【94】仏法の因果の理法の凄さ──小説『新・人間革命』第24巻「厳護」の章から考える/11-13

●自身の慣れ、惰性を打ち破る大事さ

   この章は、事故をいかにして起こさないかについて、さまざまな角度から述べられています。直接取り上げられているのは、創価学会の会員や建物をどう護るかですが、世の中全般に応用が効くテーマです。1976年(昭和51年)晩秋の夜、本部周辺を歩く伸一と牙城会(会館警備に携わる)メンバーとの語らいから始まります。

 まず山形県酒田市での大火(10月末)から何を学ぶかについて触れらています。危機管理とは、自身の「慣れ」という感覚を打ち破るところから始まる、とあります。更に「注意力というのは、一念によって決まる。〝事故につながりそうなことを、絶対に見落とすものか〟という、責任感に裏打ちされた祈りが大事なんだ。その祈りによって、己心の諸仏諸天が働き、注意力を高め、智慧を沸かせていくからだ」(104頁)と。

 牙城会員に、会館を護るに際しての具体的な注意事項を伸一は伝えていきます。「事故を防ぐには、みんなで、よく検討して、細かい点検の基本事項を決め、それを徹底して行っていくことだ。(中略) 基本を定めたら、いい加減にこなすのではなく、魂を込めて励行することだ。形式的になり、注意力が散漫になるのは、油断なんだ。実は、これが怖いんだ」とも。

 昨今油断からとしか言いようがない、事故、事件が相次いでいます。児童が密閉された送迎バス内に取り残されて死に至る事故から、大臣の失言に至るまで、呆れるばかりの基本を無視し、不用意で無責任な行動や発言が社会全般に目立ちます。法相の「死刑」にまつわる驚くばかりの発言は、人間の生死に関する無頓着さだけでなく、大臣として目立ちたい、お金につながりたいというようなさもしい感情が仄見えるものでした。

 彼とは過去に一緒に仕事をしましたが、なかなか優秀で有能な人材でした。その心の奥底に傲慢さがひそんでいたというしかありません。公明党議員のなかにも昨今政治家として恥ずかしい不祥事が相次いでいます。惰性と油断です。自戒と猛省を促したいものです。

●真剣、誠実、勤勉であることが勝利への道

   ついで女子部の白蓮グループ(会合の運営一切に携わる)についての激励が展開されます。

 【仏法では「因果応報」を説いている。悪因には必ず苦果が、善因には必ず楽果が生じることをいう。しかもその因果律は、過去世、現在世、未来世の三世にわたって貫かれている。過去における自身の、身(身体)、口(言葉)、意(心)の行為が因となって、現在の果があり、現在の行為が因となって、未来の果をつくるのである】(144頁)

    【他人の目は欺くことができても、仏の眼は絶対に欺くことはできない。広宣流布のために祈り、尽くし、苦労した分だけが自身を荘厳するのだ。仏法の因果の理法の眼から見る時、真剣であること、勤勉であること、誠実であることに勝る勝利の道など、断じてないのである】(147頁)

   「冥の照覧」──人間自身に備わった因果律を信じるか信じないか。これが日蓮仏法の究極ですが、それを確信することの重要性が繰り返し語られます。若き日よりこの法理の捉え方をめぐって悩み考え、先輩、同僚、後輩、友人と語り合ってきました。押しては返す海辺の波のように、人生の苦難は襲いきたります。つい弱気が頭をもたげますが、その都度、強気で楽観性を持って、立ち向かおうと我が身を励ましています。

●「諸法実相抄」講義を通じて人間の生き方示す

   1977年(昭和52年)は、「教学の年」。創価学会は新年から山本伸一の聖教新聞紙上での日蓮大聖人の『諸法実相抄』講義でスタートします。

 【人間とは何か。生命とは何か。自己自身とはいかなる存在なのか。なんのための人生なのか。幸福とは何か。生とは何か。死とは何か。──仏法は、そのすべての、根本的な解答を示した生命の哲理である。したがって、仏法を学び、教学の研鑽を重ねることは、人生の意味を掘り下げ、豊饒なる精神の宝庫の扉を開く作業といってよい】(166頁)

【「諸法実相抄」講義で伸一は、大宇宙、社会の一切の現象は、妙法の姿であること、そして、御本尊は、大宇宙の縮図であり、根源であることを述べていった】(170頁)

【題目を唱えれば、もちろん功徳はある。しかし、〝病気を治したい〟という祈りが、深き使命感と一致していく時、自身の根本的な生命の変革、境涯革命、宿命の転換への力強い回転が始まる】(176頁)

 この講義が掲載された年、私は32歳。中野区男子部長となり、同区内を駆け巡る原動力にしていました。そして『新・人間革命』のこのくだりを聖教新聞で拝読した2010年10月頃は65歳。ひとたび落選した後に蘇って当選という史上初の経験をしたあの選挙の翌年でした。生命の底からの感動と共に大衆の中に分け入っていったものでした。(2022-11-13)

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【93】「精神革命」の傍観者から実践者へ──小説『新・人間革命』第24巻「母の詩」の章から考える/11-5

●東西の実践者の革命的対談より半世紀

 アンドレ・マルローは、〝行動する知識人〟として知られた戦後のフランスを代表する作家。1976年(昭和51年)の8月末に、彼と伸一との対談集『人間革命と人間の条件』が出版されました。二人は、1974年と75年の二度にわたって対談、それをまとめたものです。これには著名な評論家・桑原武夫の「実践者の対話」という序文が寄せられました。ここからこの章は始まります。(7-13頁)

    桑原は伸一を「平和精神の普及と、それによる人類の地球的結合とを説いて全世界に行脚をつづける大実践者」と評した上で、マルローがなぜ、創価学会に強い関心を寄せているかについて語ります。「政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力を持った西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本とは比較にならぬほど強い興味をもっている」と。

 マルローは、西欧でかつて人間形成の役割を果たしてきた宗教的秩序が、今や失われてしまったと指摘すると共に、「会長は、日本で、この人間形成のための偉大な宗教的秩序という役割を果たすことができます。世界的価値の見本を示すことができましょう」と述べています。世界の精神的現状への強い危機感を示すマルローに対して、伸一は21世紀をどう見るかを聞きます。彼は「現在の与件からはいまだ予想できない」としつつも、「まさに一つの精神革命といっていい」ほどの〝計り知れないほどの現象〟が現れると答えました。我が意を得た【伸一は、その精神革命の基軸たり得るものこそ、仏法であるとの確信を力説した】と、あります。

 この対談を読んだ当時、私は30歳になったばかり。21世紀には「素晴らしき新世界」がくると勝手に楽観的な希望を持ちました。しかし、現状は表面的には逆の方向にあります。人類は西も東も、南も北も混迷と混乱の一途を辿っているかに見えます。だがそれを嘆くだけでは、傍観者です。「精神革命の方途」を知った人間が「自己変革への不断の戦い」を持続し、更に周りに広げゆく実践者として立ち上がるしかないのでしょう。

●母親が境涯を高め、聡明さを身につけること

 続いて、各方面での文化祭に舞台は移ります。東京文化祭での激励のあと、伸一は母の容態の急変を聞き大田区の実家に向かうところから、「自身の母への回想」と〝母なる存在への思索〟が展開されていきます。とりわけ伸一の作詞した『母の歌』をめぐっての動きと、現実に永眠しゆく母への思いが交錯したくだりは強く読むものの胸を揺さぶります。(42-87頁)

   【母性、母親への賛辞は、時には自分を犠牲にしてまで子どもを守り、生命を育もうとする愛の、強さと力への賞賛である。「開目抄」には、激流に流されても、幼子を抱き締めて、絶対に離さなかった母の譬えが引かれている。子を思う慈念の功徳によって、母は梵天に生じたと説かれる。大聖人は、人間の一念の在り方を、この母の慈念を手本として示されたのである】──こう原理が示された上で、具体的な母のありようが次に描かれています。【母は子どもにとって最初の教師であり、生涯の教師でもある。それゆえ、母が確固たる人生の根本の思想と哲学をもつことが、どれほど人間教育の力となるか。人間完成へと向かう母の不断の努力が、どれほど社会に価値を創造するか。母が境涯を高め、聡明さを身につけていった時、母性は、崇高なる人間性の宝石として永遠なる光を放つのだ】

 昨今の世相は残念ながら母の子への虐待など、信じられないような無体な犯罪が日常茶飯に報じられています。何かが狂っている──人間性の破壊を目の前に、こう思わざるを得ない現実をどう変えていくか。時代の綻びたる〝無教育現象〟を座視せず、ここでも傍観者から実践者への転換が求められています。

●牧口園はなぜ東海研修所に開設されたのか

 この年の3月に静岡県熱海市の東海研修所に、初代会長牧口常三郎の遺徳を顕彰するための牧口園が開園されていました。伸一は9月14日にここを訪れます。大沢光久園長に、伸一はなぜここに牧口園を開設したかのわけを、温暖で風光明媚なところだからと強調します。また、研修会では、なぜ、先師と恩師を守り、宣揚するのかと問いかけ、それは、私たちに、大聖人の仏法を、御本尊を、御書を教えてくださったのが牧口先生、戸田先生であったからだと力説します。(90-92頁)

 先師、恩師を敬い、尊敬していてもその心を具体的に表す実践がなければ、絵に描いた餅と同じです。牧口先生が冷たい監獄で最後を迎えられたからこそ、温暖で風光明媚なところを宣揚する場所として選び、先生の死身弘法のご一生に弟子としての赤誠の志を顕すのだ──伸一のこの熱い思いを知って、慄然とします。観念だけでは通用しないことを学ばねばなりません。(2022-11-5)

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【92】「猶予付き死刑囚」との自覚──小説『新・人間革命』第23巻「敢闘」の章から考える/10-31

●臨終の事を習いきったのかとの自問

 1976年(昭和51年)夏、男女青年部の結成25周年を迎え、伸一は中部指導に赴きます。その際に三重県白山町の三重研修道場で開かれた第一回青春会総会(7月23日)で、女子部に対する根源的な指導をしました。ここでは「宿命」について次のように語られています。(289-292頁)

  「人生には生老病死の四苦がつきまとっています。生まれてくること、生きること──そこにも、常に苦しみがあります。生を受けても、経済的に豊かな家に生まれる人もいる。反対に、食べていくことさえ大変な、貧しい家に生まれる人もいる。(中略) そこに宿命という問題がある。これは学問や科学では割り切れない問題です。既成の宗教でも解決できません。日蓮大聖人の大仏法にしか、この問題を解決し、乗り越えていく道はありません」と述べ、女性の一生に即して、結婚による嫁と姑、夫の仕事や病、死別、出産した子どもの先天的な病、自身の難病など細かく例を挙げ、信心が宿命を乗り越えていくためのものであると、力説しています。

 私の身近なケースで言うと、姉の出産した子どもの病が最も難題でした。そこから夫婦間の齟齬が起き、家族生活の破綻の危機に直面しました。ですが、信仰の力で乗り切りました。また、私自身、最初に授かった子どもが重度の障害を持っていました。生まれ落ちると同時に、というか死産の状態でこの世に出てきたのです。入信前後に、こうした「宿命」について常に考えていただけに、見事なまでの一致に驚愕しました。あの子の生命力が強ければ、一緒に悩み暮らしたかもしれません。また、それを契機に力強い人生を歩んだかも分からないのです。妻も私も、重度身体障害の娘を授かると同時に死別したことの意味を深く考えたものです。

 続いて「老」と「死」について伸一が語っているところが注目されます。文豪ユゴーの『人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ』という言葉や、トインビー博士の「日本の仏法指導者であるあなたと、仏法を語り合いたかった。教えてもらいたかった」との発言が引用されています。

 若き日の私は、日蓮大聖人の「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書1404頁)のくだりを読み、心底同意して、懸命に祈り、考えました。そして、政治、法律、経済、文学などの諸学問を学習しました。様々な信仰上の体験、学問上の経験も一応型通り積ませていただきました。では、今全て盤石かどうか。残念ながらそうは言えない心許なさが76歳の今もつきまといます。今も日々我が生命の弱さと戦い続けているのです。

●長田耕作の話と明石の関わり

 一方、7月26日に同じ研修道場で中部学生部の夏期講習会があり、懇談会の場が持たれました。そこで神戸出身の長田耕作学生部長とのやりとりが注目されます。寿司職人であった彼の父親と母親の苦労が語られ、苦難を乗り越えて蘇生してゆく姿が描かれていきます。そこで、戸田城聖先生の生まれ故郷の「厚田村」とその歌にまつわる思い出が語られ、「学生部厚田会」が結成されていくのです。(312-320頁)

    実は、先年、この長田耕作のモデルとなった中部の幹部に私は直接電話をして、体験談を改めて少し聞き直したり、その背景などを聞きました。なぜかといいますと、長田家に「初信の功徳」が現れたとの記述のあとに「かつて面倒をみた知人が、兵庫県の明石にある店舗を貸すから、もう一度寿司店を開かないか」との連絡をくれたとあるからです。つまり、この一報から長田の家族に幸運がもたらされたのです。私は今、明石に住んでいます。明石の学会員同志は、この小説のこの箇所に出てくる「明石」の文字に伸一とのえにしを感じていると伺いました。この事を伝えて、お互いの信心の激励に供したかったのです。

●幹部の堕ちていくパターン

 8月25日には九州研修道場での「伸一会」の懇談会の模様が描かれています。そこでは幹部が退転していくケースについて、厳しい口調で次のように語られていく場面が印象に強く残ります。(368-371頁)

 「私は戸田先生の時代から、傲慢な幹部たちが堕ちていく姿を、いやというほど見てきました。地道な活動をせず、威張りくさり、仲間同士で集まっては、陰で、学会への批判、文句を言い、うまい儲け話を追い求める。そういう幹部の本質は、私利私欲なんです」とのくだりです。(369頁)

   実は私は伸一会メンバーなのですが、2期生ですので、こ場には臨んではいません。しかし、先輩幹部から口伝えで聞きました。この指導は全ては当たらずとも、部分的一致を感じ、〝当たらずといえども遠からず〟を戒めてきました。長く生きると「進まざるを退転という」事例に数多直面します。これではいけない、と我が身を叱咤激励するのです。(2022-10-31)

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【91】一念の大きな転換とその契機──小説『新・人間革命』第23巻「勇気」の章から考える/10-18

●田原薫の激励に奮い立った二部学生たち

 創価大学の通信教育部の開学式が行われた1976年(昭和51年)5月。創価学会学生部の二部(夜間部)に学ぶ男子学生による「勤労学生主張大会」も東京・江東公会堂で開かれました。二部学生の間には、伸一によって「飛翔会」という名の人材育成グループが前年8月に結成されていました。伸一直結の育成によって学内活動も活発化していました。この章では、二部学生に対する様々な指導、激励が記述されています。(197-237頁)

   「私も夜学に学んだ。二部学生は、皆、私の大切な後輩たちだ。二部学生は大事だよ。貴重な青春時代に、働きながら学ぶという逆境に身を置いて、自らを鍛え抜いている。そうした青年が、大人材に育たぬわけがない。学会の宝だよ」(200頁)

    飛翔会が結成された日に、田原薫学生部長の指導が強く胸を撃ちます。伸一の提案を伝えると共に「これで、私たちの大成の種子は植えられました。その種子が芽を出し、花を咲かせ、勝利の実りをもたらしていくかどうかは、ひとえに、今後の個々人の決意と実践にかかっております。断固、戦いましょう!」と述べ、二部学生こそ、歴代会長の精神を受け継いで、師弟不ニの直道を永遠に歩み抜いていこうと呼びかけたのです。意気天を衝くかのような学会歌の大合唱。参加者のどの目も光り輝き、どの頬も紅潮していた、とあります。

 【彼らの置かれた状況も、立場も何一つ変わったわけではなかった。しかし、会場を後にした時には、使命に生きる歓喜が脈打ち、世界のすべてが変わったように感じられた。自身の一念の大きな転換がなされたのだ】(210頁)──こうした経験は私も幾たびかしたことがあります。興奮の坩堝と化した会場で、必ずや自分の使命を果たすべく頑張ろうと誓い、自身の当面する課題解決へ戦う一念を定めました。人間は、色んな場面で出会った人の話を契機に、あるいは出会ったモノやコトによって、立ち上がっていくといえましょう。

●「人間革命」の歌の完成の背景

 ついで、場面は同51年7月18日昼過ぎ。新しい学会歌「人間革命の歌」の作曲に伸一が没頭するところに移ります。テーマはかの昭和31年の参院選大阪選挙区に起因する大阪事件での関西の壮絶な戦いに触れられていきます。「7-3」に事実無根の公職選挙法違反容疑で不当逮捕された伸一は、「7-17」に出獄しました。ちょうど20年を迎える「7-17」に、「人間革命」の歌を完成させ、18日の本部幹部会で発表することにしていたのです。(253頁)

 伸一が新しい歌を作って、会員同志を勇気づけようとしたのは、単に20年の節目だったからだけではありません。当時世界平和のために中国、ソ連の社会主義国を相次いで訪問する一方、日本共産党の委員長と会っていたことなどが背景にありました。学会は共産主義に接近しようとしているのでは、との偏狭な心からの警戒感が渦巻いてきていました。また、宗門の僧侶からも言われなき非難中傷を浴びせ始めてきていたのです。

 当時、私は中野区男子部幹部の一翼を担って日夜飛び回っていました。「人間革命」の歌の完成にもただただ喜び、襟を正し厳粛な思いで歌っておりました。背後の種々の複雑な動きなど分からぬ凡庸な弟子でしたが、中ソ関係への伸一の尽力や創共協定締結に、時代のうねりを直感し発奮したものです。

●山本有三の戯曲「同志の人々」から汲み取る

 「人間革命」の歌が制作される過程で、当初五行詞だったところを四行詞に削らざるを得ないというくだりが出てきます。最終的に、二行目の「同志」にまつわる箇所が削られるのですが、それに関連して、作家・山本有三の『同志の人びと』という戯曲への、若き日の伸一の共感が語られるのです。ここは、極めて興味深い輝きを放っているように思われます。(270-275頁)

   この戯曲は、幕末の文久2年(1862年)に京都・寺田屋で捕らえられた8人の薩摩藩士をめぐる事件での船の中が舞台となっています。幕府の反応を気にした藩の圧力を前に、藩士たちの心は揺れ動きます。仲間の公家の親子たち同志を殺してでも、生きのびようとすることに傾く皆の心。それに対して、是枝万介という藩士が真っ向から異を唱えます。犠牲をいとわず大義に生きる道を選ぶものと、同志を裏切ってでもその場を凌ごうとするもの。相反する二つの立場が対比されて描かれていきます。

 青年時代にこれを読み、「志を持った人間の生き方に、鋭い示唆をなげかける作品であると思った」と強い感慨に打たれます。私たち広宣流布に生きるものとしても、ときに直面するテーマだと、考えざるを得ません。伸一は「同志」という言葉をいれたくも歌詞の流れ上削らざる得ず、その分だけ、中身を詳しく紹介して、私たちに熟慮を促されているのです。(2022-10-18)

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【90】生涯が学習、生涯が勉強──小説『新・人間革命』第23巻「学光」の章から考える/10-12

●日々の粘り強い研鑽のなかにのみ

  「皆さん方は、〝創価教育体現の第一期生〟である」──1976年(昭和51年)5月16日、創価大学に集った通信教育部生を前に伸一は訴えました。この日、開学式に集った通教生はどんなに嬉しかったことでしょう。そのスピーチで、伸一は、牧口常三郎初代会長が提唱した「半日学校制度」に言及して、「生涯が学習である、生涯が勉強である。それが人間らしく生きるということ」だと強調しました。(108頁)

   伸一は、かつて戸田城聖二代会長の事業が窮地に陥り、それを支えるために自身の学問への道を断念せざるを得なかったこと。その代わり、戸田が直接様々な学問を直接講義してくれたことを、その場で語りました。「それは文字通り、人生の師と弟子の間に〝信〟を〝通〟わせた教育でありました」と。【伸一は、創価大学の通信教育の「通信」という意味も、郵便による伝達ということではなく、師と弟子が、互いに〝信〟を〝通〟わせ合う教育ととらえていたのである】(109頁)

   ここで展開されている「生涯教育論」は極めて大事なことです。義務教育の9年から高々プラス6年ぐらい学校に通って、それ以降は学ぶことから遠ざかってしまう人たちがもっぱらです。それではいけない。「学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽のなかにのみあることを銘記していただきたい」と述べられいることは、誰にとっても重要な問題だと思われます。

 私は、若い時から出来るだけ本を読むこと、様々な媒体からその道の専門家の論述を吸収することを心がけてきました。それは、学生時代にあまり学問をしなかったことの反動かもしれません。年を取るにつれ、そのことを反省して、学び、吸収するインプットに力を入れるようにしてきました。一方、出来る限り、世に自身の考えを問いかけるアウトプットにも同じように努力を傾けてきています。

●何があっても負けない精神の核

   この章では、通教生のスクーリングでの伸一との出会い、学光祭、卒業式などでの語らい(105-145頁)などと共に、9人ほどのメンバーの体験談が紹介されていきます。それぞれ胸打つ感動的な内容です。(145-186頁)

   いずれも凄い体験ばかりですが、その通教生たちの熱い思いが、開設いらい毎年開かれてきた学光祭に集約されていきました。そのうち第5回学光祭に伸一は初めて出席したのです。そこで発表された愛唱歌「学は光」の三番がとりわけ胸をうちます。

 🎶重きまぶたを こすりつつ  綴りし文字に 夢馳せて 夜空の星の またたきは 微笑む 我が師の

瞳にも似て いざや王者の 道なれば 〝学は光〟と今もなお‥‥‥

【伸一には、通教生たちの苦闘が痛いほどわかった。彼自身、青春時代に、大世学院の夜学に通い、苦学してきたからだ。また、会長として、同志の激励に全国を東奔西走するなか、寸暇を惜しんで、リポートの作成に取り組んだこともあったからだ】

 そして、「皆さんは、他人との比較においてではなく、自分自身に根を張った人間の王道を、自分で見いだして、自分でつくり、自分で仕上げていっていただきたい。名誉や、有名であるといったことなどに、とらわれるのではなく、障害、勉学を深めながら、自分らしい、無名の王者の道を生きてください」と訴えました。(185-186頁)

   「悪名は無名に勝る」という諺が一番幅をきかせているのが政治の世界です。名前が知られていないということを最も恐れるがゆえに、悪名をとどろかす方がましだというわけです。かつて、「国会は魔の巣窟」ともいわれていました。普通の常識が通らない世界だということでしょう。そんな世界にいる人間は普段から、自身を磨き上げ、魔に負けない強い自己を築くことしかないと思いますが。

●「通教は創価大学の生命線」

  1999年(平成11年)7月に創価大学本部棟の落成式が行われました。その建物には、優先的に通信教育部の教員の研究室と事務室が入り、そこで行われる最初の授業は通教生の夏期スクーリングにすることを伸一は提案しました。これは、通教は、創価大学の生命線であるとの考えからでした。(194-195頁)

   その本部棟の前に立つ「学光の塔」。その塔には、伸一が、創価大学に学ぶ一人ひとりへの期待を込めて綴った一文が刻まれているのです。

 「『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』これ、創価教育の父・牧口常三郎先生の精神なり。この『学光』を以て永遠に世界を照らしゆくことが、我が創価の誉ある使命である」

 世界は今混沌としています。かつて差配した超大国は見る影もなく、片や国内分断に悩み、片や世界分断の元凶と成り下がっています。それに代わる勢力は未だ真実の姿を表していません。「創価の誉ある使命」の重大さを痛感するのです。(2022-10-12)

 

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【89】深刻な現代の子どもたちの悩み──小説『新・人間革命』第23巻「未来」の章から考える/10-4

●「未来の国から来た王子様と王女様」

 「吾々は未来に望を嘱して子孫の計を立てんのみ。今の処、誰が考えても教育以外に適当なる救済の道は見出し難かろうからである」──これは創価教育の父・牧口常三郎初代会長の言葉です。この章は冒頭にこの引用から始まり、伸一の【子どもを育成するということは、未来を建設することだ。ゆえに、教育は、最も大事な聖業となる】との記述に繋がります。1976年(昭和51年)4月16日に新たに開設された北海道・札幌創価幼稚園の入園式の模様から描かれていきます。(7頁-75頁)

 「入園式の日、創立者の山本先生が、迎えてくれたことを覚えています。『あっ、先生だ!』と指をさすと、『おいで!』と言って、膝の上に乗せてくださいました。幼稚園では、担任の先生から、いつも『あなたたちは、未来の国から来た、王子様、王女様なんだよ』と言われ、本当に大事にされていました。私は創価幼稚園に入るまで、近くの保育園に通っていましたので、子どもへの接し方の違いが、よくわかりました」──これはのちに同幼稚園の教員になった一期生の女性が当時を振り返った言葉として紹介されています。

 園児たちに接する伸一の姿勢はまた、深い感動を呼び覚まします。【伸一にとっても、園児たちは宝であり、その存在は生涯の誇りであった。互いに誇りとし合う、この魂の交流にこそ師弟がある。

  使命ある あの子 この児を 忘れまじ 来たる世紀の 主役なりせば 】(74頁-75頁)

 このところ小さな子どもたちを扱う大人たちの不注意や、無責任さが原因の悲しく痛ましい事故が相次いでおきています。また親の小児虐待も後をたちません。何かが狂っていると思わざるを得ない社会的現象に、我が身の周辺を戒めると共に、社会全体で子どもを育てるという意識の大事さに思いをいたします。

●札幌に続き、香港など世界各地に相次ぐ幼稚園の開園

    この後、 札幌に続いて、香港(1992年)、シンガポール(1995年)、マレーシア(1995年)、ブラジル(2002年)、韓国(2008年)と世界各地に創価幼稚園(韓国の名称は幸福幼稚園)ができていきます。伸一はそれぞれの開園式に訪問したり、メッセージを贈ったりしました。喜びを共有して励ます様子が綴られていて、微笑ましく、心和む思いになります。(75頁-101頁)

    香港では2003年(平成15年)に、新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)が猛威をふるいました。そのニュースを聞くや、直ちに伸一は大量のマスクを購入し、届けます。その後、市中では子ども用マスクが品切れになり、園児や親たちはその配慮の深さに喜びました。その後、幼稚園は2ヶ月ほど休園に追い込まれますが、教員たちはビデオCDを自分たちで作り、各家庭に送ったのです。幼稚園のこの対応については、高い評価を受け、香港の新聞でも大きく報道されました。

 2006年には、香港の創価幼稚園は政府教育局などの視察の対象になりました。公表された評定リポートで「創立の主体となってる団体(SGI)は、教育に関する経験が豊富であり、国際的な視野を持っている」としています。さらに、「『人間主義の教育』を実践しており、バランスのとれたカリキュラム(教育課程)により、園児の体力、知力、外国語、情緒、美的感覚、集団行動等の能力が、全体的に向上するよう考慮されている」とし、最終的に、教職員、保護者が緊密な連携をとりあっていて、園児たちも幼稚園生活を楽しんでいる様子が絶賛されています。(86頁-87頁)

   香港の創価幼稚園は開園から30年。当時の園児たちも最長で30代後半の歳頃です。激動する香港でどのような生活を送っているのか気になります。真相を知りたいとの思いが募ってきます。

●牧口先生の今に伝わる子どもたちへの思い

   初代会長の牧口常三郎先生は『創価教育学体系』第一巻を1930年(昭和5年)11月18日に発刊しました。この日は創価学会創立記念日ですが、同時に「創価教育原点の日」でもあります。伸一は、2008年(平成20年)のこの日に世界6カ国の幼稚園に新たな指針を贈りました。

 「何があっても 負けない人が 幸福な人」「みんな仲良く 僕たち家族」「父母を大切にする人が 偉い人になる」【彼は、最も大切な幸せへの道を、人間としての生き方を、清らかな子どもたちの生命に、あらためて打ち込んでおきたかったのである】(102頁)

   「児童や生徒が修羅の巷に喘いでいる現代の悩みを、次代に持ち込ませたくないと思うと、心は狂せんばかり」──『創価教育学体系』の発刊に寄せた牧口先生の思いです。

 時代は変わりました。だが、世界の巷には修羅が続いているように見えます。この牧口先生の思いをどう受け止めるべきでしょうか。事はより深刻です。(2022-10-5)

 

 

 

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【88】見えない心に無限の力──小説『新・人間革命』第22巻「命宝」章から考える/9-27

●「病気の医師」でなく、「人間の医師」たれ

 1975年(昭和50年)9月15日は、医師や薬剤師らで構成されるドクター部の第三回総会が行われました。これに初めて出席した伸一は、積極的な意味での健康の重要性を語り、「『病気の医師』でなく、『人間の医師』であれ」と力説しました。その際に大聖人の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(御書1173頁)を拝読し、三つの財宝のうち、なぜ心の財が一番大事なのかについて、以下のくだりを始め、様々な角度から強調されています。(307-336頁)

 【心は見えない。しかし、その心にこそ、健康の、そして、幸福のカギがある。心の力は無限である。たとえ、「蔵の財」や「身の財」が剥奪されたとしても、「心の財」があれば、生命は歓喜に燃え、堂々たる幸福境涯を確立することができる。】(334頁)

    この3つの種類の財宝についての考え方は、とかく誤解をする向きがあるように思えます。例えば、心の財がいくらあっても、身や蔵の財がなければ、始まらない。故事に〝衣食足りて礼節を知る〟、〝窮すれば鈍する〟ともいうではないか、との視点です。これらは、人間にとって、有限のものと無限のものを比較するところからくる誤りでしょう。健康は、老化との戦いなど限りがあります。富も自ずと無限というわけにいきません。一方、心は本来、無限に充ちています。その豊かさによって、今の弱さも貧しさも、いつでもプラスの方向に変えられるということを指摘されているのです。

 私の友人に、この3つはいずれも大事で、蔵の財も身の財も心の財もみな第一なりと読むべきだと、我見を展開して憚らない人がいます。それは次元の違うものを一律に捉えようとするものだといえましょう。無から有を生じさせる根底の力は心にあり、蔵や身の財は後からついてくるものと、ここは抑える必要があります。

●広島の本部総会で示された核廃絶と日本の進路

 この年11月9日に、広島の地で本部総会が開かれました。戦後30年の節目を迎え、伸一は1時間20分にも及ぶ大講演で、幾つもの提言を表明しますが、私としては、「核兵器廃絶」と「日本の目指すべき進路についての言及に注目します。とりわけ、これからの日本の喫緊の課題として、政府が「弱者救済」を最優先させることをあげる一方、長期的には、「『経済大国』の夢を追うのではなく、文化をもって、世界人類に貢献する『文化の宝庫』『文化立国』とすべきであると提唱した」(360-361頁)とのくだりです。

 この時から約50年。「弱者救済」を社会・経済的課題として、公明党は政府に強く迫る姿勢を堅持してきました。その気運はあまねく日本社会の隅々にまで行き渡ってきています。もちろん、こういうテーマに、〝これで終点〟といった区切りはありません。永遠の指標だと思います。

 その際に、「弱者」存在の位相が時代の流れと共に、大きく変化していくことに注意する必要があります。経済格差の拡大で、「弱者」が少数化するどころか、中流層の下層への転落という観点も見逃せません。この当時は紛れもなく、「経済大国」への道をひた走っていました。それが今は、GDPで中国に追い抜かれるなど、国力の下降状況が懸念されています。だから、「夢よ再び」のごとく、経済大国へと、V字型の経済成長の復調を狙う空気が蔓延しています。しかし、それでいいのでしょうか。むしろ、「脱成長」へと舵取りを大転換すべきときではないか、とさえ私は思うのですが、さてどうでしょう。

●軍事政権下で苦しむ各国リーダーへの激励

 広島滞在中に様々な戦い──未来部への激励、海外各国指導者への指導やら、広島、呉など地域の友への訪問、激励など──を寸暇を惜しまず展開します。どれひとつとっても見逃せない重要なものばかりですが、私はここではあえて、軍事政権下に苦しむ国の幹部への伸一の指導に強い関心を持ちます。(365頁-404頁)

   【世界広布とは、仏法の人間主義の哲理を持って、人類を結び、世界の平和と人びとの幸福を実現することである。しかし、どの国や地域にも、軍事政権下にあって活動が制限されるなど、さまざまな困難が山積していた。伸一は力を込めて語った。「実情は厳しいかもしれない。でも、だからこそ、自分がいるのだという自覚を忘れないでいただきたい。私たちは獅子だ。どんな逆境も、はね返して、歴史の大ドラマをつくる使命をもって、生まれてきたんです」】(375頁)

   先日私が出席した地域の座談会で、未来部担当の女性が、「今ウクライナの戦争で苦しむSGIのメンバーがロシアのプーチン大統領の心に内在するはずの仏性を覚醒させる題目をあげているそうです。感動しました」と報告していました。嗚呼。(2022-9-27)

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【87】いつも見守ってくれてる存在──小説『新・人間革命』第22巻「波濤」の章から考える/9-20

●七つの海の波濤を越える物語の数々

   創価学会には沢山の人材育成グループがありますが、「波濤会」は、外国航路の船員たちの集いで、1966年(昭和41年)暮れに結成前夜の兆しがあり、5年後の1971年に結成されます。ここでは、1975年(昭和50年)8月の夏季講習会に第5回大会が開かれるまでの様々な動きやら、それ以降の各地の写真展に至るまでの感動的な様子が語られていきます。伸一の激励とそれに応えんとするメンバーの心意気が胸を打ちます。(204-264頁)

   波濤会が誕生してから、伸一が初めてメンバーの代表と会ったのは、結成大会の翌年1972年4月の兵庫県同志の記念撮影会の席上でのこと。その場で結成された三大学会に、波濤会の代表7人が加わっていました。神戸商船大学寮歌〝白波寄する〟の合唱に耳を傾け、じっと視線を注ぎながら、心でこう語りかけます。

 〝みんな、半年、一年と、船の中で孤軍奮闘する日々が待っているだろう。しかし、決して負けないでほしい。君たちには私がいるんだ!いつも、じっと見守っているぞ。凛々しく、胸を張って、威風堂々と歌った、この光景を絶対に忘れないでほしい〟──激励の言葉をかけた後に、次の様に記されています。

 【短いやりとりであったが、伸一は彼らと師弟の原点をつくろうと、真剣であった。原点があれば、心は揺れない。何があっても、そこに返れば、新しい力が湧く。原点を持つならば、行き詰まりはない。】(222頁)

  波濤会の原点が神戸にあると知ったのは、このくだりを聖教新聞紙上で読んだ頃ですが、その時から約13年。今年5月に、波濤会の写真展が神戸港埠頭であり、私は大学同期の友人を連れて初めて見に行きました。白い制服に身を包んだ波濤会員が丁寧に写真の説明をしてくれたものです。偶々そこに、近くの民放ラジオ局に勤める友人が通りかかったのです。驚きながら、〝波濤の語らい〟を。楽しいひと時になりました。

●女子部学生局の集いでの渾身の指導

 1975年9月9日、女子部学生局のメンバーの集いに伸一は姿を現し、激励をします。そこでは開目抄の一節『詮ずるところは天も捨てたまえ諸難にもあえ身命を期とせん』(御書232頁)を引いて、いざというときに信心を捨ててしまってはならないことを強調したのです。(267頁)

 「大聖人は『開目抄』で、さらに『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』(御書232頁)と仰せになっている。いかなる理由があろうが、信心を捨てれば敗北です。不幸です。地獄のような、厳しい苦悩の生命に堕ちていく」と力説し、御本尊を信じ切っていく中に幸福の大道があり、広宣流布の大願に生き抜いて行ってほしいと訴えます。

 ここでの「いかなる理由があろうが」の一句は本当に大事だと思います。私も信心して57年半。色んなことがありました。生きるか死ぬかの崖っぷちも一度ならずあり、坂道を転びそうにならなかったというとウソになります。その都度、原点の日(師と初の出会いの4-26)を思い起こし、奥歯をくいしばって耐えたものです。

 更にこの時のスピーチで、伸一が夜の会合の終了時間を8時半とする提案をしていることが注目されます。会合が早く終われば、家で勉強もできるし、早く休める、帰宅が遅くなれば、両親も心配するし、事件や事故に巻き込まれないとも限らない、と。

 若い男子青年の場合、ややもすれば遅くまでの会合が続くことが多かったことを思い出します。この『8-30運動』がどんなに有難いことだったか。本当にわかるのは相当時間が経ってからですが、革命的な提案でした。今は、コロナ禍のせいで、リアルの会合も少なく、リモート全盛の時代です。隔世の感が強くします。

●人材を見つけるということについて

 次に、7月始めの女子部首脳との懇談会での模様が印象的です。人材育成グループの人選の仕方について問われた伸一はあらゆる角度からアドバイスをしていきますが、私は次の所が目に止まりました。(283-284頁)

 「人材を見つけるということは、自分の眼、境涯が試されることでもある。たとえば、地上から大山を見上げても、その高さはよくわからない。しかし、高いところから見れば、よくわかる。同じように、自分に、人材を見極める目がなく、境涯が低ければ、相手のすばらしさを見抜くことができない。だから、自分を見つめ、唱題し、境涯を高めていくことだ」

 【人材を見つけようとすることは、人の長所を見抜く力を磨くことだ。それには、自身の慢心を打ち破り。万人から学ぼうとする、謙虚な心がなければならない。まさに人間革命の戦いであるといってよい】

 若い日に寝ても覚めても人材発掘に汗を流し、真剣に悩み祈ったことがあります。今はどうすれば、公明党の中に人材群を築けるかを悩み考え、闘っています。(2022-9-20)

 

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【86】わずかな変化や異常さを見逃さぬ敏感さ──小説『新・人間革命』第22巻「潮流」の章から考える/9-14

●イベントと寄付行為のどちらが大事か?

 第12回全米総会を中心とした「ブルー・ハワイ・コンベンション」に出席するために、伸一は1975年(昭和50年)7月22日に日本を発ちました。海外訪問の第一歩を記した初のハワイ訪問から15年が経っていました。あの時は手違いがあり、出迎えの姿はなく、座談会に集う人たちの数もわずか30数人でした。そのハワイに、全米から多くのメンバーが集い、州知事も出席しての全米総会です。準備のために、ワイキキの海に浮島のステージを作る大作業が行われました。地元テレビ局の取材に舞台設営担当のマーフィーがあたりました。(128頁)

   浮島を造るのに相当の費用がかかっているはず。そのお金をベトナムの孤児とか、世界の恵まれない子どもたちを助けるために使おうとは思いませんか、との皮肉混じりの質問が寄せられました。それに対して、マーフィーが答えた言葉が印象に残ります。

 そうした活動ももちろん大事ですが、そのためには、市民の一人ひとりが勇気と希望をもって、平和のために行動していこうとの心を呼び覚ますことが必要です。そのメッセージを送ることで、平和への大きな潮流が広がっていきます。その催しこそがこのコンベンションなのです。──こう回答したのです。

 日本でも創価学会の活動に対して寄せられる声の中で、これに類似したものがありました。入会したばかりの頃の私も、このテレビ局の人間のように、もっと直接的な寄付や募金を集めればいいのに、と思ったことが正直ありました。しかし、ここでマーフィーが答えたように、市民の心に平和への潮流を起こすには、迂回のように見えるイベントの大事さに気付いたものでした。草創期には必要なことでしょう。現在は、イベントと寄付とどちらも大事で、平行的な試みが大切だと思っています。

●批判する者と創造する者と

   コンベンションの演目の舞台に立った演奏者の紹介がされていきますが、その中で、ジャズピアニストのハービー・ハンクスの体験が注目されます。彼の音楽はデビュー当時の米国で、魂を揺さぶられる思いがするとの新風を巻き起こす一方、「これはジャズではない」とこきおろす評論家もいたようです。いつの時代もどんな世界でもつきまとうことなのでしょう。

 ハンクスのことについて触れたくだりで、ロシアの芸術家ニコライ・レーリッヒの「人間は『批判する者』と『創造する者』とに分けられる」との言葉が紹介されています。その上で、ハンクスを「ジャズ界の王者になる人です」と励ます伸一と、それに応えんとするハンクスの心意気、努力が語られます。このうち、彼の記者会見での言葉が読む者の胸に痛烈に響きます。(156-157頁)

 「ジャズは奏者のありのままの心の表情です。したがって、奏者の心がどこまで豊かかどうかで、その音楽の内容も決まっていきます。そして、豊かな心をもてるかどうかは、奏者が自己の心を豊かにする生命の哲理をもっているかどうかで決まってしまいます。その生命哲理が日蓮大聖人の教えであることを、私は自分の体験から知ったのです」

 批判か創造かと問えば、大多数の人間は批判する者を嫌います。しかし、評論と聞くと、ややニュアンスは違ってきます。一般的には、それに加えて、行動する人や、ついていくだけの人などというように細分化する向きもあります。私は常日頃「批判」「評論」に傾きがちな人間だと、自己認識しています。創造者の側面、行動者の立場、そしてそれを分析し評論する視線を忘れぬようにと、いつも心がけていますが、併せ持つことは難しいと自覚するばかりです。持って生まれた性格の特質に由来するのでしょうか。

●悪い報告の大事さ

  「ブルー・ハワイ・コンベンション」は大成功に終わるのですが、しかし、現実には想定外の事故が起こっていました。浮島で火災が発生したのです。発煙筒の火の粉が資材に燃え移ってしまいました。油断からの事故です。火災が起こるかもしれないと、当然視して注意を怠らなければ事故は防げます。それをしなかったので、起こってしまいました。(163-166頁)

    会場に到着した伸一は、焼け焦げた臭いが漂っていることから、何かあると察知しました。役員の青年に「安全は確認できてるね。大丈夫だね」と聞いたところ、「はい。もう大丈夫です」との答えがありました。しかし、その場では何も言わずにすましました。【リーダーには、微細な変化や異常を見逃さぬ敏感さがなくてはならない】と、この箇所では指摘されれいます。

 全ての行事が終わったところで、「良い報告よりも、むしろ、事故など、悪い事態が生じた時こそ、きちんと報告することが大事です」と、幹部の〝悪しき姿勢〟を厳しく注意します。こうした過ちに触れられるところは少ないだけに、事の重大さが身に染みて感じられました。(2022-9-15)

 

 

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【85】真心、誠意がすべてを動かす──小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章から考える/9-9

●共産党最高首脳との対話

 この年昭和50年は、戸田城聖第二代会長が先の大戦の敗戦直前の7月に出獄されてから30年が経つ年でもありました。この章冒頭では、記念集会において、伸一が戸田先生の「地球民族主義」の提唱を始め、世界の平和に向けて生涯走り抜かれた姿を宣揚。と同時に青年部代表が聖教新聞紙上で、『青年が語る戸田城聖観』と題する座談会に取組む様子が触れられていきます。5月末にソ連から帰国した伸一は、この頃各界の指導者、識者との対話に全力を注いでいました。そのうちの3人との対話が紹介されていきます。(38頁-92頁)

   7月12日に行われた宮本賢治共産党委員長と伸一との対談は、作家松本清張氏の仲介でした。毎日新聞の企画で幅広い「人生対談」として7月15日から39回にわたって連載されました。この間、7月27日には創価学会と共産党の間で、いわゆる〝創共協定〟が結ばれています。「相互理解への最善の努力をすることや、誹謗中傷を行わないことなどをうたった7項目を合意した」のです。協定期間は10年でしたが、延長はされませんでした。

 実は、この頃、共産党と公明党の最前線の党員、学会員の間ではトラブルがたえませんでした。ポスターが剥がされた問題や、ビラの配布を巡ってのいざこざが日常茶飯事でした。都内各所で暴力沙汰寸前に至るような雰囲気が漂っていました。そんなことがこの「協定」以後次第になくなっていきました。勿論、機関紙を通じての批判合戦は今になお激しく続いていますが、現場で学会員が行きすぎた軋轢や揉め事で困ることは次第に影を潜めていったのです。

 「ビッグ対談」とされたものの、中身の記憶は忘却の彼方ですが、〝余計な紛争〟にピリオドが打たれたことは率直にいって嬉しいことでした。後に衆議院議場で共産党議員と肩を並べて座るようになって、同党の権力追及への異常なまでの熱意に驚く一方、あいも変わらぬ〝嘘つき体質〟に呆れたりもしたものです。

●文芸家協会理事長との手紙のやりとりに感銘

 一方、伸一はこの春から、日本文芸家協会理事長で作家の井上靖氏との手紙によるやりとりにも取り組んでいました。この往復書簡は『四季の雁書』と題して総合月刊誌『潮』7月号から連載されました。連載開始に先立って、3月始めに二人が懇談をした内容も紹介されています。また、それに至るまでに、昭和43年のいわゆる言論問題において、文芸家協会の中から学会に対し抗議声明を出せとの声がありました。

 しかし、井上理事長は、『潮』の編集長に対して「先生(伸一)のことが、人間的な理解が伴わない形で、誤解されたまま、マスコミに喧伝されているのではないでしょうか」と述べ、マスコミの陥りやすい問題点を指摘しています。と同時に、自分が理事長である限り、抗議声明を出すつもりはないし、させませんと断定しました。このことを編集長から聞いて伸一は、「その真心が、熱く心に沁みた。この人のことは、終生、絶対に忘れまいと思った」とあります。当時、『潮』執筆者の中で、付和雷同的に執筆拒否をする者がいました。「苦境」に立った者への井上氏の思いやりが、私のような人間にも心底から有り難く心に響きました。

 往復書簡の中で、私が強く共鳴したのは、〝生涯青春〟をめぐるやりとりです。伸一の「青年期の信念を死の間際まで、貫き、燃やし続けるところに、真実の青春の輝きがある」との思いに対して、井上氏が「青春の姿勢を、死の瞬間まで崩すべきではない」と共鳴しています。〝生涯青春〟と口では言っても、死の間際に立ったことのない者は、自信が揺らぎがちです。日々の生活の中で鍛錬を怠らぬよう身に刻みたいものです。

 ●松下幸之助氏との心和む「往復書簡」

 また、松下電器産業の創業者・松下幸之助氏と伸一との往復書簡は、『人生問答』にまとめられていますが、ここではその中身が要約されています。とくに、私は「松下政経塾」の構想を述べて意見を聞いた幸之助氏に、伸一が賛同表明をためらったことに興味を持ちました。伸一は彼の健康を気遣い、政治家の育成よりも自身の健康、長寿を第一にして欲しいと思ったからでした。それでも意思を変えない幸之助氏に、伸一は折れました。すると、「ぜひ塾の総裁に‥」と松下氏は迫ったのです。

 これには驚きました。そこまで、松下幸之助という人は、伸一に信頼を寄せていたのかと。周知のように、「松下政経塾」は、多くの政治家を生み出しました。その大部分は旧民主党に参画しました。そして、一期生の代表・野田佳彦氏は首相にまでなりました。私は多くの同塾出身者を知りえましたが、概ね好感を持てる人達だったことが印象に残っています。松下幸之助氏と伸一の深く熱い交友が、松下電器の後継のパナソニック社に、そして政経塾出身の政治家に宿っていることを深く期待します。(2022-9-9)

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