目くるめく音の世界を解きほぐすー読売日本交響楽団編『オーケストラ解体新書』を読む

『オーケストラ解体新書』ーこの本の表紙は実にいい。読売日本交響楽団(読響)の構成メンバー90人全員の笑顔輝く写真が素晴らしい。弾ける音色が聞こえて来るかのように。表紙の左右に折り込まれている部分をすべて開けてみると、普段は見えないところにいる人々も笑っている(二三人の例外を除いて)。オーケストラの演奏では楽団員の笑顔はあまりお目にかからない。いつも真面目そのものの真剣な顔ばかりの印象が濃いだけにより一層惹きつけられる。巻末のインタビューで読響常任指揮者のシルヴァン・カンブルランが「もっと笑顔で弾いてほしい。楽器を弾くことに集中するだけでなく、もっと体全体で音楽をやってほしい」と楽団員に具体的な注文を付けているのに我が意を得た思いだ▼この本の中心的編著者の飯田政之さん(読響事務局長を経て現在は福岡放送取締役)とは彼が読売新聞政治部時代に知り合った。鹿児島県出身(鶴丸高、東大卒)で今もなお剣道をこよなく愛し、ヴァイオリンの名奏者でもある。現役時代に広報局長をしていた私はあまたの各紙・各局の新聞・放送記者と付き合ったが、衆議院議員会館に付設されていた卓球場で汗を流したのは彼の他にはあまりいない。それくらい親しい間柄で、幾度となく議論を交わしたが、かくほどまでに音楽に造詣が深かったとは知らなかった。若き日より培った薀蓄を背景に縦横無尽の才を発揮して、目くるめく音の発現体を解きほぐしている。先日、日本カイロプラクターズ協会の博多での催しに参加した際、彼と久方ぶりに顔を合わせ、美味しい肴を前に痛飲しつつ語り合った。ペンと剣の使い手が、音楽の世界から映像の世界へと更に飛翔されようとする姿に感じ入ったものである▼なんといっても、第一章「一期一会の音楽を作る」に魅了された。ユーリ・テルミカーノフから、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、シルヴァン・カンブルランに至る読響の指揮棒を振った人たちを紹介するタッチは私のような音楽の世界の門外漢の胸にも迫りくるものがある。口絵で紹介された彼らの雄姿を目で追いながら読響の華麗なる歴史を思いやった。この章には3本のコラムが披露されているが、鬼才たちの日常がしのばれて微笑ましくさえある。後半第6章に掲載された「日本のオーケストラの課題を語る」という大学教授、作曲家、指揮者らの鼎談は、色々と考えさせられる。オーケストラの世界は圧倒的に西洋優位だとの思い込みを再考させてくれるくだりに特に惹きつけられた。「オーケストラ音楽を『退化』、『様式化』させていく方が、もしかすると日本文化の国際的歴史的役割かもしれないんですよ(笑)」との作曲家・西村朗の発言は、私としては、(笑)の部分を消し去りたいとの思いに駆られた▶先年ある新聞論考で、音楽こそ世界平和へのカギを握る芸術媒体だとの指摘があり深い感銘を受けた。言葉の障壁を越えて、宗教や思想の相違を乗り越えて、音楽は人間存在を基底部でつなぐものだと私も思う。もっともっとオーケストラによる本格的な音の饗宴が日常生活に入って来ると世の中は幸せになるに違いない。学問としての音楽が苦手だった私はピアノ弾きの女性を妻にした。合唱、斉唱を耳にするたびに、多数の人間が声を合わせることの神々しいまでの素晴らしさを感じてきた。また、少ない経験ながらオーケストラの魅力も聞きかじってきた。この本はそうした音の世界を作り出す側の仕組みを解き明かしてくれる稀有な本である。大概の芸術は眼で分るものだが、音楽ばかりは眼で見えない。それを文字であらわす難しい試みに挑んだ人たちの勇気を推奨したい。(2017・12・3)

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近現代史を見る眼から鱗が落ちるー井沢元彦『逆説の日本史23明治揺籃編』を読む

待望の『逆説の日本史』の23巻が発刊された。週刊ポスト誌上で連載が始まってからだと、およそ25年が経つ。今もなお連載は続いている。今回のものには、「明治揺籃編」と名付けられており、まだあと10年は続くかと思われる。一方で、『逆説の世界史』もネット上で連載が続いており、出版も既に2巻目。著者の井沢元彦氏は元TBSの記者にして作家で、63歳。恥ずかしながら当方は読むのだけでも大変。よくぞまあ、と呆れる。この人とは会ったことはないが、テレビで時々目にする限りでは、喋りよりも書く方が鋭いと感じさせる。ただ、鋭すぎて既存の歴史学者を始め、数多の既成の”知識人の正説”をなで斬り。従って敵も多いように見受けられる。わたし的には知的刺激を十二分に頂き、極めて参考になるだけに御身大切に、と祈る思いではある▶以下、3つの章で私が感じ入ったさわりを紹介したい。第一章「近現代史を歪める人々」で、血祭りにあげられているのは元朝日新聞社主筆。韓国の朴槿恵前大統領の不正疑惑問題についての同主筆の言動を克明に紹介したうえで、「ジャーナリストにとって基本中の基本である『ウラを取る』という作業を行なわず、その上でジャーナリストにとってもっとも禁物である予断と偏見をもって事態を決めつけた、愚かで滑稽な人物」と結論つけている。朴槿恵氏が韓国史上初めて弾劾制度で罷免された今となっては、今は亡き主筆氏としてはぐうの音も出まい。死者に鞭打つことを避けようと、名前すら伏せる私など甘すぎるのに違いない。この章はいわゆるマスコミの常識に踊らせられている人々にとって、目から鱗が落ちるであろう。今までこのシリーズを読んでいない人は、この巻だけでも読むに値するとお勧めしたい▼第二章「琉球処分と初期日本外交」では、「琉球処分」ではなく、琉球の「奴隷解放」だとの「逆説」には首肯できる(但し、このくだりは『沖縄歴史物語』の伊波普猷氏の指摘に全面依存しているのだが)。三百年もの長きにわたって「奴隷制度に馴致されていた沖縄人」が遂に解放されたとの捉え方だ。政治的中枢を「中国」に毒されていた琉球(沖縄)が、日本によって目覚めさせられたという観点は重要だ。この辺り、井沢氏の持論である「朱子学の中毒」というキーワードを駆使しての解説が極めて分かりやすい。今まで沖縄の後進性について、私は「日本政府の差別」に起因すると捉えてきた。”朱子学のせい”という視点は殆どなかった。中国や朝鮮半島と同様に、「朱子学の陥穽」から逃れるのが遅かった沖縄と、比較的早くそれから逃れた日本という対比の仕方は、それなりに面白い▼第三章「廃仏毀釈と宗教の整備」も、私にとって実にためになる思索のポイントを得ることができた。これまで私は明治維新以後、科学技術分野での遅れを取り戻すために、ひたすら明治政府は科学振興に走り、精神・思想分野での対応が等閑(なおざり)であったとの見立てに終始してきた。しかし、井沢氏は明治政府は欧米列強に負けないために「神道+朱子学」という新宗教の樹立に向けて宗教整備をしていったと指摘する。その一つの柱が教育勅語であり、もう一つが神仏分離であり、廃仏毀釈だ、と。日本は、「キリスト教+欧米の哲学」を無批判に受け入れ、古来からの宗教や思想との融合を試みてこなかったとの観点は揺るがない。だが、その背後に日本としての宗教整備がそれなりにあったとの視点は私には希薄だった。勿論、その宗教整備の誤りがその後の日本文明の進展を誤らせ、「侵略戦争」へと駆り立てていったことは疑いがない。このあたりは大いに考えさせられるものがある。尤も、この章での井沢氏の「法華経」理解の浅薄さは気になる。日蓮仏法へのアプローチの仕方はことのほか弱い。今後どう修正されていくか興味を持って見守りつつ、私自身の持論を補強し確立してやがて世に問うていきたい。(2017・11・29 加筆修正)

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西洋の神と東洋の仏の比較に及ぶー小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』を読む

友人との語らいの中で出てきた小坂井敏晶氏(パリ第八大学心理学部准教授)の著作に嵌っている。その友は『責任という虚構』なる書物を褒めたのだが、いかんせん、この本は難しそうでわたし的にはいまいち触手が動かない。というわけで、『社会心理学講義』から読むことになったのだが、そこらあたりの経緯は既に前々回の高橋和巳のことを書いたおりに触れた。その後、読んだのが『答えのない世界を生きる』である。これはまことに読み易かった。自伝風の趣きがあり、この人に興味を持った人間にとって、ウーン、なるほど、そういうことだったのかと彼の生い立ちや今に至る人物の背景が分って面白い。考えること、生きることを真正面から捉えて、あれこれと挑戦してみようとする人には圧倒的にお勧めだ▼早稲田大の東伏見グラウンドでホッケーに連日明け暮れていた青年が、やがてパリに飛び学問を志すにいたるお話は、戦後日本の若者たちの類型的パターンを越えて中々読み応えがある。私など小田実の『何でも見てやろう』から始まってありとあらゆる冒険譚をおいかけていくうちに、どこへも行かぬままに(冒険せずに)、齢(よわい)70を超えてしまった。そんな”この道50年”の爺さんにとっても、このひとの若き日の羽目外しは魅惑的である。但し、ここではそれには触れない。むしろ学問の道の進み方でユニークなところに惹かれる。文中、灘中の橋本武先生(中勘助『銀の匙』だけを使って授業したことで有名)のことに触れたうえで、パリの社会科学高等研究院での学び方も同じだったとしているくだりには首肯させられた。「私のアプローチを学際的だと評するひとは少なくない。しかし学問分野という意識が、そもそも私にはなかった。頭を悩ます問いがある。答がどこかに書いてないか。ヒントだけでも見つけたい。そこで先達の助けを借りる。そういう勉強の仕方である」▶こういう勉強の仕方で学んだ人が結局行きついた先は「答えのない世界」であった。「世界から答えが消え去った」とは一般的に西洋近代が重きをなす世界で口にされる。小坂井さんも「神は存在せず、善悪は自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった」として、「近代以前であれば、聖書などの経典に依拠すれば済んだ」が、いまは、「無根拠から人間は出発するしかない」ので「どうするのか」と、この書物を書いたわけを述べている。確かに、神が死んでからの近代ということになると、彼がいうように「答えのない世界」を手探りで歩くしかないのであろう。しかし、私の見解はいささか違う。それは「神も仏もあるものか」との云い方がなされるように、両者はしばしばひとまとめにされがちだ。だが、神は死んだかもしれないが、仏は存在している▼仏とは死んだ身を指すのではない。また神のように人間存在を越えた絶対者でもない。少なくとも日蓮仏法では、人として最高の境涯を持つに至った存在を仏と云い、全ての人間はその仏の命を本来内在化しているという。つまり、人間存在の外にある造物主としての神ではなく、仏とはわが内なる生命に本来備わっている人間存在の最高の極地の在り様を指す。そのパワーを引き出す方途が「南無妙法蓮華経」とお題目を本尊に向かって唱えることなのである。今や全世界において、悩みを抱えた人間がその行為をなすことによって解決の道を見出した実例、結果はあまた満ち溢れている。これは私に云わせると、旧来的なキリスト教に支配された西欧世界では、「神なき世界」=「答えのない世界」ではあるが、東洋仏教の最高峰・法華経を信奉する日蓮仏法では、「仏満ちる世界」=「答えを見いだせる世界」なのである。神と仏。西洋と東洋。21世紀中葉に向けて人類はいま、宗教観の一大転換を迫られつつある。(2017・11・21)

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「死刑存続か廃止か」の議論を想起ー佐木隆三『復讐するは我にあり』を読む

世の中呆れるばかりの恐るべきニュースが後を絶たない。アパートの狭い自室に若い女性(男性一人を含む9人)を連れ込んで殺し、その遺体をバラバラにし、内臓はごみと一緒に捨て、頭を始め骨などは冷蔵庫や部屋の中に隠しておいたという事件がつい先日起こった。口にすることさえ憚られる嫌なニュースだ。過去に残虐非道な事件は数知れないが、この度のものは特筆されよう。別にそれに合わせたわけではないが、つい少し前に我が書棚に長く眠ったままにしてあった佐木隆三『復讐するは我にあり』を読んだ。この小説は実際にあったものを題材にしたノンフィクションで、映画化もされ話題になっただけにご存知の方は多いはず。かねてタイトルに惹かれて購入したもののそのままになっていた▼この小説は、残虐きわまりない殺人と狡猾かつユーモアさえ感じさせる詐欺犯罪とが入り乱れて出来上がっている。後者における悪知恵の発揮ぶりにはほとほと感じ入ってしまうほど。前半を読む中でなぜにこんな犯罪小説を読ませられるのかと幾たびか辟易したものだが、挟み込まれた知能犯ぶりの巧みさに次第に引き摺り込まれていった。警察を翻弄しきった逃避行が、最終的に幼女の直観に見抜かれるというエンディングもいい。著者はあとがきで40数年の作家生活を振り返り、この作品に最も愛着を感じている風を匂わせ、この小説の改訂新版にこぎつけ古希を迎え(78歳で逝去)て「もはや思い残すことはない」と語っているのが印象深い▼様々な読み方があろうが、この作品は、タイトルがある意味全てであろう。「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」(ロマ書)と表紙の扉にあるように、新約聖書の引用である。主人公・榎津巌がキリスト教の洗礼を受けているとの設定であることや、かつて交流のあった教誨師宅に逮捕寸前に足を運んでいることなど思わせぶりではある。キリスト教と遠い位置にある人間にとっては、”復讐する我”とは被害者の身内的なるものだと当然ながら想像してしまう。このあたり、「目には目を」なのか、「悪を犯した人間は自然の摂理の中で罰を被るもの」で納得できるのか、大いに判断は分かれるところだ▼これまた偶々なのだが、読売テレビ系の人気テレビ番組「そこまで言って委員会」で、死刑の是非をめぐる討論番組を観る(11・5)機会があった。いつもより以上の壮絶なバトルだったが、なかなか迫力があった。死刑存続を認めるか廃止するか、真っ二つに分かれての大議論は聞きごたえがあった。感情的には「死刑」は当然あっていいというのが自然だが、冤罪がゼロでない以上、命を奪う権利はいかなる場合もあってはならないという結論も無視できない。日本の現状にあっては、疑わしきは死刑にせずとの流れが横溢しており、現実には冤罪で命を奪われるというケースはほとんどないようだ。わたし的には死刑存続は止むをえないとの立場である。(2017・11・12)

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「世直し」よりも「人直し」の大事さー高橋和巳『邪宗門』を読む

本屋に行くと思わぬ出会いがある。東京に行った際に覗いた丸善でパリ第八大学准教授・小坂井敏晶氏の『社会心理学講義』を発見した。この著者については、畏友・志村勝之君(私がなにわのカリスマ臨床心理士と命名)からその鋭さを聞いていたこともあり、ライフネットの出口治明氏の推薦の言葉にも動かされ、直ちに読むことにした。選挙前に購入したこともあって、未だ読み終えていないものの、あれこれと刺激を受けている。アルジェリアに長く住んでいたというこの人の体験そのものがユニークだが、自分の頭で考えるということに、とことんこだわってるところが魅力的である。若い学者から「科学が実験データを基に解釈するように、テクストの解釈が哲学者の仕事だ」と言われて唖然としたり、日本の学者や学生から「何を研究しているのかではなく、誰を研究しているのか」と聞かれて当惑したと「あとがき」に書いている。「あなたにとって、主体とは、時間とは、責任とは何なのか。これらの問いに対して、あなたはどうアプローチして、どのような答えを出すのか。本当に大切なのはそれだけです」。このくだりは当たり前のことを言っているのだが、正直難しい。言い換えれば、解説書の類いではなく、原典、古典に当たれということだ。ややもすれば、わたしたちは様々な解説書めいたものを読んで分かった風に思ってしまいがち。心せねばならない▼そんな小坂井氏が、自分の立ち位置がわからなくなると何度も繙いて読み直すのは「高橋和巳だけ」だという。この書きっぷりにころりと私は嵌ってしまった。全共闘世代と安保世代の中間に位置する私の学生時代はいかにも騒々しかった。ほぼ50年前。その頃、一世風靡した代表的作家が高橋和巳だった。共産主義や社会主義の類いが体質的に合わなかったというしかない私には彼の一連の著作は流行のよすがとして、ざっと読む程度ですませ、ひたすらに宗教活動に邁進したものであった。それがこの歳になってなぜ改めて再読吟味する気になったのか。小坂井氏が引用している以下の文章を読んだのがきっかけだった。「人の解決を盗むのはやさしい。(中略)だが、『思うとは自分のどたまで思うこと』を日本人はまず肝に銘じなければならぬ。でなければ日本人はかつて中国に内面的に従属し、今またヨーロッパに追従するように、永遠に利口な猿となりはてるであろう」。この一節こそ高橋の代表作『邪宗門』からのものである。文庫本上下二巻1000頁にも及ぶ長編小説。明らかに大本教をモデルにして著者が自在に創造の羽を広げた大作であるが、人生の半ば以上を宗教と共に歩み、政治家として駆け抜けた人間にとって、まことにあれこれと考えさせられる中身であった▼大学時代の私は法華経を書物で、そして身体で読んだものだ。当時の一般的な大学生の常識とはかなりかけ離れたものだった。ろくすっぽ大学に行かずに、首都圏各地を西に東に、北や南へと転戦した。昭和40年代前半。胎動する学園紛争を尻目に、深く体内に法華経を根付かせるべく、自分なりの活動に汗をかいた。そういう私には、この本で描かれる宗教的世界は文字通り「邪宗教」的なるものに見え、殆ど体質的に受けいれることが出来なかった。しかし50年の歳月を経て、法華経を思想的にも生命論的にも取り入れた結果として、今改めて読むと実に面白く読めた。高橋和巳は、あとがきにおいてこの小説を書くに至った発想のきっかけを「日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世直し>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった」としている。そう、当時こそ<世直し>の気分華やかなる時代であった。私が大学入学前に創価学会に入会したことを、数か月後に知った親父は、「そうか。もう入ったのか。お前を東京の大学にやると、共産党か新興宗教のどちらかにはいるのではないかと恐れていたが、もう入ったのか」と嘆いたものであった。だが、<世直し>運動を表面的な活動としてだけ捉えるのではなく、まずは人間そのものを革命するという「人間革命」の思想に、私が触れたことは幸い(ほぼ十年後に親父も入会)であった。<世直し>の前提としての<人直し>の思想としての法華経を体内に沈潜させることに邁進できたからである。小坂井氏が高橋和巳を礼賛するのはその「思考実験」のユニークさと徹底ぶりにあると思われる。人の考えたものを受け売りするのではなく、自分の頭で考えるその姿勢に、である▶また、同書の解説を担当している佐藤優氏は「日本が世界に誇ることができるスケールの大きい知識人」であるとの高橋和巳への認識を示すとともに、この本が、「世界文学としての価値を主張できる」と高く評価している。更に世界で現在起きている見えにくい現実の内在的論理を理解するためにも役に立つとも。だが、一方で、彼は「『世直し』の先をもたない宗教は、結局のところ権力を志向するイデオロギーに堕してしまう」し、「世直しに失敗した場合には、自己解体すなわち自殺というシナリオしか残されていない」(『功利主義者の読書術』)と述べ、高橋和巳が破滅の道を歩むしかなかったことを惜しんでいる。加えて「<世直し>型の政治が必ず陥る閉塞状況を見事に表現した作品として、現在も命を持っている」と、地に足をつけた適切な評価を加えている。フランスで学者の道を歩みつつ、出版を通じて現代日本人に真の生き方を問い続ける小坂井氏。一方、ロシアを専門とする外交官を経て、キリスト教信者の眼差しで創価学会SGI運動に深い関心を寄せ続ける佐藤氏。二人の今を生きる知識人の二つの「高橋和巳論」を読み、大いに知的興味を満喫出来た。以上、本の中身には触れずじまい。皆さん直接お楽しみください。とりわけ上がとても面白い。(2017・10・29)

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「奇怪な妄想」の持つ異様な迫力ーカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)を読む

今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏のことを恥ずかしながら殆ど知らなかった。映画化された作品もあるというのに。慌てて本屋に行ったものの在庫はなく、辛うじて『わたしを離さないで』が一冊だけ残っていた。選挙戦に入り、何度か足を運んだ大阪への行きかえりの車中で読むに至った。結果的にこの本を彼の作品の中で最初に手にしたことは幸せだったかもしれない。日本人の両親のもとに長崎で生まれて後に、5歳で英国に渡って以後、そこを離れたことがないという著者の生い立ち。この本は、そうした彼の人的背景の影響をあれこれと詮索する必要はなく、普遍的なテーマに迫るものだからである。「クローン人間と臓器移植」という極めて重いテーマに真っ向から挑む「実験的小説」との色合いについては、ノーベル賞作家に相応しいものと云えよう。ともあれ、総選挙という生臭い俗事からしばし離れて、未来に横たわる人類の重要課題に目を向けさせられ、幾分か高尚な気分になったように思われる▼このテーマについては、実は現役時代に向き合うことがあった。衆議院憲法調査会の一員として憲法改正をめぐる議論に参画した際に、否応なく考えざるを得なかった。当時同調査会の会長であり、元小児科医だった中山太郎氏の口から、将来の憲法にはこのテーマについて記す必要があるとの意見を幾度か聴いた。現行憲法が用意していないテーマを新しい憲法には書き加える必要があるとの観点だったと記憶する。恐らく2005年に発表されて以来、世界的ベストセラーになっていたこの本を読んでいたであろう同僚議員からも、そうした主張がなされていた。ただし、かつて臓器移植法をめぐる議論の際に、自らに近い生命の存続をもたらすために他人の生命の終りを待望することに私は疑問を抱き続けた。そして同時に臓器それ自体にも個人のDNAが色濃く反映しているものを、他の生命体に移すことに大いなる疑問を持ち、当時、政党の縛りがなく個人の判断にゆだねられた採決に、反対票を投じたものであった。しかし、あれから10年を超す歳月の中で、いかにそうした自分の考えが現実の要請と遠いものかを知る機会もままあったことを正直に告白する▶この小説がベストセラーになった背景の一つは、ある意味で推理小説仕立てであること無縁ではないと思われる。英米文学研究者の柴田元幸氏がその解説で、内容を述べることを避ける理由について、「作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい」と思わせぶりに書いている。不幸なことに私は重要な一点を知ってしまってから読んだ。であるがゆえにも関わらずというべきであろうか、なかなか核心に迫ってこないように思える記述は、闇夜に道に落ちたものを探すかのように、もどかしいものではあった。途中三分の一くらいのところでようやくことの秘密の一端が明かされるのだが、またすっと元の記述に戻ってしまい、なんだか手に入れた落とし物を再び亡くしたかのような錯覚に陥る▶クローン人間がどのように作られるかには触れられず、臓器移植についても具体的な記述は一切ない。すべては想像力に委ねられている。遠からずこうしたことが現実になるのかどうかはわからない。AIが話題になり、ロボットが人間にとって代わることはもはや現実の射程に入っているかに見えていることからすると、このテーマは遠い。いや、わたし的には現実のものとさせないためにこそ著者はこれを書いたと思いたい。この先遺伝子工学がどんなに進もうとも、してはならないこと、あってはならないことについて、著者が創造力の限りを尽くして挑んだのだ、と。つまり、これはまた「カズオ・イシグロ自身の頭の中で醸造された奇怪な妄想」(柴田氏)である、と考える。(2017・10・24)

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人類の歴史を俯瞰する達成感ーU・N・ハラリ『サピエンス全史』(柴田裕之訳)を読む

今年のビジネス書大賞を受賞し、読者が選ぶビジネス書グランプリ1位に輝く本を読み終え、不思議な達成感に浸っている。何しろ全世界で500万部も売れているというのだから。ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエル人歴史学者の書いた『サピエンス全史上下』(柴田裕之訳)である。顔写真からは、飛び切り鋭利で神経質そうに見える。あまりお近づきになりたくない雰囲気の人だ。これを薦めてくれたのは笑医塾塾長の高柳和江女史。とにかく面白いと絶賛されたのが8月上旬。彼女が神戸に来た時のこと。で、すんなりと読んだわけではない。なかなか嵌らず苦しんだ。しかしなんとか読み進められたのは、彼女のお勧め本には外れがないことが大きい。また、認知革命から農業革命、そして科学革命という風に、有史以前から今日にいたる135億年ほどの膨大な期間を大きく三つに分け、「文明の構造と人類の幸福」という命題をざっくりと大胆に料理してくれるていること。それに惹かれて何とか読み終えることができた。すると、そこには、何はともあれ人類の歴史を解った思いにさせてくれる達成感と、意外にも仏教徒の誇りを刺激してくれるものが待っていたのである▼いわゆるビッグバンによって、物質とエネルギーが現れ、物理的現象や科学的現象の始まりから、地球という惑星が形成されるまで約90億年。生物学的現象が始まって有機体(生物)が出現したのは38億年前。ヒトとチンパンジーの最期の共通の祖先が誕生したのが600万年前。ようやくアフリカでホモ(ヒト)族が進化して最初の石器が出来たのが250万年前。さらにヨーロッパ、中東でネアンデルタール人が、東アフリカでホモ・サピエンスが進化したのがそれぞれ50万年、20万年前と言われても、ただただそうかいな、ほんまかいな、気の遠くなるほど前のことやなあというのが精いっぱいの感想。ようやく認知革命が起こったのが7万年前と言われて、ようやく正気になると言ったところか。実はここから本書の著述は始まる。それまでは僅か1ページにまとめられた年表からの類推なのである▶ある意味でこの本の構造は簡単だ。要するに人類が地上に棲むすべての生き物を殺戮してしまい、残るのは人類と家畜だけになるという「予言」なのだ。そして、科学革命の行きつく先は、科学者たちが脳をコンピューターにつなぐことで、心をその中に生み出そうとしている、それをこのままいくと誰も止められないのではないのかという「警告」である。この予言と警告はこれまでもいたるところで繰り返されてはきた。しかし、この本ほど系統だてて書いたものはあまりないので、効き目がなかった。しかし、この本はビジネス書の体裁をとってるがゆえに、初めて人類の「傲慢」とでもいうべき罪深き特質を叩きのめしてくれるかもしれない▼最後の「文明は人間を幸福にしたのか」と「超ホモ・サピエンスの時代へ」の2章がとくに関心を持って読めた。わたし的にはこの2章、特に前者を幾たびか読むことで十分にこの本の値打ちが分った。結論はこれまた簡単だ。人類の歴史理解にとって最大の欠落は、「社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播」といった歴史上の数々の問題が「各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたかについては、何一つ言及していない」ということに尽きる。しかも、著者は、人間の幸せは「汝自身を知れ」との言葉がカギを握っており、これは裏返せば、普通の人々が真の幸福については無知であることを意味するとしている。そして「特に興味深いのが仏教の立場だ」として、己が心を自身で操れる方途としての仏教に強い期待を措いている。ここは我が意を得たり、というのが日蓮仏教の徒である私などの受け止め方だ。「心の師となるとも心を師とせざれ」という日蓮大聖人の簡潔な一文を座右の銘とするものにとって極めて分かりやすい結論であった。こう結論付けるといかにも我田引水的に受け止められるかもしれない。勿論、それを現実のものにできるのは、単に頭で理解するだけではなく、お題目を唱えるとの行為が裏付けとなっていることを知らねばならないのだが。(2017・9・29)

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「賢者は自らを律し、愚者は恣にする」-丹羽宇一郎『死ぬほど読書』を読む

先週に続き、一段と優しいベストセラー本を。丹羽宇一郎『死ぬほど読書』。読むかどうか悩んだ。今さら読書について読むのかよ、いい加減にしときな、との声が我が脳中に去来した。だが結局読む羽目に。一つはタイトルに、今一つは彼が元中国大使だったことに惹かれた。丹羽さんは民主党政権時代に中国の大使になられ、あの「尖閣問題」騒ぎの際に日中間の渦中にあったことは周知のとおり。あまり目立った業績は挙げられなかったとの印象が強いが、帰任後『中国の大問題』『戦争の大問題』など時事的テーマで矢継ぎ早に出版され、今度は読書論。これも『読書の大問題』とでもして、異なった角度で書いてほしかった。この人は昭和14年生まれの今年78歳。企業人として中々の辣腕家との評が高い。しかも相当の読書家との誉れも高い。民間人として鳴り物入りの大使起用だった。偶々衆議院外務委員会に私が所属していた頃で、赴任される直前に同委理事会メンバーと一緒に懇談した。別れ際に何でもご注文あらばメールください、返事しますとのことだったので、その後の問題発生の最中に送った。しかし、不幸にも、為しのつぶて。お忙しかったのだろうが、あまり感心できない対応だ▼さてこの本を読んでの感想。やはり読むほどのことはなかった。ただし、それは自分にとってで、ひと様、特に若い人にはお勧めする。読書に関する本を数多読んできた身にとって、期待したのは二つ。一つは死ぬほど読書したという具体的体験論。もう一つはそれをどう身につけられたのかという具体的方法論。どちらも平凡の域を出なかった。尤も、そういうことは、多くの論者によってもう出尽くしている。今も私の記憶に残るのは井上ひさしさんの色鉛筆の使い方や、橋本五郎さんの「二回半読む」というやり方。佐藤優さんの集中的読書の後、一定の時間が経ってからの読み直しなどなど。ただし、丹羽さんが文中、さりげなく触れられたり、あるいは勧める本は歯応えがありそうなものばかり。アレクシス・カレル『人間―この未知なるもの』、横井清『中世民衆の生活文化』、オウィディウス『アルス・アマトリア』、西岡常一『木のいのち木のこころ』、エリック・ホッファー『現代という時代の気質』、『大航海時代叢書』全42巻中の25巻など。私の書棚には勿論ないし、これからの読書計画にも入っていない▶読書録に書くにあたって、改めて読み返すと、やはりこのひと、ただ者ではないことが分かる。特に、世に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というが、「私は怪しい」と思うとされ、「賢者は自らを律し、愚者は恣(ほしいまま)にする」と言い換えたいとしているくだりは興味深い。「歴史は繰り返す」ことからすると、いかに賢者であっても歴史から学ぶことは難しい、と。平々凡々な私など「どちらも正しい」と思ってしまう。最後に、著者の意向で、この本の印税は「伊藤忠兵衛関連の資料保全のため『滋賀大学経済学部附属史料館』と、中国から日本への私費留学生への奨学金として『公益社団法人日本中国友好協会』に、全額寄付されます」とあった。凄い。これは。さすが名だたる経済人。これまで丹羽さんを斜視に見がちであった私の目からうろこが落ちた▶さて来週からフランス、ドイツ、ベルギーと訪問することは既に前回書いた。実はパリで木寺昌人大使と会うことにしている。一緒に佐藤地ユネスコ大使とも。この二人は私が現職の頃に大変にお世話になり、親しくさせて頂いた。木寺さんは西宮元中国大使が急逝されたあとのリリーフ。北京に急きょ赴任される直前の送別会に参加したものだ。フランス大使には横滑りだったので帰任祝いもなく、送別会どころでもなかった。「分断」が懸念される世界にあって、「中華思想」の双璧ともされる中国とフランス両国に通暁するこのひとに、あれこれと訊いてみたい。また、佐藤地さんは、先般「明治日本の産業革命遺産」への記載決定にあたって話題を提供したひとだけに、後日談を聞いてみたい。(2017・9・16)

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世界最強の女帝の謎や韓国人の品性を暴く本を読む

今月末にフランス、ドイツへ行く予定を立てている。古くからの友人からのお招きもあり、思い切っていくことにした。その準備のために両国に関係する本を読もうと思い立った。まずはドイツ人の生活に関する本を幾冊も出している評論家の沖幸子さん(フラオグルッペ社長)に訊いた。お勧め本はないか、と。直ちに佐藤伸行『世界最強の女帝メルケルの謎』を挙げてくれた。佐藤氏は追手門学院大教授で、元は時事通信の欧州担当記者だった。90年代にハンブルグやベルリンで取材したとあって滅法ドイツ事情には詳しい。この本の出版は昨年のこと。今までメルケルについては殆ど知らなかった私も一気にひきこまれた。実に面白く読めてドイツを分かった気にさせてくれる。そして何より新聞記者らしく切れ味のいい文章が魅力的だ▼彼女の生い立ちから今に至る人物像が描かれる1~4章までが特にいい。とりわけ「魔女メルケルの父親殺し」がいかにも謎めいている。先日亡くなったコール元首相をはじめとする引き立て役の男たちが次つぎと失脚し、その政治的遺産が転がり込み、本人は肥え太っていく。ドイツにおける不吉なジンクスだというのだが、さてご本人の思いは、どんなもんだろうか。旧東ドイツで育った物理学者出身。父は「赤い牧師」。ださいスカートと髪形を上司から注意されたこととか、笑い上戸にまつわるエピソードやら、二度の結婚など下世話な話題が満載されている。後半は中国、アメリカ、ロシアなどとの外交展開が触れられ、エマニュエル・トッドの「ドイツ帝国が世界を滅ぼす」との過激なフレーズの「謎解き」にもなっている▼次はフランス関係のものに進みたいところだが、残念ながら読み切れておらず、次回まわしに。ところで先日、高校の同期会(十六夜会という、長田高校16回生の集い)で、ある友人からお前の顔は悪いけど韓国の新大統領(文在寅)に似てると言われた。以前に同僚代議士から北朝鮮の金正日総書記(当時)に似てると言われたことがあるから、別に悪くはない。北から南へと多少進歩したかと喜ぶわけにもいかないが、まあいずれにしてもコリア系か(その昔、北大路欣也に似てると言われたのに)と密かに笑った。そんな矢先に、畏友・古田博司筑波大教授から『韓国・韓国人の品性』という本が届いた。3年半前に出版された『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』に新たに、まえがき、第一章を加え、改題・改訂した新版だという。この人は、慶大文学部を出た後、韓国に留学、奥さんが在日韓国人。アジアオープンフォーラムの場で知り合い、懇意になった。朝鮮半島問題に通じた学者というよりも思想家の趣きを近年強めている。さらに大きな存在になられるに違いない。だが、その前にコリア系のテロリストから殺害されるのではないかと本気で心配している▶ともかく過激だ、帯には、韓国人は平気でウソをつく。北も南も見栄っ張り。「卑劣」の意味が理解できない。「法治」もない。あるのは憎悪の反日ナショナリズムだけだ。「助けず、教えず、関わらず」の非韓3原則で対処せよ、北も南もいずれ滅びて半島から逃げ出すなどと、恐ろしいほどの悪口罵詈が露出している。北朝鮮からのミサイル発射騒ぎで、お色直し的緊急出版を迫られたのだろう。まえがきには「日本人は嫌いなものから目をそらす癖がある。いま北朝鮮からミサイルが飛んできても、きっと落ちないだろうと目をそらしている。嫌いなものをみたくないので、どうしても無傷を想定してしまう」とし、日米戦争のすえ、100倍返しで300万人も殺された日本人も「もう歴史から学んでもよい頃だろう」と警告。一方、あとがきでは「筆者の立ち位置は相変わらずブレていない。西洋近代化は善で、ゆえに資本主義も民主主義も善である。それがうまくいかない国々に問題がある」と持論を展開する。私としては、善ではあっても最善とは思えず、資本主義、民主主義のほころびが気になって仕方ない。日本近代化のありように不満と疑問を持つ人間など、彼から見ると、朝鮮半島や中国を知らない”愚かな贅沢もん”というほかないのかもしれない。(2017・9・8)

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日本文明の底流に潜む忘れものー斎藤健『転落の歴史に何を見るか』を読む

官僚がその職務を何らかの理由で離れて後に、あれこれと出版することは珍しくない。勿論、その職務についている間に書く人も外務官僚などには多い。しかし、官僚の現役時代に書いていて、後に政治家に転出したという人はあまりいないように思われる。斎藤健農水大臣、当選3回ー元通産官僚である。この人が書いた『転落の歴史に何を見るか』は並の政治家や評論家らが書いた数多の書物の中で傑出しており、鋭く面白い。実は21世紀の劈頭に世に出たこの本の存在を知ってはいたが、残念ながら読まずに来た。それを読むように勧めてくれたのは郷土姫路出身の元厚生官僚・山本章。彼もまた『医者が薬を売っていた国日本』という極めて興味深い書物を先年に出版しており、私は愛読している。その彼が「先の大戦の敗戦に至るまでの経緯について書かれたものをあれこれ読んできたが、何れも不満足だった。初めて納得できる本に出会った。是非この本を素材にあなたと話したい」とメールをしてきたのだ。望むところ。私も持論があるので、大いに気負いこんで読むに至ったしだいである▶明治維新から今日まで約150年の歴史の捉え方のうち、時代区分をどう区切るかについては諸説あるが、一番ポピュラーなのは「40年間づつの興隆から転落に至る二度の繰り返し」との見方であろう。つまり、維新から40年後の日露戦争の勝利、そして40年後の第二次大戦の敗戦。さらにまた40年後の高度経済成長を経てのバブル絶頂から、2025年の少子高齢社会のピーク(どん底)に至るまでの苦難の流れまで。これは評論家の半藤一利氏の持論によるところが大きいが、斎藤氏はこのうち、日露戦争までの時代からその後の第二次大戦の敗戦までに焦点を絞って分析している。副題にあげた「奉天会戦からノモンハン事件へ」という34年間を、対比しつつ事細かに料理しているのだ。同じ日本の陸軍がなにゆえにかくも対照的に栄光から暗黒へと転落していったかを。大胆に短くまとめると、明治の元勲たちはジェネラリストが多かったが、やがて世代が変わり、その後のリーダーにはスペシャリストはいても、ジェネラリストが育たなかったからだ、と結論づけている。国家をはじめあらゆる組織にあって、ジェネラリスト養成のための教育こそが求められるというわけだ▼明治という時代を築いてきた先達たちが、欧米列強による植民地化を防ぐべく、必死の努力をしてきたことを認めるのにやぶさかではない。しかし、仮に徳川幕府が「維新」で倒れないまま命脈を保っていたらどうだったか、という歴史のifにもいささか魅力を感じる。勿論、具体的に過去を追うと、たちどころに行き詰ってしまうぐらいの、やわな仮説ではある。だが、徳川の幕臣たちが維新政府の「官賊」に比べていかに優秀だったかなどという歴史的証拠だてやら、長州藩士の会津藩への冷酷無情な仕打ちを思うにつけ、あらぬ妄説とは断じきれぬものを抱く。ゆえに、明治の元勲たちを全肯定出来ないのである。そこには、吉田松陰のもとに松下村塾の中から育っていった”テロリスト”まがいの志士たちと、20年の歳月を経て国家経営の中心となっていった伊藤博文や山縣有朋らとの落差を素直に認められないものがあるのだ。つまりは、明治を作っていったものの中に、成功の因も失敗の因も同時に育まれていったはず、という見立てから私は逃れられない。すなわち、明治の元勲たちをジェネラリストとして認めたうえで、その後の誤りの因を、スタートの時点で同時に内在させていたのだとの見方を持つ▶で、私としては、むしろ明治維新の孕む問題は、文明的観点から大きく言って二つあると考える。一つはギリシャ・ローマ以来の近代ヨーロッパ哲学プラスキリスト教文明という、西欧思想を無批判に受け入れてしまったこと。二つは、表向きには今述べたように外来思想を受容しながら、その実、古代日本いらいの”伝統的宗教哲学”としての国家神道を”天皇の復活”と共に、実質的に蘇らせたことである。前者は、日本文明が一貫して持ち続けてきた外来の思想哲学を日本風にアレンジするという作業を怠ってしまったことを意味する。そして、それだけでにとどまらず千数百年の時を経ての熟成した日本思想の伝統をかなぐり捨てて、文字通り単純な”先祖帰り”をしてしまったのである。斎藤健さんの視点は極めてリアルなものに根差しているのに比して、これはあまりにも茫漠としたつかみどころのない空論かもしれない。「西欧思想の日本化」とは果たしてどういうものを指すのか。「西洋の没落」が名実ともに具現化してきた今こそ、懸命に追い求めなければならない魅惑あるテーマだと私には思われる。(2017・9・5)

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