(23)歴史上の人物と同じ痛みを持ってー「生老病」の旅路の果てに❼

●病院の待合室で見たものーナポレオンと芭蕉と漱石と

ナポレオンと芭蕉と漱石とーこの3人の東西の歴史上の人物に共通することって、なに?

ヒントは3人とも同じ病で苦しんだのです。答えは、痔。世にいう痔主なんです。知らなかったですか?痔持ちだとは知ってたという人も、それぞれ何の痔疾とまではわからないでしょう。前から順に、痔核(いぼ痔)、裂肛(切れ痔)、痔瘻が正解なんです。私は漱石が痔で苦しんだということはそれなりに記憶にありましたが、何痔かまでは知りませんでした。それを訪れた肛門外科の待合室に貼ってあったチラシで知るに至りました。

そうなんです。なにを隠そう、私も痔主なんです。若い頃からそれらしき兆候がありながら、この歳になるまで、たとえお医者さんでも人様にお尻の穴を見せるなんてことは、はばかられました。いや、それは嘘になります、ね。大腸がん検査や大腸憩室炎などの治療、検診に際していつも見られていましたし、その都度、「あなた痔ですね」「痔ありますよ」って言われてきたのです。ですが、排便に際して特に痛みを感じることなくきたため、大した痔主ではない、小痔主だろうと高を括ってきました。

ところが、この数年お尻におできが出来て、整形外科で切開してもらっても、すぐまた出来たりするのです。そのうえ、あちらと思えばまたこちらという感じで、まさにもぐら叩きならぬ、おでき潰しの状態でした。それが初めのうちは肛門から離れたところでしたが、この1-2年は肛門のすぐそばにできるようになったのです。それでも、〝出物腫れ物ところ嫌わず〟だろうと、高を括らないまでも、甘く見ていました。しかし、整形外科の医師から「もうこれは私の手に負えない、肛門外科に行け」と言われ、ようやく意を決したのです。

しかし、‥‥と、こう詳細に語ることはこのあたりでやめておきます。肛門外科でもセカンドオピニオンを求めると、違う見立てをする医師がいたため、随分回り道をしてきたとだけ、言っておきましょう。ともあれ、長い長い道のりを経て、とうとう私も手術をしました。そうです。こう書いてくるとお分かりのように、私は漱石先生と同じ病だったのです。

●手術の今昔。漱石の場合と私のケース

未完に終わった漱石最後の小説『明暗』の冒頭部分が、痔の診察で始まることはよく知られています。その後の展開も手術場面を始めとして、漱石自身の体験(二度の痔瘻の手術、入院=日記に書かれています)を基に書かれているのです。およそ100年前の手術と今とではおよそ違うだろう、特に麻酔技術に格段の違いがあるのでは、と思っていました。しかし、小説上の表現から察するに、そう激しい痛みはなかったかのごとく書かれているのには拍子抜けするほどです。

私の場合は、手術の最中に声を思わず上げそうになるくらいの激しい痛みを一二度感じましたが、全体的にはまずまずでした。シートン法というゴムの輪を使って膿みを出すという著名なやり方ですが、完治するまでにそれなりの時間がかかるようで、切ったら日にちぐすりで、はい終わりと言うわけにはいかないようです。左右のお尻の穴の周辺に輪ゴムのようなものをくっつけている姿は想像しづらいものがあるでしょう。つくづく長く生きていると、色んな病気に罹るものだと諦めていますが、実際のところ、この病ほど通常の羞恥心をかなぐり捨てないと付き合いきれないものがあります。いちいちここでは触れませんが、ちょっと想像すれば気付くでしょう。

考えてみれば、若い時に肛門科の医者に診てもらうことをためらったのも、結局は出来ることなら行かずに治せないものかと思ったからでした。痛みと恥ずかしさを天秤にかけて、ごまかしてきたのですが、挙げ句の果ては、歳のせいで恥ずかしさの重みが軽くなり、代わりに痛みの重みが増したと言えるのかもしれません。

漱石は手術後直ぐに帰ってもいいと言われたようですが、1週間入院していたといいます。私の方は1日だけの入院。過去四回ほどの入院経験では最も短いものでした。

●入院して思い知る健康の有り難さ。看護師、女性の優しさ強さ

漱石はその生涯を通じて、胃弱と痔瘻に悩まされたといいます。明治から大正にかけて、最も人々を恐れさせた疾病は肺結核でした。漱石もそれを恐れていたことは『明暗』の記述からも伺えます。私は22歳の年の暮れに肺結核を患ったのですが、僅かな闘病生活をするだけで、見事に克服することが出来ました。これは一重に、人生の師・池田先生との出会いのおかげです。ご自身の体験を通じて、事細かな肺結核へのアドバイス注意をしていただきました。「今のこの一瞬から百万遍のお題目をあげる決意をするのだよ」との指導もこの時に頂きました。そして、後日「我が青春も病魔との戦いであり、それが転じて黄金の青春日記となった。君も頑張ってくれ、君自身のために、一切の未来のために」との揮毫もいただいて、治すことが出来たのです。

その甲斐あって、60歳までは大きな病気と無縁で、きましたが、還暦あたりを境に、次々と病に冒されるようになってきました。もう一度原点に立ち返って、闘病の意識を強く持っていかないといけないと銘記しています。「我が人生は病魔との戦いであり、それが転じて黄金の一代記となった」と言えるように。そして、「体曲がれば影斜めなり」とのご金言に、「心弱ければ痛み増すなり」と付け加えているのです。

過去の入院の際にも、看護師の有り難さに、幾たびも心撃たれ、身を震わせる思いを抱いたものですが、改めてこの度も看護師、女性の持つ魅力に感じ入りました。この生き物は、全く違う、男が人間なら女はそれ以外の動物だ、と。また逆に、女が人間なら男はまた違う種類の生き物だ、と。それくらい両者には違いがあるとの思いを持つのは、私だけでしょうか。70歳台半ばになってこういう思いを持つというのはいったいどういうことでしょうか。これまた恥ずかしい(意味が前述のそれとは違いますが)限りです。

●コロナ禍に入院して考える〝生と死〟

長年の課題であった痔の手術を(痔瘻と知ったのは手術直前)して、僅か1日とはいえ、ベッドの上に横たわりました。言うまでもなく、この2020年という年は、コロナ禍の旋風が世界中に吹き荒れ、多くの人の命を直接奪い、大小問わずそれぞれの国家の行く末に危険信号を灯すことになりました。今この瞬間にも、人生の先行きに絶望を感じて自殺を図ろうとしたり、人生の全てであった愛する会社を畳もうと希望を失っている人も数多くいます。

比較するだに、申し訳なさが先走りますが、私の五体を襲う、得体の知れぬものを含めての痛みの数々(いちいち上げませんが5つを下らないのです)も、ただ事ではないのです。後発の痛みは既にあるものより、強いと相場は決まっています。すると、面白いことに、前発の痛みはやや後衛に退くのです。そのまま消えてくれれば、いうことはないのですが、少し沈むというか、後ろに下がるだけというのが一般です。痛みの総和はしっかりと消えずに、加算されていっています。せいぜい、精神を集中させる何か、夢中になる何かがあって、束の間、痛みや不愉快さを忘れるというぐらいしか対応手段はないといえましょう。漱石や芭蕉が強烈な痛みを抱えながらも数々の名作を残しているのは、やはり痛みを忘れるほどの熱中する力のおかげだと思われます。

コロナに感染されて、生死の境を彷徨っておられる方や、その生命を救わんと懸命の努力をされている医療従事者の皆様に対する強い感謝の念を抱く一方、この歳まで生きてきた私の周辺には、多くの物故者がいます。時に応じて、かつて語り合ったように、先に逝った彼や彼女たちに今私が経験している全てを語りたい。夜に日を継いで語り明かしたいとの思いで一杯になります。そう考えるたびになかなか寝つかれず、眠りは浅くなって、やがて夜と昼の区別がつかなくなる日が来るのでは、と思ったりもするのです。(2020-9-12)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

(22)第二次安倍政権の8年はなぜ「安定」してきたのか?

安倍晋三首相が辞任を表明して一夜明けました。全国紙5紙を読んだ上で、我が胸と頭を去来することを述べてみたいと思います。政治がらみのことをこのページで取り上げることはなかったのですが、首相が辞める決断が「病」という人間存在の根源に関わることに起因するので、あえてタブーに挑みます。

●賛否両論大きく割れる評価

首相は辞任を決断した理由を、持病(潰瘍性大腸炎)が再発・悪化して、職務を続けることが困難になったとしています。第一次安倍政権を投げ出したのが2007年。その後、5年足らずのお休みの期間を経てカムバックしたのが2012年暮れ。以来7年8ヶ月もの長い間、激務に耐えてこられたわけです。この病に一番いけないのはストレスだと言いますから、ストレスにも打ち勝ち、再発を防いできたのは想像を絶する精神力と絶妙に効力を発揮した薬の力だったと言えるのでしょう。私は、安倍晋三という人を考える際に、まずこのことを評価したいと思います。脳梗塞と大腸憩室炎を患った上に定年で辞めた私には到底真似のできない7年8ヶ月です。人間として、信じられないくらいの強い人だと褒め称えたいと思います。

その上で、安倍首相の評価を巡っては、高い得点を与える向きと低い査定しか下せない人と大きく二つに分かれるということを指摘します。前者には、経営者たちが多く、「アベノミクスの実行など国政全般にわたり、多大なる実績を挙げてこられた。我が国の国際的なプレゼンスは著しく向上した」(中西宏明経団連会長)、「賃上げや女性活躍推進などによる労働力不足への対応で、日本経済を回復軌道に乗せたのは高く評価されるべき事実だ」(新浪剛史・サントリーホールディングス社長)などと絶賛しています。普通の人々の間でも、株式投資愛好家には概ね評判がいいようです。

一方、後者は、メディア関係者に多いようです。「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」などをめぐる疑惑や、黒川検事長定年延長問題、河井議員夫妻事件などの取り扱いは、日本の民主主義に暗い影を投げかけただけでなく、公私混同の典型だとの手厳しい批判が渦巻いてきました。一般の民衆の間でも、格差拡大をもたらした張本人として、安倍首相を厳しく指弾する声は強いものがあります。本来なら、前掲の一連の疑惑事件で、首相逮捕も免れないのではないかとの見方さえ交錯しているほどです。

●コロナ禍には勝てなかった安倍政権

史上最高の長きにわたって首相の座に座ってきた人だけに、評価が一方に偏ったものにならないのは、ある意味当然でしょう。コロナウイルスの蔓延という事態がなければ、未だ未だ続投したかも知れず、一部ではこの秋に解散すれば、今の野党には負けるわけがなく、さらなる長期政権も夢じゃないとの見方が専らでした。過去にこれだけの不祥事や疑惑に塗れながら命脈を保ち続けた例は極めて稀であるが故、よほど野党がだらしないからだとか、メディアの力不足をあげつらう向きもありました。そういう意味では、コロナ禍に負けたといえましょう。これまでの内なるストレスの積み重ねにも負けなかったのに、外からのコロナ禍がもたらすストレスには勝てなかった、と。

辞意表明の記者会見で、首相を追及する声は弱く、殆ど最後に一連の疑惑事件に触れ、コロナ対策と合わせ、共通するのは政権の私物化だとして、「こうした指摘は国民の誤解なんでしょうか」とチョッピリおよび腰で訊くだけ。これに対して同首相は、「説明ぶりなどについては、反省すべき点はあるかもしれないし、誤解を受けたのであれば、そのことについても反省しなければいけないと思います。私物化したことはないということは申し上げたい」と短くさらり受け流すのみ。この説明で引き下がってしまうメディアでは、結局は「安倍一強」に勝てなかったはずという他ありません。

●なぜ第二次安倍政権は「安定」してきたのか

今日の新聞各紙の一面での論評を読んで感じることは、二つあります。一つは、病に倒れた人には優しいとの印象です。二つは、安倍長期政権が何故に安定してきたのかが論じられていないことです。前者は、日本人に特徴的なことでしょうが、ここは割り切って、ここまで保ちえた健康への配慮は配慮として、国民への説明責任があらゆる意味で希薄だったことにはもっと論及があって当然だと思われます。

各紙の論評を担当した、朝日の栗原健太郎(政治部長)、毎日の小松浩(主筆)、読売の橋本五郎(特別編集委員)、日経の吉野直也(政治部長)、産経の佐々木美恵(政治部長)の五人は、全員私が懇意にしている人たちです。首相が復活した7年8ヶ月前に、20年間の政治家生活に別れを告げて引退した私が、現役時代に付き合った手練れの記者ばかりです。その彼らだからこそ、あえて苦言を呈したいと思うのです。総じて上品過ぎないか、と。

後者については、安倍政権が混乱、不安定の極致だった民主党政権の後を受けて登場したことと、無縁ではありません。ただ、これも遠因を探ると、安倍一次、福田、麻生と小泉政権の後に続いた、迷走自民党政権の反省の上に成り立っていると言えましょう。つまり、第二次安倍政権のキーワードは「安定」だったのです。自民党がそれを求めるのは当たり前でしょう。しかし、もう一つの与党・公明党までそれに付き合ったことが大きいと私は思います。

それは、色々あっても、「不安定」にまたぞろ陥ることだけは避けたいとの思いが公明党に強くあったのです。私などは、「安定」も大事だが、それより「改革」を優先させるべきだと思ってきました。モリ、カケ、さくら、黒川、河井と連鎖した不祥事に、いつまで公明党は付き合うのかとの不満は、党内に決して少なくなかったのです。それを抑えて、ひたすら安倍政権を支えてきたのは山口公明党だったのです。

もし、公明党が与党の中で異を唱え、「安倍ノー」に立ち上がって、野党に回る選択をしていたら、果たして日本の政治はどうなっていたか。これには対した想像力はいらないと思います。公明党が先頭に立って野党としてのかたまりを形成していたら。恐らくは30年前の政治に逆戻りをしていたと思います。その意味で、安倍政権の7年8ヶ月を総括することは、公明党の7年8ヶ月を総括することと直結するのです。

この簡単なことに誰も気がつかない、いや気がついていても書かないとはいったいどういうことでしょうか?こう投げかけてとりあえず、この論考はひとまず終わります。(2020-8-29)

Leave a Comment

Filed under 未分類

(21)コロナ禍後の世界と信仰者の生き方

●総引きこもり状態の行く末

コロナ禍における「ステイホーム」の有り余る時間にあって、様々の学者や知識人と言われる人々の意見や考え方をメデイアを通じて聞きました。ここでは、これからの人類のあり様とでも言うべきものについて考察を加えてみたいと思います。新型コロナウイルスの感染の凄まじさは今更言うまでもありません。この破壊力は、人間の生の営みを根底から覆しかねないものです。つまり、人が人と密接に交流することで、お互いの親近感や愛情を伝えてきたものを否定するからです。好きだ、愛してる、かけがえのない存在だと思ってることを表すために、ハグをし、キスをし、握手をするのですが、それらはいずれも濃厚接触、三密と称して排除されます。

先日もテレビ映画を見ていて、コロナウイルスの犠牲者が現時点で多いのが欧米先進国であることの理由の一端がわかる様な気がしました。つまり、四六時中、かの国の人々はチュッチュチュッチュと忙しいこと夥しいのです。日本人の場合は、そういう行為はあまり馴染みません。それが直接関係があるかどうかは別にして、欧米の生活文化のあり様が、少なくとも再考を迫られることになるやもしれません。

さらに、人は移動する存在です。旅することで、日常を脱してそこでしか見ることのできないものを見て、生は豊かになり、人は磨かれていきます。移動を断たれ、人との接触を拒まれていけば、自ずと人は人で無くなっていく、その醍醐味を失う存在になるに違いありません。

学問をする場、仕事の打ち合わせをするところも、顔を突き合わせるフェイスツーフェイスから、オンラインという名の、AIを介在させなければならないものに変化を求められてきています。これまでと真逆の〝人類総引きこもり〟と言っても言い過ぎでない事態と隣り合わせなのです。

●人類はコロナ禍後に何を学ぶか

こう見てくると、何を大袈裟な、あともう少しで元に戻るから、心配ない、もう少しの辛抱だとの声が聞こえてきます。確かに未来永劫に今の事態が続くとは予測し難く、やがて効果的なワクチンが見出され、実用化されていくことは間違いないものと思われます。恐らくは、あと数年後には完全に元どおりになると見る考え方が支配的でしょう。何も、人と人の付き合いの基本が根底的に変わるということに直結はしないものと思われます。では、何もかもが元に戻って、やがて全ては忘却の彼方ということになるのでしょうか。

それでは今回の疫病の蔓延で生命を落とした人々の死から、その教訓を学んでいないといえるのではないでしょうか。今回の死者たちは愛する家族からも遠ざけられたままで、およそ生命の尊厳ということからは遠い扱いを受けたと見られます。彼らの死を活かすには、何が必要でしょうか。それは、大きな観点から言えば、人類全体の相互支援と協力の大事さであり、言語を超えたコミュニケーション力の重要性という点ではないかと思われます。究極の価値観は、地球はひとつとの認識であり、地球人の自覚を全ての民族が共有することでしかない、と思われます。そして、音楽や舞踊を始めとする芸術、芸能の力の再発見だと言えます。これらは言語を超え、人を結びつける特異な手立てなのです。

かつて人類が直面したペストやスペイン風邪などの大疫病災害がもたらしたものは何だったのでしょうか。最大のものは、誤解を厭わずに言えば、キリスト教への不信が極まり、「神の死」なるものをもたらしたと私には思われます。当時の元凶のウイルスは人を選ばず、信仰のあるなしに関わりなく、平等に襲ってきました。信仰をしているから、神を信じているから大丈夫とはならないことが白日のもとに明らかになり、結果として信仰者はふるいにかけられたものと思われます。

今回のコロナ禍で、最も私が懸念したのは、世界中で日蓮仏法を信奉する人たちの対応です。かつてのキリスト教信者の多くが歩んだ同じ道を辿らないように、と。ここでも、大事なことは、冒頭に述べた様な、手洗いの励行やマスクの着用を基本に「三密」を避けて、人との接触を抑えるといった、「感染症対策の常識」に立ち返ることに尽きます。信仰を持っているからこそ、人一倍の用心が大切だと言えます。用心に用心を重ねた人、対策の常識に身を委ねた人の頭上にこそ、諸天善神の加護があるのだと言えましょう。(2020-7-30)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

(20)ステイホームの中で掴んだ新たな喜びー「生老病」の旅路の果てに❻

過去五回にわたって『「生老病」の旅路の果てに』と題していながら、老いに伴う病についてばかり書いてきました。読者の皆さんから「そんな身体で、大丈夫か」とご心配をいただいています。私は今「元気ですか」と問われると、「部品はあちこち痛んできてますが、エンジンは快調です」と言っています。ここらで、「生」そのものにまつわる話題をお届けします。

●三つの新たな試み

新型コロナウイルスの蔓延が全世界を恐怖の底に落としてから100日を超えた。暑い夏の訪れにも関わらず、口にマスクをせねばならぬ鬱陶しさー手洗い、うがいには抵抗感を感じなくとも、マスクはつい忘れそうになる。ステイホームを強いられる苦しさの中で、人はそれぞれ新たな喜びや、ひと味違う生きがいを掴んだものと思われる。

私の場合、三つある。一つは、放送大学講座をテレビで受講する習慣を身につけた。今まで、友人が放送大学の講師になったと聞いても、あるいは尊敬する病院長が75歳を越えてから受講生になったと知っても、まったくの他人事で我関せずだったのに。今や日々欠かさずに。二つ目は、仲間たちに絶えて久しい手紙を書くことをやってみて、少なからぬ喜びに浸ることができた。返事が届いたり、わざわざ電話をくれての長話に、お互いの違う側面を見て驚いたりもした。そして三つ目は、幾たびもの引越しでその都度〝断捨離〟の憂き目に遭いそうになりながらも逃げ切って来た、30冊を越える膨大なアルバム整理に着手することも出来た。いずれも生きる活力になっている。

●放送大学の魅力あれこれ

放送大学は既に11回目の講義に入っているが、10講座が〝お気に入り〟で連日テレビに向かっている。

『世界文学への招待』ではこれまで知らなかった世界の作家の存在を知ったし、宮下志朗、小野正嗣などと言った老若コンビを始め講師陣も魅力的だ。各地の映像が魅力に溢れ、そこに行った気分になれる。講義で取り上げられた数々の作品のうち、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やオルガ・トカルチュクの『逃亡派』などを読みたくなって、図書館に注文した。

また、『歴史と人間』ではメアリ・ウルストンクラフトという女性解放運動の先駆者を知って、感動を覚えた。その存在を伝えてくれた梅垣千尋という講師には興味を抱く。この歳になって初めて知る歴史上の人物や作品の奥行きの深さに出会って、まさに〝日暮れて道遠し〟を実感する。『「方丈記」と「徒然草」』は、知ったつもりであった日本の古典の魅力を改めて認識させられた。小林秀雄の『徒然草』を再読してしまった。「日本文学」の学び直しの端緒になりそうである。島内裕子先生の講義は毎回かぶりついて見ていて、そのふくよかなお顔は仏像を思わせるに十分だ。

さらに、『権力の館を考える』なる講座は妙に面白い。日本の歴代総理大臣の住まいから始まって、ついこのほどは、大阪や京都における歴史的建造物の由来を知った。御厨貴と井上章一ご両人の対談(10回、11回)による講義も秀逸で、大いに感じ入った。『京都嫌い』で名を馳せた井上先生の専門が建築学と改めて知った。『現代日本の政治』『グローバル化時代の日本国憲法』『日本政治外交史』などは元衆議院議員としては今更という思いが付き纏うものの、究極のおさらいと言った趣もあって、妙に楽しい気分になって受講している。

加えて、高橋和夫さんによる『現代の国際政治』『中東の政治』『世界から見た日本』の三部作も、自分が専門として来た分野の講座だが、切り口が新鮮な上、現地に飛んでのインタビューが随所に盛り込まれたり、受講者との質疑応答も時にあって、魅力満載。ついに私は高橋先生にファンレターまで書いてしまった。入れ込み具合がお分かりいただけよう。返事も頂いた。

映像を通じての講義はビデオに収録しているので、繰り返しが聞く。それこそ居眠りや聞き逃しがあっても補えるのは助かる。コロナ禍でオンライン化が話題であるが、先行する放送大学からは学ぶことが多い。大学は学問をする場というより、友人を得て遊ぶところだった我が身を反省すると共に、ポストコロナ禍の時代における大学講師陣の先行きに同情を禁じ得ない

●160人に手紙書き、30冊のアルバム整理に着手

ステイホームで、自由に外に出歩けなくなり、人との交流のあり方を考え直した。まずは地方自治体の議員を経験した仲間たちに手紙を書くことを思い立った。全て自筆で書けば良かったのだろうが、さすがに160人分は書きづらい。雛形を作って、それぞれ一人ひとり相手に応じた挨拶文を添えた。日頃の疎遠を詫びつつ、人類が直面する未曾有の危機に立ち向かう激励の呼びかけには、我ながら緊張した。

投函して数日後に、メールや電話、手紙を次々といただいた。皆喜んでくれていたのは嬉しかった。中にはこれまでの付き合いが表面上に過ぎなかったことをお互い知りあった。新たな発見もあった。人はそれぞれ勝手なイメージを描き、適度にやり過ごしている側面があるのかもしれない。

今でこそアイパッドやスマホでの写真が花盛りだが、かつては紙焼きばかり。アルバムも大型で積もり積もって30冊ほどにも。これを整理せねばと思って来たが、中々手がつかなかった。これについに手をのばし、一枚づつ台帳から剥がし、台帳そのものは全部粗大ゴミに出した。写真は残すものは残し、要らないと判断したものは捨てた。スッキリした。懐かしさについ手が止まり、見入ってしまったこともしばしば。若かった日々への哀惜の念を振り切るのに苦労した。残した写真をどうするかの問題が残っているが、おいおい取り組むしかない。

ステイホームの日々で、本当はやりたかったことが他にある。料理である。妻に任せてばかりでなく、〝男の手料理〟に習熟したかった。だが、残念ながら未遂に終わった。次の機会の楽しみにとっておく。(2020-6-14)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

(19)大腸の中に憩いの部屋ありー「生老病」の旅路の果てに❺

●大腸憩室炎に悩まされた日々

小とくれば大。小便にまつわるお話の次は、大便です。最近は子どもの世界もうんこブームとか。また、命にまつわる重病に罹った人が、オシッコを飲み一命をとりとめたとか。世の中も変わってきました。うんこやらオシッコが意味は違えども、人間存在を左右する話題になってくるのですから。

ところで、歳をとってくると、大便がきちっと出ることがどんなに嬉しくありがたいことかに気づきます。実は私はこの大便にも随分と悩まされてきました。厳密に言えば、過去形ではなく、今もコントロールできているとはいえ、いつ爆発するかわかりません。その原因は大腸憩室炎です。憩うことが好きなあまり、腸の中にまで憩室が出来るとは、などと冗談を言ってる場合ではないのですが。

この病名を聞いても何のことか分からない人は幸せです。大腸の管の中に小さな袋状のものがいくつも出来て(これは遺伝的なもので生まれつきそういう体質なのだと思われます)、そこに食べたものが溜まっていく。やがてそれが溜まりすぎて破裂してしまうと、大変なことになるというのです。憩室そのものの破裂はまだしも、憩室の増加で大腸の管が破裂するようなことになると、生命に影響が出てくるものとなってしまいます。

●大腸憩室炎で緊急入院

かつて、大便が出そうなんだが、なかなか出ず、20-30分悪戦苦闘しているうちに、汗がガンガン出てきて身体中が震えてくるという症状に悩まされました。そのうち、ひょんなことから出て、ほっとするものの、そこに至るまでが大騒ぎになるとの症状でした。一年のうちに3-4度そういう事態に直面することがあったのですが、ことなきを得ていました。それが今から7-8年ほど前に、凄まじい腹痛で、もう耐えられずに病院に駆け込みました。近くの病院の医師では、あまり分からず、「なんだが便が相当溜まってるみたい」などと言われるだけ。結局、済生会中央病院に緊急入院しました。病名は大腸憩室炎です。

その時は、点滴治療で約二週間ほどの入院で無事退院できました。しかし、その後の状況から見ますと、私の大腸は極めて不都合をきたしているものと見られます。と言いますのは、大腸がんの検査をしようと、病院で検査をしてもらうと、検査用のファイバーが私の場合、痛くて大腸内を通らないのです。とうとう担当医は挿入を諦めてしまいました。恐らく以前に大腸憩室炎を患った際に生じた癒着が昂じて、極度に大腸内部が変形をきたしているものとみられます。

今では、神戸方面で名医と言われるA医師に診てもらって、検査もして貰うのですが、その先生でさえ、もしものことがあると困ると言われ、私の大腸を検査をすることは避けられます。結局は、ファイバーを使わず、簡易な方法で検査も済ませている状況です。大腸は第二の脳ともいわれ、生命の帰趨を決める大事な内臓です。それがこんな状態ではまったく困ったものです。(2020-6-10)

Leave a Comment

Filed under 未分類

(18)便器の中が真っ赤になった日のことー「生老病」の旅路の果てに❹

◉赤ワインがそのままでたと勘違い

いやあ、あの日のことは忘れがたい。毎夜毎夜アルコールを飲む機会が多く、その日もしこたま赤ワインを戴いて、宿舎に帰りました。で、尿意を催したので、トイレへ。そこの便器は大小兼用のもので、元気よく立ったままでいたしました。すると、もう真っ赤な色の液体が便器の下部分いっぱいに。驚きました。一瞬、ん、さっきのワインがそのまんま出たなあって思ったのです。笑い事じゃあありません。本当にそう思ったのです。ですが、酔眼朦朧状態の頭でも、その誤りに気づかないわけはなく、血尿だとやがて分かりました。

血の小便が出るくらい苦しみ悩んだとか、勉強をしたとか、物の本やら、人づての話に聞いたことはないわけじゃあありませんが、自分の泌尿器から排出されるとは思いませんでした。翌日、慌てて近所の病院に行ってかかりつけ医に診てもらいました。右の背中の腰部分のやや上のところー腎臓部をレントゲン写真を撮るなどの検査の結果、腎臓結石であるとの見立てでした。

その時より二十年ほど前のこと。同じ部分が痛くなったことがあり、以後数回同じような症状でしたが、いずれの時も、水分を余計に取って、身体を揺らせば大丈夫との素人治療法でいづれも事なきを得たものです。ある時などは、ビールを飲んで縄跳びをしろっていう人がいて、その通りやると、見事に小さくて可愛い石が先端部からぽろんと落ちてきたことがありました。しかし、今回ばかりはそういうわけにも参らず、入院手術ということになってしまいました。かかりつけ医の指示で、虎ノ門病院に行き、入院ということになってしまったのです。

◉ファイバーをペニスの先に入れ、出すときの痛さ

この時の腎臓結石の手術は、いわゆる切除を伴う外科手術ではなく、外側から強力な力を加えて体内にある石を破砕するというものでした。これは上手くいくとどうということはないのですが、下手をすると、破砕された石の一部が尿管に止まったりすると、激痛を伴います。知人から、尿管結石でまさに死ぬ思いの痛さを感じたとの話を聞いていて、怯えもしました。ただ、この手術自体は全く痛くなくて済んだのですが、尿管を通って石が体外に出やすくするため、ファイバーをペニスの先から体内に通す作業と、それをまた数日経って外す時の痛みは結構厳しいものがありました。そして入れてる間の小便時も、まるで絞り出すようで。

腎臓結石はなりやすい体質の人間がいて、私などその代表のようです。今も時々腎臓が痛みを感じるときがあります。この手術を担当してくれた(実際には総括)のが、同病院で泌尿器科部長だった小松秀樹医師です。この人にはその時点で『慈恵医大青戸病院事件』という著書があることを、私は知っていました。病院における医療手術の成否に対して警察が介入してくることの問題点を追及した本です。私は自分の手術の面倒を診てもらったことをきっかけにして大変親しくなりました。しばらくして、私のかつての古巣の公明新聞社の理論誌『公明』誌上で対談をすることにもなりました。懐かしい思い出です。

ただ、小松秀樹先生はその後、日本の医療の現状にかなり過激な姿勢をしめされるようになり、厚生労働省的には敬遠する向きが強くて、なんとなく私とも疎遠になってしまいました。『医療崩壊』なる書物を朝日新聞からだされたり、千葉にある亀田総合病院の副院長になられたりしましたが、なにかと同病院内でトラブルがあって、裁判沙汰にまで発展してしまったと聞いています。腎臓結石で痛み出すと、決まって小松先生を思い出すのも妙なご縁ではあります。(2020-5-25  公開)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

(17)腰から足へ。不愉快な痛みの主役交代ー「生老病」の旅路の果てに❸

☆38年間悩み抜いた腰痛、そして決別のとき

今を去る50年あまり前のこと。私は公明新聞政治部に配属になり、自分の机を始めていただいた。入社して三ヶ月ほどが経っていた。それまでは決まった席はなく、流浪の旅人のようだった。ようやくスチール製の立派な机をあてがわれ、少しその位置を変える必要に迫られた。よせばいいのに、ひとりで持ち上げ定位置に移動させようとした。その瞬間、グキッと腰に来た。魔女の一撃。ぎっくり腰である。堪らぬ痛さで、地下の休憩室に横たわらせて貰った。さあ、それからが大変。ありとあらゆる治療を試みたが、基本的には腰痛が常態となり、全治せぬまま、以来38年間というもの、恒常的な腰痛持ちになってしまったのである。

腰痛の痛みは、私の場合まず朝起きた時に来るのが常だった。ズーンとおも〜い感じが腰一体に漂い、不快そのものの目覚めは思い出すだに辛い。整形外科、鍼灸治療などを続け、7〜8割は治ったかに見えて、根治せぬまま月日が経った。20歳台から50歳台の働き盛りを腰痛とともに過ごしたのである。少しの時間立ち続けたり、歩いたりすると、たちどころに辛くなって、椅子に座って休むことを余儀なくされることが多かった。

そんな私が60歳の節目を迎えて、あることをきっかけに全く痛みがなくなった。不思議なことである。今に至るまで、つまりほぼ15年ほど腰の痛みはない。朝もスッキリ起きられるーそれ以外の理由で寝覚の悪いことはあるが。その理由は二つ。一つは、のちに語ることになるが、10キロほど痩せたこと。もう一つは、カイロプラクテイックとの出会いである。

後者は、厳密に言うと、日本カイロプラクターズ協会の最高幹部の治療を受ける幸運に恵まれたことが全てだ。詳しくは、Kindle版『腰痛にはカイロが一番』に書いたので、参照していただければ幸いである。要するに私にはカイロ治療が見事な効き目を発揮した。それがあって、その後、同協会の名誉会長をお引き受けしている。この10年あまりというもの、時々腰のメンテナンスにカイロ治療をしている。

このため、腰痛に悩む人には、一に痩せること、二にカイロ、そして三にはストレッチ体操、と言ってきている。この三つのどれが欠けても上手くないように思われる。このように腰の痛みと決別できたあたりで、今度は足の方に妙な痛みが出てきてしまった。

☆痛風、水虫そして‥‥

イタリアからローマへの旅の途上でのこと。突然右足親指付け根の異常な痛みに襲われた。尿酸値が高い。痛風である。それからの顛末は、私のHP回顧録『日常的奇跡の軌跡』に詳しく書いたので、参照していただければ幸いである。ただ、今に至るまで、再発は全くない。恐らく、あの症状の前にかなり、ワインを飲みアルコール類を飲むに任せたことが原因だろうと思われる。知人に、若き日より老年に至るまで、痛風薬を飲み続けている人がいるから、私の場合は幸せだと思うしかない。

ついで、水虫に悩まされた。熱心に治療をせぬまま、放置していると、数本の指の爪先が変形をきたしてきた。そうなってからあれこれ、あちこちの病院で治療をしたものの、芳しい結果は得られない。夏に裸足の人を見て、きれいな爪を見ると羨ましい。今では左足の指先一本だけだが、お化け爪になっており、治らない。先頃、ある著名な作家の本を読んでいて、一日の終わりに足の指を手で擦り、その日の労をねぎらっているとの記述を読んだ。彼は一本ずつ指に名前をつけてさえいるという。なるほど、えらいもんだと心底から思う。

加えて、足の指先にゴワゴワ、ザラザラ感がある。今から7-8年ほど前、姫路城周辺のウオーキング、ランニング中に、靴に砂が入っているのでは、と思うので靴を脱いだ。なんともない。思えばそれがきっかけだった。あれから病状はじわじわと進捗し、今では冬は異常に冷たさがあり、寝る時には足湯をしたり、コタツや暖かくなる貼り薬風のものが欠かせない。夏は逆に、異常に暑さを感じる。少し歩くだけで異常な火照りを感じるのである。水で冷やすことが欠かせない。時には、缶ビールをあてがうことも。缶ビールの缶の効用は飲むだけではないことを今頃になってわかり、苦笑するしかない。

内科から始まって、神経内科、外科、整形外科とあらゆる病院に通い、医師の診断を仰いだ。血液検査、血流検査全て結果に異常は現れない。漢方医に行き、漢方薬を飲み、鍼治療も耳にして貰ったが、効き目は全くない。もはや、痛みを感じ、違和感があるのは生きてる証拠と諦めているのが現状である。医師から「西洋医学の限界かもしれません」と言われ、「治ったら、ぜひ教えて欲しい」と囁かれた。漢方医から「お役に立てず申し訳ない」とも言われた。さて、どうするか。そのうち新たな顛末記を披露したい。(2020-5-15)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

(16)目から歯へ。手をじっと見る日々ー「生老病」の旅路の果てに❷

☆口も目ほどにガタが来て

目から耳ときて、テーマは、そして次に鼻の下にある口に移ります。正確には歯です。実は私は幼き頃には歯は丈夫だと言われてきました。というより、そう思い込んできました。それが何時ごろからでしょうか。どうもおかしいと思いかけてきたのは、40歳を過ぎたぐらい。東京から姫路に越してきた今から30年くらい前のこと。偶々かかった歯科医が悪かったのか、痛みを感じて治療に行くと、次々と歯の神経を抜かれてしまいました。その上に被せものを乗せたのですが、それが20年ほどたつと、次々とおかしくなってきたのです。

これって、時間的な経緯を踏まえないと、およそまともには理解できないと思われます。つまり、若い時と、年老いた時とでは、全く歯に対する受け止め方がちがってきます。じつは、私は歯に関する著作(正確にいうと共著作)があります。これは、姫路に住む河田克之さんという歯科医との間で、私の引退後に刊行したもので、『ニッポンの歯の常識は?だらけー反逆の歯科医と元厚生労働副大臣が歯の表裏を語る』(ワニ・プラス社)という長ったらしいタイトルです。親友の志村勝之(浪花のカリスマ臨床心理士の異名を持つ男)が、わざわざ大阪から治療に、河田歯科医院に来る(それほどの名医との入れ込み)ということがきっかけになって、私も河田先生と親しくなり、この本の出版のお手伝い(インタビュー役)をする羽目になりました。

本については是非一読して頂ければと思いますが、実は出版後、衆参両院の全議員に本を贈呈しました。河田先生のたっての要望です。議員諸氏はあまり読むとは思えない(私の経験上からも)ので、一計を案じ、アンケート票を添付しました。こうすれば、議員は反応するだろう、少なくとも読んだか読まずに放置したかが分かると思ったのです。さてさて、結果は?この辺りについては、別の機会に譲ります。

国会議員を辞したあとぐらい(70歳台直前)から、秋の日のつるべ落としのように一気に歯が不都合をきたしてきました。奥歯にものを挟んだように、とか歯に衣着せぬとの表現がありますが、肝心の挟む奥歯が無くなり、絹をきせようにも歯がなくなってしまった現状はまことに辛いものです。世にハチマルニイマル(8020)と言いますが、確かなる目標かもしれません。ハチマルゼロゼロ(8000)にならぬように、せっせと歯磨きに勤しみ、うがいをする日々です。

☆口八丁手八丁は遠い昔ー今や‥‥

「働けど 働けど なお我が暮らし 楽にならざり じっと手を見る」ー石川啄木の詠んだ有名な詩の一節ですが、昨今、私も手をじっと見る機会がしばしばあります。ただし、啄木の視点とは違って、妙な痛みとこわばりを感じるからです。実は、80歳台に突入する直前に逝った我が父が、生前しきりに手のひらを私に見せて、「何だかおかしいだろう、この手のひら」って、言うことがありました。見ると、皮膚が捩れて、ところどころ微妙に盛り上がったりしています。当時は「ヘェ〜」というだけで、なんの力にもなってやれませんでした。

ところがそれから30数年。なんと、全く親父と同じ症状に私も襲われています。気になるか、ならないかは極めて判じ難いのですが、気にしだすと痛みが走るのです。医者に聞くと、なんとか症候群という立派な名を持つ障害の一種です。治せるか、と訊きましたら、痛みを感ずる皮膚の部しょを全て剥がす手術をするしかないーという意味のことを言われる始末。その時点で治療は諦めました。体質が親父に似てるということでしょう。彼も糖尿病を持っていました。私もこの病については語るべきものが多いのですが、ここでは触れません。原因はそこに帰着しそうです。親父の死んだ歳に近づくにつれて、手のひらをじっと見る機会が増え、連帯感を感ずるのは嬉しいような、寂しいような、不可思議な気分です。

手には10本の指があります。子供の頃は、鉛筆を強く持って書く機会が多く、右手中指の第一関節の内側にタコができるほどでした。いまもその名残りはあるのですが、今や、アイパッドにせよ、スマホにしろ、使うのは右手中指の先端ばかり。この指には今も昔も大いなる負担をかけています。ラジオ体操をする際に、担当者が手のひらを握ったり、開いたりのグーパー運動をする様に指示があります。こんな運動なんて、とバカにしていました。ところが、いかにこの動作が大事かが今ごろになってわかってきたのです。口八丁手八丁と言われたのは遠い昔のこと。やがて、口はもぐもぐ手はもごもごといった日が近いようです。(2020-4-29)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

(15)お題目を巡る捉え方について、二つのケース

お題目を唱えることを意味のない繰り返しとみる表現

様々な本を読んでいて、「お題目のように」 と言った比喩表現に時々でくわします。唱題の効用を全く認めず、意味のないことを繰り返すことに使ってるのです。言葉の使い方になぜ「宗教批判」を折り込むのでしょうか、理解に苦しみます。
先日も、「万葉集をお題目のように唱え(ながらも)、その和歌が『源氏物語』を「物語取り」しているのに気づかない」というくだりを読んで、「うーん。この人もか」と残念な思いに駆られました。万葉集を繰り返し繰り返し読んでいながらその意味がわかっていないと言ってるのです。ここは単純に、何度も幾たびも読みながら、だけでいいのに、わざわざお題目のように唱え、としているところに、問題あり、と思いました。
作家としてその存在は知っていても、個人的には全く知らない人の場合、ご本人に注意を促したり、感想を伝えるわけにはいきません。今回のケースはたまたま作家個人を知っていたものですから、直接伝えてみました。

貴方はお題目の力を知っていますか?ご存知ないのなら、どうしてこういう使い方をされるのでしょうか。物事の繰り返しの愚を例えるのに、お題目を上げることを充てるのは、随分余計なことに思えます。私のような日蓮仏法を信奉し、日々唱題に取り組んでいるものにとって、お題目を繰り返し唱えることに意味がない、と言われることはいささか困惑します。どうして、繰り返しの無意味さを例えるのに、「宗教批判」にまで立ち入るのでしょうか。もっと他の表現を使って然るべきでしょう?と。

反発が返ってくることを覚悟してこのことを伝えたのですが、あにはからんや。その作家は、「あっ、すみません。その通りですね。気付きませんでした。つい一般的な慣用句の使い方と同様に使ってしまいました。言われてみると、その通りです。知らないくせに、お題目を繰り返しの無意味さに喩えてしまいました。信者の皆さんには耳障りなんでしょうね」と言われました。私はこの人の人格の深さに大いに感じ入りました。すぐさまこういう反省をする人は立派だと思います。彼はその後、すでに書き溜めている文章を推敲していて、同様の使い方をしてしまってるくだりを改めて発見してしまったと、言われました。指摘して良かったと改めて思いました。

『納棺夫日記』を読んで

もう大分以前のことですが、『おくりびと』という映画を観る一方、その原作『納棺夫日記』(青木新門著)を読んだことがあります。これはもう映画よりも、原作の衝撃は大変なものがありました。脱日本と言ってもいい北国・富山の冬の風景を背景に、胸に迫る人間の末期の数々の姿と納棺夫という職業に就いた著者の心を描いた1章と2章には深い感銘を受けたものです。作家・吉村昭氏を師と仰ぎ、また認められた人の文章だけに、余分なものを削ぎ落としたキリリと引き締まった文章の連続に感心しました。

ですが、宗教論に立ち至った第3章はいただけなかった。なんだか九仞の功一気にかくというべきか。全く蛇足としか私には思えない議論でした。恐らく著者が親鸞を尊敬し、浄土真宗を信奉する人で、私が日蓮仏法の信者であることと無縁ではないものと思われます。ここでいちいち上げつらいはしませんが、率直に言って前半だけで止めておかれたらもっと凄い印象に貫かれた本になると思いました。面白かったのは、あとがきで、私のこの感想をお見通しとしか言いようがないことを書いておられたことです。多くの人から1ー2章は良かった。それで止めておけば良かったのに、と言われた、と。でも3章も良かった。それあったればこその本という読者も多くいることも付記されていました。

で、私がここで触れたいのはそういうことではありません。あとがきの中に、とても忘れられないことが触れられていたのです。それは、ある葬儀に際して著者が納棺夫として湯灌をしていたときのこと。

ー硬直した腕を折り曲げていくのに悪戦苦闘していたら、参集してお題目をあげていた人のうちの一人が、「あれ、見てみなされ、あんなに硬直していたのに、お題目あげたらあんなに柔らかくなって」と叫んだ。すると、お題目が一斉に止んで、「ほんとだ、ほんとだ、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と言いながら全員が私の手元を覗き込むように見ていた。ー著者は「私はあきれてしまった。あの時ほど、宗教というものに不信感を抱いたことはなかった。あれは決してお題目を唱えたから柔らかくなったのではない。宗教の熱心な信者は、往々にしてこうした事象を己の信じる宗教の功徳にしてしまう」と続けています。

描写風景から察するに、法華経の信者の皆さんが仲間の遺体の周りで枕経としての法華経方便品、寿量品自我偈を唱えた後の唱題の時のことでしょう。この記述に接して、私は二つのことを感じます。一つは、お題目の力は、必ず硬直した体を一時的には柔らかくするのです。実際にそのことを見分した人は数多くいます。しかし、ずっとそのままではあり得ないでしょう。やがては硬直化は免れません。したがって第二には、どの時点を取るかによって違ってくるということです。尤も、青木新門さんは、最初から最後まで遺体は堅いものだと言われるやもしれませんが。

青木さんには、恐らく私たち法華信者のお題目への過信が馴染まなかったのだと思われます。私からすると、親鸞という人の説いた教えはどちらかといえば死後のもので、生者には無力のように思えます。そしてそれは文学的なあまりにも文学的な傾向を持つ生き方に通用するもので、元気溌剌とした明日に生きる青年(その意気に満ちた中高年も)のものとはいえないようです。この辺りのことはなかなか曰く言い難く、難しいものを含んできます。

結論的には、お互いの信ずるところをあまり過剰に他人に押し付けることは、直接間接を問わず、いい結果を生まないということではないだろうか、と思うに至っていますが、さて貴方はいかがですか?(2020-4-2)

Leave a Comment

Filed under 未分類

(14) すぐそこにまできた「生老病」の旅路の果て❶

生老病死ー最近、この言葉を改めて実感するようになっています。生死の間に割って入った二文字。老と病。これは、どちらが先にやってくるか。当然ながら、若い頃はどちらも意識しませんでした。しかし、このところ、身体の各部位に痛みやら不都合を感じるようになって、老いを意識し、病いを気遣うことが常態になってきました。未だ、心臓と脳は健全な様子であるかに思われます(実のところはわからないだけでしょうが)。つまり、車で言えば、エンジンは快調ですが、部品が壊れてきているように思わざるをえないのです。部品を直したり、新たなものと取り替えればいいのかどうか、大いに悩むところです。

☆著しい眼の衰え

まず、眼。20歳前から近眼になり、メガネをかけました。途中、40歳を超えて、コンタクトレンズのお世話になりました。ソフトコンタクトの便利さ。装填したままうたた寝から目覚めた時の心地よさと言ったらなかったです。メガネだとかけないとお先真っ暗ならぬ、ぼーっとした状態ですが、コンタクトをしたままだと、くっきり、ハッキリ見えます。ただ、歳をとって、老眼が入ってきて、近くが少々見辛くなり、メガネに戻しました。いわゆる遠近両用のメガネに。以来、30年近い歳月が流れました。そろそろ、白内障の恐れが忍び寄ってきていることを感じます。先だって、眼科に行くと、早晩手術を、と。それよりも数年前に突然片方の眼に何やら訳の分からぬものが映じ、驚いたことがありました。およそ30分くらいでそれは消えたのですが、その間は実に怖かったことを覚えています。あれはさて、何だったのか。あの瞬間もはや、まともな映像、景色は見られないのか、とさえ思ったものです。

私の眼は左右でかなり視力が違うようですが、今のところ、本や新聞を読むときに、老眼鏡のお世話にならずとも裸眼でいけます。ただ、左右均等でないため、長時間文字を見ていると、段々と平行に見ておれず、左右歪んだ持ち方になってきているようです。そのうち、ものが読めない、見ることが出来ない時が来るのでは、との恐怖感が漂ってきます。五感のトップ・眼は外界の情報を真っ先に取り入れる器官だけに、これの老化による損傷は堪えます。網膜に映じていても、意識が明瞭でないと、それは情報としては頭脳に定着しない。いわゆる〝節穴〟状態といえます。いわゆる「虚ろな眼差し」だともいえましょう。昨今、近視なのにメガネをかけない状態で室内で生活をしていることが多いのですが、虚ろな眼差しから「虚ろな認識」が常態になるかのごとき危惧を抱きます。こういう状態が長く続くと、認知症になりやすいのではないかとの恐れさえも起きて来るのです。

☆片方は聞こえない耳

次に耳です。私は実は左の耳が子供の頃から難聴でした。原因はハッキリしません。若い頃は左側から話しかけられると、いちいち身体を相手の方に向き直って、正面から聞くように心がけました。そのままにしていると、曖昧な受け答えになり、お互いが迷惑するからです。そのため、かえって丁寧な人だと誤解されたことも。寝る時など、健常な右の耳を下にして休むと、一切聞こえないので、雑音が気になりません。随分重宝したもので、人間何が幸いするかわからないと思ったものです。

しかし、この健常な右耳も最近どうも、不調を感じてなりません。テレビの音や映画館で聞くセリフが聞き辛くなってきました。妻との会話も幾たびか「えっ、何?なんだって?聞こえないよ」と繰り返す自分に気づきます。その上、時々、右耳の奥の方が痛いような、むず痒いような微妙な症状が頻発します。以前に、横浜にある名医といわれる耳鼻咽喉科の医師に徹底的に診てもらいました。その時は左耳を手術することで、一気に回復するのでは、との淡い期待を抱いていたのですが。診断後、その医師は、「貴方の左耳は手術をしても健康な人の耳に比べて、30%ぐらいしか治りませんね。それでもやりますか?」と訊いてきました。止める判断をしました。以来、耳鼻咽喉科の門は潜っていません。

姫路に、耳鼻咽喉科の名医で、個人的にも尊敬している藤森春樹先生(今は引退され、医院も閉鎖)がいらっしゃるのですが、最近はお会いすることもなく、遠ざかったままになりました。先輩たちも見ていると、75歳あたりを過ぎると、補聴器のお世話になっている人が多いようです。私も時間の問題だろうと覚悟しています。余計なことが聞こえない方が長生きするとかといった冗談半分の言い回しも、所詮は戯れ言に過ぎないものと思われます。(2020-3-23 つづく)

Leave a Comment

Filed under 未分類