【91】一念の大きな転換とその契機──小説『新・人間革命』第23巻「勇気」の章から考える/10-18

●田原薫の激励に奮い立った二部学生たち

 創価大学の通信教育部の開学式が行われた1976年(昭和51年)5月。創価学会学生部の二部(夜間部)に学ぶ男子学生による「勤労学生主張大会」も東京・江東公会堂で開かれました。二部学生の間には、伸一によって「飛翔会」という名の人材育成グループが前年8月に結成されていました。伸一直結の育成によって学内活動も活発化していました。この章では、二部学生に対する様々な指導、激励が記述されています。(197-237頁)

   「私も夜学に学んだ。二部学生は、皆、私の大切な後輩たちだ。二部学生は大事だよ。貴重な青春時代に、働きながら学ぶという逆境に身を置いて、自らを鍛え抜いている。そうした青年が、大人材に育たぬわけがない。学会の宝だよ」(200頁)

    飛翔会が結成された日に、田原薫学生部長の指導が強く胸を撃ちます。伸一の提案を伝えると共に「これで、私たちの大成の種子は植えられました。その種子が芽を出し、花を咲かせ、勝利の実りをもたらしていくかどうかは、ひとえに、今後の個々人の決意と実践にかかっております。断固、戦いましょう!」と述べ、二部学生こそ、歴代会長の精神を受け継いで、師弟不ニの直道を永遠に歩み抜いていこうと呼びかけたのです。意気天を衝くかのような学会歌の大合唱。参加者のどの目も光り輝き、どの頬も紅潮していた、とあります。

 【彼らの置かれた状況も、立場も何一つ変わったわけではなかった。しかし、会場を後にした時には、使命に生きる歓喜が脈打ち、世界のすべてが変わったように感じられた。自身の一念の大きな転換がなされたのだ】(210頁)──こうした経験は私も幾たびかしたことがあります。興奮の坩堝と化した会場で、必ずや自分の使命を果たすべく頑張ろうと誓い、自身の当面する課題解決へ戦う一念を定めました。人間は、色んな場面で出会った人の話を契機に、あるいは出会ったモノやコトによって、立ち上がっていくといえましょう。

●「人間革命」の歌の完成の背景

 ついで、場面は同51年7月18日昼過ぎ。新しい学会歌「人間革命の歌」の作曲に伸一が没頭するところに移ります。テーマはかの昭和31年の参院選大阪選挙区に起因する大阪事件での関西の壮絶な戦いに触れられていきます。「7-3」に事実無根の公職選挙法違反容疑で不当逮捕された伸一は、「7-17」に出獄しました。ちょうど20年を迎える「7-17」に、「人間革命」の歌を完成させ、18日の本部幹部会で発表することにしていたのです。(253頁)

 伸一が新しい歌を作って、会員同志を勇気づけようとしたのは、単に20年の節目だったからだけではありません。当時世界平和のために中国、ソ連の社会主義国を相次いで訪問する一方、日本共産党の委員長と会っていたことなどが背景にありました。学会は共産主義に接近しようとしているのでは、との偏狭な心からの警戒感が渦巻いてきていました。また、宗門の僧侶からも言われなき非難中傷を浴びせ始めてきていたのです。

 当時、私は中野区男子部幹部の一翼を担って日夜飛び回っていました。「人間革命」の歌の完成にもただただ喜び、襟を正し厳粛な思いで歌っておりました。背後の種々の複雑な動きなど分からぬ凡庸な弟子でしたが、中ソ関係への伸一の尽力や創共協定締結に、時代のうねりを直感し発奮したものです。

●山本有三の戯曲「同志の人々」から汲み取る

 「人間革命」の歌が制作される過程で、当初五行詞だったところを四行詞に削らざるを得ないというくだりが出てきます。最終的に、二行目の「同志」にまつわる箇所が削られるのですが、それに関連して、作家・山本有三の『同志の人びと』という戯曲への、若き日の伸一の共感が語られるのです。ここは、極めて興味深い輝きを放っているように思われます。(270-275頁)

   この戯曲は、幕末の文久2年(1862年)に京都・寺田屋で捕らえられた8人の薩摩藩士をめぐる事件での船の中が舞台となっています。幕府の反応を気にした藩の圧力を前に、藩士たちの心は揺れ動きます。仲間の公家の親子たち同志を殺してでも、生きのびようとすることに傾く皆の心。それに対して、是枝万介という藩士が真っ向から異を唱えます。犠牲をいとわず大義に生きる道を選ぶものと、同志を裏切ってでもその場を凌ごうとするもの。相反する二つの立場が対比されて描かれていきます。

 青年時代にこれを読み、「志を持った人間の生き方に、鋭い示唆をなげかける作品であると思った」と強い感慨に打たれます。私たち広宣流布に生きるものとしても、ときに直面するテーマだと、考えざるを得ません。伸一は「同志」という言葉をいれたくも歌詞の流れ上削らざる得ず、その分だけ、中身を詳しく紹介して、私たちに熟慮を促されているのです。(2022-10-18)

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【90】生涯が学習、生涯が勉強──小説『新・人間革命』第23巻「学光」の章から考える/10-12

●日々の粘り強い研鑽のなかにのみ

  「皆さん方は、〝創価教育体現の第一期生〟である」──1976年(昭和51年)5月16日、創価大学に集った通信教育部生を前に伸一は訴えました。この日、開学式に集った通教生はどんなに嬉しかったことでしょう。そのスピーチで、伸一は、牧口常三郎初代会長が提唱した「半日学校制度」に言及して、「生涯が学習である、生涯が勉強である。それが人間らしく生きるということ」だと強調しました。(108頁)

   伸一は、かつて戸田城聖二代会長の事業が窮地に陥り、それを支えるために自身の学問への道を断念せざるを得なかったこと。その代わり、戸田が直接様々な学問を直接講義してくれたことを、その場で語りました。「それは文字通り、人生の師と弟子の間に〝信〟を〝通〟わせた教育でありました」と。【伸一は、創価大学の通信教育の「通信」という意味も、郵便による伝達ということではなく、師と弟子が、互いに〝信〟を〝通〟わせ合う教育ととらえていたのである】(109頁)

   ここで展開されている「生涯教育論」は極めて大事なことです。義務教育の9年から高々プラス6年ぐらい学校に通って、それ以降は学ぶことから遠ざかってしまう人たちがもっぱらです。それではいけない。「学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽のなかにのみあることを銘記していただきたい」と述べられいることは、誰にとっても重要な問題だと思われます。

 私は、若い時から出来るだけ本を読むこと、様々な媒体からその道の専門家の論述を吸収することを心がけてきました。それは、学生時代にあまり学問をしなかったことの反動かもしれません。年を取るにつれ、そのことを反省して、学び、吸収するインプットに力を入れるようにしてきました。一方、出来る限り、世に自身の考えを問いかけるアウトプットにも同じように努力を傾けてきています。

●何があっても負けない精神の核

   この章では、通教生のスクーリングでの伸一との出会い、学光祭、卒業式などでの語らい(105-145頁)などと共に、9人ほどのメンバーの体験談が紹介されていきます。それぞれ胸打つ感動的な内容です。(145-186頁)

   いずれも凄い体験ばかりですが、その通教生たちの熱い思いが、開設いらい毎年開かれてきた学光祭に集約されていきました。そのうち第5回学光祭に伸一は初めて出席したのです。そこで発表された愛唱歌「学は光」の三番がとりわけ胸をうちます。

 🎶重きまぶたを こすりつつ  綴りし文字に 夢馳せて 夜空の星の またたきは 微笑む 我が師の

瞳にも似て いざや王者の 道なれば 〝学は光〟と今もなお‥‥‥

【伸一には、通教生たちの苦闘が痛いほどわかった。彼自身、青春時代に、大世学院の夜学に通い、苦学してきたからだ。また、会長として、同志の激励に全国を東奔西走するなか、寸暇を惜しんで、リポートの作成に取り組んだこともあったからだ】

 そして、「皆さんは、他人との比較においてではなく、自分自身に根を張った人間の王道を、自分で見いだして、自分でつくり、自分で仕上げていっていただきたい。名誉や、有名であるといったことなどに、とらわれるのではなく、障害、勉学を深めながら、自分らしい、無名の王者の道を生きてください」と訴えました。(185-186頁)

   「悪名は無名に勝る」という諺が一番幅をきかせているのが政治の世界です。名前が知られていないということを最も恐れるがゆえに、悪名をとどろかす方がましだというわけです。かつて、「国会は魔の巣窟」ともいわれていました。普通の常識が通らない世界だということでしょう。そんな世界にいる人間は普段から、自身を磨き上げ、魔に負けない強い自己を築くことしかないと思いますが。

●「通教は創価大学の生命線」

  1999年(平成11年)7月に創価大学本部棟の落成式が行われました。その建物には、優先的に通信教育部の教員の研究室と事務室が入り、そこで行われる最初の授業は通教生の夏期スクーリングにすることを伸一は提案しました。これは、通教は、創価大学の生命線であるとの考えからでした。(194-195頁)

   その本部棟の前に立つ「学光の塔」。その塔には、伸一が、創価大学に学ぶ一人ひとりへの期待を込めて綴った一文が刻まれているのです。

 「『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』これ、創価教育の父・牧口常三郎先生の精神なり。この『学光』を以て永遠に世界を照らしゆくことが、我が創価の誉ある使命である」

 世界は今混沌としています。かつて差配した超大国は見る影もなく、片や国内分断に悩み、片や世界分断の元凶と成り下がっています。それに代わる勢力は未だ真実の姿を表していません。「創価の誉ある使命」の重大さを痛感するのです。(2022-10-12)

 

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【89】深刻な現代の子どもたちの悩み──小説『新・人間革命』第23巻「未来」の章から考える/10-4

●「未来の国から来た王子様と王女様」

 「吾々は未来に望を嘱して子孫の計を立てんのみ。今の処、誰が考えても教育以外に適当なる救済の道は見出し難かろうからである」──これは創価教育の父・牧口常三郎初代会長の言葉です。この章は冒頭にこの引用から始まり、伸一の【子どもを育成するということは、未来を建設することだ。ゆえに、教育は、最も大事な聖業となる】との記述に繋がります。1976年(昭和51年)4月16日に新たに開設された北海道・札幌創価幼稚園の入園式の模様から描かれていきます。(7頁-75頁)

 「入園式の日、創立者の山本先生が、迎えてくれたことを覚えています。『あっ、先生だ!』と指をさすと、『おいで!』と言って、膝の上に乗せてくださいました。幼稚園では、担任の先生から、いつも『あなたたちは、未来の国から来た、王子様、王女様なんだよ』と言われ、本当に大事にされていました。私は創価幼稚園に入るまで、近くの保育園に通っていましたので、子どもへの接し方の違いが、よくわかりました」──これはのちに同幼稚園の教員になった一期生の女性が当時を振り返った言葉として紹介されています。

 園児たちに接する伸一の姿勢はまた、深い感動を呼び覚まします。【伸一にとっても、園児たちは宝であり、その存在は生涯の誇りであった。互いに誇りとし合う、この魂の交流にこそ師弟がある。

  使命ある あの子 この児を 忘れまじ 来たる世紀の 主役なりせば 】(74頁-75頁)

 このところ小さな子どもたちを扱う大人たちの不注意や、無責任さが原因の悲しく痛ましい事故が相次いでおきています。また親の小児虐待も後をたちません。何かが狂っていると思わざるを得ない社会的現象に、我が身の周辺を戒めると共に、社会全体で子どもを育てるという意識の大事さに思いをいたします。

●札幌に続き、香港など世界各地に相次ぐ幼稚園の開園

    この後、 札幌に続いて、香港(1992年)、シンガポール(1995年)、マレーシア(1995年)、ブラジル(2002年)、韓国(2008年)と世界各地に創価幼稚園(韓国の名称は幸福幼稚園)ができていきます。伸一はそれぞれの開園式に訪問したり、メッセージを贈ったりしました。喜びを共有して励ます様子が綴られていて、微笑ましく、心和む思いになります。(75頁-101頁)

    香港では2003年(平成15年)に、新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)が猛威をふるいました。そのニュースを聞くや、直ちに伸一は大量のマスクを購入し、届けます。その後、市中では子ども用マスクが品切れになり、園児や親たちはその配慮の深さに喜びました。その後、幼稚園は2ヶ月ほど休園に追い込まれますが、教員たちはビデオCDを自分たちで作り、各家庭に送ったのです。幼稚園のこの対応については、高い評価を受け、香港の新聞でも大きく報道されました。

 2006年には、香港の創価幼稚園は政府教育局などの視察の対象になりました。公表された評定リポートで「創立の主体となってる団体(SGI)は、教育に関する経験が豊富であり、国際的な視野を持っている」としています。さらに、「『人間主義の教育』を実践しており、バランスのとれたカリキュラム(教育課程)により、園児の体力、知力、外国語、情緒、美的感覚、集団行動等の能力が、全体的に向上するよう考慮されている」とし、最終的に、教職員、保護者が緊密な連携をとりあっていて、園児たちも幼稚園生活を楽しんでいる様子が絶賛されています。(86頁-87頁)

   香港の創価幼稚園は開園から30年。当時の園児たちも最長で30代後半の歳頃です。激動する香港でどのような生活を送っているのか気になります。真相を知りたいとの思いが募ってきます。

●牧口先生の今に伝わる子どもたちへの思い

   初代会長の牧口常三郎先生は『創価教育学体系』第一巻を1930年(昭和5年)11月18日に発刊しました。この日は創価学会創立記念日ですが、同時に「創価教育原点の日」でもあります。伸一は、2008年(平成20年)のこの日に世界6カ国の幼稚園に新たな指針を贈りました。

 「何があっても 負けない人が 幸福な人」「みんな仲良く 僕たち家族」「父母を大切にする人が 偉い人になる」【彼は、最も大切な幸せへの道を、人間としての生き方を、清らかな子どもたちの生命に、あらためて打ち込んでおきたかったのである】(102頁)

   「児童や生徒が修羅の巷に喘いでいる現代の悩みを、次代に持ち込ませたくないと思うと、心は狂せんばかり」──『創価教育学体系』の発刊に寄せた牧口先生の思いです。

 時代は変わりました。だが、世界の巷には修羅が続いているように見えます。この牧口先生の思いをどう受け止めるべきでしょうか。事はより深刻です。(2022-10-5)

 

 

 

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【88】見えない心に無限の力──小説『新・人間革命』第22巻「命宝」章から考える/9-27

●「病気の医師」でなく、「人間の医師」たれ

 1975年(昭和50年)9月15日は、医師や薬剤師らで構成されるドクター部の第三回総会が行われました。これに初めて出席した伸一は、積極的な意味での健康の重要性を語り、「『病気の医師』でなく、『人間の医師』であれ」と力説しました。その際に大聖人の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(御書1173頁)を拝読し、三つの財宝のうち、なぜ心の財が一番大事なのかについて、以下のくだりを始め、様々な角度から強調されています。(307-336頁)

 【心は見えない。しかし、その心にこそ、健康の、そして、幸福のカギがある。心の力は無限である。たとえ、「蔵の財」や「身の財」が剥奪されたとしても、「心の財」があれば、生命は歓喜に燃え、堂々たる幸福境涯を確立することができる。】(334頁)

    この3つの種類の財宝についての考え方は、とかく誤解をする向きがあるように思えます。例えば、心の財がいくらあっても、身や蔵の財がなければ、始まらない。故事に〝衣食足りて礼節を知る〟、〝窮すれば鈍する〟ともいうではないか、との視点です。これらは、人間にとって、有限のものと無限のものを比較するところからくる誤りでしょう。健康は、老化との戦いなど限りがあります。富も自ずと無限というわけにいきません。一方、心は本来、無限に充ちています。その豊かさによって、今の弱さも貧しさも、いつでもプラスの方向に変えられるということを指摘されているのです。

 私の友人に、この3つはいずれも大事で、蔵の財も身の財も心の財もみな第一なりと読むべきだと、我見を展開して憚らない人がいます。それは次元の違うものを一律に捉えようとするものだといえましょう。無から有を生じさせる根底の力は心にあり、蔵や身の財は後からついてくるものと、ここは抑える必要があります。

●広島の本部総会で示された核廃絶と日本の進路

 この年11月9日に、広島の地で本部総会が開かれました。戦後30年の節目を迎え、伸一は1時間20分にも及ぶ大講演で、幾つもの提言を表明しますが、私としては、「核兵器廃絶」と「日本の目指すべき進路についての言及に注目します。とりわけ、これからの日本の喫緊の課題として、政府が「弱者救済」を最優先させることをあげる一方、長期的には、「『経済大国』の夢を追うのではなく、文化をもって、世界人類に貢献する『文化の宝庫』『文化立国』とすべきであると提唱した」(360-361頁)とのくだりです。

 この時から約50年。「弱者救済」を社会・経済的課題として、公明党は政府に強く迫る姿勢を堅持してきました。その気運はあまねく日本社会の隅々にまで行き渡ってきています。もちろん、こういうテーマに、〝これで終点〟といった区切りはありません。永遠の指標だと思います。

 その際に、「弱者」存在の位相が時代の流れと共に、大きく変化していくことに注意する必要があります。経済格差の拡大で、「弱者」が少数化するどころか、中流層の下層への転落という観点も見逃せません。この当時は紛れもなく、「経済大国」への道をひた走っていました。それが今は、GDPで中国に追い抜かれるなど、国力の下降状況が懸念されています。だから、「夢よ再び」のごとく、経済大国へと、V字型の経済成長の復調を狙う空気が蔓延しています。しかし、それでいいのでしょうか。むしろ、「脱成長」へと舵取りを大転換すべきときではないか、とさえ私は思うのですが、さてどうでしょう。

●軍事政権下で苦しむ各国リーダーへの激励

 広島滞在中に様々な戦い──未来部への激励、海外各国指導者への指導やら、広島、呉など地域の友への訪問、激励など──を寸暇を惜しまず展開します。どれひとつとっても見逃せない重要なものばかりですが、私はここではあえて、軍事政権下に苦しむ国の幹部への伸一の指導に強い関心を持ちます。(365頁-404頁)

   【世界広布とは、仏法の人間主義の哲理を持って、人類を結び、世界の平和と人びとの幸福を実現することである。しかし、どの国や地域にも、軍事政権下にあって活動が制限されるなど、さまざまな困難が山積していた。伸一は力を込めて語った。「実情は厳しいかもしれない。でも、だからこそ、自分がいるのだという自覚を忘れないでいただきたい。私たちは獅子だ。どんな逆境も、はね返して、歴史の大ドラマをつくる使命をもって、生まれてきたんです」】(375頁)

   先日私が出席した地域の座談会で、未来部担当の女性が、「今ウクライナの戦争で苦しむSGIのメンバーがロシアのプーチン大統領の心に内在するはずの仏性を覚醒させる題目をあげているそうです。感動しました」と報告していました。嗚呼。(2022-9-27)

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【87】いつも見守ってくれてる存在──小説『新・人間革命』第22巻「波濤」の章から考える/9-20

●七つの海の波濤を越える物語の数々

   創価学会には沢山の人材育成グループがありますが、「波濤会」は、外国航路の船員たちの集いで、1966年(昭和41年)暮れに結成前夜の兆しがあり、5年後の1971年に結成されます。ここでは、1975年(昭和50年)8月の夏季講習会に第5回大会が開かれるまでの様々な動きやら、それ以降の各地の写真展に至るまでの感動的な様子が語られていきます。伸一の激励とそれに応えんとするメンバーの心意気が胸を打ちます。(204-264頁)

   波濤会が誕生してから、伸一が初めてメンバーの代表と会ったのは、結成大会の翌年1972年4月の兵庫県同志の記念撮影会の席上でのこと。その場で結成された三大学会に、波濤会の代表7人が加わっていました。神戸商船大学寮歌〝白波寄する〟の合唱に耳を傾け、じっと視線を注ぎながら、心でこう語りかけます。

 〝みんな、半年、一年と、船の中で孤軍奮闘する日々が待っているだろう。しかし、決して負けないでほしい。君たちには私がいるんだ!いつも、じっと見守っているぞ。凛々しく、胸を張って、威風堂々と歌った、この光景を絶対に忘れないでほしい〟──激励の言葉をかけた後に、次の様に記されています。

 【短いやりとりであったが、伸一は彼らと師弟の原点をつくろうと、真剣であった。原点があれば、心は揺れない。何があっても、そこに返れば、新しい力が湧く。原点を持つならば、行き詰まりはない。】(222頁)

  波濤会の原点が神戸にあると知ったのは、このくだりを聖教新聞紙上で読んだ頃ですが、その時から約13年。今年5月に、波濤会の写真展が神戸港埠頭であり、私は大学同期の友人を連れて初めて見に行きました。白い制服に身を包んだ波濤会員が丁寧に写真の説明をしてくれたものです。偶々そこに、近くの民放ラジオ局に勤める友人が通りかかったのです。驚きながら、〝波濤の語らい〟を。楽しいひと時になりました。

●女子部学生局の集いでの渾身の指導

 1975年9月9日、女子部学生局のメンバーの集いに伸一は姿を現し、激励をします。そこでは開目抄の一節『詮ずるところは天も捨てたまえ諸難にもあえ身命を期とせん』(御書232頁)を引いて、いざというときに信心を捨ててしまってはならないことを強調したのです。(267頁)

 「大聖人は『開目抄』で、さらに『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』(御書232頁)と仰せになっている。いかなる理由があろうが、信心を捨てれば敗北です。不幸です。地獄のような、厳しい苦悩の生命に堕ちていく」と力説し、御本尊を信じ切っていく中に幸福の大道があり、広宣流布の大願に生き抜いて行ってほしいと訴えます。

 ここでの「いかなる理由があろうが」の一句は本当に大事だと思います。私も信心して57年半。色んなことがありました。生きるか死ぬかの崖っぷちも一度ならずあり、坂道を転びそうにならなかったというとウソになります。その都度、原点の日(師と初の出会いの4-26)を思い起こし、奥歯をくいしばって耐えたものです。

 更にこの時のスピーチで、伸一が夜の会合の終了時間を8時半とする提案をしていることが注目されます。会合が早く終われば、家で勉強もできるし、早く休める、帰宅が遅くなれば、両親も心配するし、事件や事故に巻き込まれないとも限らない、と。

 若い男子青年の場合、ややもすれば遅くまでの会合が続くことが多かったことを思い出します。この『8-30運動』がどんなに有難いことだったか。本当にわかるのは相当時間が経ってからですが、革命的な提案でした。今は、コロナ禍のせいで、リアルの会合も少なく、リモート全盛の時代です。隔世の感が強くします。

●人材を見つけるということについて

 次に、7月始めの女子部首脳との懇談会での模様が印象的です。人材育成グループの人選の仕方について問われた伸一はあらゆる角度からアドバイスをしていきますが、私は次の所が目に止まりました。(283-284頁)

 「人材を見つけるということは、自分の眼、境涯が試されることでもある。たとえば、地上から大山を見上げても、その高さはよくわからない。しかし、高いところから見れば、よくわかる。同じように、自分に、人材を見極める目がなく、境涯が低ければ、相手のすばらしさを見抜くことができない。だから、自分を見つめ、唱題し、境涯を高めていくことだ」

 【人材を見つけようとすることは、人の長所を見抜く力を磨くことだ。それには、自身の慢心を打ち破り。万人から学ぼうとする、謙虚な心がなければならない。まさに人間革命の戦いであるといってよい】

 若い日に寝ても覚めても人材発掘に汗を流し、真剣に悩み祈ったことがあります。今はどうすれば、公明党の中に人材群を築けるかを悩み考え、闘っています。(2022-9-20)

 

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【86】わずかな変化や異常さを見逃さぬ敏感さ──小説『新・人間革命』第22巻「潮流」の章から考える/9-14

●イベントと寄付行為のどちらが大事か?

 第12回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション」に出席するために、伸一は1975年(昭和50年)7月22日に日本を発ちました。海外訪問の第一歩を記した初のハワイ訪問から15年が経っていました。あの時は手違いがあり、出迎えの姿はなく、座談会に集う人たちの数もわずか30数人でした。そのハワイに、全米から多くのメンバーが集い、州知事も出席しての全米総会です。準備のために、ワイキキの海に浮島のステージを作る大作業が行われました。地元テレビ局の取材に舞台設営担当のマーフィーがあたりました。(128頁)

   浮島を造るのに相当の費用がかかっているはず。そのお金をベトナムの孤児とか、世界の恵まれない子どもたちを助けるために使おうとは思いませんか、との皮肉混じりの質問が寄せられました。それに対して、マーフィーが答えた言葉が印象に残ります。

 そうした活動ももちろん大事ですが、そのためには、市民の一人ひとりが勇気と希望をもって、平和のために行動していこうとの心を呼び覚ますことが必要です。そのメッセージを送ることで、平和への大きな潮流が広がっていきます。その催しこそがこのコンベンションなのです。──こう回答したのです。

 日本でも創価学会の活動に対して寄せられる声の中で、これに類似したものがありました。入会したばかりの頃の私も、このテレビ局の人間のように、もっと直接的な寄付や募金を集めればいいのに、と思ったことが正直ありました。しかし、ここでマーフィーが答えたように、市民の心に平和への潮流を起こすには、迂回のように見えるイベントの大事さに気付いたものでした。草創期には必要なことでしょう。現在は、イベントと寄付とどちらも大事で、平行的な試みが大切だと思っています。

●批判する者と創造する者と

   コンベンションの演目の舞台に立った演奏者の紹介がされていきますが、その中で、ジャズピアニストのハービー・ハンクスの体験が注目されます。彼の音楽はデビュー当時の米国で、魂を揺さぶられる思いがするとの新風を巻き起こす一方、「これはジャズではない」とこきおろす評論家もいたようです。いつの時代もどんな世界でもつきまとうことなのでしょう。

 ハンクスのことについて触れたくだりで、ロシアの芸術家ニコライ・レーリッヒの「人間は『批判する者』と『創造する者』とに分けられる」との言葉が紹介されています。その上で、ハンクスを「ジャズ界の王者になる人です」と励ます伸一と、それに応えんとするハンクスの心意気、努力が語られます。このうち、彼の記者会見での言葉が読む者の胸に痛烈に響きます。(156-157頁)

 「ジャズは奏者のありのままの心の表情です。したがって、奏者の心がどこまで豊かかどうかで、その音楽の内容も決まっていきます。そして、豊かな心をもてるかどうかは、奏者が自己の心を豊かにする生命の哲理をもっているかどうかで決まってしまいます。その生命哲理が日蓮大聖人の教えであることを、私は自分の体験から知ったのです」

 批判か創造かと問えば、大多数の人間は批判する者を嫌います。しかし、評論と聞くと、ややニュアンスは違ってきます。一般的には、それに加えて、行動する人や、ついていくだけの人などというように細分化する向きもあります。私は常日頃「批判」「評論」に傾きがちな人間だと、自己認識しています。創造者の側面、行動者の立場、そしてそれを分析し評論する視線を忘れぬようにと、いつも心がけていますが、併せ持つことは難しいと自覚するばかりです。持って生まれた性格の特質に由来するのでしょうか。

●悪い報告の大事さ

  「ブルー・ハワイ・コンベンション」は大成功に終わるのですが、しかし、現実には想定外の事故が起こっていました。浮島で火災が発生したのです。発煙筒の火の粉が資材に燃え移ってしまいました。油断からの事故です。火災が起こるかもしれないと、当然視して注意を怠らなければ事故は防げます。それをしなかったので、起こってしまいました。(163-166頁)

    会場に到着した伸一は、焼け焦げた臭いが漂っていることから、何かあると察知しました。役員の青年に「安全は確認できてるね。大丈夫だね」と聞いたところ、「はい。もう大丈夫です」との答えがありました。しかし、その場では何も言わずにすましました。【リーダーには、微細な変化や異常を見逃さぬ敏感さがなくてはならない】と、この箇所では指摘されれいます。

 全ての行事が終わったところで、「良い報告よりも、むしろ、事故など、悪い事態が生じた時こそ、きちんと報告することが大事です」と、幹部の〝悪しき姿勢〟を厳しく注意します。こうした過ちに触れられるところは少ないだけに、事の重大さが身に染みて感じられました。(2022-9-15)

 

 

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【85】真心、誠意がすべてを動かす──小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章から考える/9-9

●共産党最高首脳との対話

 この年昭和50年は、戸田城聖第二代会長が先の大戦の敗戦直前の7月に出獄されてから30年が経つ年でもありました。この章冒頭では、記念集会において、伸一が戸田先生の「地球民族主義」の提唱を始め、世界の平和に向けて生涯走り抜かれた姿を宣揚。と同時に青年部代表が聖教新聞紙上で、『青年が語る戸田城聖観』と題する座談会に取組む様子が触れられていきます。5月末にソ連から帰国した伸一は、この頃各界の指導者、識者との対話に全力を注いでいました。そのうちの3人との対話が紹介されていきます。(38頁-92頁)

   7月12日に行われた宮本賢治共産党委員長と伸一との対談は、作家松本清張氏の仲介でした。毎日新聞の企画で幅広い「人生対談」として7月15日から39回にわたって連載されました。この間、7月27日には創価学会と共産党の間で、いわゆる〝創共協定〟が結ばれています。「相互理解への最善の努力をすることや、誹謗中傷を行わないことなどをうたった7項目を合意した」のです。協定期間は10年でしたが、延長はされませんでした。

 実は、この頃、共産党と公明党の最前線の党員、学会員の間ではトラブルがたえませんでした。ポスターが剥がされた問題や、ビラの配布を巡ってのいざこざが日常茶飯事でした。都内各所で暴力沙汰寸前に至るような雰囲気が漂っていました。そんなことがこの「協定」以後次第になくなっていきました。勿論、機関紙を通じての批判合戦は今になお激しく続いていますが、現場で学会員が行きすぎた軋轢や揉め事で困ることは次第に影を潜めていったのです。

 「ビッグ対談」とされたものの、中身の記憶は忘却の彼方ですが、〝余計な紛争〟にピリオドが打たれたことは率直にいって嬉しいことでした。後に衆議院議場で共産党議員と肩を並べて座るようになって、同党の権力追及への異常なまでの熱意に驚く一方、あいも変わらぬ〝嘘つき体質〟に呆れたりもしたものです。

●文芸家協会理事長との手紙のやりとりに感銘

 一方、伸一はこの春から、日本文芸家協会理事長で作家の井上靖氏との手紙によるやりとりにも取り組んでいました。この往復書簡は『四季の雁書』と題して総合月刊誌『潮』7月号から連載されました。連載開始に先立って、3月始めに二人が懇談をした内容も紹介されています。また、それに至るまでに、昭和43年のいわゆる言論問題において、文芸家協会の中から学会に対し抗議声明を出せとの声がありました。

 しかし、井上理事長は、『潮』の編集長に対して「先生(伸一)のことが、人間的な理解が伴わない形で、誤解されたまま、マスコミに喧伝されているのではないでしょうか」と述べ、マスコミの陥りやすい問題点を指摘しています。と同時に、自分が理事長である限り、抗議声明を出すつもりはないし、させませんと断定しました。このことを編集長から聞いて伸一は、「その真心が、熱く心に沁みた。この人のことは、終生、絶対に忘れまいと思った」とあります。当時、『潮』執筆者の中で、付和雷同的に執筆拒否をする者がいました。「苦境」に立った者への井上氏の思いやりが、私のような人間にも心底から有り難く心に響きました。

 往復書簡の中で、私が強く共鳴したのは、〝生涯青春〟をめぐるやりとりです。伸一の「青年期の信念を死の間際まで、貫き、燃やし続けるところに、真実の青春の輝きがある」との思いに対して、井上氏が「青春の姿勢を、死の瞬間まで崩すべきではない」と共鳴しています。〝生涯青春〟と口では言っても、死の間際に立ったことのない者は、自信が揺らぎがちです。日々の生活の中で鍛錬を怠らぬよう身に刻みたいものです。

 ●松下幸之助氏との心和む「往復書簡」

 また、松下電器産業の創業者・松下幸之助氏と伸一との往復書簡は、『人生問答』にまとめられていますが、ここではその中身が要約されています。とくに、私は「松下政経塾」の構想を述べて意見を聞いた幸之助氏に、伸一が賛同表明をためらったことに興味を持ちました。伸一は彼の健康を気遣い、政治家の育成よりも自身の健康、長寿を第一にして欲しいと思ったからでした。それでも意思を変えない幸之助氏に、伸一は折れました。すると、「ぜひ塾の総裁に‥」と松下氏は迫ったのです。

 これには驚きました。そこまで、松下幸之助という人は、伸一に信頼を寄せていたのかと。周知のように、「松下政経塾」は、多くの政治家を生み出しました。その大部分は旧民主党に参画しました。そして、一期生の代表・野田佳彦氏は首相にまでなりました。私は多くの同塾出身者を知りえましたが、概ね好感を持てる人達だったことが印象に残っています。松下幸之助氏と伸一の深く熱い交友が、松下電器の後継のパナソニック社に、そして政経塾出身の政治家に宿っていることを深く期待します。(2022-9-9)

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【84】精神のシルクロードの開拓──小説『新・人間革命』第21巻「宝冠」の章から考える/9-2

 

●テレシコワソ連婦人委員会議長(宇宙飛行士)との会見

 パリでの日程を終えた伸一たち一行は、5月22日に次の訪問地モスクワに向かいます。ソ連訪問は2回目。一週間の旅程で、限りなく深い日ソ交流の数々が展開されていきますが、私がまず感動したのは同国婦人委員会のテレシコワ議長との会談です。1963年(昭和38年)に、ボストーク6号で宇宙を旅した、世界初の女性宇宙飛行士で、宇宙からの「ヤー・チャイカ」(私はカモメ)の第一声が世界に知れ渡りました。(347-357頁)

 この時の場面で印象に残るのは、女子部の代表が、宇宙飛行士、妻、母親の三役を果たすにあたって、どのような努力を払ったのかとの問いに対しての同議長の答えです。「妻の時は妻に専念し、母でいるときは母に専念し、ベストを尽くしました。そして宇宙飛行士の時には、宇宙飛行士として全力を尽くし抜きました」

 これに対して、「簡潔にして的を射た答えである」と思った伸一は【人間は幾つもの課題を抱えているものだ。大事なことは、〝すべてやり切る〟と心を定め、その時、その時の自身の課題に専念し、全力で取り組んでいくことである。子どもと接している時に、仕事のことで悩み、仕事中に子どものことに心を奪われていれば、どちらも中途半端になってしまう】と述べています。

 人生万般にわたって大事なのは、当面する課題に熱中することだと思います。少し飛躍しますが、生死の問題も基本は同じです。死後のことや生命の永遠性について、なまじっかな想像力であれこれ悩まず、生きてる時は生きてるなかでの課題に集中、専念することが大事です。「死の瞬間は爆発だ」──だから、生の最高の状態で死を迎えることが大事だと、ある名医が述べています。言い得て妙です。それで行こうと、私も決意しています。

●モスクワ大学での名誉博士号受賞と講演

 この時の訪ソで最大のイベントは、モスクワ大学での伸一への名誉博士号授与式と、「東西文化交流の新しい道」との講演でした。海外の大学から名誉博士号を受賞されるのはこの時が初めてで、【意義深き「知性の「宝冠」】とされています。講演は、前年の米国カリフォルニア大学バークレー分校に続く2回目でした。

 「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり、人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたいのであります。それというのも、民衆同士の自然的意思の高まりによる文化交流こそ、『不審』を『信頼』に変え、『反目』を『理解』に変え、この世界から戦争という名の怪物を駆逐し、真実の永続的な平和の達成を可能にすると思うからであります」(379-380頁)

 この講演を聞いたホフロフ同大学総長は、「私たちは〝精神のシルクロード〟の開拓者になって」いく、と決意を述べると共に、「モスクワ大学の歴史に永遠に輝くものであり、両国の民間友好と、平和事業の前進へ、多大な貢献を果たしました」と力説したのです。

 今、プーチンロシア大統領のウクライナ戦争を前に、憤りと無力感を感じる人は多いと思います。しかし、この時に伸一によって打ち立てられた「精神のシルクロード」は、のちにゴルバチョフ大統領に受け継がれたことは間違いないと思います。残念ながらその流れはひとたび止まってしまいましたが、必ずや、未来において、また花開くに違いないことを確信します。

 そのゴルバチョフ大統領もつい先日(8月30日)に亡くなったことが報じられました。彼が世界史に果たした役割(ソ連崩壊)は何にも増して大きいと思いますが、一方ロシア国内では受け入れる人たちが少ないとの歴史的事実も見逃せません。残念なことです。地球民族主義的観点でしか、真っ当な位置付けは難しいのでしょう。

●コスイギン首相とのやりとり

 この後、コスイギン首相との会談が行われました。中ソ関係が史上最悪の状況にあり、日中平和友好条約の締結もソ連にとって大きな関心事でした。同首相が伸一に率直な意見を求めた場面での伸一の答えが、極めて印象に残ります。

 「何があっても、大局観に立って、悠々とすべてを見下ろすように様子を見ていくことも、一つの方法ではないかと思います」【(中ソ)両国首脳は、伸一という一つのパイプを通して、戦争を避けようとする心音と息づかいを感じていたのかもしれない】(395頁)

 演劇でいえば、舞台も役者も交代しました。日本と中国、ロシア、そしてアメリカも、すべての関係、流れが激しく揺れています。変わらないのは今それをじっと見つめる観客であり、各国の国民です。伸一が「悠々とすべてを見下ろす」ことの大事さを為政者に伝えましたが、同時に舞台を見上げる民衆も、変化に一喜一憂せず、悠々と事の本質を見抜くことが大事なのでしょう。(2022-9-2)

 

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【83】「文化」「教育」重視の価値観──小説『新・新人間革命』第21巻「共鳴音」の章から考える/8-23

●会長就任15周年と伸一会の発足

 1975年(昭和50年)5月3日、会長就任15周年の佳節がめぐってきました。ここではその間の戦いに触れたのちに、創価学会の目的が広宣流布、「立正安国」の実現にあることが改めて述べられていきます。(225-244頁)

 【この広宣流布は、「安国」という、社会の繁栄と平和の実現をもって完結するのである。「安国」なき「立正」は、宗教の無力さを意味していよう。また、「安国」がなければ、個人の幸福の実現もない。ゆえに、「立正安国」にこそ、仏法者の使命がある】(226頁)

   日本の宗教界の殆どがあまり「安国」に関わろうとせず、深い関わりのある政治を傍観してきました。それではならじと、公明党が結成されたのです。「社会の繁栄と平和の実現」がまだまだ遠く、「世界の平和」が「一国の平和」だけでは事足りないがゆえに、世界の各国を繋ぐSGIの結成もみてきました。壮大な「立正安世界」の動きにこそ、人類の行く末を握るカギがあると確信します。

 また、この日に、「伸一会」が結成されました。かつての水滸会に代わって、新しい創価学会を担う人材育成のためのグループです。この時の伸一の指導が胸に響きます。「戸田先生は、青年に対して『宗教家になれ』とは言われなかった。『国士たれ』と言われた。そこには、宗教の枠のなかにとどまるのではなく、さまざまな道に通じた指導者になってほしいとの思いがありました。広く、全人類の平和と幸福を築き上げることこそ、仏法の目的です」(239頁)

  このほぼ2年後に結成された伸一会2期生の一員に私も加わりました。果たして、戸田、池田両先生のお心に叶った「国士」足り得ているかどうか。深く自省する一方、未だまだこれから頑張らねばと決意しています。

●ローマクラブのベッチェイ博士との対談

 この8日後、伸一はフランス、イギリス、ソ連訪問に出発します。この年、三度目となる海外訪問で、旅程は18日間。フランス訪問の目的のひとつは、ローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ博士との会談でした。同クラブは、1968年(昭和43年)に、天然資源の無駄遣い、人口爆発、環境破壊などによる人類の危機を回避するために、同博士らが中心になって、世界各国の学識者や経営者らに呼びかけられ、発足した民間組織です。トインビー博士が伸一との対談後に、同博士と会うことを勧めていました。対話の輪がすぐさま広がったのです。

 文化交流の必要性、人間教育のあり方、時代状況を把握する方途など、多岐に渡った2人の対談で、日本の進むべき道について伸一が主張したことが、注目されます。「政治の次元は、必ず力の論理が、経済の次元では、利害の論理がどうしても先行する」とした上で、「これからの日本は、平和主義、文化主義の旗頭として、国際社会に、人類に貢献すべきです」と述べています。(269頁)

   明治維新から77年間、軍事優先できた日本は一国滅亡の危機に瀕し、戦後77年間というのは一転、経済優先できました。今、未曾有のコロナ禍危機に直面して、あらゆる意味で、これまでの価値観の転換が求められています。そんな時だからこそ、「日本の新しい在り方を『文化』『教育』に置いていた」伸一の考え方は、先駆的かつ重要な提案でした。ローマクラブの地球環境を守ろうとの動きは、今SDGsの動向へと結実し、地球的関心を高めています。その始まりもこの2人の対談と無縁でなかったと、感動を新たにするのです。

●「励ましの対話」の極意

 この章で私が強く感銘を受けた箇所は、フランス学会員の中核である長谷部彰太郎への励ましの場面です。パリ滞在5日目の17日にパリ会館から西に一時間ほどのところにある新しく彼が購入した家に、伸一は向かいます。実は彼は家を買うべきかどうか悩んでいました。画家であった彼には、定収はなく預金もありません。会合のための部屋が欲しく、将来のことを考えて、前年来日の折に、伸一に相談していたのです。

 その際に、伸一は、「断じてフランスで家を購入するぞ、と決めて真剣に祈ること」が大事だと強調、「ただ家がほしいというだけではなかなか叶わないかもしれない」とアドバイスします。長谷部はそれに対して、意外な顔をして、「何か、祈り方があるのでしょうか」と尋ねました。伸一はこう答えます。(290頁)

 「あります。フランスの人々の幸福と繁栄のために、広宣流布を請願し、祈り抜いていくことです」と、述べた後、事細かに具体的な祈り方を教えていきました。そして購入したら、必ずその家を訪問すると約束したのです。ここに、「励ましの対話」の極意を見いだします。伸一は、相手の悩みに対し、具体的な祈りのあり方を伝えて、目標も提示し、更に次の出会いも約束しました。長谷部はその心に必死に応えようと祈り動いたのです。(2022-8-27)

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【82】友好の輪は「誠実と信義」から──小説『新・人間革命』第21巻「人間外交」の章から考える/8-20

●佐藤栄作元首相との深い絆

   SGIの発足から米国での国連事務総長、国務長官との会見を終えた伸一は、一転、日本国内で政治家や大学の総長、各国の駐日大使らとの会見、交流を重ねていきます。まさに人間としての外交の真の展開をしていくのです。なかでもノーベル平和賞受賞直後の佐藤栄作元首相との会談は印象的です。実はこの二人の出会いはこの時(1975年2月)が初めてではなく、最初は1966年(昭和41年)1月の鎌倉・長谷の別邸でのことだったことが明かされます。以下、まずその時の元首相の発言から。

 「『人間革命』読みましたよ。厳しい言葉がありますね。総理よりも一庶民が偉いと書いてある」「創価学会は純粋ですね。気持ちがきれいだ。純粋に国のためを思っていることがよくわかる」──小説『人間革命』の感想から始まり、「若い世代が国の将来を思う心をなくしてしまった。本当に残念なことです」「欧米には、宗教的モラルがあるが、日本人には自らを律するものがないのが心配です。しかも、本来、モラルの模範を示すべき政治家が、決して模範になっていない、これは極めて由々しき事態です」──と、吐露しています。

 そして、吉田茂と一緒に写した写真の前で、「私の師匠です」と誇らかに。【一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は〝この人は心から信頼できる〟と思った】とあります。そして、「あなたの師匠は戸田さんでしたね」との元首相の問いかけから、師弟論に話は進みました。(107-113頁)

   私が初めて国会に取材記者として〝廊下トンビ〟をしたのは昭和44年。時の総理・佐藤さんの発言を予算委員会で聞いたのもその頃でした。その後約20年、歴代の首相の姿を見続け、一転、議員に選んでいただいてからの20年も。色んなことがありましたが、国会で走っていた私が、衛視に囲まれ前を歩く佐藤首相に危うくぶつかりそうになりました。そして、「言論問題」が取り沙汰され、心なき野党議員の論難に対し、とても冷静で適切だった佐藤首相の答弁ぶり。こんなことを思うにつけ、風格のある人物だったことを思い起こします。

●福田赳夫元首相とも

 続いて、福田赳夫元副首相(当時)との懇談も、1975年(昭和50年)3月に。「会長のことは、佐藤総理からも、よく伺っています」で始まりました。【一人の人と、誠実と信義で結ばれていくならば、そこから、友情の輪は幾重にも広がっていくのである。一人を誠心誠意、大事にすることだ。「一は万が母」(御書498頁)である】──ここでは、「心の財」や青年の育成についての会話が弾んだと、あります。(123-128頁)

    当時、私は入社6年目、30歳。仕事の上では「自民党批判」をあの手この手で展開していました。福田さんとの思い出は皆無ですが、後に自公政権で首相となったご子息の福田康夫さんとは、予算委員会で「大連立批判」の質疑をしたものです。個人的にも親しく付き合いました。福田さんについては、「対中国観」が安定していると感心したしだいです。突っ込んで聞く機会は逃しましたが、今も尚、強く印象に残っています。

●第三次訪中での鄧小平氏との会見

 この後4月に伸一は第三次訪中に向かいます。そこで、鄧小平副総理と2度目の出会いをします。この時、毛沢東主席、周恩来首相は健在でしたが、主席は高齢、首相は健康に問題がありました。中国を代表する鄧氏との間で、米ソ、中ソ関係など世界の情勢を巡って率直な意見交換がなされます。また、日中平和友好条約の締結についても。この時の会談で、最も注目されるのは、「覇権」に関する考え方です。鄧氏は、この当時の大国に対して、どこまでも「反覇権」を貫くことを強調したのです。

 この場面の後に、鄧小平氏は再び失脚し、その後2年ほどが経ってまた復活し、不死鳥のごとき活躍をしていきます。現代中国の礎を作ったのはまさにこの人物だといえます。今の中国を見ていて、鄧氏が伸一との会談で、中ソ関係の行く末について「問題は指導者です。今後、どんな人物が現れるかです」と述べたことが強く私の心を捉えて離しません。そっくり、そのままこれからの中国にも当てはまるからです。この時から、半世紀が経ち、中国は大きく国力を高めました。今この国の一挙手一投足が世界の関心を集めています。

 「反覇権」を中国自らが貫くのか。また、これからのこの国の指導者には誰がなっていくのか──この2点に私の興味も集中しています。私たちは現在の中国の指導者の表面上の発言や動きを見て一喜一憂しがちですが、底流に流れるものを見据えていく必要を痛切に感じます。伸一が渾身の力を込めて築いた日中関係をどう発展させていくか。後継者たちが残された遺産をどう活かしゆくか。大学時代からだと60年ほど、いつも考えるところです。(2022-8-21)

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