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【9】日本の皇室とつい比較する──『英国王のスピーチ』を観て/9-17

 スピーチといえば、私は数々の失敗を繰り返してきた。当たり外れがあって、最終的には8勝7敗で辛うじて勝ち越しかなあ、というのがかなり甘目の自己評価。この映画はそんなそんじょそこらのヘナチョコ政治家の演説とは違って、原稿を読むとはいえ、国王の演説に纏わるものである。しかも英国の国王が吃音(どもり)のために、苦労に苦労を重ね、幾多の失敗ののち、なんとか克服してスピーチがうまくできるようになったというお話。その陰で、回り道を伴走した言語聴覚士の存在があったのだが、この人と国王との〝山あり谷あり〟のコンビぶりが胸に迫る◆殆ど実話通りとか。主人公のジョージ6世は、昨年9月に亡くなったエリザベス女王の父君。その彼女が5-6歳のまだ幼女だった頃、おじいさんのジョージ5世に代わって後を継いだ伯父のエドワード8世が身の不始末から国王就任まもなくに退位してしまう。そこでお鉢が弟君に当たる父に回ってきた。しかし、ご本人は、ひどい吃音。家族内の普段の会話とか、怒りに任せた時は吃らずに喋れるが、スピーチなど緊張を伴う場面になると、もうお手上げ。それを直そうと、のちの女王陛下(エリザベス女王の母上)が密かに手を打つところから舞台は幕を開け、息もつかせぬ面白さ◆あれこれと見せ場は続くが、わたし的には、英国王の家族団欒のありさま──父親が娘たちと戯れたり(モーニング姿で足を折り曲げてペンギンに扮して見せる)、即席のジョークで小話を聞かせて喜ばせる場面がとても面白かった。国王の子供が女の子2人なのと対照的に、言語聴覚士の子どもが男の子2人だったことも、英国の普通の家庭(この家のルーツはオーストラリア)を想像させて興味をそそる。それよりもっとご愛嬌だったのが、英国の首相や閣僚に扮した俳優たち、とりわけ、明らかにそれと分かるウインストン・チャーチルがいかにもと、笑わせる顔つきだったことだ◆この映画を見て、つくづく感じ入ったのは英国王室の自由さ加減。2010年の制作だが、よくぞここまでというほど開けっぴろげ。国王役に極めつけのありとあらゆるスラングを喋らせるあたり、女王陛下はどう観たのだろうか。要するに、普通だと、〝ちょめちょめ〟などという風に誤魔化すはずのところを(字幕もそのまま)全部曝け出す。尤も、別に隠すこともない。日常生活そのままなのだから。しかし、日本だととてもこうはいかない、と思う。ただし、英国王室の紊乱ぶりは日本のそれの比ではないが◆そうあれこれ思って見終えた時に気づいたのは、50年前に読み、今また再読している池田大作先生と英国の歴史家・アーノルド・トインビー博士の『二十一世紀への対話』の一節(129頁)である。池田先生が「世界的な趨勢として、王制はしだいに形骸化し、姿を消していく方向にあると思います」と水を向けたあと、将来の予想を訊く。同博士は「こんにち、君主制が次第に姿を消しつつあるということは、もはや人々が国家を神と感じることがなくなり、むしろ、しだいに一種の公共事業体とみなすようになってきて」おり、「非常に望ましいと考えております」と答えている。敗戦直後に生まれ、戦後民主主義の只中で育った私が最初から今に至るまでその存在のあり方を考え続けてきたのが「天皇制」であるだけに、この対話は極めて印象深い。(2023-9-17)

 

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【8】待ち遠しい「地球民族」の理念確立──『グリーンブック』を観て/9-8

 天才的ジャズピアニストが全米を演奏旅行する。その旅の運転手兼ボディガードとの二人三脚が描かれた映画なのだが、ピアニストが黒人、付き人が典型的な陽気なイタリア人であることがもたらす奇妙奇天烈な展開が実に楽しい。時に涙し、笑いを誘われ、ハラハラどきどきさせられて、最後はとても嬉しくなる──そして「人種差別」なるものがばかばかしく感じられるのだ。タイトルは、黒人旅行者への注意書き的案内書のこと◆当初、イタリア人〝用心棒〟は、この黒人に違和感を持ってギクシャク感があったが、次第に共感を抱くようになり、真に頼り甲斐あるパートナーになっていく過程はすこぶる好感が持てる。とりわけ、彼が家で帰りを待つ女房殿に旅先からたどたどしい手紙を書くのだが、それを雇用主が代筆ならぬ口伝する場面が実に秀逸なのである。また、このピアニストは同性愛者なのだが、警察に勾留されてしまう場面が切なく悩ましい◆名だたる音楽芸術家でありながら、黒人差別の前には無力で、ホテル内のレストランから排除される場面を始め、随所でアメリカ社会における黒人差別の実態を突きつけられ、中間的黄色人種としても、我が事のように苛立ちを覚える。人種差別については、肌の色の違いによるトラブルは、違いが明確なだけにわかりやすい。差別の所在が露骨な分だけ、赤裸々な対立感情をもたらす。一方、日本における、被差別部落問題やいわゆる第三国人差別のようなものは、外見上はわからない点があるだけに陰湿な争いに発展したり、根深い傷を負わせることになる◆この映画のラストシーンでは、ひとたびイタリア人運転手兼ボディガードと黒人ピアニストが帰宅して別れることになる。ついで、ひとり寂しいピアニストが思い立って相棒のうちを訪問すると、喝采で迎えられ、賑やかに皆で無事の帰還を祝い合う場面へと展開する。この辺りの呼吸がなんともいえず好ましく、微笑ましかった。劇場でなら、思わず拍手が出たに違いない。こうした問題解決の根源は、「地球民族」というような表現を専らにする思想哲学に裏付けられた、宗教の流布以外にないと思わせられる。(2023-9-8)

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【7】南アの人種差別をラグビーから考えさせる━━『インビクタス/負けざる者たち』を観て/9-1

 

 暑い熱い真夏の炎天下での高校野球をテレビ観戦していて、あらためてスポーツの持つ力を思い知った。この3月には、WBC第5回大会での日本の優勝に国中が湧いた。そんな興奮さめぬ中で、南アフリカの1995年ラグビーワールドカップ初優勝に至る経緯を描いた『インビクタス/敗けざる者たち』を観た。2008年制作。監督はクリント・イーストウッド。アパルトヘイト(人種隔離政策)に激しく抵抗し、獄中27年を経て1990年に大統領に就任したネルソン・マンデラ氏の国家再建ぶりを背景に、白人と黒人の心技一体化したプレーへの流れは、まことに爽快で、観るものをして深い感動を抱かせた◆マンデラを演じたモーガン・フリーマンが本人そっくりと思われたのはご愛嬌だったが、手に汗握る戦いを演じ切った主将役始め選手たちの演技力にも現実さながらのリアルさが印象深い。ここではあらためてラグビーという格闘技的スポーツの魅力に感じ入った。現実はことほど左様にスムーズに運んだかどうか疑問なしとしないが、スポーツが人種差別による分裂国家を、一変させる媒介の役割を果たしうる可能性を見せつけた功績はたとえようもなく大きいと考えさせられる◆この国の人種差別の凄まじさを描いた映画といえば、1987年製作・公開の『遠い夜明け』(リチャード・アッテンボロー監督)を思い起こす。デンゼル・ワシントン扮するスティーブ・ピコという黒人とドナルド・ウッズなる白人新聞記者の深い友情の絆をもとに、獄中下のマンデラの言語を絶する苦闘もさもありなんと想起させる映画だった。ピコの虐殺の背景を暴く本を書く決意をした、ウッズの飛行機を使った亡命に至る脱出劇はハラハラドキドキの連続で見応えがあった。ボツアナへ家族ぐるみで逃亡する最終シーンに、南アフリカ内に浮かぶ島のように存在するレソト国を経由する場面がある。実は現役時代に、私はこのレソト国の抱える課題解決に関わったことがあり、あたかも映画の中で実際にサポートしたかのような錯覚を持った◆この映画のエンディングでアパルトヘイトの犠牲になった人々の名前が延々と出てくる。その字幕を見ながら、アフリカ大陸の行方を思わざるを得なかった。21世紀はアフリカの世紀と言われてきたように、欧州各国の植民地支配からの脱却を経て今新たなる勃興の時を迎えてはいるものの、プーチンのロシアと習近平の中国による狡猾極まる専横的進出に直面している。現在の苦境を脱して、自主独立の社会を保ち得る国家群が多数出現するのかどうか。これ以上の犠牲者を出さぬよう人類の知恵の結集を望みたい。(一部修正 2023-9-3)

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【6】先住民族への差別と思い当たるフシ━━『燃える平原児』を観て/8-18

 ロック歌手として20世紀後半に世界に名を馳せたエルビス・プレスリーが俳優に徹した映画。彼の出演した映画は30本を超えるものの、歌手の力量とは別に駄作ばかりとの評価が専らのようだ。だが、私としてはこの映画を高く評価したい。それは人種差別の原型としての先住民アメリカ・インディアンの問題をわかりやすく描いている活劇映画だからで、今なお新鮮な輝きを持つ◆筋立ては単純明快。アメリカにおける西部開発途上に起きた、白人と原住民とのあつれきを克明に描き、飽きさせない。どころか手に汗握る面白さだ。プレスリーはインディアンの母と白人の父の間に生まれた次男(長男は父の連れ子で白人)の役どころ。この映画を観ていて、その昔西部劇に入れ込んだ我が若き日を思い起こした。あの頃は騎兵隊が善と思い込んだ、単純そのものの〝勧善懲悪好き〟の鑑賞者だった◆アメリカという国は、ずっと昔から住み続けてきた先住民を蹴散らし、アフリカから基本的には奴隷としての黒人を連れきたって、人権を好き放題に蹂躙してきた歴史を持つ。もちろん善意の人も数多いたし、現に今もいるのだが、人種差別のはなはだしさにおいて世界でも今なおトップに位置するお国柄である。見方によるとはいえ、現代世界の善きも悪しきもこの国発のことが多すぎると私は憂うひとりである◆もちろん、日本人の民族差別も並みではない。最たるものはアイヌ民族への仕打ちであろう。先日NHKのラジオ深夜便を聴いていて、スペイン在住の音楽家の川上ミネさんの言葉と音楽紹介に心底撃たれた。この人は、世界中を歩いてありとあらゆる音楽を聴いてきたが、自分の求めていたものはアイヌの人々のそれであったというのだ。評価は分かれるだろうが、アイヌを無視し続けてきた日本人の耳にはこたえるものといえよう。そんなことをも、この映画を観て、ラジオを聴いて感じさせられた。(2023-8-18)

 

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【5】『グッドバイ、アメリカ』って映画作って━━『グッドモーニング、ベトナム』を観て/8-9

 ベトナム戦争を描いた数多くの映画の中で、私はこの作品に今のところ最も好感を持っている。「平和」を愛する人々にとって、戦争映画はいかなるものも残酷に違いなく、ひとの身体が壊れゆくシーンには眼をそむけたくなるはず。しかし、この映画はひとときそれを忘れさせる何かしらの魅力がある。恐らくそれは欺瞞なのだろうが、〝身近な人間臭さ〟には負けてしまう。もちろんやがて悲しい結末が待ち受けているものの、それなりに余韻は残って印象深い。戦争映画嫌いの人にもお勧めだ◆戦争遂行のために兵士の意気を高揚させるラジオ放送。この映画を成功させたのは、ロビン・ウイリアムス演じる米軍ベトナム放送のDJ役の喋りのうまさとロックの軽快さに尽きよう。言葉と音楽の連弾は、あたかも波打ちぎわの潮騒のなかで聞く蝉しぐれのようで、煩いが妙に気持ちいい。加えて、ベトナム人の側からも描いて見せているという、未熟ながらも視点の平等性に惹かれた。ベトナム人をまるで犬畜生としてしか扱わない米映画の中で、これは「ベトコン」の側からの見方も垣間見られ、熱帯夜に吹く一陣の風の赴きがある。その前段として、アオザイが似合うとてもチャーミングなベトナム人女性(チンタラ・スカバトナ)とその兄という役回りを持ってきたのは興味をそそられた。主人公が恋心を抱くのはご愛嬌だが、随所にユーモアを取り入れ惹きつける◆声を聞くだけだった人気DJに、トラックなどで移動途上の兵たちが町なかで出会い、やりとりを交わす場面がとても人間的で面白かったが、それ以上に、ベトナム人たちのための英語教室の授業風景(DJが教師に潜り込む)が和ませた。実際にこういうことがあったとは想像し難いが、束の間の笑いが楽しい。かねて世界一粘り強い兵隊を擁するのはベトナムで、可憐で清楚な印象で魅惑するのはかの国の女性たちだと私は思い込んでいる。この映画で、前者はともかく、後者は紛れもなくその意を強くさせた爽やかなヒロインの登場だった。ほかの映画での彼女の出演を見てみたい◆韓国は別格として、イラン、インドが映画新興国として力を入れているのに比し、ベトナム映画についてはほとんどその実態が見えてこない。しかし、徐々に多様で個性的な映画が作られつつあるという。ベトナムの側から見た「戦争」がどんなものになるのか。先日、NHKの映像の世紀「バタフライ・エフェクト」で観た(5-29放映)、米のマクナマラ元国防長官との会見場面でのヴォー・グエン・ザップ将軍の発言(真の自立を勝ち取るまで戦争は続けるつもりだった)は、この国の人びとの途方もない奥深さへの興味をそそってやまないものだった。ベトナム人によるその映画の題名はさしづめ『グッドバイ,アメリカ』がいいかも。その映画ができるまで、米国は戦争の非に気づかないのかもしれない。(2023-8-9)

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【4】40年余も続くコッポラのメッセージの難解さ━━『地獄の黙示録』を観て/7-29

 サイゴンが陥落、米軍が撤退してベトナム戦争が終わってから、今年で50年が経つ。第二次大戦後直ぐの朝鮮戦争を始めとして数多の戦争に関わってきた米国とその国民にとって、今なお深い傷を残している最大の戦争は、間違いなくベトナム戦争であろう。私のような日本の戦後世代(米国と違って戦後はひとつだけ)にとっても、あのベトナム戦争は平常は忘れているが、あたかも時に応じて痛みを発する腰痛のように我が身を襲う。そんな私が忘れられない映画がフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』である。公開されて1年ほど経った1980年に立花隆氏が書いた『誰もコッポラのメッセージが分かっていない』という論考を、雑誌『諸君!』(文藝春秋社)同年5月号で読んだ。しかし、いくら読んでも、彼のいう「分かっていない」ということさえよく分からなかった記憶がある◆キリスト教というものに馴染んでいないと、この映画でコッポラが伝えたかったことはわからない、と大筋思い込んだ。立花氏のような深読みは稀れな存在だ、と。しかし、映画公開から40年。30代後半の人間も70代後半になった。相変わらず、キリスト教には自信はないものの、人生経験はそれなりに積んだと思い直し、「特別完全版」のビデオを観た。久方ぶりの2度目の鑑賞だ。前半の戦闘場面中心のリアル部分は分かりやすいことこの上ない。ワグナーの『ワルキューレの騎行』が響き渡る中での騎馬隊風飛行戦、弾丸飛び交う中でサーフィンに興じようとするくだりなど狂気の沙汰と思いつつ興奮させられる。慰問に訪れた踊り子に兵士たちが熱気を帯びるシーンは当然のことながら、フランス人たちとの食事場面での戦争の意味をめぐる議論の面白さもそれなりに分かった。しかし、後半のシンボリック部分の展開については相変わらず分かり辛い◆仕方なく、改めて、立花隆さんの力を借りざるを得ず、『解読 地獄の黙示録』(文春文庫)を読んでみた。この本は、第一部が雑誌『文藝春秋』2002年年2月号『地獄の黙示録』「22年目の衝撃」、第二部が、前述の『諸君!』1980年5月号「『地獄の黙示録』研究」、第三部が、書下ろし中心となっている。第二部から読むと、なぜ分からなかったかが①字幕の訳し方の拙劣さ②日本との文化的背景の違い③映画製作者が下敷にしたものへの予備知識の欠如━━などの原因によることがはっきりした。尤も、キリスト教的世界の人々にとって常識となっている「聖杯伝説」や「父殺しと母親への姦通願望」などは理解不能である。せいぜい、分かったのは、米軍の規律に叛逆したカーツ大佐と、命礼を受けて彼を殺しに向かったウイラード大尉という2人の関係の読み取り方について、子に自らを超えさせようとする父親と、それを乗り越えて新たな人間に生まれ変わった息子、との捉え方ぐらいだろうか◆第三部で、立花氏は、この映画はドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』のようなもので、「その問題意識の重さと深さにおいてこれ以上のものはない」とまで持ち上げ、絶賛している。映画としての完成度はある程度落ちても仕方がなく、哲学的、思想的な価値の高さがそれを補って余りあるというわけであろう。いやはや凄い入れ込み様である。なるほど、キリスト者にとってはそうかもしれないとは思う。コッポラの制作意図をここまで読み込んだ人はそうざらにはいないとも思う。しかし、私のような仏教徒や一般的な無神論者からすれば、いまいち腑に落ちない割り切れなさは残る。そういう点も含めると、この映画評を名作『人間のかたち』で取り上げた塩野七生氏が、後半の「(カーツ大佐については立花隆氏の)解釈で充分」とさらりとかわし、前半部分にのみ口を挟んでいたのはさすがという他ないように思われる。(2023-7-29)

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【3】無数の墓標の白さ目に焼き付く━『プライベート・ライアン』を観て/7-20

 小説や歴史もので幾たびか見聞きした「ノルマンジー上陸作戦」とは、実際こんなだったに違いないと思わせる。スティーブン・スピルバーグ監督の4作目になる戦争映画(1998年)である。数々の賞に輝く、こころ打たれる名作とされる。まるで実際の戦闘を中継で見ているような上陸に伴う激烈な戦闘シーンが冒頭から延々と続く。後で20分間と分かってそんなものだったのかと、驚く。後半のフランスでの市街戦は、ウクライナ東部戦線の現場もさもありなんと錯覚させられる。戦場の背景がヴェトナムの密林や、イラクの砂漠とは違うし、白人同士の争いだからとの単純な理由による。テレビで時おり目にするウクライナ戦争の戦闘が、この映画を観ると、あたかも80年前から続いているかのように思われる◆4人の男兄弟のうち3人の兄たちが戦死し、その家系が絶えることが懸念された。4人目の末弟ライアン二等兵を探し出し、帰還させ生き延びさせるべしとの指令が軍参謀総長からくだる。トム・ハンクス演じるミラー大尉(中隊長)を中心に8人のアメリカ兵士たちがその使命を帯び、動く。実話に基くというのだが、トム・ハンクスの人間味溢れる中にも厳しさと優しさが錯綜する演技に、引き摺り込まれる。降り頻る雨中の戦火の中で危機に瀕したある一家の親から5-6歳の少女の身柄を託され、ひとたびは預かる。だが銃撃戦の最中に、ひとり逃げ戻った少女が泣きじゃくりながら父の頬を叩く姿が胸を打つ◆あるひとりのドイツ兵を捕虜にした場面。その敵兵のため、また一人死んで6人になってしまった。埋葬の穴掘りをさせられた後、命乞いをする兵を殺そうとする。仏独語の通訳として参加していた実践経験のない兵(アパム)が逃がすことを主張する。そこに至るまでの過程で、そのドイツ兵捕虜がアメリカを褒め、ヒトラーくたばれと、あしざまに罵る場面が突出し妙に印象深い。アパム以外が反対する中、中隊長は逃す苦渋の決断を下す。その後の内輪揉め。中隊が瓦解寸前まで揺れ動くさまは辛く切ない。そして、この恩は仇で返される。後の戦闘場面で襲いかかってくるドイツ軍の中に復帰したその兵はいたのである◆最後の戦闘場面で、アパムが弾薬帯を身体に巻き付けて持ち運ぶ役割を担うのだが、怖気付いて中々身体が動かない。観ている方が息苦しくなり、まるで戦場にいる錯覚に陥ってしまうほど。そして彼が、かつて逃したドイツ兵と鉢合わせする巡り合わせに。逡巡するばかりに見えた彼が、捕虜にしながらも逃してやったドイツ兵に向かって初めて発砲する。戦車を交えての肉弾戦で、優しい心根の恩義に助けられ逃げのびた挙句、結局は当の恩人に銃殺される。殺し、殺される戦争の残酷さにただ哀れを催す◆この映画は、先輩兵たちの犠牲のおかげで生き延びたライアン(彼は見出されたが、帰還に同意せず皆と一緒に闘う)が兵士たちの眠る墓地で往時を回想する場面から幕が開く。そしてまた同じ場所に戻ってくる。ひとりの救出のために多くの犠牲者が出ざるを得なかった場面が次々と目に浮かぶ。観終えて、無数の十字架の墓標の白さだけが目に焼き付いて消えない。(2023-7-20)

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【2】遥かなる「古代ギリシャ喜劇」の呼びかけ━━『7月4日に生まれて』を観て/7-9

 先日、NHKの人気ドキュメント『映像の世紀 バタフライエフェクト』 で『マクナマラの誤謬』なる番組を観た。米国のヴェトナム戦争当時の米国防長官ロバート・マクナマラの数字と理詰めの戦争采配の誤りと愚かさを描いていた。戦後20年ほどが経って、国交回復後の1995年にマクナマラは、かつての敵将ボー・グエン・ザップ(元北ヴェトナム総司令官)と会い、なぜ和平交渉に応じなかったのかと訊いた。ザップは「必要であれば百年でも戦うつもりだった。我々にとって自由と独立ほど尊いものはないからだ」と答えたが、マクナマラは納得出来なかった、とのくだりが興味深かった。ともあれ、ヴェトナム戦争に端を発して「戦争と政治の関わり」に激しく銃口を突きつけた映画は『7月4日に生まれて』だと思われる◆トム・クルーズ演じる主人公コビッチが戦場で経験したことは、赤ん坊を含む住民殺害から仲間への誤殺に至るまでのおよそ無惨で醜悪な現実。戦闘で傷ついた者たちの野戦病院の凄まじいまでの惨状。脊椎の損傷から下半身の自由を失った彼は車いす生活を余儀なくされ、やがて故郷に戻る。持って行き場のない感情を父母や弟ら家族にぶつける切な過ぎる場面、「反戦」論者とのぶつかり合い。車いす傷病兵同士の諍いなどなど、これでもか、これでもかと続く、〝戦中の銃後の悲劇〟には目も耳も覆いたくなるばかり。やがて変身へ。筋金入りの反戦主義者オリバー・ストーン監督らしいタッチは遠慮容赦なく、「戦争悪」を描き抜く◆この映画を観ながらひたすら結末がどうなるかを思い浮かべた。戦争で障害を負ったひとたちに明るい明日を感じさせるには、どういうエンディングを考えたのだろうかと。幾つか考えたが全部外れた。コビッチ本人が大統領選挙に出て反戦を訴えるという意気込みを表現して終わるとは、意外だった。1989年制作(原作は1976年)だから、政治への期待が未だあったのか、と妙な感心をしてしまう。それから30数年、戦争は密林から、山岳地帯へ、そして砂漠へと、メインディッシューにも飽きたらず小皿を追加注文する大食漢のように、主戦場を次々変えて果てしなく続く。この映画は現代における戦争の悲惨さを描き、大いに考えさせたが、この結論、今となってはいささか平凡に過ぎる◆「戦争を考える」につけ古代ギリシャ喜劇のアリストファネスの戯曲『女の平和』は、いやまして輝いて見えてくる。ペロポネソス戦争を終わらせるために、好戦的な男たちに対して女たちに性的ストライキを起こさせる着想だ。女たちが参政権を持たなかった時代に、男装して議会を乗っ取るという『女の議会』と共に、心くすぐられるユーモアと知恵に満ちた2作(『女だけの祭』と併せ3部作)である。「女に政治は分からない」という見立てが幅を利かせ始めて2000年余。人類にとって「女の世界」も「世界の平和」も遥かに遠い。(2023-7-9)

 

 

 

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【1】日本人として1945年に生まれて━━『我等の生涯の最良の年』を観て/7-1

 先の大戦直後に生まれた(1945年11月)私が小学校に上がるまでの幼少年期7年間は、日本が米国に占領、支配されていた時期とほぼ重なる。駐留軍米兵を直接見た記憶は殆どないが、手や足のない傷痍軍人の姿はよく見かけた。姫路市の我が生家近くに住んでいた叔父は、右肩から下の片腕を失くしてフィリピンから帰還していた。陸軍航空兵に志願した彼はガッツのかたまりのような男だった。生涯を意気軒昂な気概のまま過ごした豪快な人で、事業にもそれなりに成功した。マニラ湾で見た夕陽がどんなに大きくて美しかったかを、一度だけ語ってくれたことは忘れ難い◆米映画『我等の生涯の最良の年』(The Best Years Of Our Lives ウイリアム・ワイラー監督)は、1946年にその年のアカデミー賞を総なめにした作品である。同じ町出身の3人の復員兵と、その家族愛を描いていくのだが、そのうちの1人は両腕とも肘から先がない。叔父の鉤型の鉄製義手を思い出した。叔父の付けていたものよりかなり精巧に出来ているように見えた。映画出演は初めてというズブの新人(自身が帰還兵)が演じた。隣家に住む恋人から心ならずも遠ざかろうと、敢えてありのままの姿を見せるシーン。いかに自分に連れ添うことが苦労を伴うかを、パジャマの着替えで説明する。彼女の口からは変わらぬ愛を意味する言葉が。抱き合う2人。彼女が帰った後、ベッドに横たわる彼の眼に流れ伝わる一筋の涙。これほど涙に意味を感じた美しい場面はない◆後の2人は銀行幹部とスーパーの店員に。戦争には応召されただけで戦地には行かずに済んだ我が親父も銀行員。そして八百屋を営んでいたもう1人の叔父も思い出す。今の時代をも髣髴とさせるようなスーパーに並ぶ商品の豊富さに驚き、我が幼児期の日々を彩った駄菓子屋の店先きやら、野菜や果物の並んだ店の天井からぶら下げられたザル(レジ替り)に思いが飛ぶ。日米の消費社会をついつい比較してしまうのだ。戦後の米国人はこの映画で日本を負かした喜びを噛み締めたに違いない。米国公開から2年後の1948年に日本でも封切りになった。どんな思いで皆は観たか、想像に難くない◆悲惨な地上戦の末に打ちのめされた沖縄。原爆を落とされ地獄と化した広島、長崎。大都市は至るところ焼け野が原になった日本。米国は戦勝国らしいゆとりの中にも、帰還兵と一般市民との戦争観の違いの溝は大きく、時に激しくぶつかる。そんな中にも「日本人は家族の絆を大事にする」とか、原子力の使い方を誤ると悲劇を起こすといった趣旨の好セリフも登場し、新鮮な驚きも感じさせる◆ラストは3人の復員兵は揃って、みごとなまでのハッピーエンドに。それぞれの人生に以後待ち受けるものは?などといった野暮な想像は振り払うしかない。しかし個人の人生を否応なく左右する国家の盛衰は考えざるを得ぬ。この映画から77年が経ち、米国は戦争に次ぐ戦争の連続。庶民大衆が意味を見出しえない戦いにどんどん突入し続けていく。以後、ヴェトナム戦争を始め、勝利感どころか惨めな戦争ばかり。一方、敗戦でひとたび滅亡した日本は、この77年というもの、戦争に直接的には関わらずにきた。「平和」、だった。戦争ばかりしてきた国と、ずっと「平和」だった国と。日米両国の明暗をくっきりと分つ時間軸上に立って、国家とその歴史の変遷に思いを凝らしたい。(2023-7-1)

 

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