【20】「あんたたちはどう死ぬのか」の問いかけ━━黒澤明監督『生きる』を観て/1-15

 映画の持つ底力を思い知った。もうすぐ死ぬと自覚した時に、人はどう振る舞うか。ここでは、自暴自棄となって享楽に身を任せ、家族との距離を感じ、若者の生命力との触れ合いを求める。そして、若者の一言から人のために役立とうと、〝人が変わったように生きて死んだ〟ケースである。子供たちのための公園の建設をなし終えた後、ブランコに乗りながら、🎵生命短し、恋せよ乙女〜と、「ゴンドラの唄」を口ずさむ場面が印象深い。昭和27年封切。真正面から人生の意味を問うたものとして、日本映画の最高峰のひとつと位置付けられてきた。後期高齢者として後があまりない私は「どう生きるか」より「どう死ぬか」に関心を持つ◆この映画が世に出た頃は、米占領下。当時は胃癌は確実に死に至る病とされ、告知は普通されなかった。担当医の告知を避けた微妙な言い回しが面白い。役人の世界を見事に揶揄(出色は主人公のミイラ、なまこ、定食などのあだ名)しつつ、世の人間関係のパターンをあぶり出し、笑いを誘う。なぜ、かの課長はあれほどまでに執念を持って公園建設に動いたかの説明は、最後の通夜の場面でのやりとりまで、なされない。その間の謎解き、心理描写が際立つ。そして、「親の心子知らず」を地でいく息子と嫁に、霊前でも和解の場面はない。この映画を作った黒澤明、橋本忍、小國英雄らの脚本、演出の巧みさは、中心と外縁の対比の妙から小道具に至るまで心憎い限りである。「生まれ変わろう」と、主人公が決意する場面で、後ろに映し出される若者たちの誕生祝い。ハッピバースデーツーユーの歌声がこだまする。新しい帽子(当時の男は中折れ帽を被った)が、かくほどまでにものを言わせる映画も珍しい◆主婦たち市民が市当局にいくら要望を出しても、たらい回しにあう姿は、行政の執行者と被執行者の市民との関係の象徴として今に続く。就職して役人になって30年。同じことの繰り返し。いったい自分は何をしてきたのか。妻に先立たれた主人公は、ひたすら息子のためだった、と自身に言い聞かせる。しかし、その息子と嫁は父親の遺産をあてにしているだけ。その本心を偶々知ってしまった。飲めない酒を居酒屋でひとり口にしている時に偶々出会った小説家との一夜の豪遊。以後、人生初の無断欠勤。数日経って、職場の若い女性が決済ハンコを貰いにやってくる。いらい、その女性と幾たびか会うことになる。いわゆる女遊びの類いでは到底ない。その女性にも気持ち悪いと嫌われながら、「君に会うとあったかくなる」「若い活気が羨ましい」とのセリフ。男と女、老若という生き物の原初的形態を思わせて、身につまされる。一連の動きは風の噂として拡散する。そして、役所を辞めて玩具工場で物作りをするようなったその女性の「課長さんも何か作ってみたら」との言葉が引き金になって、一念発起する◆人生の意味をどこに見出すか。職場での出世。カネの使い方。遊びの種類と程度。男と女といったところから、病気と死、ホワイトカラーとブルーカラーの違いに至るまで、万般の人生模様を気づかせ、考えさせてくれる。主人公が残された人生を公園建設にむけて主婦たちと共に、かつて邪険に扱ったことを反省して、他の課の課長や助役にまで幾度も説得に向かう。このシーンを観ていて、政治の現場に身を置いたものとして、実に考えさせられた。偶々つい先日読み終えた『実験の民主主義』(読書録No.110)は、立法権に比べて議論の対象にならない行政権(執行権)の改革について深い考察が展開されていた。前者は「選挙」(有権者)がカギを握るが、後者は「ファン」(支援者)がキイーだと、読んだ。「市民相談」を通じて、大衆が悩む政治課題の解決に取り組んできた公明党の存在。政治におけるアマチュアの役割を世に宣揚し続けてきた政党。その新旧の有り様にまで考えを及ぼさせてくれた。いやはや、実に奥深い映画を観た。(2024-1-15)

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