【32】芸術家が垣間見せる「異常さ」の意味━━ヴィスコンティ監督『ヴェネツィアに死す』を観て/4-21

 ヴェネツィア(英語ではベニス)──イタリア北東部アドリア湾の最深部に面した「水の都」と呼ばれる都市。中世におけるヴェネツィア共和国の首都で、いま世界各地からの観光客で賑わう著名な観光地である。そのイメージとは裏腹に映画では冒頭から、倦怠感溢れた雰囲気を漂わせた年輩の男の姿が映し出される。船着場でのこの船のデッキには他に誰もいない寂寥そのもののシーン。この男は、疲れた身と心を癒すべくドイツ・ミュンヘンから旅にやってきた音楽家のグスタフ・アシェンバッハ(演じるのはダーク・ボガード)。彼がこの地で偶然見かけた美少年(ポーランド貴族の家族の一員としてやってきていた)に深く惹かれていく。時は20世紀初頭。この映画が何をどう描きゆくものか全く知らずに、ルキノ・ヴィスコンティという有名な監督による作品だということだけで観た記憶がある。もう随分前のことだが、映画を観た後で、トーマス・マンの同名の短編小説を初めて読み、このほど改めて再読した◆小説が書かれたのは1911年。映画化されたのは、60年後の1971年。それから今また50数年が経っている。小説と映画と、そして現実と。三者を見比べると100年の時の変化の中でも変わらざるものが浮かび上がってきたようにも思える。映画芸術は、端的に表面上の美を映し出し、数多の言葉の矢玉をも寄せつけない。一方小説は人間の心、感情のひだをあぶり出し、美しい映像の表現の追随を許さない。その2つを現在只今の時点から眺めゆく──20世紀は「小説と映画の世紀」だといわれるが、21世紀初頭の今だからこそ前世紀の全貌が窺えて面白い。老いた男が10代半ばの美しい少年に惹かれ、自らを若く見せるべく身をやつし、まるでストーカーのように遠くから見惚れ、後をつけまわす。こういった行為の連続には、普通の感性の持ち主としてはただ呆れる。この尋常ただならざる芸術家の行為に、疫病による街の佇まいの変化という要素が入ってきて、初めて異常な世界から現実の生活に引き戻されるという不思議な逆転現象に気づく◆原作の小説では主人公は音楽家でなく、小説家。しかも無名の存在ではなく、大いなる地位を築いている。その人物が陥る〝耽溺の世界〟をどう見るか。ある文芸評論家の言を借りると「(一言で要約せよと求められたら)刻苦して作り上げた芸術と生活の調和が破綻して、デカダンスの暗い下降の道に落ちこんだ結果だとでも答えればよいだろうか」との少々持って回った言い方になる。ただ、この要約は、映画鑑賞者の腑には落ちても、小説の読者にはちょっぴり不満足かもしれない。そういう向きには、長い間苦労を重ねて到達した小説家の内的世界が崩されていく過程が理路整然と描かれたものであり、コレラ罹患は直接の死因へのきっかけではあるが、そこには美の極致と同性愛の欲望が命の奥底に横たわっているかのように見える──といったような解説を待つ必要があるのかもしれない◆一般に「世紀末的な気分」として「倦怠感」が持ち出されることが多い。現実的には19世紀末ヨーロッパの空気がそれを表現するものとされる。マンはその辺りを新世紀に入って10年ほどのちに小説で描いた。それをヴィスコンティが60年後に映画で表した。映画が登場した頃は現実の世紀末は30年ほど先のことだが、今観て、読むとなるとコレラに代わるコロナ禍が重なって、奇妙に迫真性に富む。尤も、時代の気分と個人の気持ちは相互に影響し合うとはいえ、当然ながら厳密には違う。その当時20代後半だった人間は「倦怠」とは無縁の「軒昂」だった。しかし70代後半になった今では、この時代の変化と気分の変遷がよく分かってくる。忍び寄る老いとそれがもたらす心身の不都合さとの不断の闘いは日々強まるばかり。それに比例して、すべて美しきものへの憧れは高まりゆくものかもしれないと思われる。(2024-4-21)

 

 

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