【34】「人間差別」の根源を突く━━映画『アラバマ物語』を観て/5-6

 この映画のタイトル『アラバマ物語』(1962年製作)からだけでは、日本人は中身を想像しにくい。だからといって、原題『To Kill a Mockingbird』でも英語圏世界に詳しくないと、「モッキンバードを殺すこと」って意味はなお分からない。私は映画を観終えて、mokingbird=マネシツグミが「他の鳥のさえずりをまねる鳥を指す」と知って、初めて腑に落ちた。この映画は黒人や障がいを持つ人を差別する人間が、付和雷同的に同調し真似してはいけないということを強調していると、勝手に深読み(捻じ曲げ読み)したのである。とても重要なことを子どもの目線を絡めて優しく感動的に表した素晴らしい映画である。同名の小説も映画化と同時に出版され900万部の超ベストセラーになり、米社会では教科書に取り上げられたりするなど、あまねく知れ渡っているようだ。加えて演劇化されて舞台でも繰り返し演じられているとのこと。(その辺りを今頃知ったこと自体恥ずかしいが)◆原作は、作者のハーパー・リーの少女時代の体験に基づく。映画では、彼女が後年大人になってから語るスタイル(ナレーター)をとっている。1932年頃の米南部アラバマ州が舞台。「怖いほど何もない」と表現された「古ぼけた町」。母親と死別した小学校低学年の兄妹と父親との日常や、近所の家に住む正体不明のブーと呼ばれる青年への子どもたちによる〝謎追い〟が映画の底流をなす。グレゴリー・ペックが父親の役。彼は弁護士で、白人女性をレイプしたと濡れ衣を着せられた黒人の弁護を引き受けるところから、映画の核心が動き出す。裁判は白人女性とその父親による狂言(現実は父親の娘への虐待)ということが簡潔明瞭に分かるのだが──弁護士の人種差別を批判する場面が胸を打つ──黒人をまともな人間として認めない米南部地域の風土は決定的に色濃く、白人陪審員たちは「有罪」と結論を出してしまう◆絶望した黒人は逃げようとしたところを撃たれて命を落とす。弁護士の公判での追及を逆恨みした虐待常習の父親は、子どもたち兄妹を襲う。それを防ぐために、逆に刺殺したのがブー青年だった。という風な形で物語は進む。同青年は知的障がい的な疾患(だと思われる。見た目は普通)はあるものの、人並み以上に優しい心根の持ち主だった。彼の親が世間に知られることを恐れ、引きこもらせていたものと思われる。最終的に映画を振り返ると、前半の謎めいた動きが分かってくる。すべて子どもたちに心寄せる優しいブー青年の仕業だった、と。正当防衛による殺人だったとして、彼が罪を問われないようになる。彼の心配りに父親(弁護士)が子供たちの恩人だと礼を述べ手を差し出すラストシーンは、感動を呼ばずにはおかない◆「こどもの日」にこの映画を再度観てから、私は多くの気づきを得た。中でも、父が子どもからの問いかけを真剣に受け止めて、真面目に答えを探す数多くの場面。これには心底から反省をした。子どもたちが父親をファーストネームで呼ぶことには、違和感を感じたが、人間として同じ立ち位置にいるものとして、好感を持った。相手の立場に立つことの大事さを諭す場面も極めて印象的だった。また、黒人の家政婦が母親同様に厳しく躾ける場面にも、良識ある米白人家庭のあるべき姿を見せられたようで感じ入った。しかし現実的には、この映画はニグロという差別表現が連発されていることから、結局白人優位の現状を越えていないとの批判もあるやに聞く。人種差別の壁は厚い。日本にあっても被差別部落問題は根深く、障がい者差別というテーマの現状も深刻だ。実に見事な演技(最年少で助演女優賞を受賞)を見せてくれたメアリー・バダム(スカウト=女の子役)のその後の実人生が気になった。調べると、彼女は映画の仕事は止めたものの、今なお差別撤廃に向けて種々の活動をしているとのこと。ほっとした。(2024-5-6)

 

 

 

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【33】組織におけるみんなの役割━━映画『ケイン号の叛乱』を観て/4-28

 この映画を見終えた後の余韻は意外に重い。米海軍の古びた艦船・ケイン号が舞台。そこでの組織のトップと、支える役まわりの在り方が主たるテーマだと私には思われた。全体の構成は大きく2つに分かれる。舞台前半は、ケイン号内。人事異動で新しくやってきた艦長の指揮ぶりと、いささか常軌を逸した行動とが、部下たちの反発を招き、危うさを伴いつつ物語は進む。台風襲来の混乱の最中における艦長交代事件を挟み、後半は、艦長の命令に従わず、指揮権を奪った副艦長らの叛乱を問う海軍内法廷でのやりとりになる。叛乱の経緯を追う限り、観る者には、非は艦長にあると思われるが、検察側と弁護側の論戦の展開はそのようには進まない。だが、法廷での結論は劇的な逆転に終わる。それで一件落着かと思いきや、更なる反転が起こる。最後の15分ほどの展開が実に興味深い。心打たれる。この映画を振り返りながら、組織における構成メンバーみんなの役割を考えてみたい◆艦船を構成する組織のトップたる艦長が有能であれば、問題はさほどない。しかし、生身の人間であるがゆえに、立ち居振る舞いに自ずと様々な癖があり、好悪の感情を抱きやすい部下たちとの間でハレーションが起こるのは常である。この艦長(演じるのはハンフリー・ボガード)は、偏執症(パラノイア)的行動が時に顔を出す。物語が進むにつれ、部下の身だしなみへの異常なまでの注意喚起や、イチゴの数を巡り執拗に文句をつけて(誰が盗み食いしたか)調査を命じるなど、怪しげな指導者ぶりが露わになってくる。平時はともあれ、非常時では、一瞬の判断が全体を危機に追い込む。様々なケースが重なって、部下たちの信頼を損っていく。軍法会議(法廷)の場でもしだいに病的な素行の実態が暴かれて、ついには馬脚を表す。虚勢が次第に崩れていく中でのボガードの表情と振る舞い。迫真の演技力というほかない◆ここでは、能力や性格に疑問符がつくトップリーダーに仕えるNo.2はどうあるべきかが考えさせられる。ほんのわずかだが、艦長が副艦長に融和を求めた場面があった。だが、副艦長は艦長の心の変化を見抜けなかった。最終盤に、「罪重きは副艦長だ」と弁護士役の法務将校に指弾されて初めて、彼は自分の非に気づく。時既に遅し。副艦長がトップを支えるべくもっと対話を進めていたらどうなっていたか。No.2で日本史上著名なのは新選組副長・土方歳三だろう。規律を乱すものを許さず、憎まれ役に徹してNo.1の近藤勇を守った。司馬遼太郎は小説『燃えよ剣』でその辺りを渾身の力を込めて描いて見せた。凡庸なトップであっても才気溢れる脇役がいればいくらでも補えるケースには事欠かない◆さて、最大の見どころは、最後の最後にやってくる。すべてが終わった打ち上げパーティーの場で、「ケイン号の叛乱」の真実が披瀝されるのだ。本当の意味で最も罪深き人物が明かされる。種明かしはご法度なので、〝観てのお楽しみ〟になる。ただし、その余裕のない人のために敢えて私の感じた「組織擁護」のポイントだけに触れる。要約すると、艦長(トップ)は確かに病を持っていた。だが懸命にその役務に取り組んできていた。大方の組織構成メンバーが自分のことにかまけてきた中で、彼が国を(組織を)守るために尽くしてきたこれまでの働きを忘れてはならない──ということになろう。そして糾弾されるべきは〝当事者意識の希薄な傍観者〟である、と。かつて私がそれなりに畏敬の念を抱いていたジャーナリスト出身の先輩政治家がいた。華々しい活躍をされたこともあったが、行動の只中にあってなお、どうそれを後世に伝えるかに腐心することのみ多い人だった。結局は足元を掬われ、金権腐敗スキャンダルにまみれて消えてしまった。注意せねば誰しも嵌りかねない。組織を維持、発展させるための最大の敵は「傍観者」だと、思い知ったものである。(2024-4-28)

 

 

 

 

 

 

 

 

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【32】芸術家が垣間見せる「異常さ」の意味━━ヴィスコンティ監督『ヴェネツィアに死す』を観て/4-21

 ヴェネツィア(英語ではベニス)──イタリア北東部アドリア湾の最深部に面した「水の都」と呼ばれる都市。中世におけるヴェネツィア共和国の首都で、いま世界各地からの観光客で賑わう著名な観光地である。そのイメージとは裏腹に映画では冒頭から、倦怠感溢れた雰囲気を漂わせた年輩の男の姿が映し出される。船着場でのこの船のデッキには他に誰もいない寂寥そのもののシーン。この男は、疲れた身と心を癒すべくドイツ・ミュンヘンから旅にやってきた音楽家のグスタフ・アシェンバッハ(演じるのはダーク・ボガード)。彼がこの地で偶然見かけた美少年(ポーランド貴族の家族の一員としてやってきていた)に深く惹かれていく。時は20世紀初頭。この映画が何をどう描きゆくものか全く知らずに、ルキノ・ヴィスコンティという有名な監督による作品だということだけで観た記憶がある。もう随分前のことだが、映画を観た後で、トーマス・マンの同名の短編小説を初めて読み、このほど改めて再読した◆小説が書かれたのは1911年。映画化されたのは、60年後の1971年。それから今また50数年が経っている。小説と映画と、そして現実と。三者を見比べると100年の時の変化の中でも変わらざるものが浮かび上がってきたようにも思える。映画芸術は、端的に表面上の美を映し出し、数多の言葉の矢玉をも寄せつけない。一方小説は人間の心、感情のひだをあぶり出し、美しい映像の表現の追随を許さない。その2つを現在只今の時点から眺めゆく──20世紀は「小説と映画の世紀」だといわれるが、21世紀初頭の今だからこそ前世紀の全貌が窺えて面白い。老いた男が10代半ばの美しい少年に惹かれ、自らを若く見せるべく身をやつし、まるでストーカーのように遠くから見惚れ、後をつけまわす。こういった行為の連続には、普通の感性の持ち主としてはただ呆れる。この尋常ただならざる芸術家の行為に、疫病による街の佇まいの変化という要素が入ってきて、初めて異常な世界から現実の生活に引き戻されるという不思議な逆転現象に気づく◆原作の小説では主人公は音楽家でなく、小説家。しかも無名の存在ではなく、大いなる地位を築いている。その人物が陥る〝耽溺の世界〟をどう見るか。ある文芸評論家の言を借りると「(一言で要約せよと求められたら)刻苦して作り上げた芸術と生活の調和が破綻して、デカダンスの暗い下降の道に落ちこんだ結果だとでも答えればよいだろうか」との少々持って回った言い方になる。ただ、この要約は、映画鑑賞者の腑には落ちても、小説の読者にはちょっぴり不満足かもしれない。そういう向きには、長い間苦労を重ねて到達した小説家の内的世界が崩されていく過程が理路整然と描かれたものであり、コレラ罹患は直接の死因へのきっかけではあるが、そこには美の極致と同性愛の欲望が命の奥底に横たわっているかのように見える──といったような解説を待つ必要があるのかもしれない◆一般に「世紀末的な気分」として「倦怠感」が持ち出されることが多い。現実的には19世紀末ヨーロッパの空気がそれを表現するものとされる。マンはその辺りを新世紀に入って10年ほどのちに小説で描いた。それをヴィスコンティが60年後に映画で表した。映画が登場した頃は現実の世紀末は30年ほど先のことだが、今観て、読むとなるとコレラに代わるコロナ禍が重なって、奇妙に迫真性に富む。尤も、時代の気分と個人の気持ちは相互に影響し合うとはいえ、当然ながら厳密には違う。その当時20代後半だった人間は「倦怠」とは無縁の「軒昂」だった。しかし70代後半になった今では、この時代の変化と気分の変遷がよく分かってくる。忍び寄る老いとそれがもたらす心身の不都合さとの不断の闘いは日々強まるばかり。それに比例して、すべて美しきものへの憧れは高まりゆくものかもしれないと思われる。(2024-4-21)

 

 

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【31】50年前のアメリカ社会の空気全面に━━映画『タクシードライバー』を観て/4-13

 1976年のアメリカ。長かったベトナムでの戦争に漸く終止符が打たれた時から1年後。米社会には帰還した兵員たちの様々なる鬱屈した気分が随所に横溢していた。この映画は、ロバート・デ・ニーロ扮するトラヴィス・ビックルがタクシー会社の運転手として採用される場面から始まる。監督マーティン・スコセッシ、脚本ポール・シュレイダーの名コンビ。この映画で、カンヌ国際映画祭パルム・ドーム賞を受賞した。日本に勝ってから30年。アメリカは初めて戦争に負けた。その当時の社会の空気、時代の気分はどんなものだったか。「流しの運転手」はいち早くそれを吸い込み、感じとる。ビックルが呟く「夜の街は娼婦、ごろつき、ゲイ、麻薬売人で溢れている。吐き気がする。やつらを根こそぎ洗い流す雨はいつ降るんだ?」とのセリフがそこいらを反映していた。孤独なビックルは人との繋がりを求めてもがき喘ぐ。自他の不適合がもたらす結果はマグマとなってやがて爆発する◆この映画は、アメリカンニューシネマの代表作とされる。観客に夢と希望を与えるようなそれまでのハッピーエンドに終わることが定番だったハリウッド映画に対して、真逆の方向に向かう。社会の不条理と面と向かい合う、問題提起に重きをおく作品と言えようか。例えば、1946年、あの第二次世界大戦直後の映画『我等の生涯の最良の年』は、日本との戦争で両腕を失った傷病者を始め帰還兵たちがそれぞれの苦労の末に、幸せを掴み取るといった内容だった。ラストの結婚披露宴の幸せなシーンが全てを物語っていた。片やこの映画では、再生しようとした帰還兵が、大統領選挙の候補者の事務所で働く女性を見初めて近づくものの上手くいかず、冷たくされ、孤独を一層味わう。そして社会そのものへの抵抗、反発から、大統領候補者の狙撃を思いつき、銃を購入して準備をする。だが厳重な警備の突破は出来ず、「表の世界」から「闇の世界」の破壊へと矛先を変えていく◆大統領候補者をターゲットにして仮に成功していたら、と想像するものの、その行く末はあまり羽ばたかず、焦点も定まらない。スコセッシ、シュレイダー組みの映画作りの構想は、娼婦ならぬ娼少女を喰い物にする〝人非人たち〟の抹殺へと傾斜していく。映画撮影当時13歳だったというジョディ・フォスター演じるアイリスの美しくもいたいけな佇まい。炸裂する轟音の中で泣き叫ぶ姿が強烈なインパクトをもたらし、観るものの目と耳に焼き付く。死にゆく敵の反撃でビックルも尋常只ならぬ傷を首に負いながらも助かる。その上、アイリスの両親の感謝の手紙やらそれを報じる新聞紙面の賑わいが妙にそぐわない。この辺りに私の感性は反応する。これはやっぱり、〝擬似ハッピーエンド〟か、と。しかし、それは束の間。再び生き還った彼は、タクシードライバーの日常に戻る。その昔に付き合った女性が車に乗ってきても素気なく別れ、いつもの日々の繰り返しへと続く。この終わり方こそ新時代の米映画ということか、と◆この映画が封切りされた頃から、ほぼ半世紀。アメリカ映画の〝新しさ加減〟はどうなったのだろうか。数多の反戦、厭戦映画はその後数多く続いたけれども、この映画のように、戦争というものを匂わせずに、残酷なまでにその影響を描いたタッチのものは珍しいと思われる。そういえば、日本の映画界における戦争の描き方において思い出されるのは、小津安二郎監督の手法である。彼の『東京物語』を始めとする一連の作品は、戦争を直接に描かずに、その影響の悲しさ、哀れみを、静かに表現したものだとされる。日本の場合は戦後80年近く経ち、「戦争」は勿論、「戦後」を描く映画そのものにもお目にかからなくなってたえて久しい。それがいいことなのか、悪いことなのか。「戦後は遠くなりにけり」の日本の首相と、いつも〝戦争のさなかにあるアメリカ〟の大統領があいまみえた晩餐会の報道を見聞きして、思うことはまことに多い。(2024-4-14)

 

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【30】「死後の世界」に挑むリハーサル━━映画『オルフェ』を観て/4-6

 映画『オルフェ』は、1950年にフランス・パリでジャン・コクトー監督によって作られたもので、当時から今に至るまで、不滅の誉れ高い位置を占めている。それもそのはず、死後の世界と現実とを交流させたいという人類にとって、ある意味で〝見果てぬ夢〟に挑戦した作品だからであろう。その狙いが成功したかどうか。それは観る人によってそれぞれ違うのだろうが、恐らくみんなに共通することは一つだけはある。それは、しっかり観た人にとって、少なくとも「生と死というもの」を考えさせてくれる糸口になるってことではないかと私には思われる。ここでは私がどう考えたかの一端を披露してみたい◆この映画のあらすじは、詩人であるオルフェが妻を自転車事故で失ったことをきっかけに、死の世界の王女(死神とも表現)に惹かれてしまい、共に愛し合う仲になるというもの。その背後には、ギリシャ神話のオルフェウス(オルペウスとも)伝説なるものがある。その伝説とは日本人にはあまり馴染みがないが、ヨーロッパ世界では人口に膾炙しているもので、毒蛇に噛まれて命を落とした妻を恋慕って、冥府下りをする(あの世までいく)夫の話である。日本で言えば、『日本書紀』や『古事記』におけるイザナギとイザナミの神話との類似性を思い起こす。ここでは、現代フランスに舞台を移して果敢に映画で人間の死後を描いたものだと私には思えた。ジャン・マレー扮するオルフェと、マリア・カザレス演じる死神との愛と、オルフェの妻と、もう1人の死の世界の住人(王女の使用人)との愛といったダブル三角関係の様相を絡めて物語は進む◆カザレスの壮絶なまでの存在感に、死神とはこんなものかとの奇妙な錯覚に陥りかねないが、観るものは確かに圧倒される。ところで、この映画で最も興味深いのは「鏡の存在」(姿見といった方がいいかも)である。現実と冥府──つまり、あの世とこの世に出入りする入り口、出口の役割を鏡が果たすのだ。特殊な手袋──いわゆるゴム手袋をはめると、難なくくぐり抜けられる仕掛けはまことに興味深い。鏡とは、人間が本来的な意味で見たことのない、自分の顔を映し出す。自分ってこういう姿かたちをしているということを分からせるものが鏡である。赤子や猫や犬に初めて鏡を見せた時の印象が思い浮かぶ。自分探しの契機としての鏡を、あの世とこの世の通用門にするとは、なかなかのシンボリックな試みであると思われる。普段はさして思いを込めて見ることのない我が面だが、じっと探し見つめると味わい深いかもしれぬ。鏡をくぐってからの映画でのあの世の様子は、なんとなく地獄の沙汰を申し付ける場のようで私には興味を持てなかった◆死後の世界にいく道程で、今現在の私が興味を持っている境地の一つは、医師で気功家の帯津良一氏の持論である、死ぬ時は虚空に飛び出すロケットのように元気いっぱいに、というものである。これはにわかにはストンと落ちないが、その前段、予備段階としての気功の効用はなんとなく分かる(ような気がする)。曰く「私たちは死して後ち、虚空の懐に帰り、虚空と一体となるのだから、これのリハーサルが生命の躍動と言うことになる」と。具体化をめぐっては禅宗などの影響が強調されていて興味深い。イメージとしてはそれなりに腑に落ちる。尤も、私の60年近い日蓮仏法の日常は、もっと凄い。朝な夕な朗々と声を出して南無妙法蓮華経と唱えて、ご本尊を拝む時に、自分の生きてきた道と交流してきた人たちに思いを馳せつつ、これから先の人生への希望や死にゆく覚悟を定めゆく。これこそ自然なかたちでの次の世へ向かうための日常的リハーサルであり、覚悟の鍛錬だと確信される。時々傍にそれてぐらつくことはあるが、それもまたご愛嬌だと思っている。(2024-4-7  一部修正)

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【29】スペイン内戦と反戦への志し━━映画『誰が為に鐘は鳴る』を観て/4-1

 1943年に作られたこの映画を初めて観たのはもう50年も前だったか。鐘が鳴り渡る冒頭の映像が印象的だった。それと同時に『For Whom The Bell Tolls 』 とのタイトルの響きが妙にリズミカルに聞こえ、口にするのも心地よかった。その意味するところは当時はわからなかったが、つい先ほど長き歳月を隔てて結末を知った上で観ると、なるほどと合点がいった。スペインを舞台に全体主義と共和主義といった思想的立場を異にする勢力がぶつかり合った内戦。この戦いには、ヨーロッパはもとより世界的な規模で関心が高まった。ナチスドイツの台頭に呼応するがごとくに、スペインのフランコ守旧派政権が横暴を振る舞う兆しを見せた辺りから、自由を求める空気を背景に、同国の内外で抵抗するゲリラ活動の動きが強くなった。それに触発されたアーネスト・ヘミングウエイが同名の小説を書いた◆映画は、ゲイリー・クーパー演じるロバート・ジョーダンと、ヒロインのマリア役のイングリッド・バーグマンのラブロマンスのインパクトが強いために、組織化とは程遠い少数のパルチザンの生の姿とでも言うべきものが霞んで見えた。観る側の嗜好にもよるが、わたし風にはいささか2人の存在が浮き上がった感が強い。ラブシーンに出くわすごとに、敵の進路を阻む橋梁爆破の目的に、もっとまじめに取り組めって、言いたくなるような気分に支配されたものだ。その若い2人の動きよりも、パブロ役のエイキム・タミロフと、ピラールを演じるカティーナ・パクシヌの夫婦の役割が突出して面白く、印象深い。とりわけゲリラ活動への参加に逡巡し、二転三転する夫を尻目に、男勝りの役どころと巧みな優しさを織り交ぜて見事に演じたパクシヌには、その〝豪快な風貌〟と共に傑出した存在感に圧倒された。夫役のタミロフも抜群の演技力で際立っていた。脇役あってこその映画というフレーズを堪能させてくれた◆ヘミングウエイの小説とその映画の関係というと、『老人と海』を持ち出したくなる。複雑な内面を映画という媒体は描くには相応しくないがゆえに、普通の人間にはどうしても映画は平板に見えてしまいがちだ。この映画もスペインの内戦の中で、共和主義に身を投じてファシズムの波に抗おうとするアメリカ人青年の内面を描き出すにはあまり成功しているとは思えない。観る側の鑑賞力の拙劣さのせいなのだろうが、その行動の背後にあるはずの意志の重みとでも言うべきものが伝わってこないのは残念である。『老人と海』は私のような鑑賞者にとって退屈さとの戦いだったが、こちらの方は恋愛映画的趣向に逃げ込む恐れがあるように思われる。その点、小説を予め読み、補助的作用を自身に講じてから映画に臨むことが大事かもしれない◆第二次世界大戦に至るヨーロッパの思想的背景は、ソ連とドイツの双方に展開した二つの全体主義のうち、反ヒトラー・ナチズムの色彩が色濃く、もう一方のスターリニズムの悪しき本質は表層には大きくは出てきていなかった。このため、思想的構図は、ヒトラー・ドイツとムッソリーニ・イタリアの連合軍対共産主義スターリン・ソ連をも含む自由主義ヨーロッパという奇妙な枠組みに見えた。その時点では、国境を越えて自由を守る連帯の動きが高まって、ジョージ・オーウェルら多くの文化人、知識人たちの支援の輪が渦巻いていた。結果は虚しく空を切り、行く手に禍根を残した。いらい80年余の歳月が流れ、その間に多くの戦争が飽くなく繰り返された。そして今、専制主義ロシアと自由主義国家群から支援されるウクライナとの間での戦争が2年を越えて続く。これは広い意味で旧ソ連邦内内戦と見られ、米欧による反露代理戦争の側面もあろう。さらにパレスチナ・ガザの地でもイスラエルとの間で殺戮の連鎖が収まらない。これはまた〝第5次中東戦争〟の様相を呈して、光は全く見えない。誰がために血は流れ、弔鐘は鳴り止まぬのか。今ほど〝人類の知恵〟が試されている時はない。(2024-4-1)

 

 

 

 

 

 

 

 

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【28】反戦とナショナリズムと映画の今昔━━映画『カサブランカ』を観て/3-24

 地中海に面した北西アフリカ・モロッコ最大の都市カサブランカを舞台に、第二次世界大戦末期に当時その地を支配していたフランスの反独活動を描いた映画である。ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンが主役のラブロマンスを乗せた魅惑的な作品でもある。その頃のカサブランカには、ナチス・ドイツの侵略で、戦災火中のヨーロッパから中立国ポルトガルを経て、アメリカに逃げ渡ろうとする人々が多く集まってきていた。主人公のアメリカ人リックはパリ陥落前に別れた恋人イルザ・ラントと、彼が経営する「カフェ・アメリカン」で偶然に再会するところから物語は始まる。話は、昔の恋人2人に、今はイルザの夫でドイツ抵抗運動の指導者のチェコ人・ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)と、フランス庶民地警察のルノー署長(クロード・レインズ)の2人が絡み、それぞれ、三角関係、男同士の友情を縦軸、横軸にして展開していく◆この映画、見どころは多いが、私的には、フランスの反独姿勢が貫かれた〝国歌うたい合い〟場面が最も強く印象に残る。カフェ店内でドイツ軍士官たちがドイツの愛国歌「ラインの守り」を歌い、居合わせた客にも合唱強要しようとした時に、ラズロがこれに憤慨してフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」をバンドに演奏させて、多くの客たちが立ち上がって歌い出した場面。期せずして独仏国歌競唱になった。このシーンを観て、思わず国家と歌の関連性を思わずにいられなくなった。オリンピックを始めスポーツの勝利を祝して国歌が演奏されるが、日本の場合「君が代」がいかにも不釣り合いに聞こえてならぬ思いを持つのは私だけだろうか。重々し過ぎて勇壮なイメージと遠いのだ。かねて、「第二国歌」制定論を提唱してきた身としては、この映画で改めてその思いが〝鎌首をもたげた〟しだいである◆他にも反独のレジスタンスを強く滲ませるくだりは多い。特にルノー署長が自ら対独抵抗活動のシンパであったことを明らかにして、ミネラルウオーターに描かれた「ヴィシー水」のラベルを見てゴミ箱に投げ入れるところや、リックに自由フランスの支配地域であるブラザヴィルへの逃亡を促す場面などを、後から知って考えさせられた。前者では今から70年以上も前に飲料水ボトルが出回っていたフランス有縁の地域の先進性と、フランス領コンゴのブラザヴィルの独自の政治的位置に思いを馳せることになった。この映画のラストシーンは、特筆すべき興味深いものがあるが、とりわけ、新旧2人の愛する男性のどちらを選ぶかの選択を迫られたイルザに、土壇場で身をひいたように見えるリックと、その彼に生への展望を開かせたルノー署長とのあつい心の交流がグッと胸に迫ってくる◆先の大戦での戦場としてのヨーロッパは、この映画を始めとして、連合国の視点からの対独レジスタンス活動をテーマにした映画が多い。一方、アジアでは、中国大陸やインドシナ半島が戦場になったものの、大日本帝国の侵略への民族横断的な抵抗活動を主題にした映画はあまり記憶に浮かばない。これは映画という芸術が比較的早くから国民生活に根ざしてきたヨーロッパ社会と、近代への旅立ちに遅れたアジア社会との差異に関係するのだろう。戦争の最中にこんな映画を作った国の凄さを改めて思う一方、それから80年ほどが経った今、ウクライナやパレスチナ始め世界各地で続く戦火の中で、映画関係者はどうしているのだろうと考えざるをえない。(2024-3-24)

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【27】男と女の真の有り様に迫るラストシーン━━キャロル・リード監督『第三の男』を観て/3-13

 

  映画と原作の関係は通常は小説などが先に出て、映画は後に続くケースが多い。だが『第三の男』は、映画が公開されてのちに、小説が出版された。ただし、映画の構想をめぐって、監督のキャロル・リードと原作者グレアム・グリーンが綿密に意見を交わし、脚本的なものを作り上げていったとされる。名作映画のランキングで最高の位置を占め続けるものとして有名であるため、私は随分昔に観た。ラストシーンと観覧車と音楽の印象が強く、細部は忘却の彼方であった。つい最近改めて観て、その後、小説も読んだ。この小説の序文は、あたかも映画制作の経緯や評価の役割を果たす一方、とても興味深い内輪話ともいえる。映画だけしか知らないという人は是非、この一文は読まれた方がいい。私はグリーンの「この映画は物語よりも良くなっている」との記述、とくに結末についてのリードとの論争(ハッピーエンドか否か)が「結果は彼の見事な勝利だった」との潔さに感銘を受けた◆第二次世界大戦でドイツ傘下で連合軍と戦ったオーストリアは、完膚なきまでに敗北の悲哀を被った。かつてハプスブルグ家の統治のもとで栄華を誇った都市は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連という4カ国によって4地域に分割の憂き目にあい、共同管理の体制に委ねられていたのである。その占領下の空気が至る所に伺えるウイーンを舞台に、20世紀半ばの時代背景と共に、サスペンス劇が展開されゆく。僅かながらの欧州旅(ウイーンを含む)の経験が私にもあるのだが、その街並みの中で広告塔の存在が気になった。街ゆく者の目を時に奪いかねない、日本には珍しい存在だと思ってきたが、これが意外な意味を持ち得ることをこの映画で知った。グリーンは物語(小説と映画を合わせて表現)の構想練り上げの最終段階の苦悩を、英国情報部の若い将校が昼食の機会に話してくれたことで打ち破ることが出来たと、序文の中で明かしている。巨大な地下下水道が張り巡らされ、そこで働く地下警察の存在である。そこへの隠された入り口を果たしたのが広告塔であり、この物語の中で、「第三の男」が神出鬼没をしたカギを握ったのだ◆緊張感漂うこの厳しい冬の物語の中で、一陣の温風の役割を果たしているのが、主人公(ジョゼフ・コットン演じるマーティンズ)の筆名デクスターと同姓の高名な作家と取り違えられたエピソードである。講演者と勝手に間違えられた彼が、参加者から厳しい質問を受けたり、サインをする場面は本筋とは関係ないが、著者の息抜きサービスとして妙に面白い。それに加えて、小説にはウイーンを占領した4カ国の国民性めいたものを忍び込ませている。ヒロイン、アンナ・シュミットが着替えをする場面に居合わせた4人の対応について《ソ連兵は、性的興味とは無縁で、ただ自分の義務を果たすだけ。アメリカ兵は騎士らしく背を向けながらあれこれ意識していたはず。フランス兵は衣装ダンスにうつる女の着替える姿を冷ややかに楽しむ。イギリス兵は次にどんな手を打つべきかと思案しながら、廊下に立っていた》──これは欧州で時にもてはやされるジョーク集を連想させられ楽しい◆第三の男、ハリー・ライムを演じたオーソン・ウェルズが観覧車の中で、かつての友ジョゼフ・コットンから、闇のペニシリンで人間の生命を奪ったことを批難される。その際に、「ボルジア家の三十年の圧制はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてルネサンスを生んだが、スイスの五百年のデモクラシーと平和は何を生んだ?鳩時計さ」との名セリフを吐いたことが印象深い。これは原作になく、ウェルズが19世紀のイギリスで活躍したホイッスラーのある文章から脚色したものだとされる。今の日本に使ってみたい誘惑に駆られるものの、ただ、それは戦後100年足らずの平和のなかでの、この30年の無為との対比になりそうで、持ち出すのは憚れる。むしろ、映画のラストシーンでアリダ・ヴァリ扮するヒロインが並木道の向こうから歩いてきて、毅然とした表情を崩さず、佇む男に一瞥もくれず歩み行く姿が、新旧2人のいい加減な男への訣別のメッセージに私の眼には写って、慄然とする。(2024-3-13)

 

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【26】人間心理の危うさ脆さ不可思議さ━━黒澤明監督『蜘蛛巣城』を観て/3-6

 シェイクスピアの名作『マクベス』をベースに、日本の戦国時代に置き換えた「能」の様式が全編に漲るメイドイン・日本らしい意欲作。黒澤明監督、三船敏郎主演への期待に違わず面白い内容で、しかもためになった。三船敏郎演じる鷲津武時と、千秋実扮する三木義明の2人の武将は謀反を起こした敵を討ち、その帰途の森の中で占い師風の老婆に出会う。その女から不思議な予言を聞く。その中身は、武時がやがて北の館の主を経て蜘蛛巣城の城主となり、義明は一の砦の大将になって、のちにその子が蜘蛛巣城の城主になるというもの。聞いた当座は、2人とも一笑に付すがやがて、事態はその老婆の言う通りになっていく。その間に、武時の妻・浅芽(山田五十鈴)の企みが、心揺れる武時を自在に振り回して次々と撹乱してしまう。あたかも老婆の予言を筋書き通りに運ぶようにことは進み、遂には悲劇へと発展する◆大きくいえば「予言」、身近には「占い」といったものは人の心を動かし、振り回す。自分に好都合なものは信じ、不都合なものは無視するといった次元で済めば、かわいいものだが、この映画のように、自分にとって望ましいことを、自ら介入して暴力的に事実を捻じ曲げて実現するとなると、もう大変だ。自縄自縛に陥り、破滅は必至に違いない。奥方・浅芽が、自ら敵に仕立てた相手を殺した。やがて手についた血を洗い流そうとして、幾たびも試みるシーン。どうにも落ちないと言って、必死に手を洗う姿は迫真の演技でおぞましい。男を動かすのは女の力、犯罪の影に女ありなどといった俗言を思い起こして余りあるほどのリアルさが見るものを揺さぶる◆という風に、妻に影響され揺さぶられ、結局は老婆の予言のままに、墓穴を掘り転落する武将をあたかも能のシテのごとくに見事に演じた三船敏郎はさすがだ。数多の弓矢を全身に浴びる有名なラストシーン。この場面は、実はホンモノの矢が混じっていたという。大学弓道部の学生によって射られたようだが、ひとつ間違うとお陀仏になりかねない場面を撮らされて、後に三船はあの時は死ぬかと思って怖かったと述懐したとのこと。また、騎馬の伝令役など三役をやってのけた土屋嘉男は、幾たびも乗馬シーンを繰り返し取り直しさせられ、頭にきて、遂に黒澤監督を馬で追いかけ回したという。その際の鬼気迫る目つきに同監督は命の危険を感じたとか。ともあれ、迫真性を出すため、映画撮影は演じる方も、演じさせる方も、ともに命懸けということだろう◆この映画を観ていて、私は「予定調和」ということについて思いをめぐらせた。世の中の動きが想定通りであるとか、予め決められたかのように進むことを「予定調和」という。様々な場面で自分があらかじめ想定した事態通りになることを期待することは少なくない。この時の心理は、予言や占いの想定を期待してしまう心の動きと共通しているような気がする。これはまた、昨今流行りの「陰謀論」を信じやすい人びとの心理背景とも共通していないか。『蜘蛛巣城』が描く人間心理の危うさ、脆さ、不可思議さは、現在只今のわれわれの周りに漂う状況をも捉えているかのように思われてならない。(2024-3-6)

 

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【25】石油の持つ威力と魔力と━━映画『ジャイアンツ』を観て/2-28

 いつも欠かさずに観ているNHKドキュメンタリー番組『バタフライ・エフェクト』。さる2月21日は、「石油 世界を動かした〝血〟の百年」だった。冒頭は、ジェームズ・ディーンの遺作となった映画『ジャイアンツ』の一場面。掘り当てた油田から勢いよく天に向かって噴き上げる石油と、顔から身体中を油だらけにした彼が「俺は大金持ちだ」と喜び叫ぶシーンが印象的だった。映像では、「実はこの役にはモデルがいた。伝説の石油成金グレン・マッカーシーである」と続く。随分以前の映画を思い出して改めて観た。ディーンは主演ではなく、ロック・ハドソンとエリザベス・テーラーの夫婦2人が中心だったと気づく。1956年12月に日本でも公開された米映画で、監督はジョージ・スティーヴンス。雄大なテキサスの自然を背景に、この地に住む家族の30年に及ぶ人生を描く。石油を掘り当てた中盤の場面以降、人が変わっていく主人公のリアルな様子が気掛かりだった◆ディーンの映画は『エデンの東』『理由なき反抗』と3部作全てを観たが、どれも若さ漲る爽やかな演技だった。屈折した心情を表現し得て胸打つものと感激した。前者は、旧約聖書のアダムとイブの生んだ双子の兄弟カインとアベルの物語を下敷きにしたとされる。キリスト教に縁の薄い日本人にとっては、父親の愛をめぐって仲の悪い兄弟の話ぐらいにしか受け止められない。その観点に立つと、〝兄弟は他人の始まり〟というだけにその関係は難しいし、父親というものの子らへの不平等性もわからなくはない。兎にも角にも人間同士は喧嘩が絶えないということはよく分かる。それだけにラストシーンでの父との和解の場面は深く胸を打つ。意地の悪い女性看護師のおかげかと、ひねくれた見方が頭をもたげてくる。後者はもっと単純に、今の日本でもよく見られる親子の不和で破綻しそうな家庭が舞台。どこにでもいそうな若者の虐めっぽい争い。「チキン・ラン」と云われる崖っぷち目指して車を走らせ、車が海へ落ちる寸前に飛び出す度胸試しには、さすがアメリカと妙な感心をした◆標題作の『ジャイアンツ』は、米テキサスに2400平方㍍もあろうかという広大な土地を持つ牧場主に、東部の名家の娘が嫁いでくるところから始まる。西部との風習、習慣の違いの中で戸惑いながら、家長ともいうべき夫の姉の姑的存在に苦しみつつ、嫁は頑張る。前半は米女性の生き方(といっても裕福なケースだが)をめぐって展開するが、その中にディーン演じる牧童が登場、波乱の存在を漂わせる。家長の姉が落馬死するが、遺言で土地の一部を牧童に残す。その土地から後に石油が噴出する。牧場使用人たるメキシコ人の役割も人種的偏見の捉え方という重いテーマが浮き沈む。後に、結婚を通じて家族の一員となるのだが、そういった伏線も張り巡らせられ、美しく壮大な西部の風景が見る人の眼を奪ってストーリーは進み、引き込まれる◆石油が一気に全てを変える。牧童が大金持ちに変身する様は、俳優ディーンの人生をダブらせて見せ、おまけに残酷にも「石油」のなせる業をも予感させる。この映画が公開されたときには、彼はこの世に存在していなかった。世界の映画史上不滅の興行実績を作ったのも無理からぬことと思われる。具体的な映画の展開を追うのはこの辺りで止す。24歳の若さで散った名優の遺作。彼が生きていれば93歳。この一文の冒頭で触れたドキュメンタリーのタイトルを思い出したい。石油と血を対比させたものだが、100年という歳月の類似性も興味深い。「石油」については我が日本も「持たざる国」として翻弄されまくり、遂に「一国滅亡」に至った。20世紀は「戦争の世紀」と云われる(残念ながら21世紀も続く)が、同時にそれは〝石油の100年〟でもあった。地上で、海上で、空中で、人間が作った〝動くもの〟すべてに関わり、これからも恐らくそうであり続けるだろう〝石油の命脈〟に思いを馳せるとき、映画『ジャイアンツ』とジェームズ・ディーンが甦ってくる。(2024-2-28)

 

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