この映画は、スタートから普通ではない。監督ジャン・コクトーと思しき人物が黒板にチョークで主演の名前を書く。それを当のジャン・マレーが消し、次に監督がジョゼット・デイと書くと、今度は主演女優の彼女がそれを消すという具合に。そしてこの場面の最後に、「よーいスタート」となってカチンコがなった途端に、直ぐ監督から「カット」の声が。そして黒板に字が出てくる。そこには「子どもは大人たちの話を素直に信じ込みます 一本のバラの花から始まる不思議な不思議な物語です 怒り(感情)が頂点に達し両手から煙を放つ野獣と その城に住む野獣の心に恋心をもたらす美女の存在 子供はそんなおとぎ話を真剣に信じるのです 皆さんもちょっぴり子供に帰ってみませんか それでは例の呪文を!開け〝ゴマ〟 昔あるところに‥。ジャン・コクトー」と。これは、要するにあんまり真面目に理屈っぽく考えるなってことだろう(と思った)。しかし、そこは凡人。どうしてもなぜ、どうして、と展開が気になっていく。そのくせ肝心のポイント(主役のジャン・マレーの1人三役)を見逃してしまい。最後は、えっ、アレっ、あーあ、となって、結局なんと他愛もないおとぎ話かよ、となってしまった◆この映画の原作は、フランスのある童話作家の手になるもので、以後数多の人々や団体が様々に取り扱ってきている。これはそのうちの一つ。フランスの詩人コクトーが1946年、第二次世界大戦直後に初めて作った長編映画作品だという。実は私は、この映画よりも後の1950年に作られたコクトーの『オルフェ』を先に観た(No.30)。順序が逆になったのだが、後の方は、死後の世界と生きてる世界、つまりあの世とこの世を行き来する凄く浮世離れした話だった。こっちは映画冒頭に監督がわざわざ断りを入れているように、おとぎ話としての男と女の物語である。2つの映画の中で鍵を握る小道具が共通している。鏡とゴム手袋だ。この映画では心のありかを映し出したり、自由に行き来することができる魔法の手法、手段として使われる。自分の目で直接見ることの出来ないものが見られる鏡と、汚いものでも熱いものでもなんでも触れる手段としてのゴム手袋の使われ方は哲学的であり興味深い◆さて、この映画では、出会うまでは凶暴そのものの野獣が、美女に出会った後は結婚を迫る一方で、美女に支配される気弱な存在に変化してしまう。しかも美女から見つめられる視線を怖がり、「醜い私を許してくれ」という言葉を連発する。通常の男女関係でも、結婚するやいなや、どっちかが強くなるっていうパターンが顕在化するようだが、これはその類型のうち、女が強く、男(野獣の化身)が弱いという極端なケースだろうか。映画鑑賞者によっては、いくつかの分裂した男の持つ特性が統合していく過程を描いたものといった見方をする向きもあるようだが、人それぞれだろう。余談だが、このところ私がはまっているNHKの朝ドラ『虎に翼』で日本初の女性弁護士になった寅子が唄う「うちのパパとうちのママ」で始まる歌の歌詞の関係も、どういうわけか女優位である◆フランス文学者で映画評論家の野崎歓氏は、この映画を放送大学での講義で取り上げて「創造力は豊かさに触れると直ちに眠り込んでしまう」との言葉や、「我々の役割はおとぎ話を信じさせる素朴なリアリズムに忠実であることに限られた」といったコクトーの『ある映画日記』という著作からの引用文を紹介していた。その上で、貧しさこそが創造力の生みの母であり、この世にないものを信じることがリアリズムに繋がるとの野崎氏自身の見方を披瀝していた。つまり、野崎氏によれば、何もかも自由に豊かに手に入れられる環境にあり、目に見えるものにだけ取り込まれていては、ことの本質を掴めないとのメッセージをコクトーは発しているというのだ。コクトーを深く尊敬し、マレーに入れ込むこの人らしい深くてタメになる解説に違いない。映画を見終えて聞いて、我が想像力の拙さを思い知らされた。(2024-5-12)