初の衆議院選挑戦で次点に泣くー平成2年(1990年)【3】

消費税が再び問われた衆院選で

平成2年はまさに選挙モードで幕開けしました。1月24日に解散、2月18日の投票です。この選挙で問われたのは、またしても「消費税の是非」でした。1988年に消費税法が成立、翌1989年4月に現実に3%の消費税率上げが初めて実現したのですが、それを同年7月の参議院選挙に続いて、再び衆議院総選挙でも問うというものでした。時の首相は海部俊樹。立ち向かう野党のリーダーは土井たか子。前年の参院選で「山が動いた」という名セリフを吐いて、土井社会党は大勝利しただけに大いに波に乗っていました。

その結果は、自民党は18議席減らしたものの、286議席の「安定過半数」を獲得しました。一方、野党は社会党が86議席から139議席を確保する大勝利を博しましたが、公明、民社、共産の中間的位置の政党はいずれも議席減となったのです。中でも、公明党は、56議席からなんと11議席も減らし、45議席となりました。この選挙に公明党からは新人が15人もでたのですが、当選は11人。4人が落選。そのうちの一人が私だったのです。現職11と新人4を落としたのですから、文字通りの大敗でした。

この私の初の選挙は2483票差で次点。後藤茂、松本十郎、河本敏夫、戸井田三郎に続いて5番目だったのです。戦った相手は何れ劣らぬ強豪でした。河本は派閥の領袖で元経企庁長官。加えて選挙の半年前の平成元年8月の内閣改造で、戸井田が厚生相、松本が防衛庁長官の座を射止めていました。同じ選挙区から2人の大臣です。「赤松が怖くて大臣の肩書き取りに躍起になるのか」と強がりを云ったものの、現実の効力たるや凄いものがありました。社会党の後藤は筋金入りの文人政治家。同党の中でも異色の存在でした。全くの新人が勝てる相手達ではなかったといえます。

走りに走り、叫びに叫んだ末に

前年の2月の記者会見からちょうど1年、選挙区の4市6郡21町を歩きに歩き、走りに走りました。少人数の懇談会で地域の皆さんとお会いした際に、なるべく写真を撮るようにしましたが、これは今も私の宝物となっています。また、私の親族はこの地に多く、いとこやはとこ、その嫁やこどもといったように片端から挙げていくと優に500人を超える人びとがいました。父母は既に他界していましたが、双方の叔父、伯母を始めとして、いとこたちは健在でした。幾たびか集まって貰い、協力をお願いしました。長きにわたり故郷・姫路には不在だった男が突然選挙に出るといって戻ってきて、応援して欲しいと云うのですから皆面食らったはずです。

しかし、皆さん文句も言わずに陣列に加わってくれました。父母が精一杯お付き合いをしてくれていたおかげです。いとこ会をするなどして旧交を温め、その友人達に輪を広げて行って貰いました。友人関係では、小学校を2年で転校していましたので、小、中、高校と殆どが神戸市在住のために苦労しました。それでも心あつい竹馬の友たちの尽力で、昔の依りを取り戻していったものです。また、姫路慶應倶楽部の名簿をたどって、先輩や後輩にアタックしました。そんな中で、忘れられないのは、ある先輩が「うーん、君は公明党か。俺は自民党の先生の後援会に入ってるんだ。塾の後輩だから何とかしてやりたいけど難しいなあ」と云われたことです。のちに、自公選挙協力をする段になって、往時を思い起こし、笑いあったことが懐かしく蘇ります。

土下座から泣きに至るまでの必死の闘い

選挙公示後はまさに必死で、土下座はするわ、泣きまくりもするわの2週間でした。全ての遊説を終えて事務所前での演説は未だ投票前だったのに、負けの予感がして悔し涙の演説をしてしまいました。のちにそれを近くで聴いてくれていた自転車屋の主人から、あの演説は実に胸に迫るものがあったと云われたものです。負けて泣くより勝って泣けーと云いますが、私は泣いて負けました。実に悔しい、無念の敗北でした。「常勝関西」の旗に傷つけてしまった、と。

期間中さまざまな人の応援を頂きましたが、創価学会芸術部の岸本加世子さんの応援は当然ながら凄い人気でした。みゆき通りを挨拶しながら歩いたのですが、あっという間の人だかり、候補者の存在なんか全く関係なし。たちどころに二人は離れ離れになる始末。彼女は「赤松さん、しっかり横にいて」とたびたび、手を固く繋ぎなおしてくれました。(続く=敬称略)

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