【15】政敵より手ごわかった「認知症」━━『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て/11-16

 英国史上初の女性首相だったマーガレット・サッチャー(1925-2013)は「鉄の女」と呼ばれたことはよく知られている。その命名の由来は、鉄のような強靭な意志を持つ反共産主義者ということで、ソ連の軍事ジャーナリストによるものだとされる。しかし、引退後の晩年は「認知症」に苦しんだことは日本ではあまり知られていない。少なくとも、大西洋を超えた最も近い同盟国のドナルド・レーガン米国大統領が、アルツハイマー型認知症に苦しんだ事実ほどには。ジョン・キャンベルによる伝記の映画化で、ほぼ事実に忠実に描かれているとのこと。イギリスという国柄を学び、英国議会の猛烈でリアルな論戦の実際を見る上でも大いなる刺激を受けたが、とりわけ人間サッチャーの生き方に強い感動を覚えた。〝ひ弱な日本の政治家〟にこの映画を観ることを勧めたいが、普通の市民にはむしろ「認知症」の何たるかを知るための格好の教材だという点が重要かもしれない◆彼女は食料雑貨店の娘からオックスフォード大経済学部を出て24歳での初出馬は落選したものの、その後弁護士を経て9年後に当選、政治家になった。首相に昇りつめるまでも困難をきわめたはずだが、映画はさらっと流す。むしろ、なってからの約10年間(1979-1990)の奮闘ぶりが見どころだ。IRA(アイルランド共和国軍)のテロ活動に手を焼き、低迷する経済を立て直す上での労働党との熾烈な戦いを続けながらも、サッチャリズムと呼称された新自由主義の旗を振り続けた。そんな首相像のなかで、とくに印象的なのはフォークランド紛争(対アルゼンチン)との取り組み。遠く離れた島(英連邦所属)での戦争に反対する米国国務相らに対して、彼女は米国が日本の真珠湾攻撃を受けた時と同じではないか、と愛国心をかきたてていた。この戦争に非難の火の手は世界中に沸き立ったものだが、毅然として、敢然と乗り切った彼女の姿勢は、文字通り〝鉄の女〟にふさわしい豪胆ぶりに映った。ただし、戦争で生命を失った兵士の遺族に対して、涙をうかべつつ国家への貢献を讃えるべく手紙を書くシーンは、さすがに胸を揺さぶった◆しかし、この映画最大の見どころは、引退後の認知症との闘いであろう。健常な時と異常をきたした時が映像上で入り乱れて次々と展開するのは観る方も混乱してしまう。私自身にも、誇大妄想狂に悩む家族(90代半ばの義母)がいるので、身につまされた。死んでそばにはいない夫や遠くにいる息子と勝手に話す場面や、会議に出かけて首相当時の発言を繰り返すところ(頭の中と現実との混濁)など、切ない。どんな人間でも陥る可能性があるとはいうものの、「鉄の女」と呼ばれたほど強固な意思を持っていた元首相の老後の惨めな姿は見るに忍びない◆サッチャーそっくりに(多分見える)メリル・ストリープの老若使い分けた力は見事だ。政治家人生の〝よき伴走役〟だった夫との日常的なふれあい、すれ違いを巧みに演じ、妻としての優しい心遣いを、認知症最中に遅れて垣間見せるのはいじらしいほど。彼女自身より10年早く亡くなった夫との〝幻影の交流〟は、いとしささえ。男女、立場の違いなど比較するべくもないが、20年の政治家を経験した私にも、去りゆきし過去における〝妻の献身〟がだぶってよみがえり、胸うずく思いになる。そんな中、この映画に挿入された一瞬の場面が忘れ難い。ケン・フォレットのスパイ小説『針の眼』をサッチャーが手にしていたのだ。彼女の首相就任(1979年)直後にブレイクした本だった。ページをめくる彼女に夫・デニスが「最後は女が男を殺す」とネタバレを。監督も芸が細かい。若き日に読んだ私が今なお最も興奮させられた本として第一に挙げたいものだけに、突然映像に出てきたのには、驚いた。あたかも亡くなった旧友が突然目の前に出てきたように懐かしかった。「サッチャー観」には賛否両論あるものの、ともあれ、いい映画だった。(2023-11-16)

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【14】主役の〝リアルな自殺〟と重なって━━『いまを生きる』を観て/11-6

 実に味わい深い青春映画だった。老人には、遠くに過ぎ去った若き日を思い出させ、いくばくかの悔恨とそれなりの満足を味合わせてくれるはず。そして若者には、これからの生き方に大いなる修正を迫るに違いないと思われる━━などといっても勿論受け止め方はそれぞれ違って当然。ただし、ここで登場するロビン・ウイリアムズ演じる教師ジョン・キーティングのような豪快無比でユニークな人には、まずお目にかからないだろうということはみんな思うに違いない◆時は1959年、舞台はアメリカ・バーモントにある全寮制の厳格極まる高校という設定。その学校を卒業したキーティングが新任教師として赴任するところから物語は始まる。この教師は「人生の真実は徹底して自らの自由な思索から見出すべし」を信念に持つ、独創的で自由奔放な教育の限りを尽くす。プリチャードの教科書『詩の理解』(架空の人物の作品)でのその部分のページを破り捨てろと、実地に要求して授業中に実施させるほど。彼自身が教壇の机の上に立ってみせ、皆にも自分の机に立たせることで、視点を変えることがいかに大切かを訴えるといった具合。ともかく全てが破天荒。そんな教師が高校時代に「死せる詩人の会」(Dead Poets Society)という私的詩読グループを作って秘密の洞窟に集まっていたことを知った高校生たちは、同じことを自分たちも真似るようになり、学校側や親との軋轢が広まっていく◆そんな中で、演劇に目覚める高校生と、医学を目指せと強要する父親との間で葛藤が起こり、最終的にその子は自殺を選んでしまう。そこから〝犯人探し〟が始まり、グループ一人ひとりへの追及へと波及していく。やがて彼らが抱える秘密が暴かれていき、教師・キーティングの責任が問われて、学校を追われることに。しかし、高校生たちの胸中には彼の熱い思いがしっかりと彼らの体内に根を下ろすに至っていた。替わるべき新しい教師が授業を担当するなか、荷物を取りに教室にきたキーティングと、高校生たちの無言での思いが交錯する場面が胸に迫る。代替の教師が驚きの表情を見せるのを横目に、ひとりまたひとりと机の上に立ち、親愛の思いと教師への深い継承の意思を表現してゆくのである。感動的だった◆この映画を観てごく平凡な我が青春を思い出す。まじめさだけが取り柄の受験高校の出来の悪い高校生だった。卒業してから何十年も経って、それなりに我が周りにもワルがあれこれいたし、彼らを上手く〝調教した〟異色のセンセイもいたことを知った。自分の預かり知らぬところで〝青春を乱舞〟した仲間たちがいたことに驚き、我が鈍感さに恥入った。自分は、ひと時代前の世代に馴染みの本を後生大事に読み漁る風を装っていたに過ぎなかった。勿論、この映画のような展開はないものの、それなりの青春まがいを演じていたつもりだったのだが。過ぎ去ってみれば何もかもが苦々しく甦ってくる。そんな思いを掻き立てさせる映画に心底痺れた◆後日談だが、主人公の教師役を演じた俳優の顔がついこの前に観た映画の主役と重なりながら、肝心の映画名がなかなか思い出せなかった。見終えて『グッドモーニング、ベトナム』(No5で紹介)だったと漸く思い出した。そして現実にウイリアムズが10年ほど前に鬱病から自殺をしていたことも知った。彼が歴代最高のコメディアンであり、日本好きで多くのファンがいることも、何もかも知らなかった。(この辺り、恥ずかしながら、世の中の普通の映画ファンからすれば異色な自分が昔から変わっていないことに気付く) 映画のなりゆきとの落差と、うつろいゆく現実の人生の残酷さに胸締めつけられる想いとが交錯した。やるせない思いが募るのは如何ともし難い。(2023-11-6)

 

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【13】天才と紙一重の能力持つ障害者━『レインマン』を観て/10-24

 知能指数それ自体は高く、時に驚異的な記憶力を発揮するものの、自分自身の感情をコントロールしたり、自己表現がうまくできないという、サヴァン症候群(アスペルガー症候群とは似て非なるもの)の患者が主人公。幼くして擁護施設に入ったまま歳月が過ぎ30代になって、父親が死んで初めて彼の弟が兄の存在を知るという設定。弟は自由奔放な利己的な青年で、生前の父とは没交渉の関係(原因は彼にある)にあり、その遺産は殆ど全て障害者の兄にあてられた遺書を知って愕然とする。一転、その遺産を自分のものにすべく、兄を拉致し、施設から遠く離れたロサンゼルスに連れていこうと画策する◆墜落の危険性を挙げて、飛行機に乗ることを兄が徹底的に拒否するため、飛行機なら3時間の距離を3日かけて車で移動する道中のてんやわんやを描くロードムービーでもある。兄をダスティン・ホフマン、弟をトム・クルーズが演じる。実話のモデルがいて、作家のバリー・モローが取材して脚本を書くことを決意したという。どんなに分厚い本でも一読しただけで覚える並外れた記憶力と、4桁の掛け算や平方根を瞬時に言い当てる能力は超人的。その一方で、人の話を理解して想像することはできず、いわゆる社会的常識には全く欠ける。こうした特性の披歴で、観るものは釘付けになってしまう。とりわけレストランで、爪楊枝1ケースがこぼれた瞬間にその本数を言い当てたり、ラスベガスのカジノで次々と数字の記憶力の威力を見せつけられ、驚きの連続◆他方、最初は遺産目当てで、自分も次男としてそれ相応のものを貰わねばと、裁判も辞さぬ姿勢で強気一辺倒だった弟だが、次第に兄への肉親の愛情に目覚めていく。この辺りの展開はそれなりに見せ場があるものの、今ひとつ胸にぐっとこない。別れの場面など伏線があっただけに、ひと工夫があるものと期待したのだが、肩透かしに終わってしまう。結局は、超能力の〝見せ物的側面〟のオンパレードで終わったように思われる。「レインマン」(雨男)というタイトルの由来も、説明が中途半端なままで落ち着かない◆昨今、私たちの身の回りに、知的障害や自閉症などの発達障害のあるこどもたちや大人が散見される。この映画の主人公のように、特別際立った能力ではなくとも、普通の人間を大きく上回るような才能を持ちながらも、日常生活に馴染まないことから差別やいじめの対象になってしまうのは忍びない。社会全体としてこういった発達障害への取り組みを考える必要があろう。この映画はあまりにも極端な才能の羅列に終わってしまっているようなのは残念だ。発達障害って意外に凄いじゃないってひっそりと思わせて欲しかった。というのが私の率直な感想である。(2023-10-24)

 

 

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【12】人間はひとりじや生きられない━━『最強のふたり』を観て/10-17

 首から下が全く麻痺して動かず、感じない━━という状態の人がこの映画の主人公。身体の不自由さを除けば、大金持ちであることがもたらす、あらゆる自由を持っている。そしてその彼を〝あらゆる面で支える〟人がもう一人の主人公。彼は身体は屈強そのものだが、経済的にも、家庭環境的にもあらゆる意味で貧しい。フランス人とアフリカ系黒人。見終えて確かに〝最強の〟という形容詞はこの二人にとってとても相応しい。二人合わせて最強なのだが。この映画はどんな人間でも一人では生きられないということを示唆していて、素朴に助け合うことの大事さを訴えているように私には思われる◆この映画は実話に基づく。1993年の事故ののちに、2001年に出版された本が原作だ。パラグライダーの事故で頚椎損傷になったフランス人大富豪(フィリップ)と、介護人として雇われた貧困層出身の移民・アルジェリア人(アブデル)。この2人の演じる笑いと涙のコメディになっているのだが、泣いて笑ってその後にズシンと重くて深いテーマが迫ってくる。私は、最近歳のせいかなみだもろくなって、何を見ても聞いても、泣いてしまう。そして、すべて笑いでごまかしたい気になる。この映画はそこらの機微を見事に捉えている◆フィリップが足の上に熱湯がかかっても反応しない場面に、つい体をよじったり、特製の手袋を渡されて〝下の世話〟を迫られるシーンには、つい実写を見たくなったり(現実はそれはなし)してしまった。また、フィリップが、恋文を書いてるのを見て、余計なお節介をしたあげくに、デートを設定するアブデル。それを土壇場になって逃げるフィリップに同情したり、と。逆にグライダーに乗ろうと迫られて逃げようとするアブデルと、それを笑いながらサポーターつきで空を飛ぶフィリップに同調してみたり、と。あれこれ現代世界が抱える問題が顔を出しつつ、起伏に富んだ展開は胸を打つ◆実はつい先日、私の親しい友人・蔭山照夫さん(83)と会って懇談した。この人の息子さん(武史さん)は、難病・筋ジストロフィーのため、若くして寝たきり状態になったが、40歳台半ばで先年亡くなるまで、パソコンをベッドの上で仰向けのまま、センサーを通じて動かし、その意志を家族に友人に伝え続けた。子どものころに書いた『難病飛行』と言う本が原作となって、このほど映画が完成し、神戸の映画館での上映が終わったばかりだ。この映画の試写会の模様は「後の祭り回想記」112に書いた。武史さんの「不自由だが、不幸ではない」との言葉と、彼を支えた両親や実姉(広田由紀さん)、音楽演奏家の「ちめいど」ら友人たちの献身ぶりが、映画『最強のふたり』を見て、あらためて思い出された。人間は、支え合って強くなるという当たり前のことと共に。(2023-10-17)

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【11】知的障害の父親の果てしなき愛━━『アイアム サム』を観て/10-11

この映画は、知的障害を持つ(7歳ぐらい)男性が子どもを育てることができるか、というテーマ。この映画では母親は出産とともに消えてしまい、悪戦苦闘しながら父親は頑張る。子どもの年齢に追い抜かれて、問題は深刻に。現実には、起こりそうな設定だが、育てるのはまず上手くいかないと思われる。それをやってしまう過程が、何とも言えず感動的に描かれており、惹き込まれた◆この映画の魅力は、サムを演じたショーン・ペンの演技力だ。障害を持つ人びとのしぐさを徹底して学び、それらしく振る舞う。われわれの身の回りにいる障害者とまったく同じに見え、およそ演技によって培われたものとは思えない。また、4人ほどのサムの友人たちも登場するが、見事なまでの障害者ぶりだ◆見どころは、当初は関わりを避けていた女性弁護士の変身。愛が冷え切った彼女自身の家庭との対比は鮮やかである。裁判の成り行きは、障がいのある実父に育てられるのが子どもにとって良いのか。それとも里親のところに預けられ、時々会うのが良いのかといった二者択一で進む。正解はいずれとも言えず、切なさが募るばかりである◆知的障害者をめぐる映画といえば、先にトム・ハンクスの『フォレスト・ガンプ/一期一会』を観た。こっちは知的障害というものの、いつの日かランニングの名手になり、ラグビー始め各種のスポーツで名を馳せるという、いささか夢物語っぽいものだった。サムの方は母親不在で父親の献身的愛が印象的だが、こっちは父親不在、母親の不滅の愛が胸に迫る。どっちも長く忘れられない。(2023-10-24一部修正 障がい→障害と記述)

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【10】本にも映画にもなじまぬ?「辞書作り」──『舟を編む』を観て/9-25

 

 いい映画は原作の小説もいいとは必ずしも言えない。が、あまりパッとしない小説は、映画もやっぱり良くないとは言えそう。この場合の良い、悪い、パッとするしないは、本人の主観だから、まあそうだろうと思う。三浦しをんの小説『舟を編む』は、かつて読んだときに、退屈だったというのが実感だった。畏友・井上義久(元公明党幹事長)が何かのコラムで随分褒めていたので、自分の見方に偏見があったかと思い改め、映画(監督・石井裕也)を観た。しかし、大筋私の印象は変わらず、やはり退屈な代物だった◆ただし、主役の松田龍平、宮崎あおいなどの俳優個人への興味はあったし、辞書を作るという作業の重みはそれなりに、いやそれ以上に感じられた。松田龍平を初めて映画で観たのは大島渚の『御法度』だった。新選組における男色という禁断の世界を描いたもので、映画そのものはあまり出来がいいとは思えなかったが、松田のクールな雰囲気だけはかなりインパクトが強かった。土方歳三役のビートたけしよりも遥かに。喜怒哀楽を殆ど出さぬ表情は特異なもので、『大渡海』なる辞書作りに青春を賭ける役どころははまっていた◆一方、宮崎あおいといえば、かの徳川末期から明治維新の激動期を描き名作との誉れ高かったNHK大河ドラマ『篤姫』を観て以来である。2008年22歳という史上最年少の若きヒロインが、この映画に登場したのは5年後。松田に合わせたような抑え気味の演技は妙に存在感があった。その彼女は今ほぼエンディングに入っている朝ドラの『らんまん』のナレーター、舞台回し役として、さらに10年後の37歳の今に姿を現したうえ、主人公・万太郎の祖母役と孫の二役の松坂慶子と、ダブル二役のご対面があったばかり。円熟味を増しきった先輩とこれからの後輩の共演は違う意味で見応えがあった◆辞書を作る作業は想像を絶する困難を伴うことは、新聞、雑誌作りにそれなりに関わった経歴を持つ私にはよく分かる。膨大な材料を文字通り「編む」作業は、一字一句たりとも間違いは許されない。そういう行為を10数年かけてやり遂げるという設定は、あだやおろそかには出来ない困難な営みだろう。ついこのほどたかだか70ページ足らずの小冊子『新たなる77年の興亡』を出版したばかりの私だが、その文章校正は「しんどかった」。書くも涙、語るもなみだの本作りであった。だが、本来はあれも、これも地味なしごと。それを活字で表現したり、映像で描写しようというのは、やっぱり面白いものではなく、「馴染まない」というのが私の結論である。(2023-9-28  一部修正)

 

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【9】日本の皇室とつい比較する──『英国王のスピーチ』を観て/9-17

 スピーチといえば、私は数々の失敗を繰り返してきた。当たり外れがあって、最終的には8勝7敗で辛うじて勝ち越しかなあ、というのがかなり甘目の自己評価。この映画はそんなそんじょそこらのヘナチョコ政治家の演説とは違って、原稿を読むとはいえ、国王の演説に纏わるものである。しかも英国の国王が吃音(どもり)のために、苦労に苦労を重ね、幾多の失敗ののち、なんとか克服してスピーチがうまくできるようになったというお話。その陰で、回り道を伴走した言語聴覚士の存在があったのだが、この人と国王との〝山あり谷あり〟のコンビぶりが胸に迫る◆殆ど実話通りとか。主人公のジョージ6世は、昨年9月に亡くなったエリザベス女王の父君。その彼女が5-6歳のまだ幼女だった頃、おじいさんのジョージ5世に代わって後を継いだ伯父のエドワード8世が身の不始末から国王就任まもなくに退位してしまう。そこでお鉢が弟君に当たる父に回ってきた。しかし、ご本人は、ひどい吃音。家族内の普段の会話とか、怒りに任せた時は吃らずに喋れるが、スピーチなど緊張を伴う場面になると、もうお手上げ。それを直そうと、のちの女王陛下(エリザベス女王の母上)が密かに手を打つところから舞台は幕を開け、息もつかせぬ面白さ◆あれこれと見せ場は続くが、わたし的には、英国王の家族団欒のありさま──父親が娘たちと戯れたり(モーニング姿で足を折り曲げてペンギンに扮して見せる)、即席のジョークで小話を聞かせて喜ばせる場面がとても面白かった。国王の子供が女の子2人なのと対照的に、言語聴覚士の子どもが男の子2人だったことも、英国の普通の家庭(この家のルーツはオーストラリア)を想像させて興味をそそる。それよりもっとご愛嬌だったのが、英国の首相や閣僚に扮した俳優たち、とりわけ、明らかにそれと分かるウインストン・チャーチルがいかにもと、笑わせる顔つきだったことだ◆この映画を見て、つくづく感じ入ったのは英国王室の自由さ加減。2010年の制作だが、よくぞここまでというほど開けっぴろげ。国王役に極めつけのありとあらゆるスラングを喋らせるあたり、女王陛下はどう観たのだろうか。要するに、普通だと、〝ちょめちょめ〟などという風に誤魔化すはずのところを(字幕もそのまま)全部曝け出す。尤も、別に隠すこともない。日常生活そのままなのだから。しかし、日本だととてもこうはいかない、と思う。ただし、英国王室の紊乱ぶりは日本のそれの比ではないが◆そうあれこれ思って見終えた時に気づいたのは、50年前に読み、今また再読している池田大作先生と英国の歴史家・アーノルド・トインビー博士の『二十一世紀への対話』の一節(129頁)である。池田先生が「世界的な趨勢として、王制はしだいに形骸化し、姿を消していく方向にあると思います」と水を向けたあと、将来の予想を訊く。同博士は「こんにち、君主制が次第に姿を消しつつあるということは、もはや人々が国家を神と感じることがなくなり、むしろ、しだいに一種の公共事業体とみなすようになってきて」おり、「非常に望ましいと考えております」と答えている。敗戦直後に生まれ、戦後民主主義の只中で育った私が最初から今に至るまでその存在のあり方を考え続けてきたのが「天皇制」であるだけに、この対話は極めて印象深い。(2023-9-17)

 

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【8】待ち遠しい「地球民族」の理念確立──『グリーンブック』を観て/9-8

 天才的ジャズピアニストが全米を演奏旅行する。その旅の運転手兼ボディガードとの二人三脚が描かれた映画なのだが、ピアニストが黒人、付き人が典型的な陽気なイタリア人であることがもたらす奇妙奇天烈な展開が実に楽しい。時に涙し、笑いを誘われ、ハラハラどきどきさせられて、最後はとても嬉しくなる──そして「人種差別」なるものがばかばかしく感じられるのだ。タイトルは、黒人旅行者への注意書き的案内書のこと◆当初、イタリア人〝用心棒〟は、この黒人に違和感を持ってギクシャク感があったが、次第に共感を抱くようになり、真に頼り甲斐あるパートナーになっていく過程はすこぶる好感が持てる。とりわけ、彼が家で帰りを待つ女房殿に旅先からたどたどしい手紙を書くのだが、それを雇用主が代筆ならぬ口伝する場面が実に秀逸なのである。また、このピアニストは同性愛者なのだが、警察に勾留されてしまう場面が切なく悩ましい◆名だたる音楽芸術家でありながら、黒人差別の前には無力で、ホテル内のレストランから排除される場面を始め、随所でアメリカ社会における黒人差別の実態を突きつけられ、中間的黄色人種としても、我が事のように苛立ちを覚える。人種差別については、肌の色の違いによるトラブルは、違いが明確なだけにわかりやすい。差別の所在が露骨な分だけ、赤裸々な対立感情をもたらす。一方、日本における、被差別部落問題やいわゆる第三国人差別のようなものは、外見上はわからない点があるだけに陰湿な争いに発展したり、根深い傷を負わせることになる◆この映画のラストシーンでは、ひとたびイタリア人運転手兼ボディガードと黒人ピアニストが帰宅して別れることになる。ついで、ひとり寂しいピアニストが思い立って相棒のうちを訪問すると、喝采で迎えられ、賑やかに皆で無事の帰還を祝い合う場面へと展開する。この辺りの呼吸がなんともいえず好ましく、微笑ましかった。劇場でなら、思わず拍手が出たに違いない。こうした問題解決の根源は、「地球民族」というような表現を専らにする思想哲学に裏付けられた、宗教の流布以外にないと思わせられる。(2023-9-8)

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【7】南アの人種差別をラグビーから考えさせる━━『インビクタス/負けざる者たち』を観て/9-1

 

 暑い熱い真夏の炎天下での高校野球をテレビ観戦していて、あらためてスポーツの持つ力を思い知った。この3月には、WBC第5回大会での日本の優勝に国中が湧いた。そんな興奮さめぬ中で、南アフリカの1995年ラグビーワールドカップ初優勝に至る経緯を描いた『インビクタス/敗けざる者たち』を観た。2008年制作。監督はクリント・イーストウッド。アパルトヘイト(人種隔離政策)に激しく抵抗し、獄中27年を経て1990年に大統領に就任したネルソン・マンデラ氏の国家再建ぶりを背景に、白人と黒人の心技一体化したプレーへの流れは、まことに爽快で、観るものをして深い感動を抱かせた◆マンデラを演じたモーガン・フリーマンが本人そっくりと思われたのはご愛嬌だったが、手に汗握る戦いを演じ切った主将役始め選手たちの演技力にも現実さながらのリアルさが印象深い。ここではあらためてラグビーという格闘技的スポーツの魅力に感じ入った。現実はことほど左様にスムーズに運んだかどうか疑問なしとしないが、スポーツが人種差別による分裂国家を、一変させる媒介の役割を果たしうる可能性を見せつけた功績はたとえようもなく大きいと考えさせられる◆この国の人種差別の凄まじさを描いた映画といえば、1987年製作・公開の『遠い夜明け』(リチャード・アッテンボロー監督)を思い起こす。デンゼル・ワシントン扮するスティーブ・ピコという黒人とドナルド・ウッズなる白人新聞記者の深い友情の絆をもとに、獄中下のマンデラの言語を絶する苦闘もさもありなんと想起させる映画だった。ピコの虐殺の背景を暴く本を書く決意をした、ウッズの飛行機を使った亡命に至る脱出劇はハラハラドキドキの連続で見応えがあった。ボツアナへ家族ぐるみで逃亡する最終シーンに、南アフリカ内に浮かぶ島のように存在するレソト国を経由する場面がある。実は現役時代に、私はこのレソト国の抱える課題解決に関わったことがあり、あたかも映画の中で実際にサポートしたかのような錯覚を持った◆この映画のエンディングでアパルトヘイトの犠牲になった人々の名前が延々と出てくる。その字幕を見ながら、アフリカ大陸の行方を思わざるを得なかった。21世紀はアフリカの世紀と言われてきたように、欧州各国の植民地支配からの脱却を経て今新たなる勃興の時を迎えてはいるものの、プーチンのロシアと習近平の中国による狡猾極まる専横的進出に直面している。現在の苦境を脱して、自主独立の社会を保ち得る国家群が多数出現するのかどうか。これ以上の犠牲者を出さぬよう人類の知恵の結集を望みたい。(一部修正 2023-9-3)

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【6】先住民族への差別と思い当たるフシ━━『燃える平原児』を観て/8-18

 ロック歌手として20世紀後半に世界に名を馳せたエルビス・プレスリーが俳優に徹した映画。彼の出演した映画は30本を超えるものの、歌手の力量とは別に駄作ばかりとの評価が専らのようだ。だが、私としてはこの映画を高く評価したい。それは人種差別の原型としての先住民アメリカ・インディアンの問題をわかりやすく描いている活劇映画だからで、今なお新鮮な輝きを持つ◆筋立ては単純明快。アメリカにおける西部開発途上に起きた、白人と原住民とのあつれきを克明に描き、飽きさせない。どころか手に汗握る面白さだ。プレスリーはインディアンの母と白人の父の間に生まれた次男(長男は父の連れ子で白人)の役どころ。この映画を観ていて、その昔西部劇に入れ込んだ我が若き日を思い起こした。あの頃は騎兵隊が善と思い込んだ、単純そのものの〝勧善懲悪好き〟の鑑賞者だった◆アメリカという国は、ずっと昔から住み続けてきた先住民を蹴散らし、アフリカから基本的には奴隷としての黒人を連れきたって、人権を好き放題に蹂躙してきた歴史を持つ。もちろん善意の人も数多いたし、現に今もいるのだが、人種差別のはなはだしさにおいて世界でも今なおトップに位置するお国柄である。見方によるとはいえ、現代世界の善きも悪しきもこの国発のことが多すぎると私は憂うひとりである◆もちろん、日本人の民族差別も並みではない。最たるものはアイヌ民族への仕打ちであろう。先日NHKのラジオ深夜便を聴いていて、スペイン在住の音楽家の川上ミネさんの言葉と音楽紹介に心底撃たれた。この人は、世界中を歩いてありとあらゆる音楽を聴いてきたが、自分の求めていたものはアイヌの人々のそれであったというのだ。評価は分かれるだろうが、アイヌを無視し続けてきた日本人の耳にはこたえるものといえよう。そんなことをも、この映画を観て、ラジオを聴いて感じさせられた。(2023-8-18)

 

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