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【44】父から子へ流れる悠久の歴史━━中国映画『山の郵便配達』を観て/7-21

 1980年代初めの中国・湖南省西部の山岳地帯がこの映画の舞台である。冒頭の10分足らずに物語の全体像が凝縮されている。郵便配達業務に生きてきた父親(この当時41歳)が足の痛みもあり、息子へのバトンタッチを願う。息子は普通の仕事とは違う公務員になることに誇りを持ち、地元での仕事に就いてくれればとの母親の思いを振り切って、意を結する。父から子へと受け継がれる郵便配達の仕事は、往復223キロの距離を2泊3日で歩く。山あり谷あり、野を越え川を渡っての苦難の業務である。車も自転車のお世話にもならない。ひたすら歩く。これまで父は「次男坊」という愛称を持つ愛犬と一緒に回り続けた。郵便物をリュックに詰めて、息子のデビューの出発の時間がきても、犬は父親のそばを離れようとしない。長年の習性から抜けきれない。父がいくら行けと言っても動かない。痺れを切らした息子は一人で発つ。仕方なく父も一緒に行くことにし、2人と一匹の最初で最後の〝集配行〟が始まった。繋がり薄く、父を「父さん」と呼べない息子に、2人の間の微妙な距離感が陰を落とす◆美しい山の稜線はどこまでも青々生き生きと続く。カメラは遠くから2人の姿に近づき、また近くから遠くへと離れつつ、そのアングルはゆっくりとやさしげに追いゆく。映し出される映像は日本の山岳地帯の農村風景とスケールの違いはあれど大差はない。そしてそこを歩き行く父と子の心象風景も、同じ人間の枠組みから大きく逸脱するものではない。不思議なくらいに。行く先々で新米配達員の息子の感動を誘う場面と出くわす。勿論一緒に動く我々の眼にとっても同じだ。驚く場面は2つ。一つ目は、最初の村で。配達すべき郵便の受け渡しを終えて次に行こうと役場を出たところ、集まってくれた数十人の村人たちと出くわす。みんなこぼれんばかりの笑顔。初めての出会い。郵便物を介在する関係がどんなに深いものかを一瞬にして悟る。「うちの息子です。これからは彼が来ます。何かあれば頼んでください」━━若者を覗き込むように見る子供たち、爺さん婆さんら村人たちに父が誇らしげに紹介する。もう一つは、目が不自由なお婆さんのところに立ち寄った際のこと。この老婆は、遠く離れた孫からの手紙をいつも待っている。ひたすらに。待ってるだけが生きがいと言ってもいい。この時も封筒を開けると手紙とともに十圓紙幣が一枚入ってた。配達員と息子が型通りの短い手紙を読んで聞かせる。時にはお婆さんの代わりに手紙も書く。これだけのことだが、深い感動を呼ばずにおかない。別れる時の寂しそうな表情にこちらまで泣きたくなる◆川を渡る場面。息子が父をおぶって渡る。その昔、息子が幼児の頃、肩車したことを思い起こす。あれから20年ほど。逆に息子の背に乗せてもらう父は涙ぐむ。ゆっくりと流れるこんな時間の中で、2つほど胸騒ぐシーンがあった。一つは、親子が疲れて涼を取ろうと休もうとする場面。つい郵便袋を明けた際に、一陣の風が吹いて郵便物の数枚が風に飛ばされてしまう。あわや飛び去ってしまうかという危機一髪の際に「次男坊」が空中で飛びつき、郵便物を口に咥える。ここは最高に緊張した。犬も人間も一体なることを感じさせた。一方、高い崖をよじのぼらねばならず、近くに住む青年が上から綱を投げてくれ、それを頼りに下から父と息子が上がっていく。崖上で合流した際の何げない会話。青年が学校を出たら「新聞記者になりたい」と夢を語った。瞬時、私の胸が騒いだ。新時代に世の時流に乗ろうとする者と、伝統的な仕事に残る者との対比。ここは、突然に我が家の過去を思い起こさせた。銀行員だった父は私に地元に残って同じ仕事をさせたかった。一方私は、東京での「新聞記者」に憧れた◆親子の仕事をめぐる価値観の違い。地方と中央。伝統的な親子、時代、地域の差異が重なりあって、中国の映画どころか、我が身のことのように思えた。先に疲れて寝る息子を見やりながら、道中で「お父さん」と初めて息子から呼ばれた感激も手伝って、やがて添い寝する父親。私の場合、初めて帰郷した際に、母親が泣いて抱きついてきた。寒かろうと枕元に衝立風のものを立ててくれた。また、上京する際に、両親が揃って仕立て屋に足を運び、父の古いオーバーコートを仕立て直してくれたことも忘れられない。〝田舎の新聞記者志望の青年〟というだけで、こんなことが重なり浮かんで、ゆっくり映画も楽しめない。もう終末に近い年齢のくせに、親にして貰った子の立場のことしか思い出せない。改めて時空を超えた日中(漢)両民族の類似性に思いを馳せざるを得ないのではあるが。(2024-7-21)

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【43】銃と愛しのクレメンタインと「雪山讃歌」━━『荒野の決闘』を観て/7-14

 トランプ前米大統領が演説中に狙撃され、それこそ間一髪で死を免れた事件は世界中を驚かせた。多くのことを考えさせられたが、私は米映画『タクシードライバー』で、大統領候補を狙おうとした主人公(ロバート・デ・ニーロ)が警備に阻まれて断念した場面を思い出した。今回は警察が直前に気がつきながら、逆に威嚇されて引き下がっていたとか。真相は未だ詳らかでないが、警備に抜け穴があったことに気づく。この国はリンカーン、ケネディ、レーガンらを始め数多くの大統領暗殺の歴史を持つ。それもこれも市民社会の中で銃を持つことが自由であることがベースにあることが大きいものと思われる。西部劇を観ていて、つくづく銃をぶっ放すことが日常茶飯事であるこの国の伝統に思いを致さざるをえないのである◆最近改めて観る機会があった『荒野の決闘』も酒場で拳銃を抜き、弾丸が飛び交う場面が多いことに呆れるくらいだった。西部劇といえば、砂塵吹き荒れる荒野の中の町の酒場が主たる舞台で、賭け事に興じる荒くれ男とそれにまつわる妖艶な女といったところが、登場人物の通り相場と決まっているが、この映画はやや趣を異にする。まずこの映画は西部地域で有名な伝説がベースにある。保安官のワイアット・アープと賭博師にして医者のドク・ホリデイという実在の人物2人が基軸をなし、それにチワワという酒場の歌い手の看板娘とクレメンタインという名の美女2人が絡む。ホリデイは自分を慕って東部の町から来たクレメンタインを追い返そうとする。一方、アープはクレメンタインに一目惚れする。こういった男女4人の恋愛感情をもつれさせながら、アープ4兄弟とクラントン親子4人との因縁沙汰によるOK牧場での決闘へと話は進む◆この映画はジョン・フォード監督が1946年に作ったもので、ヘンリーフォンダとの組み合わせでは前作『怒りの葡萄』に並ぶ名作とされる。さらに、ジョン・ウエインと組んだ西部劇の古典的名作『駅馬車』に匹敵する高い位置を得ている。また、邦題『荒野の決闘』は、場所がOK CORRAL(牧場)であったことから、米国では、「OK牧場の決闘」と呼ばれ、映画そのものの原題は『MY DARLING CLEMENTINE.  いとしのクレメンタイン』と呼ばれる。実はこのタイトルは、もとを正せば、19世紀後半の米国におけるフォークバラード。この映画の主題歌として一躍世界中に知れ渡ったとされる。日本では雪山ソング『雪山讃歌』の原曲(替え歌の原曲)として知られている。私のような戦後第一世代は、原曲も耳にして歌い、替え歌の方もあの山、この川を前に歌ってきたものである。その意味では、「青春讃歌」そのものだった◆という、特別な付加価値を持った映画だが、根幹部分はいささか〝伝説先行〟のあまり表現不足が目立つ。例えば、ドク・ホリデイとクレメンタインの関係がもう一つ分かりづらいし、彼の病的咳込み(肺結核)が説明不十分のままに終わっていることなど、未消化は否めない気がする。映画製作者が完成した作品に不満で30分ほどカットして追加撮影されたことなどのエピソードが伝わっているのも、確かに、と思わせる。むしろこの映画は一般に言われているメロドラマ的要素よりも喜劇的ムードの方が強いと私は思う。例えば、ワイアット・アープ役のフォンダが、最初にこの町トゥームストーンにやってきた時に入った理髪店での椅子の具合の悪さ(ひっくり返る)や、髭剃り途中で顔にフォームを塗ったままの連続シーン(暴漢への対応)など、笑いを誘う。のちに、保安官になってからも理髪店でのやりとりは、専ら恋の相手を意識させる。小道具としての男性用香水が粋な役割を果たす。そして極め付けは、クレメンタインとのダンスの場面でのアープの足の揚げ方が妙に面白い。そういう意味では、酒場で銃を撃つばかりのイケメン・ホリデイが洒落男・アープの方を引き立てているかのようにも思える。『荒野の決闘』から「トランプとバイデンの対決」まで、「銃社会・アメリカ」の原風景は延々と続く。(2024-7-17)

 

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【42】パニックと「人と神」の対応━━『ポセイドン・アドベンチャー』を観て/7-7

 「この映画をみるために私は生まれてきたと言ってもいい」とは、私の母校長田高校の先輩で尊敬する映画評論家の淀川長治さんの弁。感激家のあの人なら言いかねないと思う。先日私は3度目観てまだ興奮さめやらない。映画の舞台は大晦日、嵐のなかニューヨークからアテネに向かう巨大客船ポセイドン号。古いこの船を全速力で走らせようとする船主の意向と、それに抗う船長。船酔いに苦しみながらも、それぞれの人生における至福のひとときを過ごす老若男女。「朝はきっとやってくる、光を探し続けよう」との歌声と流れるバンド演奏。これらが大きな衝撃音と共に一瞬止み、暗転する。マグニチュード7.8の海底地震が発生した。津波によって船は横転。船底と甲板が逆さまになってしまった。以後、大惨事にも耐えて、生き残ったものたち数人の必死の脱出行が始まる。息もつかせぬ生死隣り合わせの1時間余りの冒険(アドベンチャー)である。刻々と沈みゆく船に、轟音とどろかせ襲いくる海水の恐怖。諦めの心情と、生への強き意志が交錯するなか、ジーン・ハックマン扮するスコット牧師の凄まじいまでの強気のリード。ひとりまた一人と犠牲者を生み出しつつも一条の光を求め進む◆印象的な場面を挙げる。一つは、船好きのロビン少年の普段からの知への興味、蓄積が危機に生きる。子どもを子どもだからとなめてはいかんと痛切に感じた。二つは、右か左か、行手を決める際の命令口調のスコットにいちいち反発する刑事のロゴ。些細なことだが我々の日常にも多い。事の本質とは違う次元での差異が大きな亀裂を人間関係に生み出す。三つ目は、太った身体の女性ローゼン夫人がほぼ最終場面で圧倒的に重要な役割を果たす。水中に潜って一行の進路を確定するに際して、彼女が若い頃に潜水の選手だったことを明かす。皆は信じようとしない。が、先行したスコットからの連絡がない〝万事休す〟の場面で、飛び込む。そしてスコットに九死に一生を与えたところで、本人が心臓マヒで急死する。これには心底泣けた。映画史に残る名場面だと思う◆この映画は底流にキリスト者の「神との対話」という問題を潜ませる。船が横転する前、乗り合わせた2人の牧師が言い合う。現実重視で自由を尊ぶスコットと、原理に忠実で抗うことを避けるジョンとの間で。スコットは、「ひざまづいて神に祈れば全てうまくいく?ばかばかしい。2月に暖房が欲しいと神に祈っても手が冷たいだけ。祈るより家具を燃やした方がいい」と。これに「正当なおしえではない」というジョン牧師に、「祈るだけが教会じゃない。もっと現実的に」というスコットは、上層部からアフリカ赴任を命ぜられ、「自由を得られる、望みが叶った」と喜ぶ。「縛られず、批判もされない私なりに神をみつける」と喜ぶ場面がまぶしい。直後の甲板上の「臨時教会」で彼はこう説教する。「神は多忙だ。人間の想像を超える遠大な計画をお持ちだ。だから個人には注意を払わない。個人に重要なのは、過去と未来を結ぶという点だけ。子供や孫に何かを示す、人類にどう貢献するか。だから神に救いを求めてはならない。自分の中の神に祈り、戦う勇気を持つのだ。大事なのは勝つ努力だ。神は挑戦者を愛する。あなたの中の神が共に戦ってくれる」と。分かりやすい◆そして、最後の最期。スコットは空中に浮かぶかのようなハンドルにぶら下がったまま、噴き出す蒸気を止めるため、一縷の望みを持って必死に回す。その時に口にした命懸けの叫びが胸を打つ。「神よ。これ以上何が欲しい。ここまできたんだぞ。自分たちの力で。助けてくれとはいわん。だが邪魔をするな。ほっといてくれ。もっといけにえが欲しいのか。あと何人だ。まだ足りないなら私を奪え」と。彼の必死の力で蒸気は止まる。だが、そこで力つき火の中に落下する。見終えて考えることは多い。平穏な日常とパニック。そして人間と思想、信条、宗教と哲学。キリスト教と仏教、イスラム教。思いは人間l、地球から宇宙へと駆け巡る。果てしなく。「生死の狭間」という究極の場面での、人間と人間の作った「神」との〝せめぎ合い〟を、この映画ほど赤裸々に描き出したものは他にないように思われる。ここでも、神は「沈黙」して語らない。(2024-7-7)

 

 

 

 

 

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【41】リアルな恐怖感とスピード感に興奮極まる━━映画『新幹線大爆破』を観て/7-2

 「新幹線ひかり号に爆発物を仕掛けた。止まると自動的に爆発する」との脅迫。犯人の要求通りの金を指定された方法で用意せねば1500人の乗客だけでなく沿線住民の多くの生命が奪われかねない──この前代未聞の凶悪犯罪にどう立ち向かうか。博多到着までの恐怖の時間が刻々と過ぎゆく。その中で明かされゆく犯人たちの切ない過去。1975年(昭和50年)東映制作。監督は佐藤純彌。豪華な配役が話題になった。行動する主役は高倉健(犯人)。受け手役の主演は宇津井健(運転指令長)。そしてもう1人、問題の新幹線ひかり号の運転士役の千葉真一。この3人が中核。過去に大地震や巨大怪獣による様々なパニック映画が作られたが、紛れもなくこの映画のリアルな恐怖感は群を抜く。私個人としても「最も興奮して観た映画」として挙げたい。犯人たちの要求に応えつつ対抗の道を模索する警察や国鉄(現在のJR)当局などの描かれ方も興味深く、この分野屈指の出来栄えだとの高評価に値する◆尤も、現実にはこの映画の評判はそれほど高くなく、興行成績も芳しくなかった。なぜか。いつ何時起こりかねないテーマ。愉快犯を含めて真似をされる可能性が高かったことなど、制作段階から協力を拒んだ国鉄の空気の影響も大きかったものと思われる。その一方、海外ではフランスを筆頭に圧倒的に評判は高かった。超高速の鉄道の存在そのものが珍しい時代でもあり、日本の鉄道技術への好奇心も手伝った感もする。犯罪に追い込まれた犯人たちの実像を追い過ぎず、事件のみを追うことに徹していたら、より迫力があったとの見方もあろう。だが、現実には社会、時代批判的要素を含ませたところに違った意味での膨らみがでた◆3人の犯人像は、集団就職で沖縄から出てきた青年、学生運動に夢破れた男、事業の失敗から家族破綻に陥った中小企業経営者。彼らは、戦後25年が経つ中で、高度経済成長に取り残された庶民群像の3典型とも言えた。それを通常の悪役とは一味も二味も違う高倉健、山本圭、郷英治が演じた。ただしこの部分の説明が長く、3時間を超える作品となったことを批判する向きもあった。が、私はこの部分が逆にいいと感じる。東海道新幹線が初めて運行したのが1964年(昭和39年)。あの年東京オリンピックが開催され、戦後日本の頂点とも言うべき時代が幕開け、持続する象徴でもあった。その影で忘れられた人々の逆襲と捉えるのはいささか無理筋とはいえても、今となっては、あえてそう観てみたくもなるからだ。この映画の見どころは、言うまでもなく、犯人たちの仕掛けた爆発物の場所を発見して、いかにそれを取り除くかである。そこに至る様々の過程を乗り越え、つまづきながらの展開にただただハラハラどきどきさせられる。海外で好評を博してきた日本映画の伝統的手法は、ゆったりした雰囲気での日本文化の高揚といったところが通常パターンだった。スピード感とは無縁のものが多い。それを真っ向から裏切るダイナミックな映像の連続は〝脱邦画〟の感さえした◆安全確保について指令長と運転士との悲壮感漂うぶつかり合い。警察と国鉄との対応のズレ。多くの人命を預かる職業としての国鉄マンの心意気。どこをとっても素晴らしいプロ根性の現れとしか言いようがない描き方だった。とりわけ、最終段階で事実を隠して、犯人に呼びかける場面をテレビメディアで報じさせ続けたのは意表を突いた。その強引なやり方に職をかけて反発し抵抗した宇津井健の役どころは唸らせた。ここまで国鉄マンを好意的に描いて貰って、なんの文句があるのかとも言いたくなるぐらいである。また、海外逃亡する直前に空港に張り込んだ警察の存在を、元妻と子どもの姿を見て気づく高倉健の表情。溢れる緊迫感に圧倒的な迫力を感じた。かつて観たスティーブ・マックイーン主演の『ブリット』の空港でのラストシーンを想起させた。昨今不振ぶりが強調される邦画の中で、かくも凄い迫力の映画があったのだということを今頃になって知った。我ながら呆れるばかりだ。今年は東海道新幹線開業60年。開業の翌昭和40年に私は新幹線に乗って新神戸駅から上京した。まさに人生の曙。夢を抱いて走った。無事の歳月を祝って、改めて多くの人がこの映画を観ることは、大いに意味があろうかと思われる。(2024-7-2)

 

 

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【40】キリスト教日本布教の困難──映画『沈黙ーサイレンス』を観て/6-22

 なぜ危急困難に直面する人間を前に「神」は沈黙され続けるのか──作家・遠藤周作の小説『沈黙』(1966年昭和41年)のテーマだ。これをもとに篠田正浩監督によって映画化されたのは1971年。その時から46年。マーティン・スコセッシ監督が2017年に作ったのが『沈黙ーサイレンス』である。私自身が法華経の信仰に踏み切ったのは1965年(昭和40年)。「60年代」只中。世界も日本もそして私も「運命」の時代だった。当時の私自身のキリスト教に対する理解は、「神の存在」を含めて理解しがたい宗教であるとの域を出ていなかった。その後、遠藤の一連の著作を読み、その問題意識の一端を共有するに至ったものの、大きく認識を変えることには繋がらなかった。日本における布教過程での壮絶なまでの迫害。にも関わらず、その命脈は連綿と保たれてきた。映画を観て、弾圧の中で布教する側も、その教えに忠実に信仰を続けた側も、「よくぞまあ、ここまで耐えるか」といった率直な感慨を持った◆小説の舞台は17世紀前半の日本・長崎周辺。ポルトガルやスペインから布教に来て、戦国武将や大名にも信者が出ていたが、徳川幕府の方針転換によって事態が変わった。原作では、宣教師の中心人物フェレイラ神父が拷問にあって棄教したとの噂がポルトガル・イエズス会に伝わって、弟子にあたるロドリゴとガルぺの2人のパードレ(司祭)が真偽を確かめるべく日本に向かう。苦難の末辿り着いた先に待っていたのは、弾圧に隠れて信仰を続ける農漁民たちのいたいけな姿だった。キリストの姿が刻印された版像(踏み絵)を踏ませるべく、執拗な追及が行われる。従わなかった者には、壮絶な拷問が加えられていく。その過程でロドリゴ司祭は、ある信者の裏切り行為がもとで捕われ、ガルぺ司祭は民衆を守ろうとする中で死に至る。退転したフェレイラ神父とロドリゴ司祭が会うに至るも、抵抗することが逆に民衆を苦難に沈めるだけだとの事の非を諭され、ついに心ならずもキリストの絵を踏む。弟子もまた師と同様の道を歩み、死に至った日本人に成り代わって江戸で生きていく、との展開である◆この映画で、観るものの眼に焼き付くのは、熱湯の飛沫浴びを始め、はりつけ、火炙り、逆さ吊りなどの残虐な拷問の数々と、信仰を棄てることを迫る踏み絵の場面である。一方、耳に残るのは、フェレイラ神父(棄教した後、沢野忠庵と改名)との漸く叶った対面でのやりとりである。ロドリゴ司祭が涙ながらに「情けない」とかつての師を激しくなじり続ける。それに対して、フェレイラは「この国にキリスト教は根付かない、泥沼のようなもので苗を植えても根が腐る」「山河の形は変われども、人の本性は変わらぬ」などと静かに強調する。師弟の布教をめぐる対話は哀切に満ちて胸を打つ。神への信仰を司祭が続ける限り、信者の生命は果てしなく損なわれる──〝逆さ吊り〟の拷問に苦しむ信者たちの呻き声の前で、ついに司祭が棄教を選択するに至ってしまう。この映画、最大の山場だ◆「信仰の持続か、さもなくば死か」との〝究極の選択〟を迫る布教上の法難は、日蓮仏教の歴史にも「熱原の3烈士」から「牧口常三郎先生の獄死」まで厳然と続く。「信教の自由」が確立された現代社会では、「難来るをもって安楽と心得べきなり」とのご聖訓は現実生活で不断に試される心構えとして根付いている。大学生活の幕開けと共に私は入信。先祖代々の浄土真宗から、日蓮仏教へと、10年余をかけて父を始め一家全員を改宗に導いた。子どもの頃父親の背を見ながら熱心に阿弥陀経を唱え、「白骨の章」に耳そば立てた私だったが、西方極楽浄土への転生よりも、この世における人間変革こそ成仏という原理に強く惹かれた。改宗後に学んだ哲理の数々は我が生命を揺さぶった。〝有るか無いか〟の二元論ではなく、有無を含み持った〝もう一つの存在〟としての「空」。ものごとの本質を掴む上での「空仮中の三諦論」など。至高の生命哲学だと確信し得る東洋の思想に目くるめく思いを抱いた。そんな身にとって、『沈黙』の突きつけた問題設定は、格好の〝非常時のシュミレーション〟であった。友人たちとの宗教的議論のテーマとして俎上に載せても、むしろ究極の選択肢に直面しない〝幸運の巡り合わせ〟こそ焦点だった。神は「沈黙」するが、仏は「感得」するものだ、と。(2024-6-23)

 

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【39】日米の「大学紛争」映像比較──映画『いちご白書』を観て/6-16

 「大学紛争」といえば、1965年(昭和40年)に慶大に入学した私の場合は「学費値上げ反対闘争」を思い出す。大学の司令塔である塾監局が一時的にほんの少しの学生たちによって占拠(この時のテーマは「米軍資金導入反対闘争」)されてしまった。それを少し離れたところから偶々通りかかった石川忠雄先生(後の塾長)と、同期の梶村太一郎君(現在ドイツ在住ジャーナリスト)と一緒に見上げつつ、「ったく、しようがないねぇ。あんなことをして」と慨嘆したものだ。後に1993年(平成5年)に衆議院に初当選して政治改革特別委員会の委員になった。その際に、偶々隣席に座った栗本慎一郎氏(新生党=当時)との雑談のなかで、大学在学中のことが話題になった。栗本氏は、塾監局を占拠したうちのひとりが自分だったことを得意然と明かした。これだけが私の学生運動の現場との関わりだ。そんな私がつい最近に日米両国のフィクションとドキュメンタリーによる、2つの大学紛争に関わる映像を観た。一つは映画『いちご白書』。もう一つはNHK 「映像の世紀」バタフライ・エフェクト『安保闘争』である。共にそれなりのインパクトがあり、感慨深かった◆映画の方は、米国の作家ジェームズ・クネンがコロンビア大学での1966年から68年までの自身在学中の戦争関連施設の建設反対抗議体験をもとに書いたものが原作。出版は1969年。映画は1970年に公開された。ほぼ私の学生時代と重なり、映画初公開からは54年が経つ。映画はボート部に所属するノンポリ男子学生と学部長室に立て篭もる女子学生との恋愛模様を絡ませて進む。タイトルの『いちご白書』は、当時のハーバート・A・ディーン学部長の発言に由来する。大学当局の思惑と学生の反発との交錯の中で、虚実ない混ぜになった論議が交わされた。半世紀経っても「いちご」の持つ味わいは変わらないかに見えるのは面白い。一方、我が日本の『安保闘争』ドキュメントは、60年安保闘争の学生デモ隊の国会突入をピークに、全学連委員長だった「唐牛健太郎」の渦中での動きを追う。権力の頂点にいて安保改定に政治生命の全てをかけた岸信介首相との対比が印象深い。とりわけ当時の運動家の多くは、大学を卒業して普通の就職をする過程で転向を余儀なくされていった。これに対し、「唐牛」がひとり原罪を背負ったかのように労働者であり続け、50歳を前に死んでいった姿には胸を打たれた◆米国ではこの映画はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞したものの、興行的にはあまり振るわなかったという。確かに学部長室占拠から食料調達やら、ボート漕ぎの場面などを挟み、大学に突入してきた警察当局に抵抗するシーンに至るまでストーリーの「甘ったるさ」は否めない。ピリっとしたところを感じることはいささか難しかった。恐らくそれは米国にあっては、ベトナム戦争そのものの直接的な体験の厳しさ、リアルな反戦運動の実態に比べて、どうしても〝学生ごと遊び〟に見えてしまう。その点、日本の場合は、60年から70年前後にかけての「安保闘争」と絡む形で、東大安田講堂事件(1969年)やら、「あさま山荘事件」(1972年)など、小説より遥かに奇異で、奇怪な事実が相次いだ。これは今も時折流される各種ドキュメント映像が物語るように、ただただ圧倒されるばかりである◆私の高校同期生たちのうち、早稲田大学に進んだ連中は、高校の一個先輩に後に早大全学共闘会議議長になった大口昭彦さんがいたことも影響して学生運動に身を任せた者も少なくなかった。ほとんどの友人は卒業と同時にその道から足を洗ったものだが、中には職業革命家とでも言うべき活動に挺身したものもいた。また東大駒場前に新左翼関係の本を中心に取り扱う書店を営んだものもいた。私が訪れた際に、彼が「70年代には革命が起こる、いや必ず起こすとマジで思ったものだが、起こらなかったなあ」と述懐していたことは忘れ難い。大学生時代に「社会革命」ではなく、「人間革命」こそ、人生を根底的に変革する確実な手立てだと確信した私は、勉強そっちのけで、日蓮仏法を体内に取り入れる活動に明け暮れた。おかげで、80歳に手が届くようになった今もなお、学生時代にやり残した「学問」を中途半端に引き摺っている。(2024-6-16)

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【38】医療における笑いと感動の持つ壮大な力━━映画『パッチ・アダムス』を観て/6-11

 「パッチ・アダムス」──この映画のタイトルだが、実在の人物の名前。米国生まれの数えで今79歳。まず映画のあらすじを要約する。自殺未遂を繰り返したのちに、心を病んで病院に入ったアダムス(演じるのはロビン・ウイリアムズ)はやがて自ら医師になろうと決意し、ヴァージニア大学の医学部に入学。そこでただ暗い気分でベッドに寝かされたままの患者たち(子どもや大人たち)を、あの手この手で笑わせる。規則通りでは患者との接触を禁じられているのに、今そこで苦しみ落ち込んでる人たちを放っておけない彼は、ルールを破って現場に入り込み、奇想天外の振る舞いを演じる。抱腹絶倒の演技のウイリアムズは、これまで幾たびか取り上げた映画(『グッドモーニング・ベトナム』『今を生きる』『ミセス・ダウト』)でも主役を演じていた。どれを観ても本当に面白い。この映画ではアダムスが恋人と一緒に仲間たちと経済的に恵まれない不幸な患者たちを救う医療施設を作るくだりが胸をうつ。と同時にショックな事件も起きる◆この映画を観たのは今回で2度目。最初に観たのはもう23年ほど前のこと。恥ずかしながらはっきり覚えていたのは。並べられたベッドに寝ていた子どもたちを明るい気分にすべく、パッチが鼻に赤い色の道化具を付けるシーンと、大学を訪れた学者たちを歓迎するための校舎の入り口が、女性の足を広げた子宮の入り口になっていた場面。そして卒業式でパッチが証書を受け取るラストシーン。いずれもどっと笑ってしまうくだり。そっちに頭がいって、患者を生身の人間と見ようとしない医療現場や、それを覆そうとする真面目な動きの諸場面は忘却の彼方であった。実は、この物語のモデルであるパッチ・アダムスが日本にやってきた2000年に私は直接会ったことがある。親しい友人である小児外科医の高柳和江と共に。高柳は小児外科医を経て、現在は、一般社団法人『癒しの環境研究会』の理事長であり、笑医塾の塾長。当時「日本のパッチ・アダムス」と呼ばれていた。『パッチ・アダムス いま、みんなに伝えたいこと──愛と笑いと癒し』って本を、2人共著で主婦の友社から2002年に出版している。彼女の招きで来日した際に、昭和大学人見講堂での講演会には3000人にも及ぼうかという医学生たちで満員になった◆この20数年というもの、高柳の講演や活動について私は幾たびも直接見聞きすることになり、応援もしてきた。つい先日(5-7)彼女はNHKの番組「ラジオ深夜便」に登場した。2度目のことらしいが、聴いてると相変わらずご本人を含め「女性は26歳、男性は27歳」ということが強調されていた。あれこれ以前のことが思い出されて可笑しかった。まず自分自身が若いとの自覚を持つことの大事さを訴えているのだ。長年癌を患っていた人や鬱症状であった患者が、彼女の話を聞いて笑いと感動を生活に取り入れた結果、治ったり、大きく好転したとの体験談が伝えられていた。笑いが人の免疫性をいかに高めるかが語られていた。この映画でのアダムスの実践がそのまんま高柳の行動と重なっていることが改めてよく理解できた。全国各地で笑医塾を展開しており、自殺者の増加で悩んでいた自治体が「一日に5回の笑いと5回の感動」の励行で、大きな改善がなされたとの報告も紹介されていた。私も兵庫県内各地で実施された講座を現地で見たり聞いたりしてきたが、改めて実例体験を知って感慨深いものがある◆医療現場において、この映画が訴える環境における癒しの重要性を実際に実行している病院の例として、岡山旭東病院のケースを紹介したい。土井彰弘総院長は1988年(昭和63年)に、脳・神経・運動器疾患の総合的専門病院を目指して病院経営を始めたとのこと。高柳との交流を通じて、パッチ・アダムスの招聘、アメリカ、ニュージーランド、カナダへの研修旅行の参加などで、癒しの環境への関心を深めたという。その結果①専属ガーデナーの導入②絵画展示③情報コーナー健康の駅の設置④パッチ・アダムスホールの設置⑤癒しの環境整備委員会の設置と運営⑥癒しの環境院内学会の年一回の開催⑦患者様ライブラリー(司書の配置)などを盛り込んだ病院が実現されている。要するに、笑いと癒しの渦巻く環境を作っておられる病院ということなのだ。他にもある。映画が公開(1998年)されて四分の一世紀、日本でも着々とパッチ・和江の精神が浸透していることは素晴らしい。(敬称略 2024-6-11)

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【37】川端康成の愛の行方と吉永小百合━━映画『伊豆の踊子』を観て/6-3

 原作は川端康成初期の小説『伊豆の踊子』。この小説は過去に6回も映画化されている。私がこのたび観たのは1963年(昭和38年)に製作されたもので、主演の踊子役は吉永小百合。その踊子に心惹かれる学生を演じたのが高橋英樹。原作は川端の若い学生時代の実生活をもとに描かれており、映画では後にその学生が教授になり、過去を回想する体裁を取っている。大学の大教室での講義が終わった後の帰り道で、その教授が若い男子学生と踊子(ダンサー)のカップルから仲人を頼まれるシーンで幕が開き、伊豆での若き日の思い出に浸っていく。川端には母と父を生後ほどなくして失った辛い幼少年期の〝孤児としての影〟が青年期を通じつきまとった。この旅の背後には鬱屈した思いを吹き払おうとする心情があった。天城峠のトンネルを出たところでの偶然の出会いから下田で別れるまで、彼が旅の芸人たち一行と行動を共にする数日間が描かれていく◆映画は小説にも増して、瞬時に登場人物の心の動きを表す。吉永小百合扮する薫に出会った一瞬に学生も心を掴まれる。二人の眼の動きと仕草が全てを物語る。旅芸人の立ち入りを咎める立て札が目に入り、子供たちが芸人たちを蔑む言葉を発しながらまとわりつく。その映像が歓迎されざる一行を暗示するも、それは表のこと。裏では民の心を〝旅の芸〟は掴みゆく。賑やかな鳴り物に合わせての踊り子たちの舞が、旅籠での空気を和ませ、人の心を宣揚せずにはおかない。同宿の客の囲碁の相手をするも、かなたからの歌舞音曲に混じっての嬌声が気になって学生の心は昂まるばかり。〝お座敷〟のあとに、囲碁の相手をするとの薫の言に胸弾ませ待っていたら〝五目並べ〟だったり、露天風呂から手を振る無邪気な仕草さなどに、しだいに歪み捻くれた学生の心が解き放たれいく◆私の「読書遍歴」に川端康成の「指定席」は少なかった。「美」よりも「理」を追う性癖は、漱石や鴎外に向かったからだ。しかし、議員を辞めた定年後に森本穫(賢明女学院短期大学名誉教授)という康成研究の第一人者と知己を得る幸運に巡り合ってより一変した。先日も映画を観た後に、その〝観想〟へと水を向けた。同先生から早速次のような文章で返信メールが届いた。「『伊豆の踊子』にはいくつかの脚本によって映画が作られてきていますが、ご覧になった高橋英樹と吉永小百合のものが一番素晴らしいと思います。村の入り口にバーンと『物乞ひ 旅藝人 村に入るべからず』との高札が出てきたり、踊り子の友達が哀れな姿で病に苦しんだ末に死に、やがて人知れず葬られる場面が出てきますね。あれって原作には具体的には書かれていない。原作に根ざす濃密なテーマをしっかり描きこんだ、まことに優れた脚本です。踊り子が社会的に差別を受ける身だったこと、一歩間違えると悲惨な死を迎えかねない存在であったことが汲み取れます」。嬉しい便りであった◆実は私は大学生時代(昭和40年/1965〜昭和43年/1968年)に映画のエキストラを一時アルバイト(時給600円)でやっていた。日活・布田撮影所の日映プロダクション専属だった。まさにその頃、高橋英樹の映画に〝その他数名〟役で出た。とあるセットの中でのこと。彼を取り囲んだ車座の中から「映画もいいけど、本当は俺は舞台に出たい」というような声が聞こえてきた。吉永小百合との〝競演〟がなかったのは残念だが、稲垣美穂子とは袖擦り合わせる場面があったのは懐かしい。その吉永小百合について、森本穫先生は先のメールの最後に、「映画が公開された昭和38年頃、川端は吉永小百合にぞっこんで、その後も彼女への愛を隠そうとしませんでした。彼には根源的に社会から疎外された美しい少女に惹かれるという強い傾向がありました。伊豆の踊り子も、伊藤初代ものちの養女政子も、さらに『事故のてんまつ』のモデルの女性も同様です」と記されていた。同先生は昭和37年早大法学部入学。後に早大第一文学部を卒業されている。吉永小百合は昭和44年に同大第二文学部を卒業しているので、広い意味で先輩に当たる。川端への羨望も仄かに漂ってくる。サユリストだった私は嫉妬すら感じてしまった。(2024-6-5 一部修正)

 

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【36】差別超え胸打つスポーツマンシップ━━映画『栄光のランナー/1936ベルリン』を観て/5-22

 いい映画を観たあとの爽やかさは格別だ。『栄光のランナー』──1936年のベルリンオリンピック大会で一人で4つの金メダルを獲ったジェシー・オーエンスの様々な戦いを描いた作品である。人種差別との戦い。ドイツとアメリカの過去と現在。映像と芸術との政治的宣揚と抵抗。スポーツと政治。選手とコーチの関係。人生の夢と希望、家族愛──などなど多方面に考えさせられる実にいい映画だった。こういう映画を皆が一緒に観て、意見を披歴し合うってことがあってもいいのではないか。この映画の公開は2016年。現実のベルリン五輪から80年後。そこから8年。今年のパリ大会を前に改めて考えることは多い◆この映画が観るものを感動させずにおかないのは、理不尽極まりない人種差別政策に依拠したヒトラードイツの傲慢さを、内外のスポーツマンたちが打ち破ろうとしたこと。ドイツの走り幅跳びのカール・ロング選手が、オーエンスの跳躍の2度の踏切り失敗に対して、タオルをわざわざライン横に置いて目立つようにした。これはいささかオーバーではないかと思われるが、同じ条件で競い合いたいとのスポーツマンの心を表現したものとして、強く惹かれずにはおかなかった。試合後の2人の語り合いで、ロングは国威発揚一辺倒のナチス政府批判を口にした。政治の異常なまでの介入に反発しあった会話も心に残る。また、コーチのラリー・スナイダーが自分自身の若き日の挫折の悔しさを奪取するべく、才能ある後輩に思いを託し夢の実現を果たしたことにも熱いものを感じた◆さらに、記録映画の撮影をヒトラーから任せられたレニ・リーフェンシュタールの振る舞いには注目させられた。この人物については、ファシズムの擁護者か、芸術至上主義者かといった相反する見方があるが、この映画は後者のスタンスに立ち実に興味深い。ゲッペルズ文化相らが撮影に不当な干渉をしようとしたのを跳ね返すシーンを始め、ヒトラー支配に抵抗するかの様な素振りには息を呑んだ。五輪現場での競技が終わった後で、後世の人々に残すためにとの観点から、改めて特別に低い位置にセットしたカメラで、オーエンスに走り幅跳びを繰り返し求める場面など、スポーツにおける「人間の肉体美」を追う姿には率直に感動した。この人物については、芸術の至高さに関われる自己の欲求を満たすため、人間抑圧の権化たるヒトラーに敢えて寄り添う道を選んだのではないかとの見方がある。大いに興味を覚えてきた私としては、この映画での描かれ方には好感を持たざるを得なかった◆偶々前回この欄で取り上げた映画『アラバマ物語』に続いて、ハーパー・リーの同名の原作小説を読んだが、黒人差別撤廃への道は遠いと、改めて痛感する。というのも、これまたタイミングよくNHK総合テレビで放映された『映像の世紀 バタフライエフェクト』──「奇妙な果実 怒りと悲しみのバトン」を観たからである。この映像は1930年代半ばに続発した黒人リンチ事件の非人道性を鮮明に描き、ほぼ100年間にわたる反発、抗議の動きを追ったもの。人々の心を奪い、怒りに立ち上がらせたジャズの歌声を主軸にした表現には胸詰まる思いを抱かせた。尤もバラク・オバマ黒人大統領の登場に大いなる期待を抱かせたものの、米国の現実はさして変化していない。なぜだろうか。私はあらゆる人間の奥底に潜む生命観が歪んでいることに原因があると思う。これを覚醒させるしかない。そのためには、仏教の真髄である法華経を根幹にした日蓮仏法に依るしかない。世界の各地で展開する創価学会インターナショナル(SGI)のリアルな座談会運動の中にこそ、生命の平等観が息づいており、黒人差別撤廃のカギがあると確信する。(2024-5-22)

 

 

 

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【35】大人のおとぎ話と聞いてはいたが━━映画『美女と野獣』を観て/5-12

 この映画は、スタートから普通ではない。監督ジャン・コクトーと思しき人物が黒板にチョークで主演の名前を書く。それを当のジャン・マレーが消し、次に監督がジョゼット・デイと書くと、今度は主演女優の彼女がそれを消すという具合に。そしてこの場面の最後に、「よーいスタート」となってカチンコがなった途端に、直ぐ監督から「カット」の声が。そして黒板に字が出てくる。そこには「子どもは大人たちの話を素直に信じ込みます 一本のバラの花から始まる不思議な不思議な物語です 怒り(感情)が頂点に達し両手から煙を放つ野獣と その城に住む野獣の心に恋心をもたらす美女の存在 子供はそんなおとぎ話を真剣に信じるのです 皆さんもちょっぴり子供に帰ってみませんか それでは例の呪文を!開け〝ゴマ〟 昔あるところに‥。ジャン・コクトー」と。これは、要するにあんまり真面目に理屈っぽく考えるなってことだろう(と思った)。しかし、そこは凡人。どうしてもなぜ、どうして、と展開が気になっていく。そのくせ肝心のポイント(主役のジャン・マレーの1人三役)を見逃してしまい。最後は、えっ、アレっ、あーあ、となって、結局なんと他愛もないおとぎ話かよ、となってしまった◆この映画の原作は、フランスのある童話作家の手になるもので、以後数多の人々や団体が様々に取り扱ってきている。これはそのうちの一つ。フランスの詩人コクトーが1946年、第二次世界大戦直後に初めて作った長編映画作品だという。実は私は、この映画よりも後の1950年に作られたコクトーの『オルフェ』を先に観た(No.30)。順序が逆になったのだが、後の方は、死後の世界と生きてる世界、つまりあの世とこの世を行き来する凄く浮世離れした話だった。こっちは映画冒頭に監督がわざわざ断りを入れているように、おとぎ話としての男と女の物語である。2つの映画の中で鍵を握る小道具が共通している。鏡とゴム手袋だ。この映画では心のありかを映し出したり、自由に行き来することができる魔法の手法、手段として使われる。自分の目で直接見ることの出来ないものが見られる鏡と、汚いものでも熱いものでもなんでも触れる手段としてのゴム手袋の使われ方は哲学的であり興味深い◆さて、この映画では、出会うまでは凶暴そのものの野獣が、美女に出会った後は結婚を迫る一方で、美女に支配される気弱な存在に変化してしまう。しかも美女から見つめられる視線を怖がり、「醜い私を許してくれ」という言葉を連発する。通常の男女関係でも、結婚するやいなや、どっちかが強くなるっていうパターンが顕在化するようだが、これはその類型のうち、女が強く、男(野獣の化身)が弱いという極端なケースだろうか。映画鑑賞者によっては、いくつかの分裂した男の持つ特性が統合していく過程を描いたものといった見方をする向きもあるようだが、人それぞれだろう。余談だが、このところ私がはまっているNHKの朝ドラ『虎に翼』で日本初の女性弁護士になった寅子が唄う「うちのパパとうちのママ」で始まる歌の歌詞の関係も、どういうわけか女優位である◆フランス文学者で映画評論家の野崎歓氏は、この映画を放送大学での講義で取り上げて「創造力は豊かさに触れると直ちに眠り込んでしまう」との言葉や、「我々の役割はおとぎ話を信じさせる素朴なリアリズムに忠実であることに限られた」といったコクトーの『ある映画日記』という著作からの引用文を紹介していた。その上で、貧しさこそが創造力の生みの母であり、この世にないものを信じることがリアリズムに繋がるとの野崎氏自身の見方を披瀝していた。つまり、野崎氏によれば、何もかも自由に豊かに手に入れられる環境にあり、目に見えるものにだけ取り込まれていては、ことの本質を掴めないとのメッセージをコクトーは発しているというのだ。コクトーを深く尊敬し、マレーに入れ込むこの人らしい深くてタメになる解説に違いない。映画を見終えて聞いて、我が想像力の拙さを思い知らされた。(2024-5-12)

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