安保政策の大転換に立ち会えず(37)

昭和56年(1981年)という年は、公明党の歴史にとって画期的な年になります。というのは約4年かけて党内論議を進めてきた安全保障政策が、この年の12月に開かれた第19回党大会で発表されることになるからです。実は、昭和51年の第15回全国党大会で、当時の竹入義勝委員長が防衛問題の見直しを提言していました。その背景には、与野党伯仲状況の中で、自民党の単独支配に終止符をうち、野党の連合政権を作ることで、自民党に政権交代を迫る必要があったのです。しかし、現実には与野党の間で、安全保障政策を巡って、決定的な乖離がありました。そのため、交代の障害としての溝を埋めて、対外的政治の連続性を保つことが必要だったのです。

既に述べたような、私が記者として担当した、公明がhブリッジ役となった公民、公社の連合政権構想作りでも、この安全保障政策をどう擦り合わせていくかが焦点でした。自民党がなし崩し的防衛力拡大の指向性を持つ一方で、野党第一党・社会党には「非武装中立路線」といった非現実的態度があり、両者間に横たわる壁は相当なものがあったのです。これを調整する作業が延々と続き、野党間の議論を受ける形で党内論議の詰めに約4年の歳月が必要だったわけです。

この党内論議の中核として推進力になったのは、市川雄一党安保部会長でした。共産党との「憲法論争」で見せた、憲法9条を巡る透徹した思考力、構想力がここでも威力を発揮します。渡部一郎、黒柳明両氏を始めとした党内の少なからぬ安保論客にその主張を闘わせ、調整し、まとめていきました。私はこの大事な場面の展開にあっては、遠く関西の地にいたため、遠巻きにして見るどころか、全くの蚊帳の外だったのは残念なことでした。

結果としてまとめられた「公明党の安全保障政策」の特徴を一言で云うと、国際政治の厳しい現実の中で、いかに平和を守り抜き戦争を避ける道を貫くかとの、理想と現実とのギャップを埋める大胆かつ画期的な提案でした。このうち、第一章では世界平和を目指した平和戦略を掲げています。❶核兵器の全面撤廃と軍縮の推進❷現行憲法の擁護、日本の軍事大国化に断固反対❸非核3原則の堅持、アジア・太平洋の非核武装地帯の設置といった長期的目標です。一方、第二章では、短中期的展望を示します。❶「自衛のための力」は総合的安全保障の一環として位置付けるべき❷理想は理想として掲げつつ、あくまで現実を直視し、その上に実現可能な方途を提示する必要がある❸一国の安全保障政策は国民的合意に支えられたものでなければならないといった点が強調されています。

こういったことを前提として具体論を展開。私は当時関西の地で公明新聞紙上で発表になった時に強烈な印象を持ったことを覚えています。その最大のものは、「領域保全能力」構想でした。「現憲法下において、わが国の平和的存立を守るための自衛権は認められる」としたうえで、この憲法が認める自衛権の裏付けとしての「能力」について「領海、領空、領土の領域保全に任務を限定した領域保全能力が妥当」としたのです。そして、「この領域保全能力が公明党の合憲とする自衛隊構想」だと規定しています。

この政策については、当時、菊地昌典東大教授や蝋山道雄上智大教授らが、公明党は「分裂している国民世論をまとめあげようとしている」「これだけ大きな政策転換を行うということはまさに大変なことで、戦後日本の政治史上、特筆に値する」と大きく評価する声を寄せていました。大きな誇りを持ってこれを読んだものです。

【昭和56年(1981年) 1月レーガン大統領誕生。3月 神戸でポートピア81 開催 5月鈴木・レーガン会談 ミッテラン、仏大統領に 6月 中国、胡耀邦党主席に就任。7月陸海空初の総合演習 10月 エジプト・サダト大統領暗殺 11月ロッキード裁判で小佐野賢治に有罪判決 】

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