【113】がんと共に生きる━━外科医から転身した小説家の講演から/9-7

 「副作用のないがん治療」をテーマに9月4日から二日間、日本ハイパーサーミア学会第43回大会が大阪大学中之島センターで開かれました。かねてがんの放射線治療に私は興味を持っており、姫路市の最北部・安富町にある坑道ラドン浴「富栖の里」にも少し関わって(放射線の電子本も書いてます)きました。さらにハイパーサーミアとの併用でがん治療を推進させることも勉強せねばと、両日とも参加してきました。

⚫︎がんを取り巻く話題あれこれ

 胃がんで苦しみながら、夫(私の父)の献身的看護に助けられつつ、60歳前に母は亡くなりました。ほぼ50年ほど前のことです。闘病中の母を抱き上げた時の軽かったことやら、治療の苦しさに耐え難く苦痛を訴えていたこと、父があらゆる民間療法を求めて走り回っていたり、病室にふとんを持ち込んで看病していたことなど切ない思い出が一杯あります。まさに「がんは親の仇にござる」なのです。

 昔に比べて胃がんは少なくなったようですが、がんそのものは相変わらず死因の上位を占め、闘病記やら治療法などメディアを賑わせています。つい先ごろ脳医学者の養老孟司氏が「私の往生際」というタイトルでテレビに出(7-6)たり、(テレビで見るほど私は弱っていない)との後日談がラジオで放送(8-8)されたりしました。『文藝春秋』9月号では養老氏の「88歳の僕ががんに教えられたこと」という手記が出る一方、国立がんセンターの垣添忠生名誉総長と放射線治療の専門家・中川恵一氏との「死ぬならがんがいい」という対談も出ています。そんな状況下で開かれた今回の大会ですが、ここではハイパーサーミアの副作用についての相反する報告と、外科医出身の小説家・久坂部羊氏の「末期がん患者の死に方」という興味深々の講演の2つを聴いての私の受け止め方をお伝えします。

⚫︎ハイパーサーミアの「副作用」はあるのかないのか

 ハイパーサーミアとは「高温熱治療」のこと。50年近く前から普及しているのですが、まだまだ一般的には知られてはいません。全国からこの分野の専門医や器財を取り扱う産業界関係者が多数参加していました。同じテーマを扱った2日間のランチョンセミナーを聴いたのですが、初日の担当医師は「ハイパーサーミアは決して副作用のない楽な治療ではない」といった総括をされました。スライドの「楽な治療ではない」との部分をわざわざ二重線で消されていました。

 一方、2日目の担当講師は「ハイパーサーミアの安全性は高い」との患者の声が大きいことを紹介、副作用のないことが強調されました。初日のセミナーを聴いた結果、ハイパーサーミアって、治療を受ける時の身体の姿勢が前屈みのために苦しくて途中で止めたくなるケースが多く、とても楽じゃないということで副作用ありとするのだと私は理解していました。だがところが2日目は違っており、どっちなんやと、しっくりきませんでした。

 よく考えると、前者は「副作用」よりも「検査の仕方」が楽か苦痛かとのアンケート結果に基づくもの、後者は「高温熱治療」による副作用のあるなしでした。異次元の課題を、同じ「副作用の有無」との次元で語られると、聞く方は混乱してしまいます。この辺りの捉え方の基準が統一されるべきだと思ったしだいです。最高責任者の中村仁信大阪大名誉教授(大会長)に伝えましたところ、そうですねぇと、問題の所在を分かっていただきました。

⚫︎AIの時代の医療者の役割と患者の対応━━久坂部羊さんの講演から

    医師から小説家に転身した久坂部羊氏(写真中央、左は中村仁信大会長)のお話はとても深みのあるものでした。転身のきっかけは、末期がんの患者と接触する外科医としての苦しさだったといいます。最新著作『あなたの命綱』という本を手にされつつAI時代の医療者と患者のあり方を50分間見事に語ってくれました。以下私の理解した「久坂部発言」の要旨をまとめてみます。勘違いあるやも。詳しく知りたい向きは本をどうぞ。

 今や患者が自らチャットGPTなどAIを駆使して自身の病気の治し方の指南を受けることが常態化してきているようです。それでなくても普通の患者はがんを治せない医者を認めません。治すと言わない医者を信用しないのです。AIは本来ユーザーをおだて寄り添うもので、基本的に厳しい見立てとは無縁です。そういう存在は患者のためになりません。患者はどう生きるかを考えずに、死にたくないと考えるあまりに却って命を縮めてしまう傾向が強いのです。治るか、死ぬかの二択ではなく負けないことが大事です。

 医師は、そういう患者の方向性をわかった上で人間的繋がりをどう作るかが重要です。人間の生命時間の医療的見立てと現実とは違うことを理解して貰い、目の前にある日々をどう価値ある生き方をしていくかを語るべきでしょう。敢えて言えば山本周五郎描くところの「赤ひげ」のような医師でしょうか。

 いま死ぬならがんだと言われていますが私もそう思います。「ポックリ死」はどれだけ死に至る発作が苦しいものかが語られていないし、「老衰」もその瞬間までの10年ほどの寝たきりや床ずれなどがどれだけ辛く耐え難いものかが忘れられがちです。がんは死ぬまでに残された日々を準備に充てることが出来る素晴らしさがあるのです。

 勤務医を辞めて外務省の海外大使館付きの医師になりましたが、最初の赴任地サウジアラビアの医師との間で、がんの末期患者との対応の辛さで共感しあいました。ただ彼から自分たちにはアッラーの神の存在があると聞いた時には目の前が大きく開けた感がしました。

⚫︎医師から小説家に転身した人たち

 聴き終えて、久坂部さんと話す機会がありました。見事に跳ね上がった口ひげを見ながら、「外科医の現場から離れてしまわれて、後悔はありませんか」と訊きました。「忙しさの中で格闘し続ける仲間たちに負担をかけて申し訳ないとは思います」との応えでした。とても誠実な方だと思いました。

 『チームバチスタの栄光』(海堂尊)や、『三たびの海峡』(帚木蓬生)に熱中した頃を思い出しました。2人とも医師で小説家です。海堂さんとは、「ヤマトタケルからペンネームを考えたのではないですか」と訊いたこと、帚木さんには中国大陸で憲兵をしていたという親父さんのその後を手紙で尋ねるなどやり取りをしたものです。

 ふと、医師から政治家に転身したあと、再び医療現場に戻った福島豊氏を始め何人かの再転身組を思い出しました。(一部修正 2026-9-7)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【112】合流諦めるのは早過ぎる━━立民、中道、公明の行く道《架空鼎談》/8-31

 案の定と言うべきか、意外とも言うべきか。立憲民主党(立民)、中道改革連合(中道)、公明党(公明)の3党の早期合流が困難になり、実質的に分裂状態になった。この問題をどう捉えるべきか。例によって、家族3人(父、母、息子)の架空鼎談をすることで、背景と展望を探ってみた。

⚫︎中道結成の原点回帰の大事さ

息子)僕の友人に立民好きがいる。彼に言わせると、公明って地域政党として凄いパワーを感じるけど、国政ではイマイチだって。親父の若い頃の公明ってもっと生き生きしてたんじゃあないの?やっぱ、与党化したせいかなあ?

母親)うーん。でも、なんだか公明と逆に、立民って国政じゃあ頼りがいあるような感じがするけど、地方議会じゃああんまり存在感ないわね。中道合流に反対が強いって、今更何って、いう気がするわ。

父親)おいおい。2人ともそう決めつけるなよ。日本の政治を考えた時に、自民が強過ぎる状態を変えるために、野党強化という方向に、公明は舵を切り換えたのが中道の出発点だった。戦いは始まったばっかり。焦ることないよ。

息)いや決められない三党がダメっていうんじゃなくて、衆参両院で公明、旧公明はもっと活躍して欲しいって思ってるだけ。親父さんの方こそ、公明に見切りつけるのが早過ぎて、「中道結成」に賛成してたんじゃないの?

父)加減のバランスはともあれ、自民を揺さぶるチャンスを見逃さずに早く手を打つべしと思ったことは間違いないね。古い自民を変えるには、立民と組んで大きなかたまりを作るしかない。数合わせではなく〝理念への忠誠度〟━━つまり立憲は、しっかりした政治理念を持つ、頼れる存在だと思ったんだよ。

母)中道に合流するかどうかは、立民だけじゃなくて、公明にとっても大変。結党から60年もの歴史を持つ党から、違う歴史を持つ党と組むなんて、簡単なことじゃないわよ。だからやるならやる、やらないならやらんと早く決めなきゃあー。何だか外から見てると、立民ってこれまでも党内でゴタゴタばかりしてた印象強いわ。

⚫︎日本政治の真の安定化のために

息)確かにそうかも。立民の方が地方中心に難しいと言うことなら、時間かけて議論するしかないよね。今年初めの衆院選は残念な結果だったけど、僕の仲間はやっぱり反自民の対抗軸の中心は立民しかないという連中が多いよ。

父)兵庫県ではそのむかし、連合5党協議会といって、労組の「連合」を軸に反自民の組織体を作ろうとしたことがある。今度の中道も似て非なるもんだよね。他の県ではないケースだったけど、やった価値はあったね。僕は兵庫の強さの原因の一つだと確信してる。今の立民代表も兵庫出身だからね。中々まとめるのは難しいんだろうなあ。

母)あの時は維新なんか存在しなかったよね。大阪の自民が分裂して維新は出来たって認識だけど、維新と自民はうまくやっていけるのかしら。維新は早晩雲散霧消するって言ってた人もいるけど、結構強いわよね。

息)親父さんは、維新に一度政権につかせるといいって言ってたけど、それってどういう狙いからだったの?

父)公明が自民と組んで20数年も経ったことで、右の勢力の不満が溜まってたよね。公明のストッパーが利き過ぎたって嘆く人も少なくなかった。それを吐き出させ、日本政治の硬直化を一度柔軟にする必要性を感じたからだよ。

母)柔軟にするって、政府の右傾化を促進させるだけじゃないの。議員定数削減は何とか止めたけど、副首都構想はゴリ押しで成立させてしまった。これで閣内に入ると、もっとやりたいことガンガンやりまくるんじゃあないの。

父)一見そう思われるけど、政治的実験としての維新与党化は、マイナスばかりじゃないよ。左右に振れつつ、あるべき姿に落ち着いていくってことは大きな意味で政治の安定化に繋がるって思う。公明が頑張っても中途半端だったから。今度は右バネを利かせて、自民党の本音部分が全開するのも悪くないかも。政治って決断が大事だから。

息)それって、公明が自民と組んできた20年余りが保守層にそれなりの理解をもたらしたから、今度はリベラル層にも同じように分からせようって、公明が立民に接近したことと相通じる側面もある考え方だねえ。そこは大事な点だから、中道は成功させたかったんだけどなあ。7ヶ月で頓挫して、もう中道止めるってダメだよ!だらしない。

父)結局は国民が政治のダイナミズムを理解していくことが国家としての総合力の強化に繋がっていくと、僕は思うんだよ。だから、一挙にすすっと行かなくても、当初の中道の旗の下に集まろうって動きは続けて欲しいね。

⚫︎中道の決意を世間に示すチャンス逃すな

母)それって、分かったようで分からないわ。要するに公明と中道はどうなるの?来年の地方統一選挙はどうするの?以前に、お父さんは、公明はもう公明の看板はやめて中道系無所属でいくべしって言ってたけど。

息)あれは親父の独創だよね。いや独走的で、先走り過ぎてとてもついていけないって思ったよ。

父)残念ながら、確かに誰も賛同してくれなかったね(笑)。だけど、中道っていう政治理念の重要性を一気に世の中に広めるチャンスだと思ったんだよね。公明って政党名は中立性があっていいけど、役割は終わったともいえる。60年の区切りをつけて、政治的スタンスを改めて鮮明にするには公明を一旦、中道系無所属にするといい。

母)だけど、来年の選挙に今から公明やめて日本全国中道に衣替えしますって言うのは難しくない?
息)いや、そうでもないかもしれないね。公明=中道っていうのは定着しているから、もう一気に行ってもいいかもしれない。決意を披瀝する意味では。だけど、もう賽は投げられ、ルビコンの橋は渡ってしまったんじゃぁ?

父)ここで三党が合流を辞めてしまうと、挫折感のみ漂うとも言えるからね。でも同時に、中道と立民の一体化に向けての意思調整━━つまり、政策だけでなく、国家観から始まってあらゆる面での方向性を詰めていく作業もしっかりやらないうちに店仕舞いするっていうのはどうにも残念だね。堪え性がなさ過ぎるよ。頑張って欲しいな。

母)それには、国際刑事裁判所(ICC)所長の赤根智子さんの応援をみんなでしなくちゃあ。彼女みたいな正義感溢れる人を放置したら日本の恥だわ。皇室典範問題では三党意見一致しなかったけど、この問題では一致して欲しいね。

息)おっ、母さんもそうなんだ。俺もおんなじ。

父)そこは三人意見一致だね〜。(笑) (以上8月31日午後4時現在)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【111】日本が「平和」を生きた81年━━いま「湯川秀樹」から学ぶ/8-25

 日本が世界唯一の被爆国になって81年。とにもかくにも「戦争をしない平和な国」だった。だがいまあらためてそれが問われている。先日、NHKテレビ『昭和の選択』(8月19日)で、「湯川秀樹」(自画像 写真下)を取り上げた番組を観た。日本人として初のノーベル賞を受賞(1949年)した湯川の研究対象は「核力の中間子論」であり、戦時中に日本の原爆研究にも参加していたことで知られる。その彼の行動の足跡は日本の「戦争と平和」にとって極めて示唆に富む。湯川逝きて45年。その主張を再考することは色々あっても意義深いことだと確信したい。

⚫︎50年代から60年代への「核廃絶」の胎動

 この日は、ホスト役の磯田道史(歴史家)と、山崎正勝(物理学者)、いとうせいこう(マルチクリエイター)の3人による鼎談。最後に磯田が、1960年代に世界に影響力を持ったのが「知の世界」で湯川秀樹やアインシュタインだとしたら、「情(愛)の世界」ではビートルズだったとまとめた。妙に印象に残った。1966年に英国からハッピ姿で4人が羽田に降り立ったとき、僕は大学2年・21歳だった。当時「物理学」とも「愛」にも無縁だった。「法華経」を受容するのに懸命で、奇妙な青春の只中にいた。だが「世界はひとつ」という命題だけは体内にしっかり根を下ろそうとしていた。

 広島と長崎に原爆が投下され、漸く目が醒めたかのように日本は戦争終結に踏み切った。以来、原爆を作り出した側の当事者としての物理学者たちは懸命に核廃絶に向けて音頭を取ろうとした。一つの象徴的出来事が、1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」だった。前年に太平洋上のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験によって、第五福竜丸の乗組員らが被爆死したことがきっかけだった。

 これは著名な科学者ら11人が核の脅威に警鐘を鳴らしたものだが、湯川もそこに名を連ねていた。創価学会の戸田城聖・第二代会長が1957年9月8日に「原水爆禁止宣言」をし、一大民衆運動としての「核廃絶」の闘いを本格化させていったことも忘れられてはならない。明年で70年が経つ。世界192カ国で「世界はひとつ」を目指すSGIの試みが続いている。一見無関係のように見えるが「1945年の悲劇」を断固再発させないとの決意において共通する。

⚫︎静かなる湯川の激昂

 19日の番組での「選択」は、政府機関の原子力委員会への委員就任を受諾するか、拒否するかだった。要請してきたのは衆院議員で読売新聞社主の同委委員長・正力松太郎。司会からの問いかけに、お飾りに使われるだけだからと、拒否を選んだ磯田以外の2人は共に、委員になって政治と闘うとの選択をした。僕も同じだった。現実は科学者の立場からのコントロールを湯川は選んだのだった。彼は恐らく相当に悩んだ末の決断だったはずである。

 しかし、正力は初会合(1956-1-4)のその日に記者団に、第一号の原発を早急に導入に着手する旨の談話を発表してしまい、翌日の新聞に掲載された。①情報の公開②自主的研究③民主的運営の「原子力3原則」を無視し外国からの購入優先を露骨に狙った既定路線である。流石の湯川も激昂したが、後の祭り。結局、翌年3月に胃腸障害を理由に辞任する。歴史的事実を後でわざわざ問い直して、選択させるこの番組だが、もうひと工夫する必要ありと思う。

 原発だけでなく、科学者と政治家の確執がその後どう展開してきたか。学術会議のメンバーをめぐって熾烈な駆け引き、せめぎ合いが今も続いていることは周知の通り。

⚫︎「世界政府」への夢と希望

 1975年(昭和50年)9月に京都で開かれたパグウオッシュ・シンポジウムで湯川は核抑止論に基づく政策を取れば、結局は超大国の核武装が無限に続く危険性を訴えた。番組では京都大学に保存された湯川のこの時の草稿に、World Government(世界政府)と鉛筆で書き込んだものが写された。この構想こそ世界の国々が互いに独立を保ちながら同時に地球規模の問題を取り扱う、アインシュタインが唱え、湯川が引き継いだ「理想」だった。人類の見果てぬ夢だ。番組でも今の若者に受け継いでいく大事さが強調されていたけど、心底から共感するほかない。

 この場面で映像に登場したのは小沼通ニ慶應大名誉教授である。湯川記念館の資料室員を務める彼が資料を探しながら「あらゆる意見は少数意見から始まる。誰かの発想が共有され機会があるとそれが多数意見に変わっていく」との湯川が生涯持っていた信念だったことを明かす一方「なんでこんな簡単なことがみんなわからないんだろう。必ず核兵器もなくせるし、戦争も無くさなきゃならない」との湯川の言葉を述べていた。強く印象に残った。

 小沼通ニの『湯川秀樹の戦争と平和 ノーベル賞科学者が遺した希望』(岩波ブックレットNo.1029)は僅か86頁の小冊子だが、人間・湯川秀樹を余すことなく伝えていて面白い。中でも、中折れ帽を被ってコートを着たままバットを振っている写真(左下)に目が止まる。「たまたま通りかかったのだろうか。ヒットを打って一塁まで走ったのは良かったが、なんとアキレス腱が切れてしまったという落ちがつく」とある。卓球(写真左上)も水泳もやるスポーツマンだったとのくだりや、よく似た自画像には笑ってしまった。さらには映画「シェーン」の主題歌「遥かなる山の呼び声」を歌うのが好きだったと知った。

 テレビの中で、湯川スミ夫人が突然出てきた。「アインシュタインが自分が研究したことが原爆になって、罪なき日本人を殺すことになり申し訳ないと、2人の手を握って、ボロボロと涙流して泣かはった」と、明るい関西弁で喋る場面だが、チグハグな感じがしたものの、この人ありて湯川秀樹あり、と腑に落ちた。(敬称略 2026-8-25)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【110】「武士道」から「人道」へ、「死」より「生」を━━価値観の転換の大事さ/8-20

 

 この夏も「戦後81年」をめぐる様々な企画がメディア上で賑わっている。そのうちテレビの映像を通じて僕が観入ったものは数多い。なかでもNHK『映像の世紀』〜8K映像で描く第二次世界大戦〜は4回にわたって、日独両国と米ソ仏英など連合国との戦いを交互に対比しつつ追ったもので、毎回息をのみつつ観てしまった。最終回の『地獄』はタイトル通りの凄まじいまでの切ない映像の連続であった。とりわけレイテ沖海戦での過酷さは「我々から文明の仮面を剥ぎ取り全員を野蛮人に変えた」と米海兵隊員が回想していたように、人間同士の争いとはいえぬ酷いものだった。今年も例年の決まりのごとく、あれこれと専らNHKTVを(ビデオに収録し)観まくった。戦争への嫌悪感を改めて強く感じた人は少なくなかったに違いない◆このうち「こころの時代」の『われ過(あやま)てり 生きろ』は異色の内容を持ったもので、ある種の救いを感じた。劇作家で精神科医の胡桃澤伸さんのひとり芝居「鴨居に朝を刻む」で始まる映像だったが、戦争の被害と加害をどう受け継ぎ、どう伝えるのかというテーマを、皆んなで一緒に考えようとする意欲的な中身だった。伸さんの祖父・盛氏が村長をしていた長野県の河野村から満州開拓に73人が出向き分村を作る。だが、戦争終結と共に、現地住民の攻撃を受ける事態になり、「集団自決」という選択を取った。やがてその事実を知った村長は自分が皆を追い込んだことに自責の念に駆られ、一年後に自宅の鴨居で首を吊り自殺をしてしまう◆そのことをずっと知らされず気付かずに生きてきた孫の伸さんがその足跡を知ってから動く。その経緯の中で精神科医で作家の中井久夫氏や詩人の金時鐘氏との出会いがあり、伸さんはこころのひだの深い人間に育つ影響を受けていく。この問題の本質は、戦前の日本政府が中国大陸奥深くにまで植民地を作ろうとした国策と、それに追従した地方自治体の長の後悔と責任感である。祖父の日誌をもとにその軌跡を探る中で、死なずに生きる選択もあったのではないかと葛藤する。「生きること」への真摯な姿勢が観るものの胸をうたずにおかなかった。「満蒙開拓」をめぐっては、昨今殆ど論じられることもないが、先年テレビで教え子から満州に渡るべきかどうかの相談を受けた結果、行ってこいと背中を押した、学校の教師が登場していた。その時の笑顔が妙に気になった。苦渋に満ちた顔をして欲しかったと思ったものだ◆また、同スペシャル『白い旗 水木しげると硫黄島』は、戦時に死なずに捕虜になることの意味を問うものだった。生きて囚われの身となることを恥とし、玉砕を選ぶことでいいのかの問題を突きつける内容だとも思えた。実はこのテーマは「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった戦国時代から江戸期日本に定着した考え方の延長線上にあり、旧日本帝国軍人の精神の骨格を形成するものとなった。この「死の美学」ともいうべき生命軽視の歪んだ向き合い方こそ、近代日本における異形な思想として根付いたものといえよう。特攻隊にせよ、沖縄での民間人の集団自決にせよ、余りにも生命を粗末にした場面を思うにつけても、「武士道」を説いた『葉隠』(山本常朝)の罪深さを思わざるを得ない。僕はむしろ「人道とは生き抜くことと見いだしたり」が大切だと痛感する。このフレーズをこれからの日本に定着させたいと心底から思う。(2026-8-20)

Leave a Comment

2026年8月19日 · 2:48 PM

【109】「8-15」の後も対日戦をやめなかった国はどこか?/8-15

 81年前の今日8月15日。日本は長い戦争を敗北してしまった。ほとんどの普通の国民はこれで戦争は終わったと思い込んだ。昭和天皇がポツダム宣言受け入れを国民にラジオを通じて表明(8-15 玉音放送)されたのを聞いたのだから、当然だろう。しかし、戦争(局地戦闘と呼ぶべきか)は終わらず、ある意味で15日を境に、いやまして残酷なものに変わって続いた。それは別の意図を持った国による新たな戦争の継続だった。日本史を伝えるものの本には「その後も南樺太や満州ではソ連軍の侵攻が続き、犠牲者が出た。そして、9月2日の降伏文書調印により、戦争は終結した」とある。8-15に至る土壇場の経緯については旧ソ連は8-9の対日参戦から、遅ればせながら取れるものは根こそぎ頂こうと思ったのか。これを人は「火事場泥棒」と呼ぶのだろうが、「日露戦争の意趣返し」とでもいいたくなる◆「南樺太や満州でのソ連軍の侵攻」との表現は、ソ連軍のみによる攻撃と思ってしまう。だが、ソ連参戦の翌日8-10にモンゴル人民共和国(旧モンゴル)は日本に宣戦布告しているのだ。具体的な動きは定かではないが、ソ連軍と旧モンゴル軍の連合軍が満州方面では常態だったと見られる。実はこの問題については、既に書評やイベント報告などで僕は幾度か取り上げてきた。ジャーナリストの井手裕彦氏の『モンゴル抑留』に詳しい。外務省、厚生労働省など日本政府には、その実態を知りながらも究極のところは曖昧にしてきたと言わざるを得ない経緯がある。煎じ詰めれば、日本が旧モンゴルという存在を国家承認してこなかったことに原因があり、社会主義大国・ソ連のもとで第一号の衛星国になった旧モンゴルの影が極めて薄かったことが災いをした。今回井手氏の指摘があって初めて日本は旧モンゴルとも戦争をしたんだとの認識を持った人も少なくないだろう◆かくいう僕も井手氏の存在や主張を知ったのは最近になってからだが、著作を貪り読む中で多くの知識を得た。色々初めて知ったことばかりだが、最も印象的だったのは、山海関という旧満州の街で暮らしていた民間人(華北車輛社員)家族が「(領事館からの避難命令で父と)別れたのはソ連・モンゴル軍が侵攻してきた『運命の日』、1945年8月31日である」との記述(同書102頁)である。これは、井手氏が2019年11月に初めて会った民間人の死亡者の遺族(当時84歳の娘さん)から聴いた話の一部だという。ソ連・モンゴル軍が満州に侵攻してきたのが、終戦から16日も経っていたことにも驚いたが、民間人家族(母親と子供5人)が「無差別に拉致された」父親と最後の別れをした時と、その後の一部始終や民間人死亡者の遺族の心の底からの国への恨みの言葉など、いずれも強い共感を覚えずにはおかなかった◆日本がモンゴル人民共和国を国家として承認したのは1972年2月19日。事実上は1961年に国連に同国が加盟した時に関係は動き出したといえようが、日本と彼の国は疎遠な関係が続いた。全てはソ連経由だったと見られる。「抑留」についても、旧ソ連と旧モンゴルの間では、日本人の捕虜を分け合うとの「密約」があり、それに応じて全てが決められた。また、日本とモンゴル人民共和国との間には1939年に起きた「ハルハ河戦争(いわゆるノモンハン事件)」の後遺症的遺恨が双方に強く残り、わだかまりがあり続けた。モンゴル人民共和国は、1924年にソ連傘下の国として誕生していらい、「ソ連崩壊」を受けて「モンゴル国」と衣替え(1992年)、民主化したものの強固な露蒙関係に変わりはない。こうした背景もあって、日本は70年近くというもの、旧モンゴルを基本的には無視する傾向が強かったと言って過言ではない◆ようやく両国の関係に光が差し始めたのは1991年8月の海部俊樹首相の初訪問以来といわれ、未だ30年余に過ぎないのだ。しかも経済的関係重視の中での〝歪んだ歩み〟である。「抑留」にまつわる問題処理も遅れ続け、まっとうな外交関係樹立も棚上げ、後回しだったことは想像に難くない。「友好第一」はそれなりに効果をあげてはいるものの、基本はやはりご都合主義というべきだろう。先日の大阪でのイベント(『モンゴル抑留』出版記念講演会)の場で、井手裕彦氏から突きつけられた日本の対応改善について、僕の方から善処を約束したように、全てはこれからだというほかない。つまり、隠されていた「戦後処理」が新たに顕在化しただけかもしれないのだ。(2026-8-15)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【108】80年経った被爆地の変貌明かす━━飯田政之『広島を伝える』を読み込む/8-10

 「非核三原則」なるものをあなたは知っていますよね。では、「新非核三原則」は?「持たず」「作らず」「持ち込ませず」━━今の三原則に代わって「持たせず」「作らせず」「使わせず」(核実験も含め)という新たな原則を打ち立てるべきだと公明党が世に問うたのは1998年。これは被爆国が掲げる原則にしては現行の三原則があまりにも当たり前過ぎる、むしろ核保有国をもっと縛る原則に変えるべきではないのかと、当時公明党の外交安保部会長だった僕が着想し、提案したものだった。あれから28年。高市早苗首相周辺から核保有の動きがほのうかがえ、首相自身も原則を堅持していると現状を表明するだけで、近未来の有り様については触れようとしない。つまり核は持たないと明言しない。僕が新原則を表明した際に、産経新聞だけが注目し、インタビューを受けた。核保有の選択肢を閉ざすべきでないとの主張を持つメデイアとしては公明党の理想主義的頑なさが気になったのだろう。だが今日の状況を見ると、公明党の先見性が伺えるといえないか。28年前に殆ど注目されなかった「持たず」の三原則を、「持たせず」の原則と強化すべきだとの新三原則への転換。歴史の流れに幻と消えたかに見えるのは、少し考え過ぎたからなのかも知れない◆今年の広島への原爆投下から81年となる「平和記念式典」をテレビで見たあと、5月に贈って戴いていた飯田政之『広島を伝える』を改めて読み直した。飯田氏は読売新聞時代に公明党番記者として活躍。僕とは党広報局長時代に付き合った仲だが、今も時々会う親しい友人だ。この本はサブタイトルに「メディア人として思うこと」とあるように、「伝える」をキーワードに①音楽②文化③ファクト④被曝の記憶⑤ローカルテレビの現在地という5つのテーマをもとに事細かに描いている。④については、「継承と表現」、「闘う被爆者と国際政治」の2つに章立てを分けており、5テーマ6章の構成になっている。ふんだんに写真、コラムが使われており、情報量がめちゃ多い。これじゃあ字が小さくて読み辛いよと、つい先日会った際にこぼしてしまった。「広島」を考える上での基礎資料が見事に提供されている。我が大学同期の60年来の畏友・福島和宏(元広島市議)も「自分の現役時代に取り組んだことも盛り込まれており、自分ごとのように読めた」と褒める◆この本の中で僕が注目したのは「被曝の記憶」をどう伝えるかに分類された2つの章だ。第4章では、ピアノ、折り鶴、原爆ドーム、歌、絵、漫画、ドキュメンタリーという7つの「継承と表現のかたち」が読むものを惹きつけた。第5章は、一転、被爆者と国際政治の動きを追う。国会の場で外交や安全保障に長く関わってきた僕としては、「埋まらない理想と現実の溝」に大きな溜息をつくしかない。僕がこの本を読み進めていく上で惹きつけられたのは、30個のコラムである。ここには彼のこれまでの人生の思い出が散りばめられており、自伝をアルバム付きで読むような趣があり実に楽しい。例えば④では東大駒場キャンパスでの音楽部の公開練習で偶々聴いたブラームスの交響曲第一番が自身の人生を変えた話が出てくるし、⑩では中学・高校生時代以来遠ざかっていた剣道に50歳過ぎてから取材先の縁で再び挑戦し、今や7段に挑戦しようという姿が描かれている。新聞記者をしながらバイオリンと竹刀を離さなかった〝音武両道〟の使い手の心象風景が分かって実に面白かった。加えて、言葉の重みについて広島カープの新井貴浩監督の「は」と「が」についての使い分けのエピソードや、日本テレビの藤井貴彦元キャスターの「言葉の筋トレ」での、毎日続ける5行日記の修練なども紹介され、とっても興味深い◆コラムを読み進めるうちに、同じ「被団協」のことを扱っているものが2つあるのに気がついた。No24の見出しは「広島の被団協は一つになれないのか」。No27の方は「世界がヒバクシャに向き合った理由━━被団協へのノーベル平和賞」。この組織体が一つになれない理由は、左翼勢力の党派的争いという古い日本政治の宿痾を反映したものである。僕もかねて広島のこの組織だけでも一つになればいいのにと思い続けてきた。そんなことを乗り越えて2年前にノーベル平和賞を被団協が受賞し得たのは、「『過去の記憶』を伝えるだけではなく、国際社会に挑み続ける営み(覚悟)」が原動力だったに違いない。組織ではなくヒバクシャそのものに世界中が向き合ったことを意味する。見出しのカタカナ表現の使い分けがニクイ。この受賞をきっかけに統合が実現していたら日本のリベラルも少しは見直されたかもしれない。2つのコラムを読み比べつつ、文章まで一本化できないものかと、つい余計なことを考え過ぎてしまった。(一部修正 2026-8-10)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【107】こぼれ話あれこれ━━井手裕彦『モンゴル抑留』出版記念講演会から(下)/8-5

1日の出版記念講演会での僕の持ち時間は20分。話せなかったこと、喋っても上下2回に挿入できなかったことなどが少々あります。これらを「こぼれ話」としてまとめる一方、最後に井手裕彦さんがモンゴル抑留による「死亡記録配達人」として僕の住む西明石の隣町をほぼ一日かけて遺族関係者宅を探し歩かれた部分を、番外版として報告します。

⚫︎源義経伝説と大相撲の話題

モンゴルといえば、僕らの世代で関心が高いのはなんと言っても、「蒙古襲来」です。とりわけ日蓮仏法を信奉してきた僕にとって、文永、弘安と2度にわたる蒙古の攻撃に対応された日蓮大聖人のことは忘れられません。ですが、個人的には、「ジンギスカン(成吉思汗)は義経なり」との伝説です。井手さんの本の60頁に出てきます。

「余談だが、シーボルトが唱えて以来、日本では隠れた人気がある「源義経=チンギス・ハーン説のことを話題にすると、モンゴルの人たちはこう言って顔をしかめた。『日本人はそんな荒唐無稽なことを信じているのですか』」というものです。僕なんかは作家の高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』っていう本に取り憑かれました。義経が兄頼朝に追われて陸奥から北海道を経て大陸に渡って云々という伝説らしき話の果てにチンギスハーン(成吉思汗)になって活躍したなどという物語は、血湧き肉躍るものとして今も厳然と我が胸に宿っているのです。

さらに、モンゴル人で僕が最も付き合った人がひとりだけいます。大相撲で横綱になった鶴竜関です。彼とは僕の地元・姫路の建設会社の社長とのご縁で、毎年春場所で大阪にやって来るたびに、後援会員の皆さんと一緒にひと夜姫路での懇親会に招かれました。同じテーブルを囲んだ仲であれこれ話かけましたが、殆ど話は続かない寡黙なひとでしたが、クレバーな男の印象はありました。今は大関霧島の所属する音羽山部屋の親方として活躍中です。

⚫︎『77年の興亡』と石破茂前首相

僕は明治維新以来の日本の160年ほどの歴史を顧みる時に「77年の興亡」との視点が重要であると思い、同名の著作にも書いてきました。今回の講演会を主催した一般社団法人『未来を創る新教育推進会』は、個人的にはリカレント教育、社会全体的には歴史の学び直しを目指すものと位置付けられます。井手さんは、日本の歴史におけるモンゴルという国との関係見直しと教科書の書き直しを政府に求めていますが、そういう重要なものを取り上げさせていただくことはとても誇らしいことです。

明治維新の年(1868年)から日本の敗戦(1945年)までの77年間が第1期。1945年から「デジタル敗戦」ともいえる2022年頃までの77年間を第2期として、只今現在は2099年までの第3期に入っているとの歴史の捉え方ができます。今日の井手さんの指摘はこれからの第3期で取り組まれるべき重要なテーマです。問題は第1期のゴールである敗戦に伴う「戦後処理」が未完だという点です。第2期はそれを置き去りにしたまま経済成長一本で奔走してきたものの、後半は「失われた時代」の烙印が押されざるを得ません。第1期の決着さえつけられない中、今再びの敗戦に見舞われているということです。それをどうするか。井手さんの問題提起を突破口に事態を打開するしかないと申し上げて、今日のご挨拶とさせていただきます。

なお、蛇足ですが、私はこの団体のトップに長年の友人である石破茂前首相を招きたいと考えました。リカレント教育という歴史と個人の学び直しに相応しい人物だと思ったからです。ところが僕の依頼に「ん?僕はまだ現役なんだよ」とおっしゃって、あっさり断られました。近い将来の「首相再登板」を狙っておられるのでしょう。なら、尚更学び直しが重要なはずですが、残念でした。

🔳番外編━━西明石に「死亡記録配達人」として登場

大阪でのイベントの翌2日井手さんは岡山へ、モンゴル抑留で亡くなった人のお墓参りに行ったあと、3日には、私の住む西明石の隣り町である大久保町や小久保町にやってきました。明石に死亡記録を配達しに行く予定であることを漏れ聞いた僕はぜひ同行させて欲しいと申し出ました。

しかし、それは訪問先の相手を萎縮させることに繋がる恐れもあるので、辞退しますとのこと。より詳しく聞くと、今回の配達にはぜひ報道させて欲しいとの某TV局の取材依頼があり、その記者が同行する予定なので、赤松が行くと3人になるため、避けたいということでした。このため僕は彼が訪問先の地図をコピーするべく立ち寄る市立明石図書館に行き、手伝いを申し出る(写真上 後ろ姿はコピーする井手さんと記者さん)ことにしました。

最終的に同日夕刻、目的の遺族の方の大姪に当たる人に会えたとの嬉しい報告を聴き、拙宅にて休まれることを提案。午前11時過ぎから午後4時過ぎ頃まで5時間に及ぶ炎天下の労作業についての懇談はまことに尊いものではありました。(この項終わり 2026-8-5)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【106】日本政府の「怠慢」を暴く━━『モンゴル抑留』出版記念講演会から(中)/8-3

井手裕彦氏の『モンゴル抑留』の出版を記念する講演会を主催した一般社団法人『未来を創る新教育推進会』の理事(副会長)を務める僕は当日講評を行うと共に、同社団の目指す理念を紹介しました。前号に続き、その際の発言を基本に追加修正したものを含めて公開します。(写真上は井手さんを囲む参加者代表。下は77年の興亡とイメージ)

⚫︎友好第一でもなく軍国主義批判でもなく、日本政府の怠慢を突く

モンゴルについて書かれた本で次に有名なのは、半藤一利さんの『ノモンハンの夏』です。半藤さんといえば夏目漱石のお孫さんと結ばれた方ですが、その娘婿が僕の親しい友人である北村経夫元産経新聞政治部長(現在参議院議員)です。この人に頼みこんで僕は20数年前に半藤さんに会ったことが忘れられません。会うなり「貴方はくだらない本を随分読んでる人ですね〜」と呆れられたからです。

事前に『忙中本あり』という2年間に300冊ほど読んだ本の読書録をまとめたものを渡していました。そんなこと言われたものでムッとした私は「政治家を知るための資産公開がありますが、それより政治家はどんな本をどう読んだかを公開した方がいいんじゃないですか?」と切り返しました。「うん。それはいいかも」との答えにホッとしたものです。

それはともかく半藤さんはご自分の本で、それまで司馬さんさえ書かなかった「ノモンハン事件」(モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれています)について徹底的に詳しく書いていますが、やりきれないほど重苦しい本です。僕は先の司馬さんの本がモンゴルにとても優しいまなざしで貫かれた友好第一の本だとすると、半藤さんの本は、日本軍国主義の非道さを徹底的に暴き批判した本だと思っています。

これに対して、井手さんの本は、先の大戦後(1945-8-15以後)に起こったソ連とモンゴルの参戦、抑留という不幸極まりない出来事について、なぜどのような経緯で起こり、その実態を克明に明らかにしています。そして現実には、シベリア抑留とは全く違って、ソ連の影に隠れて殆ど起こっていないようにしかみえないモンゴルのケースについて日本政府の不手際を明らかにしているのです。こう見ると、3冊の中で、井手さんの本が最も優れていると言わざるを得ません。

⚫︎「77年の興亡」の第3期では「戦後処理」と個人の学び直しを

さて、今回井手さんの本を我々一般社団法人「未来を創る新教育推進会」はなぜ取り上げたのでしょうか?

それは、今までの個人、社会、国家における教育のあり様を見直す必要があるとの認識から出発している我々として、まず日本という国が他国との関係を誤った歴史として捉えている事を見直したいとの思いがあるからです。先ほど来申し上げていますように、モンゴルという国に抑留されたにも関わらず、どこでどう亡くなったのかも知られないまま死んでいった人々のことを身体を張って調査し、遺族にその経緯を報告をするとの難作業に取り組む井手さんの生き方にこそ、新聞記者からジャーナリストへの転身における個人の学び直しと歴史の見直し姿勢が詰まっていると存じます。

我々は明治維新以降三たびめの「77年のサイクル」の歴史の中に生きています。詳しくは私の書いた『77年の興亡』を元に作ったレジュメをご覧いただきたいのですが、これから始まる「第3期の77年」で、我々は社会として国として、国民あげて第2期で放置された「戦後処理」に取り組まねばなりません。でないと真の未来は開けないと確信するからです。と同時に個人の生き方として、リカレント教育に取り組み、学び直しをする必要があると思います。

その生きた見本として我々の一般社団法人のトップである相島淑美さんのこれまでの生き方を一つのモデルとしてご紹介します。この人は上智大英語学科を出て日経新聞に入社し記者になりました。ですが自分には今一つ合わないと思い、6年後に慶應義塾大学大学院文学研究科に入り直し、アメリカ建国時代から19世紀の文化、精神を研究し、英語力に磨きを掛け直し、卒業後は4年生の大学の講師になる一方、翻訳家として百冊を超える本を出版します。そしてまた6年後に、今度は関西学院大のMBAに入り直し、経営学博士号を取得されるのです。そして更に神戸学院大に准教授として転身。今は経営学部教授として、日米経営学比較とか、茶道に見るおもてなしの研究など多方面で活躍中です。私はこの人の中に学び直しの極意というか、真骨頂を見るのです。(以下つづく 2026-8-2)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【105】知られざる事実に唖然━━『モンゴル抑留』出版記念講演会から(上)/8-1

モンゴルにも日本人が捕虜となって抑留されていた━━この事実を知っている人は極めてまれです。ジャーナリストの井手裕彦さん(大阪読売新聞の元記者)が角川新書からこのたび出版された『モンゴル抑留』はこの事実を克明に追っています。私も読んだ上で、司馬遼太郎さんの『モンゴル紀行』と比較して、いかに鋭く日本とモンゴル両国に横たわる問題を描いているかについて読書録(6-25付け No.98)に書きました。昨日私の所属する一般社団法人「未来を創る新教育推進会(会長 相島淑美神戸学院大教授)が、井手さんを招いて講演会をやりました。ここでは私が述べた講評(事前にまとめたものを当日配布)を披露します。写真下は壇上での著者と私の2人です。

⚫︎厚労省、外務省への厳しい指摘に対応を約束

私は衆議院議員を20年ほど務めましたが、その間に外務委員会、安全保障委員会に長く席を置き、厚生労働副大臣を一年だけやらせていただきました。ですが、残念ながらモンゴルについては何ら関わりを持たずに過ごしました。今回、井手さんの本を読ませて頂いて、厚労省や外務省がいかにも無為無策であったことを知った次第です。

実はこの本で著者は厚労省には37箇所ほど、外務省には12箇所ほど厳しい批判の刃を向けています。厚生労働省の宮崎淳文現官房長は私の元秘書官を務めてくれていました。今回彼に意見を求めましたところ「井手様にはいつも貴重な情報を提供していただいており、深く感謝しています。しっかりと気を引き締めて今後取り組みを進めていきます」とのことでした。

外務省関連については、日本とモンゴルの関係における、ソ連の影に隠れてモンゴルは交戦国になっていない歴史的事実、モンゴル軍のことが触れられていない教科書などの見直しといった重要な問題提起に、強く私は賛同します。また、日本モンゴル友好議連の長島昭久会長(衆議院議員)にこの辺りについて伝えましたところ、必ずや外務省、文科省に井手様のご意志を伝えるとともに、共々に問題解決に向けて尽力させていただきますとのご意向を表明して頂いたこともお伝えいたします。

⚫︎モンゴルとの友好に満ちあふれた司馬遼太郎の本

私は実は書評を趣味にする政治家です。モンゴルをめぐっては、司馬遼太郎さんの『モンゴル紀行』と半藤一利さんの『ノモンハンの夏』の2冊が有名です。井手さんの本を読んだのちに、この2冊をあらためて読み直し、3冊を読み比べました。

まず司馬さんはご存知のように大阪外大のモンゴル語学科出身です。根っからのモンゴル大好き人間ぶりを余すことなく披瀝しまくっています。実は『モンゴル紀行』文庫版の163頁には東京外大のモンゴル語科出身の留学生の話が出てくるのですが、この富永君という人は僕が学生時代に付き合った懐かしい友です。司馬さんは「彼の笑顔に青春を感じた」と書いています。モンゴル好きの若い同好の士を見つけた率直な喜びが彷彿として伝わってきます。

日本人捕虜の手になる国立オペラ劇場のことも出てきて、「言い難い感情を持った」とか、「国家次元の問題よりも人情としてやりきれない思いを持たざるを得なかった」などといった言い回しが出てきますが、全体としてモンゴルという国へのほのぼのとした友好感情が溢れ出ている素晴らしい本です。私は司馬さんの本では「街道を行くシリーズ」が好きですが、『アイルランド紀行』と並んで『モンゴル紀行』が大好きです。(以下つづく 2026-8-1)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【104】「官邸がアホやから政治がでけへん」━━158日間の国会を概括する/7-26

⚫︎「党首討論会」での国民無視の虚しい風景

 誰しもが知る作り笑いの目立つ高市首相と、あまり皆が知らない苦悩の様子がありありの公明党の竹谷とし子代表。さる7月15日にテレビで観た「党首討論」での2人の女性リーダーの好対照な姿が印象に残った。全体で約1時間の中で終始わざとらしさが消えない笑顔で野党党首たちと応酬していた首相と、僅か4分間の持ち時間を「円安の影響で物価高にあえぐ家計支援を急げ」と厳しくぶつけたものの軽くいなされた竹谷氏。翌日の公明新聞の記事の「高市政権の見通し甘い 国民生活後回し 改めるべき」(時系列的には午前の中央幹事会での発言)との見出しがせめてもの慰めであった。首相就任後初めての長丁場の国会の最終盤で、睡眠時間がいかに少ないかを自ら言い出し、家事に取り組む自らのすがたを誇大に言いふらす━━こんな首相のパフォーマンスに苛立ちを覚えない方がどうかしていると思った人は多かろう。8日間の延長を含め158日間に及んだ特別国会を振り返って思うことは多い。

⚫︎監督のせいにしたプロ野球との類似性

 この通常国会、最初から異常だった。と、書きかけて、ん?おかしい、間違ったと気がついた。恥ずかしながら一瞬150日プラス1週間ほど続いたのは通常国会だと思いきや、それは一日で終わっていた。衆院選挙に突入して、その後に開かれた「特別国会」がやっと終わったのだ。召集日の1月23日に衆院解散がいきなり行われたのをつい忘れていた。僅か6か月ほど前のことが遠き昔に思われた。歳はとりたくないものである。

 ともあれ、異常続きの国会を作ったのは、異常な衆院選挙の結果だった。高市早苗自民党総裁が誕生し、通常国会招集日の〝電撃解散〟で自民党単独で3分の2を超える議席を奪った上での、自民党と維新による連立政権の誕生は過去の国会のいわゆる常識を壊し続けた。この辺りのことについては、25日付けの伊藤智永の毎日新聞コラム「土記」が痛烈だ。「何せ行政府の長が国会に出たがらない。議論を嫌い、一方的に話すか、ごまかす。議会の慣例を無視し『首相の命令や』でゴリ押ししようとする。批判には『私寝てないの』『家事も大変』『体が痛い』とSNSで愁訴する」と。

 僕は昭和44年に公明新聞政治部記者になっていらい、国会で歴代首相を見てきた。佐藤栄作さんから宮沢喜一さんまでは記者、衆議院議員候補者として。細川護煕さんから野田佳彦氏までは同僚議員として、そして安倍晋三首相が再登場して今に至るまでは一有権者として、ちょうど30人の総理を観てきたが、高市さんほど異常な人は初めてだ。なにしろ、自民党内部から、野球の監督を首相に例えて「間違ったサインを出す監督をいちいち気にしてたら試合にならない」との嘆き声が聞こえてきた。かつて「ベンチがアホやから、試合がでけへん」と皮肉った阪神のあの選手の迷言を思い出す。つい、ベンチと試合を置き換えてみたくなる。

⚫︎目に余った自維のゴリ押し

 この国会で目立ったのは、維新の横暴さである。自民・維新の連立合意に記載された法案のうち、衆議院議員定数削減法案と副首都法案は同党が強く成立を目指した。自民党は皇室典範改正案、国家情報会議設置法案、日本国旗損壊罪法案などに強くこだわった。さすがに与党だけで、少数政党に一方的に不利になる定数削減を通すことには無理があり、今国会では見送らざるを得なくなった。だがその分、維新の生命線とも言うべき副首都法案は最後の最後まで揉め続けた。土壇場では会期の再延長まで考えたようだが、無所属議員の一本釣りで2議席の差で自維与党は逃げ切った。

 首相の維新偏重ぶりは自民内にも反発を招かざるを得ないものだった。高市自民党は奇襲攻撃が功を奏し衆議院で大きな議席を得たのだが、参議院は少数与党のままである。150日間の国会会期の前半は超多数をいいことに乗り切ったものの、後半は無惨な体たらくとなった。大阪を「副首都」にして東京一極の弊害をカバーするとの建前とは別に、「大阪都」構想を蘇らせようとする維新執行部の本音はあざとい。既に過去2回の住民投票の結果で決着がついたはずのものに未だ拘り続ける。今回の国会最終盤でも、特別区設置の住民投票と地方選挙の期間が重複しないことをめぐっての攻防が焦点になった。大阪を舞台にした維新の執念は、一応のメドなど取り合わぬ雰囲気で早くも波乱含みの様相である。

⚫︎公明、立憲、中道のこれからの議論に注目

 さて野党の中核・中道と公明、立憲民主の三党のことだ。参院で自民党が過半数に足らぬ2議席を無所属から引っ剥がす離れ技をやった一方で、衆院で中道は同じ2議席が足らず内閣不信任案が提出出来なかった。出す出さぬの議論とは別に、2議席の今風悲喜交々の姿ではあった。衆議院49議席の中道では高市政権ノーへの意思表示を単独で示せないのである。

 それにしても皇室典範改正論議における衆院中道と参院立憲と公明の意思の食い違いは苛立たしいものだった。このテーマでの公明党サイドの結論は谷合正明会長の意思表明に明らかなように、とりあえずの課題に対応したから、皇位継承問題はこれから取り組むということだろう。それに対して立憲民主党は、男系男子にこだわる自民党に真っ向勝負で反対している。この対立は国民世論を反映しており、自然なものだと受け止めたい。問題はこれからである。暑い夏を返上して、三党が日本の課題解決に向けて徹頭徹尾の議論をしてくれるものと期待するしかない。(2026-7-26)

Leave a Comment

Filed under 未分類