Monthly Archives: 2月 2020

村山自社さ政権という悪夢の根源ー平成7年(1995年)【16】

村山首相を追い詰めた市川雄一質問の真骨頂

村山富市という人物が日本の首相の座に就いていたのは、平成6年の6月30日から、平成8年の1月11日まで。ほぼ一年半に及びます。平成7年の一年間はまるまる首相をしていたわけです。その年の1月17日に大震災に襲われたのですから、就任半年後に未曾有の大震災に見舞われ、それから一年間、〝迷走〟を続けたことになります。この迷走の本質は、55年体制の表裏をなしていた自社両党が、ちょうどひっくり返ったことにあります。つまり、それまで表にいた自民党が裏方に回り、裏にいた社会党が表に回る。ひょっとこの面を顔の後ろにまわしていたものをくるりと裏返して表に回したように、私たちの前に現れました。

権力の使い方という面では自民党が少し助け、いわゆる弱者救済的政策展開では社会党らしさがチョッピリ顔を出したとは云えます。しかし、社会党は所詮は万年野党。あっという間にお里が知れてしまいます。その最たるものは、安全保障政策における一夜漬け的転換です。かつて「非武装中立」というスタンスを臆面もなく掲げて恥なかった政党が、政権に就くや否やあっさりとその態度を変えてしまうなどということが許されていいのでしょうか。ここを完膚なきまでに追及して、叩き壊したのが市川書記長の1月27日の衆議院予算委員会の総括質疑でした。

従来の社会党が自衛隊を違憲とした根拠は、憲法の何条のどの条文によるものなのか、また村山首相が衆議院本会議の答弁で自衛隊を合憲としたのは、憲法何条のどの条文なのかーこれだけのことを明らかにすべく約一時間をかけて市川書記長は追及したのです。村山首相はこれに対して、いったい何と答えたのか。答えは驚くべきことに、ひたすら「憲法ぜんぶんです」のみ。耳から聞こえてくるぜんぶんとは、果たして、前文なのか、それとも全文なのか。これををはっきりさせようとしても、村山氏は一切いわない。社会党が発行してきた文書によれば、憲法9条を根拠にして自衛隊を違憲としてきたことは明らかです。それを明確に云わせようとしたのですが、曖昧模糊とした「憲法ぜんぶん」を繰り返すばかり。前代未聞の珍答弁でした。一国の首相たるものが、自衛隊の違憲、合憲の判断基準を示し得ず、逃げまくったのです。ここに、この自社さ政権の悲劇の根源がありました。

朝日新聞の連載記事に登場

市川書記長から、常日頃「国会、とくに予算委員会の質問というのは、演説の場ではない。ショートクエッション、ショートアンサーで、相手の矛盾を浮き彫りにするんだ」と、聞いていました。まさにその通りのお手本のような質問の仕方に、こちらは感嘆するばかりでした。ただ、村山首相は蛙の面に何とやらだったのでしょうか。全く意にも介さず、今に至るまで弁明すら聞いたことがないのは、本当に不思議なことです。

目の覚めるような質問の一週間後、朝日新聞のコラム「主役 わき役」欄に上下二回にわたって私が登場することになります。一回目の見出しは「市川氏の強打浴びる『壁』」。「政務会長(市川氏のこと)は、構想の一端を私に話し、反応を見て考えを整理する。テニスの壁打ちなら、私は壁の役割。政務会長はボールをどこに飛ばすかわからない壁の方を好む」ーこう私は語っています。文末には「『まだ人を補佐する力はない。短期間で育てたいので、きつく当たることもある』と市川氏。強打を浴びて『壁』は時々へこまされる」と担当してくれた西前輝夫記者は書いています。二回目の見出しは「一本立ちしたい『元秘書』」と。それから25星霜。強打の主はもういません。今では、へこんだままの壁が残ってるだけです。

この頃、自民党の二階俊博衆議院議員(現同党幹事長)から電話があり、「山本集という画家が日刊スポーツ紙上で『ザ 政治家 日本を担ぐ50人』とのタイトルのもと、連載を書く。君のことも紹介しておいたから、宜しく」とのこと。この画家は知る人ぞ知る元ヤクザにして、智弁学園の初代野球部監督。「赤富士」を始め強烈な印象を与える絵を描くーそんなことは後で知りました。ともかく取材してくれるというなら拒まずとばかりに、当時は、片っ端からメディアに登場しようとしていた私です。二つ返事で引き受けました。「異色画家・山本集 永田町を往く」との上下二回にわたる連載(見出しは「復興への責任感じてます」「国会の古い仕組み変革を」)でした。文末に、山本集の「独白」として、「一年生議員とは思えぬ自信と雄々しさあふれる人や。持ち前の温かみで、兵庫選出の議員として、復興に向けて国会で頑張ってくれはると信じている。なかなか味のある政治家や」とありました。まるっきりお世辞だとは分かっていても、嬉しい思いがしました。(つづく)

 

 

 

 

 

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阪神淡路大震災の直撃で大わらわ【15】ー平成7年(1995年)

新進党が結成。公明党国会議員は合流へ

平成6年の暮れ(12-10)に横浜で新進党の結成大会が開かれました。平成6年は、細川、羽田、村山と3人もの首相が入れ替わり、その年の暮れに衆参合わせて214人をも擁する一大政党が誕生したのです。党首は海部俊樹、幹事長が小沢一郎とかつての自民党の看板の二人ですが、旧公明党からは、副党首に石田幸四郎、政務会長に市川雄一、国会運営委員長に神崎武法、参議院議員代表に黒柳明の各氏が就きました。この時の高揚感は内外ともに極めて大きいものがありました。何しろこれだけの規模で自民党に対抗する勢力が築かれたことは大変な期待があったわけです。同じ日に私の大学のクラス会が東京・田町の三田キャンパスで開かれたのですが、集まった20人ほどの級友たちから大いにもてはやされたものです。

ただ、公明党は新進党に参加した他の政党と違って、地方議員を3千人も抱えており、600人の党職員や日刊紙を発行するなど圧倒的に所帯が大きい。このため、一気に合流するわけにはいかず、地方議員主体の「公明」と国会議員(衆議院議員は全員、参議院議員は95年改選組)による「新進党」とに分かれざるをえませんでした。私は、新進党に参画しましたが、地方議員の仲間たちは藤井富雄都議会議員が代表となった「公明」と、大きく二つに分かれることになったのです。「分党・二段階方式」とのことでしたが、正直こんなことでいいのか、将来はどうなるのか。色々と不安でした。ですが、そういうものを押し流す時の勢いとしての〝もう一つの政権勢力必要論〟があったのです。

我が郷土を襲った大震災

翌平成7年。1月17日ー午前5時47分。強烈な揺れが突然姫路市中央部にあった私の借家にも襲ってきました。神戸市の私立高校に通っていた娘がちょうど朝風呂に入っており、「湯舟が揺れてる〜」、と悲鳴をあげるやら、妻が這いながら家中の火を消すやら大騒ぎでした。一瞬家がこのまま倒壊するのでは、との危惧がよぎりました。直後にテレビを付けても何も分からず、暫く経ってから、神戸市内の火災状況が映し出されたのを見て、ようやくことの重大さが分かってきました。垂水に住む弟や東灘区の赤羽一嘉代議士に電話をしました。弟はたまたま仕事が休みで、遠出をしようと出掛けるところ、東の空に異様な閃光のようなものを見たといいます。赤羽氏は家の中はめちゃくちゃ、付近の殆どの家は崩壊、近所の人を瓦礫の中から助け出してきたばかりだという。これは一大事、さあ、神戸に救援に行こうと車に乗ったものの、大混雑でにっちもさっちも行きません。知ってるところに電話をしようにも今度はかからない。で、姫路の仲間に呼びかけて、布団や毛布やらを集めて救援活動をと、急拵えの宣伝車で向かったのですが、加古川までがやっと。結局、その日は神戸まではたどり着けませんでした。翌日になって、心あるみなさんによる救援物資を積んで、加西市から三木市を経て、新六甲トンネルルートで三宮に向かいました。「トンネルをくぐればそこは戦場だった」という表現がピッタリするような惨状でした。トンネルの前の神戸市北区一帯は以前と同じのどかな風景でしたが、その対比が実に鮮やかだったのです。市川さんが後になって電話をくれ、「神戸はまるでミサイルでも撃ち込まれたみたいだな。不足しているものがあれば、送る。何でも言ってくれ。大変だろうが頑張れよ」と激励をいただきました。

震災直後の国会で

1月20日に開幕した通常国会では、三日前の大震災への対応を中心に、社会党の党首が政権を担う事態への根本的な質疑が行われることになります。赤羽代議士が被災者の一人として、衆院予算委員会で「これは天災じゃない、人災だ」と後々まで語られ伝えられた追及を村山首相らにしました。25年経ってその彼が国土交通相に就任したことに深い感慨を覚えます。私は新進党の常任幹事、広報企画委員会副委員長に任命され、国会では安全保障委員会や消費者問題特別委員会の理事などに所属しました。2月7日には安保委で、14日には消費者問題特委で、それぞれ質問。震災発生時の自衛隊の対応、被災者の避難生活への対策などについて質問しました。しかし、初動の遅れを県知事の責任にしようとする防衛庁長官、現場の実態を殆ど知らない経企庁長官。いずれも責任の所在が曖昧な答弁ばかり。無責任極まりない村山首相と、誰も彼も似たり寄ったりの頼りない閣僚の姿に唖然とするばかりでした。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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暗黒の政権運営と四月会の策謀【14】ー平成6年(1994年)

反公明党・反創価学会の動き

村山自社さ政権の誕生と表裏一体の関係にあったのが四月会の存在です。これは同政権の成立直前の6月23日に設立総会が持たれたもので、評論家の俵孝太郎氏を代表幹事とする反創価学会の宗教団体、学者、文化人、ジャーナリストらの集まりとされます。河野洋平、村山富市、武村正義の自社さ三党の党首も揃って出席し、創価学会への誹謗、中傷発言を展開しました。このことから、この政権は、反公明党・反創価学会の旗色を鮮明にした「四月会内閣」だと別称されます。その急先鋒が、亀井静香運輸相でした。彼は、白川勝彦、島村宜伸氏らと共に、反創価学会の議員集団「憲法20条を考える会」を作り、民間団体である「四月会」と歩調を合わせて、国会内外での反公明党、創価学会の動きを強めていくのです。

亀井氏は、初入閣後の週刊誌インタビューで「これまで公明党と創価学会に対して、政府も手加減していたが、これからは違います」と、一宗教団体に対して、政治権力が介入し圧迫を加えようとする露骨な意思表明をするなど、「信教の自由」をうたい、「政教分離原則」を掲げる現憲法に真っ向から抵触する攻撃を仕掛けてきました。ことここに至るまでの国会では、細川政権誕生からーつまり自民党が野党に転落してからー一年2ヶ月ほどの間に、なんと延べ19人にも及ぶ自民党議員や2人の共産党議員らが執拗に公明党と創価学会との関係を取り上げる国会の委員会質問をしてきていたのです。

これらはいずれも憲法の規定を勝手に捻じ曲げ、自己流に解釈したものや、憲法の原則とは無関係のエセ政教分離論などが殆どでした。こうした誤った俗論・迷論を糺すべく機会を窺っていた公明党執行部は、憲法の政教分離原則とは何かを改めて国会の場で明らかにするべく立ち上がったのです。

政教分離原則を明確にさせた冬柴質問

平成6年(1994年)10月12日の衆議院予算委員会での公明党の冬柴鐡三氏の質問は、❶憲法20条で規定する「政教分離」原則とは、国家と宗教の分離、つまり国家権力と宗教の分離ということで、規制の対象はあくまで国家であって、政党や宗教団体を縛るものではない❷宗教団体が選挙支援を含む政治活動を行うことに何ら問題はなく、「集会、結社、表現の自由」(憲法21条)の上からも当然認められている権利である❸宗教団体がその活動の一環として政治活動を行うことができる以上、自らの施設の会館などを利用することも憲法上問題ない❹宗教団体が支援・支持する政党・政治家の政権参加も憲法上全く問題ないーといった従来からの国会論議で決着がついていることを、改めて大出峻郎内閣法制局長官とのやりとりを通じて明らかにさせました。冬柴氏はそのうえで、自社さ政権の三党首がこの憲法解釈を遵守するかどうか、を迫ったのです。3人は心ならずもかどうかは別にして、国会の場では遵守することを約束したのです。

矢野元党首の恐るべき発言

こうした四月会の蠢動がある一方、公明党の矢野絢也前委員長のとんでもない動きがありました。彼は政界引退直後に雑誌『文藝春秋』に手記を書いていた(1993年10月)のですが、そこに「政教一致とも言われても致し方ない面がある」などと、あたかも公明党と創価学会に問題が存在するかのように記していたのです。これを自民党などが見逃すはずがありません。下稲葉耕吉参議院議員ら自民党・共産党6人が計八回にわたってこの〝矢野手記〟を振りかざして追及してきたのです。

実はこの矢野元委員長との間に、私にとって生涯忘れ得ぬ出来事があります。初めて当選した平成5年7月の直後に関西出身の議員が集まる機会がありました。この時の選挙で、矢野氏は私と共に当選していた久保哲司氏(故人)と交替し、政界を引退しました。この会は、新旧の議員が集まってお互いの労をねぎらい、新出発を祝う会でした。その重要な場面での、休憩のひととき。椅子に座っていた彼は通りかかった私を呼び止めて「おい、お前が赤松か。お前は市川の子分やな。お前なんか落としたろうと思っとったのに、くそ、通りくさって」というのです。瞬間我が耳を疑いました。関西、いや全国の同志の皆さんが渾身の力を込めて応援していただいたのに、当の公明党・元委員長の、この言い草はありません。私は『文藝春秋』に不可解な手記を書いていたこの人物に、どうしてあんなものを書いたのですか、と問いただし、胸ぐらでも掴みたい思いがありました。しかし、ぐっと抑えて、「私は市川の秘書です。いやそれ以前に池田先生の弟子です。余計なこと言うんじゃないですよ」と言うがはやいか、彼の手を掴んでグイッと前に引っ張りました。彼は椅子から転げ落ちそうになりました。それを周りの先輩議員たちが支えました。これはその場にいた皆が知っていることです。ただ、この場のことだけに終わり、問題になることはありませんでした。これは一重に、もっと議員を続けたかったのに、市川書記長によって、引退に追い込まれたとの悔しさが彼にはあったのでしょう。坊主憎けりゃ何とかとのことわざ通り、前市川秘書である私に難癖をつけて本心を露わにしたのです。(つづく)

 

 

 

 

 

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混乱の渦中に海外視察やテレビ出演【13】ー平成6年( 1994年)

初のワシントン訪問、テレ朝出演

細川政権から羽田政権へと、公明党が中核となった政権が作動した93年8月からから1年足らずの間。新人ながら色々と取り組ませていただきました。副書記長、 政策審議会副会長、広報局長などの立場をいただいたのです。この間に私は初めて海外に視察活動に行きました。米国、スウェーデン、ノルウエーの三カ国に3月14日からの一週間でした。ワシントン、ストックホルム、オスロの三都市で、政府要人やら学術関係者らに会い、主に北朝鮮の核疑惑と、PKO(国連平和維持活動)についての考え方、取り組み方を巡って意見交換するのが目的でした。一緒に行ったのが、西村眞悟、樽床伸二らの若手政治家です。二人はのちになにかと物議を醸すことになりますが、私も含めて当時はまさに新進気鋭のトリオでした。

特にワシントンで思い出に残るエピソードでは、リンカーン記念堂でのこと。私は高校時代にリンカーンのゲティスバーグ演説を暗唱していました。今もなお事あるごとに口ずさんでおり、一種の隠し芸となっています。同記念堂に樽床氏と行って、彼に壁に書かれたスピーチの原文を見てもらいました。私はそれに背中を向けて、やおら暗唱していたものを口に出したものですから、彼が驚くことと言ったら‥‥。たわいもないことですが、懐かしい思い出です。

また、5月2日付けの朝日新聞の憲法特集のページに写真入りでインタビュー記事が掲載されました。「改憲視野に見直せ」との見出しで、「護憲か改憲かの論議から始めるのではなく、国際社会の中で日本がどうあるべきかという問題から憲法を考えていくことが大切だ。改正も視野に入れているが、当面は護憲的見直しを進めたい」などと偉そうに言っています。それから25年。事態は殆ど進んでいません。去年夏に産経新聞のインタビューに答えた(2019-8-9付け)ように、国会に幻滅するしかないというのが正直なところです。一方、初めてテレビ朝日のサンデーモーニングにも出演しました。出来栄えは今一歩。自分はどこまでも活字人間だなあと、自省した次第です。

予算委分科会で地元課題取り上げ

6月7日には衆議院予算委員会の分科会質問に立ちました。各省ごとに分科会に分かれて一人30分間の質疑をするのです。テレビ中継などないのですが、地域密着の問題が取り上げられる貴重な機会です。私は姫路駅の高架事業の推進や揖保川町の浚渫、馬路川の排水ポンプ機設置問題など、建設省(現国交省)関連の地元の課題を取り上げ質問しました。このうち、馬路川の問題は地域住民の有力者・森保昌さんの要望をかねてからいただいていました。雨が降るたびに床下から床上までにおよびそうな浸水に怯えなければならないのを、何とかしてほしいとの切なる願いでした。直接お話を聞いた上で、綿密な調査をして当日に臨みました。後に、大いに喜んでいただく結果が出て、胸を撫で下ろすとともに、地域住民の声を代弁することの大事さを痛感しました。

民間政治臨調での動き

6月29日の通常国会最終日に、前回述べたような経緯の末、村山富市自社さ政権が誕生。私ども旧連立政権は下野することになります。この間というもの、実に様々な動きがあり政局の舞台の表裏を十分に見させていただきました。表の舞台といえば、民間政治臨調主催の「政治改革推進・決起集会」で公明党を代表して挨拶する機会があり、「選挙区割り法を成立させることこそ政治改革の完結になる」などと述べたものです。この臨調のトップの一人は、住友電工の亀井正夫さんでしたが、この人は我が恩師・中嶋嶺雄先生と親しい関係にあったことや、小学校からの親友・三野 哲治君が同社の幹部(後に住友ゴム社長)だったこともあり、親しくさせていただきました。

また、連立与党の幹部たち、とりわけ小沢一郎氏との交友関係もあって、渡部恒三、山口敏夫氏らとの接触は興味津々たるものがありました。渡部氏はこの頃から今に至るまで飄々とした雰囲気を湛え、大人の風格がありました。一方山口氏は政界の牛若丸の異名通り、神出鬼没の振る舞いで右も左も、真ん中も振り回していました。市川側近ということもあって、私はこういう政界の大物から妙に可愛がられましたが、忘れられないのは、渡部氏の山口評です。ー「来ればうるさい。来なきゃ寂しい。記者と珍念(山口氏の愛称)」ー大いに笑えました。山口氏は今も変わらぬお付き合いをしてくれています。実にユニークで面白い個性の持ち主です。(つづく)

 

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