自衛隊員の母の切なる問いかけー 平成4年(1992年)【8】

危険な地に子供を行かせたくないとの親心

日本中が湾岸戦争からPKO法で大騒ぎになっている頃、私はせっせと地元挨拶回りを続けていました。そんな時、支援者の皆さんと懇談をしていると、ある女性から質問を受けました。「公明党は自衛隊を海外に派遣する法律作りに熱心だと聞きます。平和を守る党がなぜそんな危険なことに取り組むのですか」というものでした。実はその方のご子息が地元・姫路にある陸上自衛隊第三特科連隊に就職したばかりで、やがてPKO法に従って危険な地に赴くのではないか、と心配されていたのです。私は、それを聞いて、❶PKO は紛争が終わった後に派遣されるもので、決して戦地に行くのではない❷国際社会の中で、日本も平和を築くための責任を果たそうとする得難い試みである❸国を守る自衛隊という崇高な仕事は、単なる就職先ではないとの自覚を母親も持つべきーだというお話を真剣に語りました。

当時は日本中がPKOに対して理解がなく、朝日新聞を筆頭に新聞メディアも大々的に反対論をぶっていました。例えば、法案審議が始まった時点の91年11月の朝日新聞の世論調査では、PKF(平和維持隊)への自衛隊参加には、賛成30%。反対は58%でした。法案に反対する社会党などが、採決妨害のために参議院本会議場で「5泊6日」、衆議院の本会議場で「4泊5日」もの信じられないほどの異常な牛歩戦術をとったりしたことが否が応でも不安を煽っていったのです。こうした状況を真正面に見据えながら、公明党は「世界の中の日本、かく生きるべし」との信念のもと、先に述べたような党内議論を進めていきます。その空気は少しづつですが、姫路にも伝わってきました。

家族たちそれぞれの闘い

臥薪嘗胆の3年余りは私は当然のこと、家族にとってもそれぞれ歴史に残る日々となりました。娘は広嶺中学校での3年間とほぼ重なりますが、生来の明るさもあって、初めての土地ながら頑張ってくれました。その学校関係で多くの友人が出来、妻も育友会組織の役員として奔走するようになりました。また、ピアノ教師としてそれなりの稼ぎをもたらしてくれたり、創価学会婦人部の地域における合唱団のピアノ弾きとしてお役に立てたようです。また義母は、60歳を過ぎて東京を離れてきたので、知り合いがいないことから俳句の同人誌メンバーとなって、西播磨に住む皆さんとの交流が始まりました。この人は筋金入りの学会婦人部なもので、近所で家を建築中の現場で、働いている作業員に聖教新聞を購入して貰うべく働きかけた、と言います。相手は日照権問題などで文句を言われるのでは、と錯覚したに違いないと、笑っていました。大したものです。

地域の先輩たちのあつい支援

さらに、この期間に姫路と深いご縁を結ぶことができたのは、ひとえに学会幹部の皆さんのサポートのおかげです。西口良三、得田昌義、嵐 輝雄といった大先輩にはとりわけお世話になりました。また、藤田康子さんら婦人部幹部にも。とりわけ、婦人部の二人の幹部が市内で信号停車中に後ろから追突されて大怪我を負われた時は魂消(たまげ)ました。兵庫の地では、かつて選挙がらみで、候補者が亡くなったりする大事故が複数続いただけに、この時ばかりは候補者の身代わりになっていただいたのかと正直思いました。しかし、比較的軽く済んで、この地の宿命転換になったのではないかと勝手に思った次第です。

選挙戦の背後では、姫路市議会の先輩たち、とりわけ井上市郎、伊藤孝、難波功らの先輩には様々の手助けを頂きました。新井彬之さんの激しくも厳しい戦いを耐え抜いた強者たちはこの地の隅々にまでおられ、機会あるごとに激励されたものです。それもこれも落選したからこそ身に染みて有り難みを感じました。西口さんから紹介頂いたある大手住宅産業のトップが、「貴君は落選したからこそ興味がある。当選していたらあまり私は関心持たなかったよ」という奇妙な激励を頂いて、大阪北の新地のとある場所に連れて行って頂きました。これもまた懐かしい思い出です。(続く)

 

 

 

 

 

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