は昭和36年10月15日にースペインに入り、スイス、そしてオーストリアを経て、19日に今回の旅の最終訪問地であるイタリア・ローマに到着します。伸一はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を見学したあと、同広場を歩きながら同行の青年たちと懇談をします。

 同行の青年から、他の宗教との接し方について、日蓮といえば非寛容な宗教だとの捉え方があることについて、時代や状況に応じて折伏をどう考えるかについてなどの質問が出されていきました。それについて伸一は自身の体験などを織り交ぜて丁寧に応えていきます。

 この中で、私が注目して読んだのは、〝善の競争〟という言葉が出てきたくだりです。(151頁)

「人類の歴史は、確かに一面では、宗教と宗教の戦争の歴史でもあった。だからこそ、平和の世紀を築き上げるには、宗教者同士の対話が必要になる。(中略)仏教とキリスト教、仏教とユダヤ教、仏教とイスラム教なども、対話を開始していかなければならない。それぞれ立場は違っていても、人間の幸福と平和という理想は一緒であるはずだ。要するに、原点は人間であり、そこに人類が融合していく鍵がある。そして、宗教同士が戦争をするのではなく、〝善の競争〟をしていくことだと思う」

 さらに続けて、「〝善の競争〟というのは、平和のために何をしたか、人類のために何ができたかを、競い合っていくことです。また牧口先生が言われた、自他ともの幸福を増進する〝人道的競争〟ということでもある」と。

 かつて、創価学会は世の中における様々な恵まれぬ存在に対して、寄付などの直接的救済活動に手を染めず、その生き方の根本を正すために、宗教の正邪を問うべく折伏活動に邁進しました。前者を「小善」、後者を「大善」と位置付けて。当初私はいわゆる慈善事業をすれば学会理解は進むのにと疑問に思いました。しかし、「お金」で済ませてしまうと、その場は凌げても、より根本的な問題点を見失いがちになるということに気づきました。「善」「人道」の観点から、より高次元な取り組みが必要だということなのです。

 阪神淡路の大震災や東北の大震災にあって、被災者への避難場所としての会館の提供から始まり、人類の平和に向けての具体的な提言やら、「反核平和」に向けての展示出版活動など、〝善の競争〟〝人道的競争〟にチャレンジする創価学会の営みは特筆されて然るべきです。すぐ、「経済的支援」を求めがちな自身に対する自省の念も込めて、「財の競争」ではない、この宗教間における真の提案を真摯に受け止めたいのです。

◆仏法への大きな認識の差

 この一連の懇談、質疑応答(140頁〜155頁)の最後で、十条潔が投げかけた質問に、伸一が「一抹の不安を感じた」とあります。ここは見逃せないところだと思います。それは、伸一が述べたことを他の宗教との妥協と捉え、仏法を受け入れない場合は厳しく糾弾していくべきでは、と十条が述べたことについてです。

 伸一は、そういうことでは「自己満足に終わり、友情も壊れ、反目しあうことになる」し、「複雑な現実の世界のなかで、人類の融合をめざしていくには、粘り強く対話を重ね、人間として、深い友情を育んでいく以外にない。宗教で人間を裁断するという発想は改めなければならない」などと注意しています。

 と同時に「今の最高幹部と自分の間に、仏法への大きな認識の違いが生じていることに気がついた」とし、「宗教者の社会的使命に眼を閉ざした幹部の思考に、一抹の不安を感じた」と書かれているのです。

 この懇談は私の入会の4年前に行われていたのですが、私が入会して以降も基本的には、十条さんのような考え方が横行していたように思われます。さらに、この章が聖教新聞に連載された1996年当時も、未だ定着はしていなかったかもしれません。伸一のこの記述を目にして、それぞれが我が身の来し方を思い起こして、ゾッとしたというのが真実に近いように思われます。ことほど左様に、師の思いを弟子は知らず、旧態依然とした古い考えに取り憑かれていたのです。(2021-7-29)

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