Monthly Archives: 1月 2020

少数政権潰え窮余の一策へ、激震続く【12】平成6年(1994年)

武村官房長官の信じられない言動

国民福祉税構想の挫折の影には首相と官房長官との呼吸の不一致という問題がありました。思えば細川内閣はある意味で瓢箪から駒とでも言うような予期せぬ展開で誕生したものだけに、内情はまさにてんやわんやの舞台裏だったのです。内閣の女房役・官房長官の存在は極めて重要ですが、武村官房長官は首相のミスを護るどころか逆に傷口を広げるような卑劣な態度に終始しました。尤もこれは突然のことではなく、前年の12月に古巣の自民党の幹部とは頻繁に会っていながら、与党代表者会議には一度たりとも顔を出さないで、与党幹部と議論をするそぶりもなかったことが問題視されていました。8会派による代表者会議での議論をまとめるのがいかに大変かを市川書記長から私は聞かされていただけに、武村氏はそんな会議には出たくなかったものと思われます。

政治腐敗事例の打ち止めとしての佐川急便問題

細川首相は内閣誕生以来次々と起こる難題に悪戦苦闘していました。女房役に護られるどころか逆に切りつけられるなど、まさに〝味方は少なし敵多し〟という現実だったのですが、公明党、とりわけ市川書記長はあらゆる場面で精一杯寄り添う姿勢を貫いていました。しかし、佐川急便グループからの一億円借り入れ問題が浮上。予算編成にとって重要な時期に1ヶ月も予算委員会が空転してしまうのです。野党・自民党もここが攻めどころとばかりに執拗に追及。結局同首相も堪えきれずに4月8日に辞任を表明してしまいます。政治改革の主目的は、政権交代可能な仕組み作りと、腐敗政治からの脱却という二本柱でした。ところが、皮肉にもそれを成し遂げた首相自身の台所から火が吹き出したのです。まさに、これにて打ち止め、試合終了とでもいうような趣きがありました。

羽田政権の綱渡り

細川首相退陣。代わって羽田孜首相が誕生します。自民党から小沢一郎氏と共に飛び出した人々と結成された新生党の中心者です。この羽田政権樹立の背景に見落とされてはならないのが、社会党の政権離脱の動きです。いくつかの要因がありますが、一つは大内啓伍民社党委員長による統一会派「改新」の結成でしょう。新生党、日本新党、民社党の三党によるものですが、この動きが社会党をして連立政権からの離脱に踏み切らせるきっかけとなりました。村山富市氏がのちに事あるごとに吹聴する小沢一郎、市川雄一両氏の影響から自由になりたいとの思いも重要なファクトだったと思われますが、この頃の政局の底流に流れていたものは、文字通り古い政治の悪弊とでもいうべきものが渦をなしていたかのように思われてなりません。

ともあれ羽田内閣は4月28日に発足します。土壇場で社会党や新党さきがけが離脱して、衆院178議席の少数与党内閣です。過半数割れで、誕生と同時に解散か総辞職かの選択を迫られるという厳しさでした。公明党からは、石田幸四郎総務庁長官、二見伸明運輸相、森本晃司建設相、日笠 勝之郵政相、近江巳記夫科学技術庁長官、浜四津敏子環境庁長官の5人の閣僚が入閣しました。身近な先輩が大臣に就任したということを喜ぶべきか、はたまた明日をも知れぬ脆弱内閣の前途を憂うべきか正直悩みました。この布陣を敷いた張本人の市川書記長は、何はともあれ公明党が天下を取ったという事実を日本政治史に刻印したことを忘れるなと、細川政権時に続いて、私に囁くように言われたことが印象的です。市川雄一という希代稀なる戦略家の内に秘めた思いの深さは私ごときには測りかねるところですが、この頃の微妙な達成感というものはそばにいた私にとっても大きいものがありました。

村山自社さ政権への急展開

6月29日に行われた首相指名選挙は決選投票に持ち込まれ、47票差で自民党が担いだ社会党の村山富市氏が、連立政権側の海部俊樹氏を破ってしまいます。自社さ政権の誕生です。これは窮余の一策という他ない驚くべき出来事でした。いわゆる自社55年体制ー表面は対決姿勢だが、テーブルの下では手を握り合ってきたーの悪あがきそのものです。「野合」「談合」「悪い冗談」「背信」などといった形容詞が内閣に冠されましたが、日本中はおろか世界中が呆れました。世界観が違うと思われてきた、水と油ほど違うはずの両党が一緒になるのですから。ことほど左様に当時の日本の政治は混乱を極めていました。

それを背景に対抗する勢力は、大きな夢を抱いて、もう一つの新しい政治勢力を数合わせではなく、現実的に作ろうとします。その動きの中心に私も否応なく放り込まれて行くことになるのです。(つづく)

 

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政治改革法が6年越しで遂に成立 平成6年(1994年)【11】

政治改革への産みの苦しみ

94年1月21日参議院本会議の採決では大波乱が起きました。自民党から5人の賛成者が出たものの、与党社会党から17人もの反対者が出て、結局法案は否決されてしまったのです。このため、連立与党側は衆議院から参議院に両院協議会の開催を求めましたが、自民党が当初難色を示し、混迷しました。26日になって、やっと自民党は設置を了承。初会合が開かれたのです。しかし、合意はならず、27日衆議院側協議会の議長だった与党側議長の市川公明党書記長は「協議は整わなかった」と協議打ち切りを宣言し、決裂に終わりました。

この協議会の決裂への過程は知る人ぞ知る、稀に見る鍔迫り合いならぬ乱闘寸前まで行ったと言われています。私は見ていたわけではありませんが、人づてで聴くと、与野党の大物同士の議員間(l衆議院議員とY参議院議員)で、売り言葉に買い言葉から、「なにい、表に出ろ」「なんだとぉ、その言い草は」となって、双方掴みかからんばかりとなったと云います。その際に、先輩l代議士を助けんと、机の上を走って駆け寄った議員(M衆議院議員)がいたとか。全く、国会って凄いところだと驚いたものです。

結局この問題の妥協は、土井衆議院議長の斡旋によって1月28日夜、細川首相と河野自民党総裁のトップ会談に委ねられます。その結果、細川首相の自民党への全面的譲歩で合意を見るに至りました。その内容は❶衆院小選挙区比例代表並立制の定数を小選挙区300、比例代表200とする❷比例代表の選出単位を11ブロックとする❸企業団体献金は政治家個人に政治資金管理団体一つとし、5年間に限って年間50万円を認めるーなどで1月29日 の衆参両院本会議で可決成立しました。これで、リクルート事件以来、国政の大きな対立点となっていた政治改革法案は、6年越しで遂に陽の目を見て成立することになったのです。

このことをどう見るか。既に四分の一世紀が経った今、政治改革法の功罪は相半ばしていると見られます。政権交代を促し、政治腐敗をなくすという意味では確かにプラス的側面が強いでしょう。ですが、比例区と小選挙区との甚だしい乖離、大衆迎合に陥りやすいマイナス面も指摘されます。当初想定された二大政党制は機能せず、むしろかつての55年体制の変形と見紛うばかりの自民党一強と、弱体化した野党の存在が目立ちます。尤も、公明党がこの20年連立与党を形成して、「政治の安定」に貢献していることは特筆されねばなりません。今後、安定から改革の進化へ、連立政治の質の向上が望まれます。

国民福祉税構想の挫折

政治改革法案が曲がりなりにも成立した直後、ホットするいとまもなく政権与党八会派にとって激震が走ることが起きてしまいました。消費税率を上げざるを得ないと判断した細川護熙首相が思わぬフライングをしてしまうのです。同首相は消費税を「国民福祉税」とネーミング(公明党の提案)したまでは良かったのですが、平成9年4月1日から3%を7%に税率を上げるとの記者会見での発表(2月3日未明)に際して、記者から、その根拠を問われて「腰だめの数字」だと述べてしまったのです。これは皆色をなしました。幾ら何でもそれはないだろう、との反応です。結局は、翌日の与党代表者会議で白紙撤回になってしまいますます。

この顛末の背景については、公明党的には色々と思いがあります。市川書記長が個人的に昵懇だった経済学者の宮崎義一氏(京都大名誉教授)から、消費税の持つ逆進性の緩和にも役立つ完全な福祉目的税にしてはどうかとの助言を受けて、完全な福祉目的税化を提案していました。そこに至るまで、何度も何度も衆参の全国会議員による議論を重ねていたのです。実はこれと相前後してコメの部分開放問題も焦点となっていました。この時点を遡ること3年前、90年4月に党内大議論の末に、部分的にせよコメの輸入を認めざるを得ない方向性を打ち出していたのです。

党内大議論をアピールする役割

私が議員になる前のPKO(国連平和維持活動)論議の時ほどではなかったようですが、それに決して劣らない党内議論が、税やコメの問題で展開されていました。兎にも角にも議論また議論、石田委員長、市川書記長率いるところの公明党は党内議論をどこの党よりも激しく展開。それを記者にアピールする役割の広報局長の私も大忙しでした。

ただ、増税については党内支援者からの反発は強く、国会報告会での質疑応答の場面で、厳しく注文を受けました。あまりに唐突過ぎるとの声です。私はこれからの時代には、「働く人々の数が極端に少なくなるため、所得税という直接税中心ではどうしても行き詰まる」「仕組みの歪みを是正するしかない」と述べました。年金・医療・介護に膨大なお金が一層必要になるだけに、税制の抜本改革が避けられないとの現状を話すことで、多くの方々は理解を示して下さったことを思い起こします。(続く)

 

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衆議院初質問とその余波ー平成5年 1993年【10】

褒め言葉と厳しい指摘と

初めて国会で私が質問する機会を得たのは、衆議院政治改革特別委員会。質問を終えたところに二人の大物議員がやってきました。一人は伊吹文明氏。もう一人は鹿野道彦氏。共に自民党のベテラン議員(鹿野氏は後に離党)です。のちに衆議院議長になる伊吹氏ですが、同じ委員会(税制特別委員会)に所属して海外視察に同行するなどご縁が色々と出来ました。この時をきっかけに随分と大事にしていただいたものです。また、鹿野氏とも様々なご縁があり、憲法調査会に同時期に所属して種々御指南をいただきました。

このお二人は、要するに「君の質問は良かったよ」と言ってくれたのですが、言われた本人は緊張していただけで、何が何やらわからずじまい。ただ、大物に褒められたということだけが残りました。一方、実はこの初質問で、党内の、しかも兵庫の先輩からビシッと注文をつけられました。冬柴鐵三さんです。私が「間断なく」と言ったがそれは、間違いだと。まだんなく、ではなく、かんだんなく、だと。これは指摘されるまで、全くずっと気がついていませんでした。新聞記者出身として顔から火の出るほど恥ずかしい思いをしました。

国会リポートを葉書で毎週発行

初当選した時から私は国会リポートという名目でハガキ通信を出すことにしました。選挙中に❶どこまでも普通の人間でいく❷どこまでも勉強し続けたい❸国会の現状を面白く解説したいーこの三つを自分の政治信条として支持者の皆さんにお約束したこともあり、ハガキで国会活動をリポートすることはその意味で重要な役割を果たすものでした。加えて週一回の駅頭演説も実施していきました。地元事務所は市内岩端町にあった叔父の古い家を借り受けました。この叔父は、先の大戦に少年航空兵に志願するなど筋金入りの軍国少年でしたが、従軍中に右腕を肩から失う大怪我を受け、傷痍軍人となっていました。しかし、持ち前の闘志で人生の舵取りに成功。姫路でも有数の資産家になり、傷痍軍人会の地元の会長もしていました。その事務所には先輩の新井彬之氏の秘書をしていた瀬川典也君が常駐してくれました。新米代議士を支える秘書として、東京の国会事務所の小谷伸彦君と共に、抜群の力を発揮してくれました。ありがたいことでした。

細川護熙内閣の誕生

選挙後の新政権樹立のキャスティングボートを握ったのは、日本新党(1992-1994)と新党さきがけ(1993-2002)でした。両党主導による小選挙区を含む並立制の提案に対して、公明党は不本意ながら(「連用制」で合意)、非自民政権の樹立による政治改革の実現を優先させ、細川連立政権の成立を推進したのです。8月6日の衆参本会議の首相指名投票で、細川日本新党代表が河野洋平自民党総裁を破って第79代の首相に就任したのと、衆議院議長に憲政史上初の女性議長に社会党の土井たか子氏が選ばれた時の議場の興奮は、今なお忘れがたいものがありました。

このあとの組閣で、公明党から石田幸四郎(総務庁長官)、神崎武法(郵政相)、坂口力(労働相)、広中和歌子(環境庁長官=のちに民主党に移動)の四人の大臣が入閣。政務次官には山口那津男防衛政務次官ら五人が就任したのです。この時に市川書記長の口をついて出た言葉が私には忘れられません。「形はどうあれ、我々はついに天下を取ったのだ」と。公明党の第一世代の一人として、恐らく感慨無量のものがあったのだと思われます。

各党の大物たちと同じ誕生日と分かる

そんなおり、私は政治改革特別委員会で、委員席に座って国会議員名簿を見ていますと、あることに気づきました。私の前に座っていた社会党の左近正男氏と私の誕生日が同じ11月26日だということがわかったのです。しかも、ついでに名簿をくっていくと、自民党の柿澤弘治(故人)、新生党の奥田敬和(故人)、民社党の中野寛成といったような大物政治家が皆同じ誕生日なのです。びっくりしました。その結果、合同誕生会をしようという話になり、それを聞きつけた小沢一郎氏からケーキと花束が届くというハプニングがありました。新人議員のくせに大物たちに混じっての誕生会となり、こそばゆい思いを抱いたものです。

細川内閣は政治改革内閣を旗印にしたのですが、その後なかなかことははかどらず苦労を重ねます。12月の国会リポート第4号にはこう書いています。

「政治改革」に明け暮れた一年だったにもかかわらず最終的な決着がつかないまま越年することは大変に残念なことです。関連4法案が衆議院を通過したことがせめてもの慰めかと思います。小選挙区比例代表並立制と政治家個人への企業・団体献金の禁止を盛り込んだ今度の改革案こそ、腐敗政治と決別するための重要な一歩と私は深く確信しています。それにつけても、審議入りの引き延ばしをした参議院自民党をはじめとする守旧派とでもいうべき勢力の根強さには、ほとほとあきれてしまいました。

初当選後の半年はこうして暮れて行きましたが、翌年からは、まさに疾風怒涛の時代が始まり、国会議員一年生の私も百戦錬磨の大物たちにもみくちゃにされていくのです。(つづく)

 

 

 

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苦節4年、ついに衆議院初当選果たすー平成5年(1993年)【9】

作家・宮本輝さんの応援演説を受ける

次点に終わった初めての選挙から3年が経った平成5年という年は、年明けから恐らく年内に総選挙になるとの予感がありました。地域を戸別に訪れる闘いも足掛け4年が経ち5年目に入りました。さあ、いつでも来いとの闘志が漲る中での新年を迎えたのです。前回の選挙では後援会長を横川豊信さん(兵庫シャンソン化粧品社長)に引き受けて頂いたのですが、今回は、長田高校時代の恩師の浅場一郎先生(神戸常盤短期大学事務局長=当時)に、新たに受けて頂きました。

この選挙では、それこそ関西一円はおろか日本中からの応援を頂きました。作家の宮本輝さんまで街頭での応援演説に来てくれたのです。「姫路の皆さん、芥川賞作家の宮本輝です。今日は私の親しい友人・赤松正雄さんの応援にやってまいりました」ーこういった口上を車の中から、そして街角での演説で繰り返し、支援を呼びかけてくれました。同世代の著名な人気作家の応援を得て百万の味方を得た思いがしました。その翌日、市内のある信用銀行の支店に挨拶回りに行った時のこと。受付の若い女性行員が私の顔を見て「あっ、昨日、宮本輝さんと一緒に歩いてた人だ」と口ずさんだのには、苦笑いせざるを得ませんでした。「私の応援に来てくれたんですよ」というと、「すみません。私、輝さんの大ファンなもんで。あの人の本、殆ど読んでます」と。

7月18日の投開票日ートップ当選でした。その喜びたるや、本当に筆舌に尽くしがたいものがありました。選挙事務所では誰彼となく抱き合い、涙を流して〝大大勝利〟を喜んでくれたのです。地元のサンテレビの放映で、兵庫一区で初当選した赤羽一嘉君と神戸と姫路の同時生中継という形で繋がり、言葉を交わしました。彼は慶大の後輩。13歳も年下です。一緒に当選したのは、まるで13年浪人した兄と初めて受験した弟が同時に大学に入ったような感じでした。

当選の直後に地元紙・神戸新聞の取材を受け、長いインタビューに答えたものが翌日の新聞に出ました。これまで新聞記者として書く側にいた人間が書かれる側に回ったのです。奇妙な、こそばゆさが実感でした。その時の担当記者が後に週刊誌記者へと転身し、『トップ屋稼業』を皮切りにジャーナリストとして破天荒な活躍をしていく男だったとは、神のみぞ知ることでした。

政治改革特別委員会で大物議員が隣席に

国会には若き日より数えきれぬほど通って赤絨毯の上を歩いていましたが、当選して初登院するとなると、また当然ながら微妙に違います。国会職員に議員バッジを付けて貰い、自分の名の書かれた掲示板を触る辺りから、権力の魔性の囁きが聴こえて来るような思いがしたのです。数えきれない人々の汗と涙の支援の結晶だということを片時も忘れずに頑張らねばと誓いました。

幾つか所属した委員会で、最も脚光を浴びたのは政治改革特別委員会でした。時あたかも「政治改革」の嵐が吹き荒んでいたのです。予算委員室が質疑議論の場に当てられました。最初に座った席の右隣が太田昭宏、左隣が小沢一郎、つまり内外の〝時の人〟だった二人に挟まれたのです。小沢氏は当選回数、政治経験において百戦錬磨の強者です。一方、こちらは政治家といっても、純真無垢な赤子みたいなもの。違いすぎる者が並び座ったわけで、気もそぞろに自己紹介をしたことを覚えています。

また、『パンツをはいた猿』などの著作で著名な学者だった栗本慎一郎氏(新生党から初当選)が左隣(小沢氏の代理で)に座ったことも。この人は大学の先輩。つい昔話に花を咲かせてしまいました。慶大の学費値上げ闘争に話が及んだのですが、当時塾監局を不法占拠した塾生の中心は自分だったと、得意そうに語られたのには驚きました。

そんな中、ついに同委員会で質問に立つ日が来ました。私の国会議員初デビューです。(続く)

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