【18】〝信念と矜持の人〟との8年間と別れー平成27年(2015年)❷

●夢前町と白鷺地域ー縁多き地と人と

2015年の新年元旦は、創価学会の新年勤行会への出席(姫路西文化会館)で幕が開きました。私の父母が生まれ育った夢前町地域の皆さんを中心としたメンバーが多数集まって来られ、懐かしい面々との出会いをすることに。この地域は近年富に、市内中心部や南部からも移住する人たちも増えて、活気を呈しています。初めて選挙に出た頃には、地元出身の候補者だということで並々ならぬご支援を頂いたことが忘れられません。

午後からは現在住んでいる地域の担当をさせていただきました。ここは白鷺城に因んで、白鷺本部という名がつけられています。私が姫路に帰ってくる前に東京中野区白鷺に住んでいましたから、「白鷺から白鷺へ」と移り住んだことになり、ご縁を感じたものです。新年早々から各地の座談会に飛び回りました。8日は播磨高岡、10日は網干、11日は夢前町の沖塩という風に。元議員特有の生命の濁りのようなものが中々消えず、自戒を強める日々ですが、座談会に参加するたびに、皆さんの純粋で真心溢れるパワーに命洗われる思いになります。

● 「桃栗三年柿八年」と追悼の辞

議員引退直後から、元公明新聞記者時代の後輩で大阪市議だったK氏の紹介で、大阪華僑のトップであり、幅広く事業を営む段為梁会長とお付き合いをさせていただくようになっていました。平成27年も新年早々1月14日にお会いしています。段会長の盟友である新堂衛専務も一緒でした。この人は元大阪市消防局長。危機管理に習熟している人で、まさに冷静沈着な古武士の佇まい。兵庫でも屈指のザ・サイプレスゴルフ場の支配人をされ、高速道路のサービエリアの経営にまで関わっておられました。私は憧れのゴルフ場の〝特別顧問〟という肩書きを頂き、友人たちを羨ませがらせたものです。尤も一度もここでプレーしたことがないというのは「お笑い」草ですが。

段会長は昨・令和2年に亡くなってしまわれた(享年84歳)のですが、奥様始め、二人の息子さんや娘さんたち(全部で四人)も含め家族ぐるみで八年もの間、親しくしていただき、私にとって第二の親父のような存在でした。お世話になった皆さんと一緒に「追想集」に思い出を寄せさせていただきました。以下に転載(抜粋)します。

段会長と私が初めてお会いしたのは平成24年(2012年)に公明党の衆議院議員を定年退職してからしばらく経ってのことでした。それから八年。引退の現実に気遅れしがちな私を、会長は、ある時はおだてあげ、またある時は叱咤しまくって、励ましてくれました。お陰で、党への〝ご意見番と後輩育て役〟を果たせました。これからが本番。ご恩返しの闘いを、と思っていた矢先に訃報に接しました。残念です。心底から無念さで一杯です。

「世に桃栗三年、柿八年」と言います。議員を辞して八年が経ち、柿ならそろそろ実がなるころとなりました。もし、会長との出会いがなく、無為に過ごしてきていたなら、〝枯れ木の惨〟を晒しているに違いありません。もっともっと「鍛えの言葉」を頂きたかったとしきりに思います。

日本と中国ー両国の歴史と伝統を時に讃え、また謗りあいました。「共産中国」の現在とこれからに強い懸念を語り合いもしました。論争の中で、御自身の信念を一歩たりとも曲げられなかった会長の強い矜持が深く私の脳裏に刻まれ、生き続けています。

●懐かしい思い出の数々ー沖縄行きと大相撲観戦

段会長は沖縄うるま市で琉球温熱療法院を営まれる屋比久勝子さんの「温熱治療」のことをしばしば推奨されていました。あまりに言われるので、私も感化を受け、沖縄へ行って直接診療を受けたこともあります。屋比久さんは参議院公明党の秋野公造議員との交流もありました。彼は長崎大医学部出身の医師。元厚生労働省の医官も経験、私が厚労副大臣時代に束の間一緒に仕事をしたこともあります。医療のプロの後輩議員との関わりを知って一段と関心を深めたものです。

また、同会長は大相撲ファンで、大阪府立体育館(エディオンアリーナ大阪)で行われる春場所に、毎年招待をしてくれました。私はその都度、大相撲を未だ直接見たことのない友人たちに声をかけて枡席に出かけたものです。4人までは同席可能なのですが、通常は3人くらいがせいぜい。毎年、友人夫婦や家族連れを誘い、大いに喜ばれたものです。特に、大学同級のM君は東京に住む娘さんが大の鶴竜ファンと聞いていたので、「家族3人でどう?」と誘うと、浜松から一緒にやってきました。恐らく皆さん大相撲観戦の機会はそうざらにはないはず。合計8組ほどの友人たちに「感動」を差し上げることが出来ました。昨年からはコロナ禍でストップしてしまったのはとても残念なことです。(2021-4-17)

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【17】生まれ育った地域で〝花の自治会長〟を引き受けるー平成27年(2015年)❶

●新在家自治会長についに就任

議員引退をした翌年(2014年)の春に、私の住む新在家自治会(1丁目から4丁目まで約400世帯が在住)の副会長を仰せつかっていました。この時点に至るまで、姫路市の中で4地域を転々と住み替えしてきましたが、日常的な自治会活動に関与したことは、全くなし。隣保のお世話は全て妻に任せっぱなし。資源ゴミや粗大ゴミ捨てから、溝掃除、地域行事の参加に至るまで、何もやったことがなかったのです。いわゆる変型単身赴任者だったので、ある意味仕方なく、許されてきたのですが、基本的に毎日自宅にいるとなったら、そうはいきません。

ということで、一年間、「自治会長見習い」をしました。このポジションはご多分に漏れず、何処も同じでなり手が中々ありません。副会長を引き受けた段階で翌年の「自治会長」は覚悟していたのです。この地域には、そのむかしに私が出た幼稚園と入学した小学校(2年生の冬に転校)があります。生まれ育った町への、ほぼ65年越しのご奉公、ご恩返しと腹を決めて取り組むことにしました。

●神社へのお参りやお祭りへの参加

自治会長になって、それまでの生活と違うことをあれこれとする羽目になりましたが、最も大きいことは神社への参拝です。この歳(70歳)になるまで、行くことはあっても「拝むこと」はなかったのですが、地域の代表としては、そうもいきません。心ならずも神前に額ずき「二礼二拍手一礼」をすることになりました。

実は、この地域の自治会長経験者に、創価学会員の大先輩や元姫路市議会議員の大先輩がおられました。それぞれお世話になった立派な人格の素晴らしい人です。ただし、過去には古くからの習慣的儀礼との間で、それ相当の〝文化的衝突〟があったようです。お祭りの際にフルバージョンで参加しない自治会があるのは、どうもそのことと関連があったと思われます。古くからの来歴には立ち入らぬようにして、私は新時代に相応しい対応をすると決めていました。それゆえに、何も軋轢など起こさず、うまくこなしたつもりです。

地域のお祭りについては、つくづくいいなあと率直に感じました。とりわけ、神輿担ぎは興奮しました。阿波踊りのように、「担ぐ阿呆に見る阿呆」と言い比べると、罰当たりめと言われそうですが、当事者の悦びはやってみないとわかりません。尤も、「よーいやさー」の掛け声に合わせて、つい年甲斐もなく担いでしまって、翌日以降肩が痛くなったのはお笑いでした。

●地域の人材発見に驚く

自治会長をして、改めて気づいたのは、町内には様々な分野で著名な方や、個性的な方がおられたことです。数学者(大阪市大教授)、日赤病院や姫路循環器病院の医師をはじめ、画家、音楽家から杖術の達人に至るまで、実に多彩な人々がとなり近所に点在されていたとは知りませんでした。

とりわけ、少年野球のお世話を長年されてきた人については驚きでした。息子さんが小学校時代から面倒を見始めて、今やお孫さんの代に移ってなお携わっておられたのです。地域の生き字引のような存在に、ただただ頭が下がる思いがしました。こうした新たな発見をする中で、むくむくと私のあるアイディアが頭をもたげてきました。やがて、生来の新しいもん好き、オンリーワン志向が実を結ぶのですが、それは翌年以降のことになります。お楽しみに。(2021-4-10)

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【16】「安保法制」論議でインタビュー掲載やら解説を展開ー平成26年(2014年)❽

●「安保法制」巡る与党間の激突横目に高まる議論

「集団的自衛権」行使容認は、自民党なかんずく安倍晋三前首相の長年の悲願と見られてきました。政権交代後の無残な政権運営で野に落ちた民主党の姿を見定めた同氏は、首相再就任後1年半、満を持して「安保法制」を閣議決定に持ち込んだのです。平成26年(2014年)7月1日のことでした。以来、自民党、公明党の与党間で、徹頭徹尾の議論がなされました。正式に法案としてまとまるのは、翌年5月14日なのですが、その間、メデイアでは与党間議論を横目に色々な論議がなされたのです。

私はOB議員ながら、新聞、雑誌からインタビューやコメントを求められました。地元紙・神戸新聞には大きな写真付きで、掲載されました(6月23日付け)。これは今読んでも適確なものと自負できます。後半部分を抜粋して転載します。

ー公明党は集団的自衛権の行使容認に舵を切ったとされているが。

「報道では既に白旗を掲げたように言われているが、最終結論は出ていない。ひとまず国会開会中に閣議決定はさせないで、言葉は悪いが、引き延ばそうとしているふうでもある。」

「公明は『9条の下で出来ること、出来ないことを整理する』としている。言い換えれば従来の個別的自衛権の枠内で、まだできることがあると言う意味だ。拡大解釈でも縮小解釈でもない〝適正解釈〟の余地がある、と思う」

ー公明は米艦防護についても「周辺事態の際は個別的自衛権で対応可能」と主張したが、安倍首相はあくまで集団的自衛権の行使容認を目指している。

「集団的自衛権とは他人の喧嘩の加勢を買ってでること。〝お友達国家〟がやられているからと、わざわざ出かけていって武力を行使すれば、かつて歩んだ同じ道をたどることになる。安倍首相は『必要最小限度』の容認という名の下、公明の言い分をある程度聞いて突破口を開け、いかようにでもしようとしている節がある」

ー公明として踏みとどまるべき境界はどこにあると考えるか。

「現時点で具体的に言うのは難しい。イラクやアフガン派遣も非戦闘地域での後方支援だから、「9条の枠内」と言ってきた。それが言えないようなら、公明の敗北だ。〝闇から闇〟で終わらせず、『こういう議論をし、こう整理した』と明確にしないと。『どう考えてもこれは9条の枠内とは言えないと衆目が一致するような結論を容認してはいけない』」

公明党の一員として、曖昧な結論は出すべきでないとの強い意志が表れたインタビュー記事になっています。

●『週刊朝日』にもコラム形式で与党に注文つける

また、『週刊朝日』の7月4日号にも私の発言がコラム形式で掲載されました。以下全文を転載します。

【自公で連立を組んで15年になりますが、重大な局面を迎えています。憲法解釈を拡大しようとする安倍自民党にしっかりブレーキをかけられるか。公明党の真価が問われています。小泉政権の2003年、大量破壊兵器があるとして、米国がイラクに侵攻し、日本の自衛隊も後方支援の目的で、非戦闘地域といわれたサマワに派遣されました。しかし、のちに米国が「そういう兵器はなかった」とその非を認め、日本はいわばはしごを外された格好となった。公明党は09年、党外交安全保障調査会長だった私が中心となり、「アメリカからの情報を鵜呑みにして、自衛隊を派遣したことは否めない」といった内容を含む総括をしました。

自民党がそうした総括をしないまま、集団的自衛権の行使容認を進めていることに危うさを感じる。イラク戦争のように米国に求められるまま、自衛隊を無制限に派遣させる。国防軍をつくり、米国が求めていないことにまで手を出す。そんな怖さがあるから、歯止めの役割が必要なのです。

今の自公協議で大事なのは、平和主義を規定した憲法9条の枠内で何が出来て、何が出来ないかをはっきりさせること。出来ないことは出来ないと、ダメだと主張すべきで、あいまいな言葉遊びは後世に禍根を残す。9条の縮小解釈でも拡大解釈でもない、許容されるギリギリの対応をしてほしいですね】

随分厳しいことを言ってます。私はこのような論調をベースに、連日のように、ホームページのブログ『後の祭り回想記』でわかりやすく問答形式などで解説をしていきました。この法制をめぐる与党間の調整論議は結局10ヶ月にわたって続きました。そしてその結果が国民の前に全貌を現すのは、翌27年(2015年)5月のことになるのです。(2021-4-4)

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【15】衆議院議長と公明新聞OB仲間との語らいー平成26年(2014年)❼

●衆議院議長、市川氏らと議長公邸での懇談

私が現役時代に付き合った多くの政治家の中で、思い出深い人は衆議院議長も経験され、今も現役代議士の伊吹文明さんです。元を正すと、衆議院金融改革特別委員会の視察で欧米旅行を一緒にしたのが関係を深める、きっかけです。以後、様々な機会に激励を受けつつ、交遊を深めてきました。市川雄一元書記長との関係も、渡辺美智雄氏(元副総理兼外相)を介在させて深いものがあり、折に触れておふたり相互のお話は聞いていました。

現役の間は機会がなかったのですが、辞めてから私が京都に足を運んだ時に伊吹事務所に立ち寄って名刺を置いてきたことが機縁となりました。その直後に同議長から、市川、太田、井上と私を議長公邸にお招きいただくことになった(5月29日)のです。太田、井上両氏と私の3人は公明新聞記者時代に市川主幹(当時)に薫陶を受けた、いわば同門同期のさくらであることから、議長が着目されたものと思われます。太田氏は京都大の後輩でもあり、当然それぞれの関係があったのですが、私の引退をしおに、昔の仲間を呼んで昔話・懇談の時間を持ってくれたのです。有り難いことでした。

伊吹さんは、『いぶき亭 四季の食卓』という料理本の名著を出すなど、そこいらの政治家とは一味も二味も違う独特の個性を持った人です。大島理森氏(現衆議院議長)とも親しく、この時も途中合流されていました。「安保法制」をめぐる国会での議論が勢いを増していた時だっただけに、公明党内空気を探る狙いも当然あったと思われます。伊吹氏との交流で忘れ難いのが、彼の親しいジャーナリストS氏と私の佇まいが似ているとの発言です。私の政治家らしからぬ本性を見抜かれたのかと、内心穏やかならざるものがあったことを覚えています。

●京都での「文化講演会」に招かれて

一方、この年は幾たびか京都に行く機会がありました。そんな中で、嬉しかったのが北区のある地域の公明党の会合(6月25日)に呼んでいただいたことです。しかも、政治向きのテーマでなく、私の読書好きを見込んでのものでした。『忙中本ありー新幹線車中読書録』を書くに至った経緯や、好きな本について何でも話して欲しいという主旨の依頼だったもので、まるで評論家の様な気分で縦横無尽に話せました。京都は、伊吹文明氏の他にも、谷垣禎一氏(元財務相=自民党総裁)のような知的雰囲気を湛えた政治家が多く、公明党も竹内譲氏(現政調会長)や、彼を支える党員の皆さんたちも同様です。面白い土地柄だと思います。

後年、京都NHK文化センターでの『法華経講座』に、仏教学者の植木雅俊氏が講師として連続講座をされると言うので、私もわざわざ参加しました。その時にも私を講演に招いてくれたN氏が来ていました。古都・京都が結ぶご縁で旧交を温めたしだいです。(2021-3-31)

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【14】兵庫県知事との同い年の熱い繋がりー平成26年(2014年)❻

●県議会公明党の仲間たちと病気と

大野議員に続き、尼崎を地盤とする下地光次議員も同じように突然脳出血で倒れてしまいました。5年前の参議院選の準備段階で候補者を連れ歩いている最中だったのです。彼も活力漲る県議として3期目の当選の一年後でした。しかもその後しばらくして脳梗塞も併発したのです。このため次の選挙(令和元年)では出馬を断念し、後進に道を譲りました。ガッツのある彼のことゆえ、必ず第三の人生に向けて、雄々しく立ち上がってくれるものと確信しています。

また、議員任期を勤め上げたあと、病が発覚し、闘病ののちに逝去した議員もいます。渡部登志尋議員です。豪放磊落、明るく元気で文字通りの酒豪でした。泣いてる子どもも黙るとまで言わぬまでも、誰しも聞く耳を立てる弁舌家で、その死は党派を超えて惜しまれました。

普段から健康管理に気をつけるよう、後輩たちに強調してきました。激務の連続でつい無理を重ね、その狭間で酒を飲む機会も増える傾向があるようです。そんな中で、不思議なほど元気なのが井戸敏三兵庫県知事です。彼が東京から兵庫の副知事として天下ってきた時以来、同郷(西播磨生まれ)、同い年(共に昭和20年生まれ)ということもあって、親しい付き合いをしてきましたが、そのタフネスさには舌をまくばかり。一緒にお酒を飲む機会もありますが、いくら飲んでも平気というのが率直な印象です。

●井戸兵庫県知事との交遊

この年(2014年)における井戸知事との交流で忘れ難い出会いは二つ。一つは、朝日新聞の大阪本社社長に新たに就任した持田周三氏との懇談(4月22日)です。持田さんは、市川雄一元党書記長の秘書を私がしていた頃からの付き合いです。当時は市川さんは国対委員長でした。持田氏は番記者として辣腕ぶりを発揮する一方、市川さんと代議士と記者の関係を超えるような深い人間的付き合いを重ねていました。

持田氏は関西にその仕事場が移ったとあって、兵庫県知事と会いたいとのことで、私が仲介しました。談偶々健康談義になって、六甲縦走の経験数知れずという知事の健脚ぶりが話題に。毎朝丹念に各種のストレッチを欠かさないという知事の発言に、私も負けじとばかりにスクワット自慢を。結果、持田さんの前で二人が競争をする羽目に。イッチ、ニッ、サン、シーと並んで屈伸をしてしまったのです。二人の姿を見て、彼は「爺さん二人がよくもまあ」と笑いつつ、驚き、やがて呆れることに。この勝負は残念ながら、私の負け。兜を脱いだ次第です。

もう一つは、関経連の松本正義副会長(当時=住友電工社長)との懇談(10月3日)です。話題は東京五輪、ワールドマスターズゲーム等を始め多岐に飛び交ったことを思い起こします。松本氏は淡路島出身。この頃、「瀬戸内海島巡り協会」の設立に向けて、私は奔走し始めており、知事と松本さんとの顔合わせに動いたのもその延長線上のことでした。松本さんは、私の小学校同期の三野哲治君と住友電工の一年上、中学校同期の志村勝之君が一橋大同窓ということで、話は大いに盛り上がったものです。

井戸知事は姫路の我が家にも西明石のマンションにもやってきています。公私ともにあれこれと語り合う仲です。前年に4期目の当選を果たして、2年目に入ったばかりのあの頃ーその3年後に5期目に挑戦、今もなお知事現役を続けているとは流石に私も予測できませんでした。(2021-3-28 一部修正 3-29)

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【13】肝炎患者、弁護団との確かな交流続くー平成26年(2014年)❺

●高校の後輩弁護士の活躍と連携

肝炎(B型、C型含む)患者の皆さんに寄り添う弁護士の懸命の闘いは、訴訟弁護団を通じてよく知っていました。現役の頃に、党の肝炎対策プロジェクトチームの担当をしていたからです。引退後は直接関与することはないかと思っていたのですが、さにあらず、変わらぬ交流が続きます。というのも、神戸市に住み大阪で開業しているT弁護士が私の高校の後輩だったのです。彼は訴訟団のメンバーとして活躍していました。偶々現役時代には会うチャンスがなかったのですが、引退後は公私共に深い交流を交わすことになるのです。

きっかけは以前にこの連載(第一回)で触れたFさんが、C型肝炎患者としてT弁護士に担当して貰うことになったからです。3月中旬に二人一緒にFさんの自宅を訪問して、彼やご両親にお会いして、種々過去の経緯について実態の見聞をしました。それを受けてT弁護士が訴訟の事務的手続きを進めてくれ、その結果として見事に国からそれ相当の補償を受け取ることが出来たのです。Fさんの喜びたるや並大抵のものではありませんでした。障がいを持つ身の苦しみに悩んだ半生の中で、最も嬉しいことの一つだったに違いないと私も深い喜びに浸りました。それ以来、T弁護士とは何かにつけてお世話になっています。

この年に、兵庫県明石市で日本肝炎対策協議会(日肝協)の全国大会が開かれて、私も招かれて参加しました。N弁護士や兵庫県下の患者さん達と懐かしい出会いをしました。彼ら弁護団は、肝炎に対する世の中の理解を深めるために、学校やら公的な場での講演活動等を展開しています。私もお手伝いをせねばと思い、電子書籍による肝炎訴訟の経緯などQ &Aの企画を提案しましたが、歴史的な闘いの足跡を記録として残すことの重要性を強く感じています。

●後輩県議が突然病気で倒れるショック

この頃、兵庫県議会公明党の中核の大野由紀雄議員が突然、病で倒れました。脳出血です。彼は私の住む地域のすぐ近くに住んでいて、日頃からお互いに助け合う仲間のひとりです。姫路市議を経て、県議会に転身、縦横無尽の活躍中でした。選出地域の姫路市内北部を中心に、まさに神出鬼没、至る所で街頭演説を繰り返す一方、数多の市民相談にも熱心に取り組む本当に情熱溢れる熱血議員でした。その彼が倒れたのです。多くの支持者、仲間達が心配し、気遣いました。

私はこの病にも意味があることを強調、復活を確信して激励しました。健康管理には普段から気をつけていても、いつ何時体調に異常をきたすやもしれません。彼の場合、少し前に喉に異常を感じて、しばらく治療を続けていました。そのため、脳の異常と見られる今回のケースでも、迷うことなく、同じ病院に即かかることを決断しました。しかし、手術は成功したものの、後遺症を免れず、半身が不自由な状態が残り、未だ車いす生活を余儀なくされています。

元気な時の様子が鮮明に地域の人々の脳裏に残っているだけに、当初彼の不測の事態が信じられない人が殆どでした。頭脳、言葉は明晰なのだから、車イスででも議員を続けてほしいとの声も一部にはあったようです。ただ、そうはいっても、県議は激務であり、選挙は死闘です。結局、翌年の地方統一選挙では残念ながら出馬を断念せざるを得ませんでした。あれから9年ほどが経ちました。今では、身体に障がいを持つ人々を支援する活動を続けています。(2021-3-26)

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【12】〝神様の代わり〟と〝地獄の使い〟の二役ー平成26年(2014年)❹

●🎵花も嵐も踏み越えて

これまで私は数多くの若者たちの結婚の仲人をさせていただいてきました。いわゆる〝頼まれ仲人〟は勿論のこと、赤の他人同士のお見合いをセットして、くっつける本格的なものまで、実に色々と。苦労が実ってゴールインした2人の間に、この世のものとも思えぬ可愛い、未来からの使者のような赤ん坊が生まれてきたとき、まるで神様になったような思いが湧いてきます。ひとたびは愛の讃歌に包まれながら、どこでどう間違ったか、憎しみのどん底に堕ちいったケースは幸いなことにないのですが、やや近いものは経験しました。数多の人生・万華鏡から幾つか拾ってみます。

これまで最もうまくいったケースの中でも最高のものは平成26年に成就したケース(5月18日)で、私の選挙区の2人の元町議の息子と娘の見合いから結婚に至る仲人役でした。この2人は誰しもが認める美男美女の組合せのうえ、境遇までよく似通っていました。本人同士は殆ど一目惚れで、見合わせた瞬間の雰囲気でこれはオッケーだと思ったのですが、その後、双方の親が抱える懸案もあり、幾つかの難題が浮上して、それなりの苦労がありました。

●生命誕生の喜びと、空振りの悲しみと

最終的には八方うまく収まり、その直後にかわいい女の赤ん坊がうまれてきました。赤ちゃんを囲んで喜ぶ夫婦と周りの家族の姿を見て不思議な思いにとらわれたのです。私が取り持った結果として、一つの生命が誕生したーこれってまるで全能の神様のしわざのようではないか、と。

赤ん坊の誕生については、ちょっぴり苦い二つの思い出があります。一つは、随分前のことですが、双方をよく知る私のところに、「婚前段階」で子が出来てしまったのだが、どうすればいいかと相談にきたのです。堕すしかないとの判断をした2人に同意しました。それで良かったかどうか。やがて結婚して一人息子が誕生したものの、いつももう一人の幻の子どもに思いが至ります。

また、議員になったばかりの頃、事務所を手伝ってくれていた女性の相手を探して見合いにこぎつけ、見事にゴールインしたのですが、いつまでも子どもに恵まれなかったのです。夫の親父さんから、ことあるごとに、「孫を授かりたいのに生まれない」と、まるで私の責任のように責められたのです。これはとても辛いことでした。

●結婚式当日に、急遽我が妻が仲人代役に

これまで触れたものは何はともあれうまくいったケースですが、婚約段階で相談を受け、「いいんじゃあないの」と積極的にエールを送りながら、誤解やら思い違いなど色々あって、やがて離婚に至った2人がいます。これは本当に後味が悪く、未だにその後輩の男性には顔を合わすに至っていません。もっと見極めて適切なアドバイスをしていればと悔やまれます。離婚ならぬ破談のケースなら数多ありますが、極め付けは、結納を交わす日に、新婦側の気が変わって破談になったケースです。まさに、地獄の淵を見る信じられない思いでしたが、結婚してしまってから別れるよりはマシかも、と思い直したものです。

そんな怖いケースではなく、ちょっぴり変わったケースをひとつ。私が可愛がった職場の後輩(男性)の結婚式当日のこと。仲人には職場の上司をお願いしていましたが、なんとその日に夫人が体調を壊されてしまったのです。緊急事態発生に、仕方なく私の妻が代役を務めました。華燭の典から披露宴の間中、上司と並ぶ我が妻の姿、表情を見て、まことに複雑な心境でした。そんなトラブルもものかわ、この2人はその後の人生、それなりの波瀾はありましたが、代役も必要とせず見事に乗り切り、幸せな老後を迎えています。結婚式場に関わる友人に聞くと、結婚披露宴の終わった直後に離婚を決意したり、新婚旅行から帰ってきたその日に別れるケースもあったとのこと。まったく、人生いろいろ、結婚も様々のようです。

あれこれありながら、今もなお私は35歳以上の未婚の男女求むとばかりに、見合いのお世話をしています。ひと昔と違って結婚適齢期が10年ほど後ろにずれていますが、気の利いた男は結婚が早く、逆に気の利いた女性は遅いようで、ミスマッチが常態です。世話焼きの苦労は益々続くようです。(2021-3-21 一部修正3-22)

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【11】魅力溢れる文化人との味わい深い交遊ー平成26年(2014年)❸

●中西進先生との出会い

この年の1月9日に、大阪府の堺市博物館に赴き、国文学者として名高い中西進先生とお会いしました。ジェノバライン副社長の豊田一義氏と共に足を運んだのです。貴重な機会になりました。これ以後、同先生とは深いご縁を頂くことになりますが、それは改めて触れることになります。豊田副社長は、元をただすと聖教新聞社や創価大学での仕事を通じて、多数の学者、文化人らとの交流を持つ新時代のビジネスマンです。中西先生とも昵懇でした。豊田さんは創価大での学生の就職担当としても力量を発揮され、ジェノバラインの吉村靜穂社長と知己を得る中で、ヘッドハンティングされました。私が同社と関わりを持ち、淡路島を起点にした瀬戸内海観光開発に乗り出すことになったのは、豊田氏を中軸に、吉村、中西のお三方との人脈のなせる技によるところ大だったのです。このうち最も若かった豊田氏が既に鬼籍に入っておられるのは残念なことです。

初めての語らいは、当然のことながら、中西先生の広範囲でかつ深い学識のご一端に触れさせて頂くことに終始しました。その際に、私の義母がかつて姫路文学館での同先生の講義を聞き齧っていることを伝えました。一気に話題が弾んだことはいうまでもありません。この日の出会いを契機にやがてこの偉大な先達と一緒に仕事をするようになるのです。あの頃からもう7年ほどが経ちますが、益々お元気なのは驚嘆するばかりです。

●石川誠先生と邊見公雄先生との交流

中西先生の他にも、定年後に様々な文化、学術の分野で活躍される方々とお付き合いをすることになりました。そんな中でご縁あって、深い交友関係を持つに至った医療の世界での代表的存在を二人だけ挙げてみます。一人は姫路別所にある石川病院のトップであり、兵庫県民間病院協会の前会長だった石川誠先生。もうひと方は、赤穂市民病院院長や名誉院長をしながら、全国自治体病院協議会の前会長をされていた邊見公雄先生です。

石川先生は元公明党議員の大先輩である渡部一郎、通子夫妻と、国連との交流活動を進める会を通じて懇意にされていました。私が初めて選挙に出た際の後援会長のご夫人・横川マリ子さんがそのグループの事務局長的役割をされていた関係からご紹介を頂きました。『源氏物語』を始め、古今東西の文学・哲学や思想に通暁されているうえ、馬術やゴルフも達人の域で、〝智遊兼備のつわ者〟というほかない行動する知識人です。つい先年、放送大学の受講生になられたことでも分かるように「生涯学習」を貫かれていて、お会いするたびに数多くのことを学ばせていただいています。

また、邊見公雄先生とも深いご縁をいただきました。初めてお会いした時は、あご髭に下駄履きのいでたち。豪放磊落な佇まいにすっかり魅せられました。この人は私の高校同期で笑医塾塾長の高柳和江女史と一緒に、一般社団法人「癒しの環境研究会」に取り組み、医療における「笑いの効用」に深い関心を持たれてきました。そのご縁もあって、しばしば私とは交流を重ねてきています。「女性で講演上手は高柳さんだが、男なら俺だ」と、大見得を切られたのが印象深く記憶に残っています。先程出版された『令和の改新』はとてつもなく知的興味をそそられる面白い本です。こういう人が政治家になれば、快刀乱麻を断つ働きをされること疑いなしと、私はいつも尊敬の眼差しで見ています。(2021-3-16)

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【10】顧問先トップとの対談解説電子本に次々取り組むー平成26年(2014年)❷

●電子本「10問10答早わかりシリーズ」を出版

同期の連中との対談は、あたかも私の前半生を振り返るもので、読みようによっては「自叙伝」の趣きがありました。これに気を良くした私が次に考えたのは、現役時代から関わってきた団体について、電子書籍でその実態を紹介するという試みでした。「10問10答早わかりシリーズ」と題して、私自身がQ &A方式で解説したり、各法人のトップとの問答形式というかたちをとったりしました。

例えば、一般財団法人「日本熊森協会」については、『クマと森から日本が見える』と題して、私が解説しました。力作です。一般社団法人「日本カイロプラクターズ協会」は、同協会顧問の村上佳弘さんとの対談で、タイトルはずばり『腰痛はカイロが一番』。38年間悩んだ腰痛を治してくれた恩人との競演です。さらに、『中小企業はこれで蘇る』と銘打ったのは、一般社団法人「AKR共栄会」の河田正興専務理事(当時)との対談。彼は昨年秋にコロナの犠牲になって鬼籍に入ってしまい、これが遺作となりました。それぞれ渾身の力を込めて取り組み、分かりやすく解説していきました。

この3冊に加えてもう一冊ユニークなものがあります。実は、今から10年ほど前のことですが、赤穂市に住む旧友の亀井義明氏から相談に乗って欲しいと言われて関わってきた「坑道ラドン浴」に関するものなのです。その背景には、兵庫県姫路市安富町(かつて富栖村と呼ばれた地域)にある、その昔の金鉱山からでるラドンを活用して、健康に役立つ施設を作ることで、地域振興にも貢献したいとの彼の強い志がありました。

●日本唯一の「坑道ラドン浴」のお手伝い

大量の放射線は人間を死に至らしめますが、微量のそれをピンポイントで患部に照射すると、大いなる効果を発揮するーいわゆる放射線治療は、癌患者などにとってかけがえのないものになることは天下周知の事実です。彼はその放射線が富栖の里の坑道から出ることを知っていらい、自身が経営する会社の業務と並行させながら縦横無尽の活動を展開します。オーストリアの著名なラドン浴の土地であるバドガシュタインを訪れたり、岡山大、熊本大、大阪大を始めとする大学の研究機関などを訪れ、学者、専門家に会って、研鑽を深め協力を要請していきました。

その結果を踏まえた上で、ラドン浴に供する坑道を整備していったのです。私もオープン式典に参加し、その後も度々実際に坑道で寝そべってラドンを浴び、友人、知人にも勧めてきました。当時から今に至る10年の彼の奮闘ぶりを見る時、心底からの感動は否めず、深い敬意の念を抱きます。通常の病院治療で良い結果がでない、医療難民ともいえる多くの人を激励しぬく姿はたとえようもなく尊く思えました。

大阪大名誉教授の中村仁信先生はそうした彼の熱意に共感して、さまざまな角度から支援を惜しまず、協力していただいている学者の一人ですが、この人とコラボすることを考えつきました。『みんな知らない低線量放射線のパワー 日本唯一の坑道ラドン浴 富栖の里』とのタイトルで、私が書いたものを監修していただくことにしたのです。

電子本はまだまだ認知度が低く、手にして下さる人は多くはないでしょうが、世の中に一石を投じた試みを成し得たと自負しています。結局、電子本はここまでで、その後は休刊が続いています。むしろ、紙の本への思いやみがたく、偶然の出会いからある人と共著を出すことになるのですが、それはもう少し先のことです。(2021-3-13 一部修正)

(2021-3-13)

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【9】同期の桜と対談電子本5連発ー平成26年(2014年)❶

●NPO法人を立ち上げて電子書籍出版へ

「赤松さんも電子書籍を出すといい。紙の本のように手間はかからないし、出版に要するお金も殆どただ同然。うまく当たると巨万の富を得るのも夢じゃない」こんな言葉を投げてきた伊丹市に住む後輩がいました。2014年が明けた頃のことです。私が現役時代に、『忙中本あり』を出版した背景には、インターネットで日々発信していたことがありました。その後も、続編めいたものも書いていましたし、国会での動きを追うリポートも長く続けていました。それらを読んで面白いと思ってくれたようです。

実は、大手出版会社に勤めたあと、定年退職後の時間を持て余していた学生時代からの友人がいました。気の毒なことに彼は脳梗塞の後遺症で、少々半身が不自由になってしまったのです。その彼に電子書籍の出版を手伝って貰えないか、と相談しました。キンドルから出版する過程において、私が原稿を書き、それ以外の全ての作業を彼にやって貰おうという魂胆です。うまくいけば彼の仕事になるし、私も夢が叶うかもしれない、一石二鳥の名案に思えました。

そこで、彼の以前の仕事の上司だった出版社の元社長に代表になって貰い、私が副代表、彼が事務局長になって、NPO法人を立ち上げたのです。取り敢えず第一弾の出版ということで、ネット上にブログとして書き溜めていた私の「読書録」を出すことにしました。タイトルは『60の知恵習い』。〝60歳の手習い〟をもじったのです。数多ある読書録から60ほどを選び出し、幾つかのジャンルに分けてみたのです。我ながらよく出来ていると思うのですが、残念ながら殆ど売れていません。そのうち爆発的に、と皮算用していますが、どうなることやら。

同年齢の学友たちとの対談を企画

次に私が考えたのは、小、中、高、大学の友人たちとの対話本です。そこそこ有名な人物がいることから着想しました。小学校の時の仲間からは、三野哲治。住友ゴムの社長(当時)です。温厚篤実なリーダー。最前線の「経済」やら「会社組織」を語り合うのに格好の相手です。中学校の友人からは、志村 勝之。元東京モード学園のトップ、退職後は臨床心理士をしています。一橋大で南博教授から社会心理学を伝授された本格的カウンセラー。心を巡る全てを語り合うのが狙いです。

高校の同期からは、紅一点。笑医塾塾長として健康のための笑いを振りまく女医・高柳和江。加えて神戸の猛烈医師・飯村六十四。「スポーツと健康」やら「アンチエイジング」に取り組む好漢です。鼎談にしました。大学仲間からは、慶大名誉教授の小此木 政夫。ご存知、朝鮮半島の専門家です。研究の狭間のとっておきのこぼれ話を聞き出しました。もう一人は、元日本航空の幹部だった梶明彦。天国から地獄を経験したともいえるJALで苦労した彼に、世界から日本を見る眼差しを学ぼうとの狙いです。

一人づつ呼び出して対談をすることにしました。一番苦労したのが、最も親しい関係にある志村。殆ど学者同然の博学。この分野に疎い私は毎回個人教師からレッスンを受けるようなものでした。姫路駅前のレストランや茶店を中心に5〜6回ほど対話を進め、私がまとめたものに彼が手を入れる作業を繰り返したのです。

●幻に終わった、紙の本『現代古希ン若衆』

この電子書籍による対談集は、1月から順次収録し、「とことん対談シリーズ」と銘打って5本を連発で発刊していきました。値段は一冊180円です。タイトルは、それぞれ凝りに凝りました。小此木とのものは『隣の芝生はなぜ青く見えないかー朝鮮半島研究50年の先達に謎解きを迫る』。梶とのものは、『君は日本をわかっていないー世界中を飛び回った男が全ての日本人に捧げる』。高柳、飯村との鼎談は、『笑いが命を洗いますー2人の名医が健康の秘伝を明かす』。志村との対談は『この世は全て心理戦ーカリスマ臨床心理士が勝つ極意を伝授』。三野とのものは、『運は天から招くものー大企業トップと人生、社会、政治を語る』としました。

実はこの一連の対談は、電子書籍にしたあと、紙の本にするつもりで、タイトルまで決めていたのです。『現代古希ン若衆』。「古今和歌集」や「新古今和歌集」を意識しました。ちょうど数えで70歳、古希を迎える私たちですが、その意気たるや、若衆と変わらぬとの思いを込めるつもりでした。それぞれ、多くの仲間、支援者、ファンを持つ連中だから、結構売れると、踏んでもいました。

ところが、思わぬところから横槍が入ったのです。その主はたった一人の女性。「赤松さんたちと鼎談すると、歳がばれるじゃない。私って、20歳代で通しているのよ(確かに、彼女は講演時にそう言っています。遠目には50代くらいには見えなくもないが、20代とは絶句)。古希だなんて、そんなの嫌だ。」こう言うのです。「ん?電子本で既にバレてるよ」「電子本ってみんな見ないでしょ」ーうーん。こりゃあだめだ、と思ったしだい。女性はホントどこまでも強い。(2021-3-7 文中敬称略)

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